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え? もう7日? ウケるンゴ

・旧年中のまとめ

 を,2020年には書いた記事では気に入ってるやつを全体公開にするみたいな奴をやったんですが,今年はなんか気づいたら2022年1月も上旬が過ぎ去ろうとしていて,それもこれも就活って奴が悪ィんだ。

 なんか去年はどたばたじたばたしてたら1年終わっちゃったな~,これといった活動もなく申し訳ない話です,今年はエイプリル完成させるのを目標にがんばります よろしくお願いします(何に?)(俺に?)


 まず年末年始らしいことということで,今年も例年どおり100円ローソンでおせちを買いまくって詰めました。

 なんか今年は(今年も?)TVとかで特集を撃ちまくったらしく,数の子とかアワビとか一部の商品が売り切れで,かまぼこばっかり3種類買ったりしてしまうなどといったしょうもない出来事もあったのですが足りないものはスーパーで買い足してそれとなく形になったのではないかと思います。100円ローソンおせちのクルミの甘露煮がマジでうめぇんだ,クルミの甘露煮は3パックくらい買ってます毎年,好きなので

 今年はキッチンのテーブルの上が終わっており,3段重の置き場所がなかったのでコンロの上にいったん置いていますが,そういうこともあります。ただ買ってきて箱に並べるだけなんですけど,やるとまあめでてえ気持ちになれるので良いですね。

 ただお屠蘇は完全に忘れており,まあ屠蘇とか言っても酒を正月からかっ喰らうだけなので別にどうでもいいっすねと思いビール飲んでいっちょきました(九州弁)。あとは年末年始らしいことしたかなあ。みんな年末年始って何してるんですか?


 これはマイナスおせち(おせちを詰めた余り)です

 2021年に遊んだゲームベストみたいな奴とか,2021年に買ってよかったものとか,2021年に描いた絵作った作品のまとめとかみんなやってるんですけど僕はそういうものが一切ない,何ならまだ2021年に気持ちを置き去りにしてきてますからね。嘘,もっと昔に置き忘れてきたかもしれない,僕の全ては……ていうか別に年越したからってその前後で何か変わったわけでもなく,日々を安穏と暮らして……暮らしてもいねえ。保険金とかハロワとかからもらえるお金が徐々になくなり,貯蓄があるわけでもない微妙な生活習慣のツケとして,ひたひた迫りくる労働の足音に日々震えています。ぼくが無職じゃなくなってもみんなぼくのことを応援してくださいね,応援はいくらあっても困らないので。


・12月~1月上旬のまとめ

 に関してなんですがおおむね就活でぜんぶの時間が失われてしまいました。幸か不幸かぼくのスキルセットはゲーム企業に極度に傾注しており,再就職しようにもゲーム企業しか仕事がない人生を歩んできてしまったのでゲーム企業にひたすら転職活動をプッシュしていました。ご存じでない方もいるかもしれないので軽く言っておくとぼくの最終学歴は中卒,職歴は30歳くらいから始まるというとんでもない有様で,流れ作業のごとく書類でバシバシ落とされることを1か月まるまる繰り返しており,ある意味あっぱれという感じでなかなか頑張ったのではないかなと思います。

 それはそれとしてどこかに資質を見出してくれたのか(失礼)面接やら適性検査やら試験やらに進めていただける企業さんもあって,そういう企業さんの出してるゲーム(ゲーム1本も遊んだことないメーカーさんとかに申し込んだりとかは流石にないんですが,最新作を遊んでないとかヒット作を遊んでないとかが全然あるので)を買いまくって遊んでいたらお金も時間もなくなってしまいました。業界勉強の一環と称してパチンコを打ったりしてましたがあれも本質的には心底大真面目な態度であり,遊技機業界から全部お祈りされた後は一発も打ってません。らんま1/2はちょっと打ちたいのですが稼働少なすぎ! 1ぱちも置いてね~よ~


 で,そういう前段を踏まえて,おもだって11月~1月くらいにぼくが遊んだゲームって要は「就活で受けた企業さんのゲーム」ってことになるわけで,べつに落ちたんだから何言ってもいいだろって思う反面,ぼくがどこに受けてどう落ちたのかみんなにモロバレで恥ずかしくないですか? とかもあり,最近遊んだゲームはこれでつ! とかなかなか言えない状況になってしまいました。そんななかでちょいポエムみたいなことでも書かせていただきますか・・・

・ゲームの宇宙と哲学 / 宇宙


 2021年に遊んだゲームで,私的に大きな影響を受けたのは「Outer Wilds」と「アトペス」だったかなと思います。あと「らいじんぐノラカム」はセンセーショナルでしたね。


 Outer Wildsはプレイ直後の記事ではぼろくそに文句を言ったんですが,体験としてはめちゃくちゃ良くて,今もたまに思い返してはああいうゲームは1年に1本くらいやってもいいなみたいな感じになっています。ゲームがおもろいかどうかでいうとすごい微妙なラインで,ゲーム根幹のシステムがものすごくだるいのである程度ゆとりがある人向けかな~と思います。

 本作の面白いところって,プレイヤーが何しようが関係なく宇宙が存在してて,宇宙が宇宙のルールで22分間を勝手に繰り返してる所なんですよね。プレイヤーはただ何となく宇宙人の一人として宇宙に飛び出して,22分後に超新星爆発で消える銀河系を旅して,宇宙に何が起こってるのか解明するとか以前に,そもそも旅の目的が何なのか考えるみたいな面もあって,それがまあ凄い良かった。


 さいきんゲーム世界における宇宙(ここではゲーム内における世界広範を指す語として思ってください)についていろいろ思うことがあって,ここしばらくモダンSFを読んだこととかもそれは影響しているんですが,いわゆるセカイ系とか言われてた時代は過去になり,いま先端をいくのは真なる意味でのオープンワールドなんじゃないかなと思ってます。

 オープンワールドとか言ってその大半はだだっぴろいフィールドに間延びしたオブジェクト配置,いい加減な(世界における)物理法則,倫理観,犯罪心理,それら世界を取り巻くルールは不完全で,プレイヤーはむしろ自由度にしばられる形で不自由を思う存分味わえるというのがそのジャンルの醍醐味で,こんなんただの出来損ないのクライムシミュレータじゃんとぼくはもう根っから嫌いなジャンルだったんですが,ローグライクの語が10年20年とかけて意味を変質したようにオープンワールドもちょっとずつ意味が変わってきているように最近感じてるんですよね。現時点ではどっちかというと自分の観測範囲で友人知人それらに属さない人などが世界シミュレータとして完成した箱庭をオープンワールドと言っているぐらいの距離感ではあるんですけど。


 アウターワイルドは少なくともその宇宙で起こる(出来る)すべての事象が記述してあり,そしてプレイヤーはそれらを受け入れたり受け入れなかったりする自由がある。規律に従って爆縮を繰り返す宇宙は22分という閉じた世界で完全な宇宙を実現してるなーとか考えたりしてました。実際「じつはこういう話だったんです~」って明らかになった時,主人公とかプレイヤーキャラの意思はそこには介在しなくて,プレイヤー自分自身がどう思うかがここにあるなと思ったし,それがユーザーごとの事実として分裂しているのに体験を共有可能であるという現実に,オープンワールドの目指すところってこういうことなんじゃね? みたいなことを思いました。

 ただアウターワイルドの世界のルールみたいなところとかって,わざわざこれこれこうなってますよって説明しなくてもわかるように出来てるし,むしろ自分が一生懸命調べてまわった宇宙の正体のあまりのしょうもなさにひとり空を見上げてけらけら笑うところが本質だと思うのでここは気になる人は気になるときにやってみて欲しいと思います。だるいならネタバレ見てもいいと思うんですけど,ネタバレだけ見ても「そうなんだ」としか思わんのですよね。ゲーム体験の中でたどりついた答えはプレイヤーキャラと感情がシンクロするので「え・・・嘘・・・そうなんだ・・・」ってめちゃめちゃ感情が動かされてよかった。そこはよかったんですがゲーム部分のパズルがいろいろ厄介でいくつか答えを見てしまったのが後悔しています。与えられた情報でたしかに答えにたどりつけたし,宇宙の埒外からアクセスするようなもんなのでこれは今でもあれ自分で解けなかったの悔しいな~って。


 ついでにそういう観点でダークソウル3を評価してる人がいて,ぼくはその話を聞いてめちゃくちゃ膝を打ったんですが,じっさいダクソ3のゲーム部分はいったん置いといて話の部分ってストーリーラインは何も用意されておらず,プレイヤーがどう物語を読み取ったかで物語が決まるんですけど,ぼくはダクソ3のそういう語られてるんだか語られてないんだかあいまいな部分がかなり好きで,たとえばロンドールのユリアってNPCがいるんですけどそいつがモノスゲーカプ厨で,主人公×アンリのカプをめちゃくちゃ推してきてそれに従わんとめちゃくちゃキレてお別れはブロ解でお願いしますついでに信者のファンネル飛ばしてめちゃくちゃ嫌がらせしますみたいな暴れ方するのがほんまに最高でたまらんし,あとそれでいうと火防女殺害エンドも全部手続きを踏まえたあと最後の最後でちゃぶ台ひっくり返して主人公自身なんでこんなことしちゃったのかよくわかんなさそうな感じで終わるところとかめちゃくちゃサイコパスで面白いんですよね。

 ダクソ3って1周目はもう自分のことで手いっぱいだから回りでなんかやってる連中の話に耳を傾けられないんですけど,2周目3周目とやると色々そういった要素に目を向けるゆとりも出てくるし,NPCの物語がダークソウル3っていう箱庭の中で完結してるのがすげ~良いんですよね(過去作遊んだプレイヤーに対する目配せみたいなのはありつつ,でも押しつけがましかったりする感じではないのが良かった)


 同様の良さで言うとDetroitとかが挙げられますかね。あれはプレイヤーが取りうる行動のすべてに物語的なマクロ事象の変化があって,しかもそれが大体プレイヤーが思った通りに変革していくのでかなり大規模感を感じつつプレイヤーの選択が体験として共有可能なのが良い。という話は去年どっかでしたかな。


 2020年代ともなるとゲームは体験の共有の時代になっていくのかなと思います。単なる物語的な事実はインターネットで用意に触れられる時代,物語世界を形成する宇宙におけるプレイヤーキャラクターという立場と,そこで実際に何をどう体験させるのか~とかになっていくのかもしれないですね。ゲーム業界のストーリーテリングは30年遅れてるんだよみたいなことを吹聴していましたが30年もいつの間にか過ぎ去ったようです,いまどきゲームを作るならプレイヤーの視座がどこにあるのかくらいは意識しないと話にならんかもしれません。


 ゲーム内にゲーム宇宙のルールが存在し,その通りに動いているときに,ものすごい不合理を感じさせるゲームを遊んでいたらこんなん5分前仮説じゃんと突っ込んできた知人がいたのですが全くその通りだと思います。ゲームプレイのためだけに作られた不条理なゲーム世界がだんだん受け入れられない古い価値観になりつつあるのかもしれない・・・


 というのが一つ。


・ゲームの宇宙と哲学 / 哲学

 で,アトペスなんですが,アトペス自体がぼくの作品から影響を受けて作っているとの話もあり,そこらへんはまあ置いといてもぼくの作品を追ってるようなタイプの人だったら波長は合うと思うのでぜひやりましょう。


 アトペスを遊んでぼくが一番びっくりしたのって,プレイヤーは能動的にゲームを遊ぶものである(物語の終わりを求める根源的な欲求は存在する),と定義しているアトペスのその事実なんですよね。そんでそれが実際にアトペスをクリアすることで完成するというのが作者のひとつの理屈になっているし,実際にゲームを作ること,プレイヤーに遊んでもらうことでそれを成し遂げてるのはスゲーことです。

 

 これたぶんぼくが古い人間だからずっと誤解してたとおもうんですが,ゲームって元来受動的なものだと思ってたんですよ。何なら今でもそう思ってる。パッケージ選んでゲーム買うぐらいまでは能動的かもしれませんが,でもそれだって世界のすべてのゲームのパッケージを見て,ジャケ見て,PV見て,公式サイト見てと情報を得られるわけでもなく,たまたまニュースサイトで見たとか,ゲーセンで見たとか,ゲームショップで見たとか,知人がやってた,好きなYoutuber/Vtuberが遊んでたとかそのぐらいの範囲じゃないですか。めちゃくちゃゲームが好きで,アンテナ広げまくって,みずからゲームを掘ってると思っている人だって,その人が見れる範囲の世界しか見れてないわけで,それは自分の視野,世界観に基づく偶然っぽい必然なんですよ。金野火織もそう言ってます。

 そう言ってるかな。ぼくは火織ちゃんの言葉をそう言ってると受け止めました。


 そんな中で出会うゲームってたいてい全部が「自分が選んだ」とか「贈られた」とかもひっくるめて全部偶然でしかなく,そして課題が出てくるから消化する,という形に近い受動的なものだと思ってずっとぼくは遊んでいたし,なんならぼくが作るゲームもそういうフシがあります。ぼくは「ゲームには終わりがあり,プレイヤーは必然的にそれに導かれる」のがゲームの在り方だと本心から思っており,そう思って遊んだり作ったりしている,ということです。

 しかしアトペスは逆で,「ゲームがあった時,終わりを求めるのはプレイヤーの観念的な力である」と言い切ってるんですよね。これがぼくにはない観点だったのでめちゃくちゃ驚きました。

 それと同様に,中心がプレイヤーとして存在した場合,あらゆる物語体験は自己の哲学となり,考察や思索を繰り返したところで答えには辿り着かない,是も否もない,「君がそう受け止めたんならそうなんだろうね」の世界が存在してることにもビビりましたし(これは良くある考察ゲーみたいなセンテンスちりばめて好き勝手考えてね的誤謬ではなく,哲学的な哲学として成立しているという意味です),でも普段そこまで考え込んでゲーム遊ぶことなんて別にないと思うんですけど遊んだゲームに1本1本長尺の講釈垂れるような人間だとそういうこともあるかもしれません。


 「君がそう受け止めたんならそうなんだろうね」は今後のゲームを取り巻く価値観でひとつの指針になるかもなと思っています。用意されたストーリーだけが物語ではなく,あまたのプレイヤーの遊びの中で生まれた様々な事象ひとつひとつが物語をもって語られ,そしてそれが個々人の答えとなりまた新しい歴史を生み出していくみたいな大仰な時代がいつの間にか来ていたということです。


 ゲーム宇宙的なシステムが物語世界として存在しており,そこで起こった事象はプレイヤーとしてはメタ的に観測可能だけれど,しかしそこに絶対の答えがなく,1次元離れた世界に存在しているプレイヤーとしてどう思ったのかは個々人の判断にゆだねられたものでしかなく,それが自分自身の哲学だというときが,来ていたということです。ぼくはアトペスでそれを知りました。プレイヤーの価値観が,ゲームを鏡のように使い,自らの在り方を問うようにできていると考え始めています。


 そこらへんで言うと原水さんの「For the Ghosts」もあたらしいゲームの形としてひとつの転換点になるとおもうのですが,これはまたそのうち書く余力があったら・・・


そのほか・・・


 ありがたいことに,10年15年20年と趣味だかなんだかでゲームを作っているとそれが誰かの新しい言葉になる,という体験をすることもちらほら出てくるようになりました。

 東方二次ゲーではさなトラや霧氷雨やみとりんらぶなんかが好きって言ってくれる人が未だにいたりします。双葉の歌姫はファンアートもちょいちょい見かけたりするし,なんならついぞバビロン再訪を産みましたし,SCE2はぼくの計り知れないほどのフォロワーを産んだと聞き及びます。

 それらの言葉や作品はぼくのゲームありきではあるかもしれませんが,しかしその線が重なる瞬間は別々の人生を歩んできた前後にあるもので,決してぼくの再生産であるとか,ぼくのコピーであるとかではなく,せいぜい衛星軌道に引っかかったとかその程度だと思います。


 すこし傲慢な話になってしまうのですが,ぼくの生き方や,ぼくの作品でだれかの人生を狂わせてしまったということが,一切ないわけではないことを自覚しています。

 ぼくはそこまで人の人生に干渉してもよかったのだろうか,と思わないことも少なくありません。そういうことを思うにつれ,自分自身の生き方を正し,ぼくのフォロワーであってくれている人たち,ぼくの言葉をこうしてみてくれている人たちに少しでも自分が選んだ道が正しかったことを後ろから支えられればと思っています。


 今つくっている「エイプリル」は,本来もっと小規模なゲームになる予定でした。なんせ2年前のコミケで出す予定のゲームでしたので。でも開発期間は2年を超え,もういろいろなものが取り返しのつかないところに来ています。

 そんな中で,昨年はエイプリルで何を表現して,プレイヤーにどんな体験をしてほしいのか,ようやく固まってきた1年だったと言えるかもしれないっす。この時代において,物語主導の受動的RPGを作るのもなかなか時代遅れ感はありますが,出てくるキャラクターたちはそれぞれ最先端の事情を抱えていますし,でもそういう設定をいちいち言って回るのってださくないですか? ぼくは皆さんの読解力のようなものを信じています。いや,ぶっちゃけ物語なんて添え物だからあってもなくてもよいという思いもあります。書いたり消したりを繰り返しているのでぐちゃぐちゃにはなっていますが,終着駅は見えてきている状態です。


 ただまあ,ぼくが望むのは,できたゲームが5年とか10年とか20年とか経っても,また遊んでやっていいかもなって思わせるような作りになっていて欲しい,ということです。そこだけ考えていれば,大きく外すことはないなと思うようになってきました。

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