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・グエ~っと死んでます

 引っ越しも一段落した~なんてイキってたんですが,後から後から無限に税金やらライフラインの金払えみたいな書類がポストにぶち込まれるのでその処理に追われてて全然なんも出来てません。

 体力的にはおそらく余裕があるはずなんですが,気力の落ち込みがまあまあ凄くて,動こうと思ったら動けるはずなのですが動こうと思えなくて日が傾いてからようやく動き始めたころには役所やら保険組合やらは既に業務終了してて……みたいな曖昧な一日を過ごしています。完全に何も出来てないわけではなく,一応少しずつ進めてはいるのですが……でも終わらせた書類と同じくらいの書類がポストにぶち込まれてるんだよな。役所の書類と税金の処理が本当にやばくて,フリーランスってこれを自力でやってるってことですよね。ほんまにすごいと思う。


 ところでフリーランスといえばこれですね。今はもう消えてるので魚拓で読んでほしい(本当は気の毒なので読まないでほしいけど,FANBOXという文化の厚みで考えるとまあ大丈夫でしょう・・・)。


消えた後の悲しい文章

https://apio.info/mai/


消える前の文章

https://web.archive.org/web/20190930021014/https://apio.info/mai/


 これはほんまに笑ってしまうよね~。笑いごとじゃないんですが。これも「父からの手紙が泣ける……」みたいな感じで娘さんが公開しちゃってたんですが,そういうことをスッとやってしまう人はたぶんフリーランスきついんだろうな~といろいろ思います。炎上系になってしまうというか。


 話は戻って,ぼくがほとんど活動できてない原因はたぶんいろいろあって,市内の移動が自転車メインになっておりまあまあ疲れること(田舎道の自転車は集中力を使う),都内に行こうとすると電車でも片道2時間近くかかるので「都心に行って帰るだけ」という予定の処理だけで1日仕事になってしまうこと,ふつうに日中の外が暑すぎてコウペンちゃんになってしまうこと,など主に田舎に住んでいることがほとんどの原因になってることは否めないですね。

youtube post: LJwR4iHxKV0


 ところでコウペンちゃん,ぼくの中で肯定ペンギンといえば相原コージ先生だったんですが,そうじゃなくても肯定ペンギンという言葉になんか問題があったらしくてコウテイペンギンの赤ちゃんが知らん間にコウペンちゃんになってたのちょっと面白かった。


 昔から田舎と都会の違いって「施設の密度」にしかないと思っていたんですが,実際に都内都内都内みたいな感じで暮らしを連打した後に思いきり郊外に越すとその影響を如実に体感できますね。

 近所のスーパーとか距離で言ったら今までの住居からドンキに行くのと変わらないんですが,田舎の道ってマジでなーんもないし真っ暗なので距離感がぶっ壊れるんですよね。そこらへんが「ちょっとそこまで」のハードルを上げてるのかなーと思います。無駄遣いは減るのでいいことなのですが。

 しかしスーパーとかホームセンターが広大なのは普通に助かるし,物価は安い。一通りの事務処理が終わったら一転めちゃくちゃ楽になると信じているので,とにかくあるものをうまく利用して生きていきましょう。メンタルメンタルメンタルの薬が効いてくるぜ~! またおくすり増えたんだけど大丈夫ですか?



・エッセイとフィクションの境界線と,そこに怒る人たち

 エッセイっぽいフィクション,フィクションっぽいエッセイ,エッセイっぽいエッセイ,フィクションっぽいフィクションって色々あると思うんですけど,さいきん「エッセイぽいフィクション」がかなりハバを利かせてきたな,と頭を抱えています。これってインターネットのアホさがリアルに強い侵食を見せてるのかな~(つまり現実と創作の区別がつかない人が多数派として創作を消費しているのかな~)とか思ってます。


 僕の中では,フィクションがフィクションたる理由って,まず現実の代替ありきだと思っているので,「虚構であるかどうか」ってすごく重要視する部分なんですよね。ただ,わざわざ「重要視しています!!!」とは言わんけども,おそらく無意識に重要視しているだろうな,ぐらいの感じで。

 なので,フィクションに置き換えられたエッセーはあんまり気にならないんですよ。わざわざ「私小説です」とかいうことってあんまりないと思うんですが,社会の問題であるとか個人の問題であるとかをフィクションに置き換えて面白おかしく単純化することってただしくフィクションの在り方だと思うので。とはいえクロエの流儀とかもそうだけど,スカッとジャパンがおれたちのフィクションにまで一般化されることを辛いしんどいと思う気持ちはしょうがないんですよね。関わり合いにならなきゃいいだけで。なろう系とかでもシンプルにされた社会問題とか結構描かれてそういうポリコレとかリベラリストに礼賛されたりしてることがあるけど,ヤッパ現実と虚構の区別がついてねえな~連中はとか思います。


 一方でエッセーぽいフィクションはマジで最悪で,これはもう詐欺とか自慰のレベルだなと個人的には思ってます。

twitter post: 1295511153104130049

 この人とかちょいちょいバズるけど,自己肯定感が低い人って,他人,あるいは他人の失敗にひどく寛容である場合がほとんどなので,こんなこと言いながら「自己肯定感の低いワタシ」とか「世の不条理に押し込まれる私」みたいな言葉がどっから出てくるんだ? って思いませんか? 嘘エッセーストの描くキャラってほんまにもうエロ同人の女性キャラと同じくらいご都合的で気持ち悪いというか薄っぺらいというか。シコシコするために存在するという意味では同じだと思いますけど。

 

 だいたい,エッセーって本質的には全く面白くないんですよね。エッセーストとして面白くなることってほとんど難しいと思っていて,たとえば中島らもさんとかさくらももこさんとか原田宗典さんとかのエッセーは相当面白いんですが,それもあの人たちがやってきたことの評価ありきではないか? とか言われるとウーンそうかもと思ってしまったりする。

 知らん人が世のどうでもよい事,自分が知らんことに関して語ってることってマジでどうでもよくないですか。どっかで聞いた話をループして聞かされてる居酒屋の愚痴みてえだなあとか思ったりします。けっこう周りの人と話してても「この話前に3回くらい聞いたな……」って思うことは少なくないし,ぼく自身「この話はみんなにしてるのでもう聞いたかもしれんけど……」って言うやつですね。

 たとえば「夫のちんぽが入らない」はタイトルだけめちゃめちゃ面白いけど実際はちんぽが入らない話じゃなくて「夫のちんぽを入れたくない」という話だったし,「今日も拒まれてます」はセックスレスじゃなくて浮気されてる話だったし,リアリティに寄せるとめちゃくちゃ面白くなかったり,タイトル負けしてたり,「はあ~?」って着地点になったり,特に何もないまま終わったり,まじでつまんねーんですよね。でもそれって当たり前のことで,現実が面白かったらフィクションに頼る必要とか元々存在しないので。


 オッ,と引き込むような作品の面白さ,牽引力があればいいんですけど,そこまで描ける人は自分を売り物にしないんですよね。ふつうにフィクション作った方が面白くて売れるものになることが多い気がする。なぜ描こうと思ったのか? の前提に,「自分の体験がめちゃめちゃ稀有で面白いのでウリになるのではないか?」と思った,ってのがないとダメなんかな~とか思ったりします。たとえば御手洗さんの「31歳同人女が婚活するとこうなる」とかは読ませる力があるんですよね。これ以後婚活エッセーめっちゃ増えたけどこれを超えてる作品はないかなと思います。そら他人がくっついた離れたみたいな話って本質的にはクソどうでもいいし一切興味ないからなあ。だからといって理想の恋人像みたいなのとイチャイチャする漫画とかスカッとジャパンの漫画化とかが量産されてるのもキツイ~と思いますけど……。



 日付変わっちゃったし明日は部屋の補修業者さんがくるから今日はもう寝るね! ゲームは・・・もうちょっとがんばります! できたらね! それじゃまた今度!

 

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