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 ようやく「人付き合いをする」「ゲーム作る」以外の作業を全部しばけたと言っても過言ではない状態になったのでいよいよエイプリル作るぞ~って感じで再開するやつをやっていこうかなと思います。思い返せば6月末に動くものを出して以来まじで1回もプロジェクト触ってなかったからちょっとスネちゃってますね。そういうかわいいところもあるやつですからね,エイプリルは。


 とりあえずは遊びなおしてますね。久しぶり~元気してた? みたいな感じで自分で遊ぶのも大事ですから。1か月くらい寝かせると結構忘れちゃうんでまず何作ってたか思い出すのが良いですね。寝かせて遊ぶことで「やりすぎちゃってるな~」とか「もっとやりすぎちゃってもいいな~」って部分も見えてくるんで。

 あ~はいはい,そんなこともあったね~みたいな。元気してるみたいで何よりみたいな。久々に会ったらやっぱ近況話すところからだよね~って。


 でもやってたらだんだんめんどくなってきたから適当で良いかなって感じもある。すぐ死ぬし,なんか敵ツエ~し。敵は弱いほうがいいですね,簡単なゲームがいい。誰でもクリアできるような奴のほうがね。Aボタン押したらゲームが粉々になって次のゲームやろうぜってやつにするか。しかしこれ死んだときに上押しっぱなしだとカーソルがくるくるするのウザくないか? バグか? なんかおしっぱなし周りの挙動が自信ね~からまた今度見ましょう。



 しかし制作記録という行為において,ゲームってほとんどの瞬間見せられない(見せる意味がない)よな~と思います。見せといて支離滅裂に見えますかね。しかしその実記録を付けつつも見せることを整えていないので,制作中はほとんどの時間がずーっと同じ画面っていう悲しみはありますね。世にある多くのゲーム,あるいは開発中の状態って「ゲーム画面/ゲーム内容を見せるための画面」をめちゃめちゃ作られるんですよね。ほんで偽のゲーム画面作って気持ちを煽っておいてからそれに寄せる作業が多い。これは前にも言ったかな。

 その過程を公開することにメリットって基本的にないので,制作記録といいつつ「がんばった」「数字めっちゃ入れた」「見た目の変化はなし!」ぐらいしか書くことがねーんですよね。たぶん作ってる過程とか見せたがる人は見せること(見られること)に特化しているか,あるいはそもそもゲーム全体を作ることを考えていない(見せたいシーンしか作っていない)場合がほとんどだと思っています。


 ぼくがよく言う言葉として,てかあんまり言いすぎて最近周りの人もちょっと使うようになってて本当に僕が言い始めたのか怪しいんですけど,作ってるものはビックリ箱じゃねえからってのがあって。これはもうちょい踏み込むと,ぼくが作ってるのはアトラクションとかマジックに近い。面白がらせるけどその種は明かす気がないよと。だから周りがぼくの作品についてどう言おうと/どう思うと,それはぼくの答えではない以上好きにすればいいけど,大嘘やわけのわからん勘違いだったり,丸っきりの思い込みをまるで事実のように喧伝するのはさすがに言い過ぎでしょってとがめるわけで。

 逆に言うと,過程を熱心に見せる人はそんだけ見せてもネタが割れる心配がないほどの遊びの強度を持った作品か,自分でタネ明かしをしていることに気づいてないアホか,あとは,みんなに見られてると確認することでモチベーション維持するとかかな。


 そしてあんばいが難しいのが,作ってるものがよくわからなくなっているとか,自分が向いてる方向が正しいか確認するとかぐらいかな。つまるところ「意見を聞く」ということなんですが,これ先日言おうとしてメモまでしてたのに全然違う話を結局して終わってしまったので反省しています。

 あの話は,けっきょく,多くのクリエイターにとって,他人の意見や意思を伺うことは他人のご機嫌を取るのが本質じゃなく,自分の目的により近づくための行為なので,たとえばぼくなんかは地位や名誉や金や女が欲しいな~という気持ちで作っているからまったく皆さんのご機嫌をお伺いしている行為なのですが,完全にビジネスでやってる人なんかは作ってるものが売れるのかの試金石にするでしょうし,新たな販路を獲得するためにチャレンジしているのかもしれない,もしかしたら自分の哲学を成就させるために作っている人もいるかもしれない,しかしその全てが「作品をリリースする理由に近づけること」であるのは間違いないはず,という話がしたかったんですよね。なげーか。


 モテたいな~と思ったらモテるゲームを作りたいし,売れたいな~と思ったら売れるゲームを作りたい。自分の深い深い部分を理解して欲しいとか思う人がいるのであれば,もしかしたら自分の深い深い部分を見せられているかを確認するためかもしれない。とにかく,自分の意志にユーザーの理解が追いついているのか試す行為が「意見を聞く」だと思うんですよ。それは投げた創作のボールが自分の意志,着地点に寄せられているかをチェックする行為だし(同じ話を何回も手を変え品を変えしてる気もするけど),やらんと自分で投げたボールを延々自分で拾いに行く羽目になる。それを世では自己満足とか言うんですけど。

 なので,創作においては定期的に意見を聞く行為が僕は大事やなと思っていて。当然自己哲学の発露でも同じくらい大事で。自身の持ちうる理論の強度は,理解している人間の批判的な視線にさらされて強度を増すので,自分が満足している状態で永久に作り続ける人間は縮小的になりやすいと思ってます。創作の目的がべつに自分自身で完成を迎えたと判断できるまで切磋するぐらい極端であれば別ですけど,そういう人は作ってる途中のものをそもそも人に見せんと思うし。


 とはいえ,けっきょくのところ意見を耳に入れるのとそれを決定稿として採用するのには大きな隔たりがあって,決定するのってやっぱスゲーコストがでかいんですよね。なので「意見を言った」ユーザーではなく「その意見を採択した」俺のほうが偉いんだよ,という部分だけは忘れないようにしたい。この観点を失うと,ちょっとした他人の意見にウオーサオーしてしまってどうでもいい更新を連打したり,見られることを意識したばっかりに全部意見を聞き入れてしまい自分がやりたいことがわけわかんなくなったり,逆に一切の意見を突っぱねる頑固者になったりして,いいことが全然なくなっちまうんで。

 そういうところも含めて,トートロジーっぽくはあるのですが,「僕が意見を聞こうとしているときは意見を聞く気がある」ので,思ったことを言葉にするのはムズカシーとは思うのですが,最大限言われてることの意味をぼくなりに解釈して意思決定を行っているつもりなのでお付き合いください,ということで。


 ただ,僕がほんとうにどうでもいいな~と思っている部分に関してはマジでど~でもいいので,けっこう他人に言われたことを「ふーんそっちのほうがいいんだ~」と思ってホイホイ聞き入れることもぜんぜんあります。勝手にやってもらっても構わんとすら思っています。そんな感じで! 今日はエイプリルと仲良しになるためにいろいろ距離感をはかってたから,明日からがんばって作るぞ~!

 あと記事いちばん上のカレーはなんか金持ちの知人がおごってくれたカレーです,なんか銀座ですげ~いい飯食わしてくれて得したな~,うまかった~,銀座でスゲーいい飯食っても上野の路地裏でキッタナイ飯食っても同じような反応しかしない可能性はあるんですがそれでもうまいものはうまい! 問題は都内まで片道2時間近くかかることくらいですかね。いや~~やっと面倒くせえこと全部片付いてゲーム作れるからウキウキがとまらねえぜ!!!!!!

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モスー

「自身の持ちうる理論の強度は,理解している人間の批判的な視線にさらされて強度を増す」って部分は,批判と難癖は違うってことです,難癖つけてくる奴にいちいち相手してたら単にウゼーので