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私はよくSNSで美術解剖学をエゴサしてます。現在はどんな需要があるかとか、学習者がどんなところにつまづいているのかとかが知れたりするので、教える側にとって勉強になります。


たまに美術解剖学で他人の作品に口出ししていたりして、上から目線の余計なお節介をしている人や、文章で口喧嘩をしている人を見かけます。

あーあー、やっちゃってまぁ。みたいな感じなんですが、わからなくもありません。

私も美術解剖学を学ぼうと決心した時は、他のことが目に入っていなかったので、デフォルメ表現は自分には関係がないと思っていましたし、他人の表現に違和感を感じていました。


当時は他人がどういうことを表現しているのか考えていない状態だったように思います。自分の中で、自分に近い表現以外を排除していたのです(今でもそういうところがあるかもしれませんが)。学習が進んでいくと、いろんな表現のケースを知ることになり、他人がどういう解釈をしているのか推測する余裕がでるようになります。


例えば画家のエゴン・シーレの人物画は人体の形がかなり歪んで見えます。でも、彼がグスタフ・クリムトと会う以前に美術解剖学の先生の家に住み込みで勉強していたと知って、美術解剖学の目で作品を見てみると、骨の出っ張りが正確に再現されていることに気がついたのです。作品を見ても、見方がわからないと本人の意図がわからないことって結構あるんです。本人に聞いてもいないのに作品の良し悪しをジャッジするのはどうなんだろう、と思う様になりました。


新しい知識を「わかった!」、「なるほど!」と理解すると嬉しさの余り、

・知識を人にひけらかしたくなったり、

・他者の作品の違和感を教えてあげたくなったりします。


仲の良い友達に教えるくらいだったら互いに良い効果があるんですが、

友達が少ない人はだんだんとエスカレートして、

・アドバイスもないのに添削したり、

・他人の表現に口出しして排除しようとするようになります。


友達が少ない人は、ネット上で閲覧できるいろんな作品をみたり、その作者がどんなことを考えているのかインタビュー記事とかを読んでみるといいです。いろんな作者の気持ちがわかる様になって、一方的なやりとりは少なくなると思います。


知識を得て「わかった」状態というのは一種の集中状態。他のことに意識が向かず、物事が多角的に見れていない状態なので、他人の気持ちを推測しにくくなります。

また、手を動かして検証する前の「眼高手低(批評は上手だが、実際に創作すると下手であること)」の状態でもあります。


手を動かして知識を取り入れようとしたり、作品に反映させようと思うと、結構時間がかかったりしますし、自分のことをよく知らない人にお前の絵は下手だ、と言われたらいやですよね。


なので、わかったことを教えたくなっても自分からアプローチせず、聞かれたら答えるくらいでちょうどよいと思います。聞かれるということは相手が知識がありそうだと思ってくれている証拠ですから、その時に答えるくらいで良いのです。

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