Home Artists Posts Import Register

Content


時間差で、あけましておめでとうございます。



─────────────────────────────────────


なんですぐにこれを言えなかったのかというと、

まぁ色々理由があります。 多分、4種類くらいある。




一個は、大前提として、本質的に自分が「挨拶」という行為が嫌いだということがあります。

この辺は自分のブログを端から端まで読めば、なんとなく分かるかと思います。

(勿論言うときは言います)(言われたら返します)



「挨拶」というものがなんでできたのか?

何時からサルが挨拶を始めたのか?



挨拶、

社交辞令、

マナー、

・・・

・・・


こういう「ルール」が行き過ぎると、どっかでおかしくなると思っています。



「挨拶をしないからあいつは駄目だ」

「あいつ挨拶をしなかったムカつく」

「挨拶も返せないやつめ」

・・・

・・・

まぁそういうことになってくる。



好機嫌のためのシステムだったはずなのに、

押し付けやら妙な慣習化のために、いつしか「不機嫌化」のためのシステムになってきてると思うのです。


(「あったら嬉しい」じゃなく、)

(「あって当たり前、ないとムカつく」、になってくる)



自分はそういうのがバカバカしくてしかたがない。




「人と喋りたくない」ということも、延々とブログで書いてきています。


「人と喋りたい」という欲求を持った人Aと

「人に喋りかけられたくない」という欲求を持った人Bがいるとする。



AさんがBさんに話しかけて、Bさんが無視したら、それはBさんが「無礼で悪い」ってことになるの???

なんで???


お互い対等で、平等で、ただ、お互いに欲求の方向性が違うってだけじゃん。


しかも、Bさんの願望は既に破られているのに、それでもなんで、Bさんが無礼ってことになるの???



そういうの

「無視する人は失礼」

「挨拶しない人は失礼」

「喋れない人は失礼」

「口利けない人は失礼」

・・・

そういう決めつけが、世界を生きづらくさせてんじゃんとか、本気で思ってたりします。



勿論普通の人には分からないだろうけど。



自分はバイトの職場とかで、「死ぬっっっっっっほど」 挨拶が嫌だったんだよ。

挨拶とかこの世から無くなればいいとずーーーーっっと思ってました。


絶対にしゃべれないコミュ障の人間とかだっているはずなんだよ。

でもそういうことは考慮しないで、「挨拶したがり」の多数派によって、

「マナーはこうあるべき」という風潮が作られてしまうわけじゃん。




・・・

・・・みたいなことを考えるのでした。


それで、自分の中には「挨拶を否定したい」という欲求がすごくあるわけです。



そんなことを考えている自分が、そう簡単に、新年だからって

挨拶をするわけにはいかないと、本気で考えたり悩んでたりするんです。



これが一つの理由

─────────────────────────────────────

2つ目の理由

◆「人の心の寂しさ」について思うこと。




「皆、寂しいのではないか?」

みたいなことを、結構考えたりします。



例えば、クリスマスなんかに、「逆に妙にネット上で活発化する人」というのはいると思います。

(過去の自分も、一時期そんなだったときがあったかもしれない)



そういうのは結局なんなのだろうか?



クリスマスなのに、一人、暗い部屋の中で、PCの前に座っているだけなのが、

「現実」である。



大晦日や新年の瞬間だって、同じ筈です。



「新年開けた瞬間、一人、暗い部屋の中で、PCの前に座っているだけ」

これが、「現実」。



でも今の時代は、多分もはや、こういう人の方が多数派なのだろうとも思う。


みんなそうです。 で、みんな、なんか寂しいなと思っている。 心のどこかで。



PCの前で一人なのは「いつもそう」な筈なのに、

なんかそうやって

「クリスマスなのに」

「正月なのに」

というのを言われてしまうと、途端に気になってしまう。 いつもは平気なのに。



よって、寂しいので、虚しいので、なんか焦るので、

その反動で、ネット上で、はしゃいでしまうという、そういう心理があるのだと思う。



ツイッターのTL上では、みんなが「あけおめー」「あけおめー」と言いまくる。

そこに参加する。

それで、なんか、一人じゃないような気分になる。


同じ番組を見たりする。

紅白をみる。

ガキの使いをみる。

ユーチューバーの年越し生放送とか見に行っちゃったりするのです。

そうやって、一体感を感じようと、する。




勿論それでもいいとは思う。 (そこを否定しているわけではない)



でも、同じことなんじゃないかと、自分は思うのです。

結局、みんなどっか、寂しいのであると。



だから自分も「同じ」なんだよ。


ネット上でひたすらあけおめと言うのも、「同じ」。

それに反抗して、何も言わないようにしてる自分も、「同じ」。



「同じ」なんだから、どっちでもいいじゃないかと、思うのですよ。



みんな、暗いPCの前で、一人座っているだけです。

57億の孤独。




その上で、あけおめと言うか、言わないかのだけの違いです。



今の自分は、言うテンションにはなれなかった、

言わない方を選ぶ、というだけのことでした。


─────────────────────────────────────

◆お祝いの否定


で、このような「寂しさ」とはなんなのか? どこから来るのか?



それはやっぱり、どこかで人間の心を縛っている

「クリスマス」なのに、

「お正月」なのに、

という心理だと思う。


結局、これを言われてしまうと

どんなに無視しようとしても、どんなに囚われてないつもりでも、どんなに平気なつもりでも、

なんか、 心のどっかでは、 引っかかる筈。



それで、前述のようなことになってくるのです。

 (自分も結局うんこちゃんのポケモン配信見に行っちゃったしね)



じゃあこれは何が悪いのかというと

「記念日」みたいな概念そのものが悪い ということになってくる。




「今日は〇〇の日なんだからあれをしなくちゃ~」

「盛大にしなきゃ」

「今日はあれの一周年なんだから祝わなくちゃ~」

「今日は誕生日なんだから~」

「今日は記念日なんだから~」

・・・

こういう発想そのものが、人間を却って苦しめているんじゃないかと、

そんな気がしてきているのです。




記念日とか、周年とか、

そういうのに囚われるの、もういい加減やめませんか?、と思うのです。 本気で。



そういう、記念日を否定する気持ちというのが、

なんか、自分の中であるんです。



こういうこと言ってると、

「ああタモリさんの反記念日主義ね」みたいに思われるかもしれない。

そうなのかもしれない。


でもこれは、完全に自分で考えて、自分でやってることです。

タモリさんの影響はありません。



まぁ、勿論、これを言ってる時点でもう、囚われるんだろうけど。

(「無欲になりたい欲望」、みたいな)



まぁ、次からは、黙ってスルーできたらいいですね、と。


とにかく、来年の自分もあけおめ記事とか書かないかもしれないけど、

「自分はそういうヤツ」ということです。


─────────────────────────────────────

まぁそんな感じでした。



で他にも色々あるんだけどね。


いつも、

「お世話になってます」

「今年もよろしくお願いします」

「今後共よろしく」

とかDM送ってきたのに、

自分が本当に苦しかった時に何もしてくれない人、

そういう人に限って!


年賀絵とか、新年のあいさつとか、

ちゃっかりしてるひと。


そういう人に限って!

もう自分のことは助けてくれないんじゃん、とか思ったりする。



そういう人を目の当たりにし続けると、



心のこもってない、

心にもない「お世話になります」なんて、何の意味があるんだよ、と、

そんなことを思うようになるんです。



あなたのいう「お世話になります」は嘘じゃんか、と思う。




で、自分もそういう人間にはなりたくない。

「嘘をつく人間にはなりたくない」。

思ってもないセリフを吐く人間にはなりたくない。



そんで、新年の挨拶なんかしたくなくなってくるわけです。



(追記: この部分に書いたことは酷すぎたと、あとから思っています)


─────────────────────────────────────

・・・という理由がありましたとさ。


これ以上の本音はないですね。




で、今年はブログでも挨拶しない。

ツイッターでも挨拶しない。

そういう方針だったんですが、



流石にここは不味いかなぁと思い始めたので、

結局書いてしまいました。



─────────────────────────────────────

まぁこういう感じですよね。

そして自分の書いてる文章を真面目に読んでもこういうことになりますよ、ということです。




で、今年描いた年賀絵も乙事主ですよ。



正月にタタリ神かよと。




「これでも喰らえ!!」の精神ですよね。



でも、自分は「これでも喰らえ」の精神好きなんですよ。


「深夜の馬鹿力」で、伊集院光は、毎年正月にチコたんを流してたことがあります。


ジョージ秋山の「浮浪雲」で、毎年、新年一発目の連載が、ひどすぎる内容だったことがあります。




でも、そういうのって「なんか良く」ないですか?

一休さんの言う、「門松は 冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」の精神ですよ。


これが分かる人だけでいい、そういう精神でやってるんですよ。自分は。




Files

Comments

No comments found for this post.