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帰宅後、冷えた体を湯船で温め、焙じ茶を二杯淹れる。

一杯は自分が、もう一杯は目の前のりうちゃんが飲む。


有栖川りう(ありすがわ りう)という変わった名前の美少女と、こうしてテーブルを挟んで焙じ茶を飲むのが俺の嬉しい日課となっている。


彼女の笑顔は、俺を心の底から元気にし、活力を与えてくれる。また、天然ゆえにたまに仕掛けてくるえっちなイタズラは、俺の心身をものの見事に高揚させる。

どちらも、平凡以下でしかなかった俺の人生の素敵なスパイスとなっている。


しかし、今はそのどちらでもない状況にある。

そう、叱られているのである。俺が、りうちゃんに。


「キミは、明らかに運動不足」

「そうは言っても、運動する時間が...」

「お仕事大変なのは分かるし、平日に無理してまでとは言わないけど、休日ずーっとごろごろしているのも、健康的じゃないよ」

「うっ...」


三十路を迎えようとしている俺の下腹には膨らみがあった。お酒も飲まないのにビールっ腹のような、パンツの上に贅肉がのってしまっている。


「こ、これでも俺がりうちゃんくらいの頃は結構痩せてたんだよ!」

「それ10年以上前の話じゃん」

「ええ、まあ」

「『ええ、まあ』じゃないの!」

「すみません...」


大人には色々と忙しい事情があるのだが、それは言い訳に過ぎない。彼女だって、学校に部活動、バイトと多忙な毎日を送っているのだ。


「あんまり口うるさいのもどうかなあ、って思うけどね。でも一緒に健康で長生きして欲しいし」

「ありがとう...!なんかお母さんみたい」

「『りうママ』って呼んでも良いよ?」

「ほんと?」

「うそ」


だめなんかい!


ちょっと本気にしてしまった。なかなか良い響きじゃないの。


散歩を休日の日課にしようと計画を立てたりもしたが、三日坊主。予定は汲々として進まず、万年床でごろごろする休日に戻ってしまっていた。



「私の場合は学校で体育があるから良いけど、キミは休日に運動しないといけないから大変だけどね...」

「体育か...懐かしい思い出だ」

「体育の授業で何が一番好きだった?」

「うーん...」


運動音痴な俺は、そもそも体育の授業が嫌いだった。

特に、寒い日に校庭に放り出されて、ノイズ混じりのハウリング音の合図でスタートするマラソン前なんて、校庭に隕石でも落ちれば良いのに、と不吉なことを本気で考えたりもした。


でも、そういえば体育で好きなことが唯一あった。それは、


「キミが体操着を着て運動している姿って、想像できないなーあははっ」


そう!それだ!なんという読心術!


胸部や臀部の発育がよろしい女子生徒の体操着姿を合法的に拝めるという、唯一のご褒美があったのだ。それを励みに、なんとか校庭をはいずりまわっていた。


「体操着ってなんか...」

「なんか?」


すごくそそる。


「す、すごく懐かしい感じがする!」

「そっかあ、そうだよね。キミにとっては随分昔のことだもんね」

「ああ、青春時代よ。戻れるなら戻りた...くはないな」


俺の青春時代など、暗黒時代に等しい。

時空を戻れる片道切符がこの手にあったとして、まず使うことはないだろう。


「何事も格好からって言うし、体操着着たら運動する気になったりして?」

「りうちゃんが体操着を着てくれたら本気出す」

「ほんと?」

「うん。...え?マジで着るの?」

「うん、キミが運動する気になるならそのくらい全然」

「するする!めっちゃする!...あ、でもジャージだよね?」

「今日は暖かいからショートパンツかな〜」


ショートパンツか。


そうだった。自分が学生の頃はまだ女子生徒はブルマを履いていたが、いつからかショートパンツに変わってしまった。様々な事情を推し量らんこともないが、俺としては誠に遺憾である。


「あのぅ...」

「なあに?」

「ブルマ...とか持ってない?」

「持ってるよ」

「え、そうなの?」

「うん。高校ではショーパンだけど、中学までは田舎だったし、ブルマで体育していたの」


なんたる朗報。天の神はまだ俺を見捨ててはいなかった!


「ブルマにしよう」

「え、でも中学生の頃のだよ?」

「きつい?」

「うーん、正直あんまり変わってないから普通に履けると思うけど...」


大事なことだからもう一度。


「りうちゃん、今日はブルマにしよう」




※※※




一度自宅に帰って、体操着姿に着替えたりうちゃんが再び俺の部屋にやってきた。


「か、かわいい...!めちゃかわいい!興奮する!」

「なんで興奮するの!」


やー、やっぱり体操着はブルマですよ。これですよこれ。お尻のプリッとしたライン、太ももが露わになるこのセクシーさ。たまらない。


「興奮もするさそりゃ!もう、お注射しちゃいますって感じ」

「え...」

「あ」


さすがに調子に乗り過ぎた。

心にしまっておくべき煩悩を、つい口に出してしまっていた。


「ご、ごめん。さすがにキモいよね」

「えっと...気持ち悪いっていうか、イヤ」

「あ、うん。もちろんしないよそんなこと。大人になるまではしないって約束したじゃん?」


平静を装って弁解するが、内心のショックを隠しきれない。

りうちゃんのドン引きした表情が、俺の心臓を鋭利な刃でグサグサとえぐる。


考えてみれば当たり前だ。運動するために、それも俺の健康のためを思ってわざわざ体操着に着替えてもらったのに、興奮するだの、年下の女の子相手に下ネタを言うなんて。最低だ俺は。


「大人になったら、しなきゃ、ダメ?」

「え?」

「大人になるまでしなくていいって言ってくれたけど...大人になったらしなきゃいけないんだよね?」


頭が、サーっと冷えていくのを感じた。


俺はどれだけ彼女を幻滅させてしまったのだろう。


「あ、いや...大人になっても、りうちゃんの合意というか、お互いが、そう想い合えたらで良いんじゃないかな?」


りうちゃんは普段、俺に対して、その天然さも相まって、えっちなことにさほど抵抗はなかったのに。というかノリノリですらあった。だからこれくらい大丈夫。そういう過信が俺にはあった。

しかし、そうは言っても彼女は年頃の女の子。ドン引きの琴線に触れてしまった。


「本当に?」

「う、うん。本当に...」


嫌われただろうか。俺は。

そうでないこと、一時的なものであることを願うしかない。


「でもさ、相手は一方的にするじゃん。こっちが嫌がっていても、お構いないしに」

「俺はそんなこと絶対にしない!誓ってもいい!もしりうちゃんが裸で誘ってきても大人になるまでは、断腸の思いで断る。...さっきは変なこと言って申し訳なかったけど、これだけは絶対!必ず」

「あははっ!裸って...『はい、左腕だしてー』くらいでしょ、普通」

「...ん?左腕?」


腕フェチを想定している?


「嫌ですって言っても、そのままブスッと針を刺す」

「針を刺す...。いや待って」


何の話だ。そんなアブノーマルなプレイは、俺としては興味がない。


「どうしたの?」

「えっと、何の話をしているの?」

「だから!お注射の話でしょ?キミが言い出したんじゃん」


まさか。


「“お注射”って、健康診断とかでやる、あの?」

「そうそう...うわぁ。思い出しただけで鳥肌たっちゃうし...はあ。キミみたいな人が看護師さんだったら少しは我慢できそうなのにな」

「...その、有栖川さん」

「はあい?」

「今さっき、ドン引きした顔をしていたけど、それって俺に対してではなくて?」

「注射に対してだよ。キミが私に注射するって言うから」


そうか。中学生の頃とかって、健康診断の時には身体測定もあったから、全員体操着で受けさせられた記憶がある。

彼女はその時の注射を想起して...


「あー、ごめんごめん、てっきり俺の勘違い」


ものすごくホッとした。ホッとしすぎて地球のマントルまでめり込んでいきそう。

死の沼から這い上がってきたような気分。

一気に体の力が抜けていく。


「そっかあ、それなら良かった。でもキミって看護師の資格をもっているわけでもないでしょ?なんで注射?」


ギクッ。それは...


今さら言いづらい。しかし、くだらない下ネタと、純粋な血液検査を間違えていたとは。

彼女から視線を外すと、下からキョトンとした顔で覗き込んでくる。

そして彼女の口角が少しあがった。


「あー、もしかして。どうせえっちなことなんでしょ、それ」


やはり、有栖川りう嬢は鋭い。


「いや、その、まあ...」

「“お注射”、だっけ?それどういう意味なの?」

「え」


えええーーー!?


それ、聞かれて俺が答えるのか!?


「ねえ、どういうこと?」

「ちゅ、注射器ってほら、こう、ピストン運動でワクチンを体内に輸送したり、採血したりするでしょ」

「うん」


また彼女は痛そうな顔をする。


「その動きが、その、おしべとめしべの云々に似ているから、隠語として、おっさんとかが『お注射』なんて言葉を下ネタとして使うんだよ」

「そ、そうなんだ...///」

「ま、まあ俺もおっさんに片足突っ込んでいるからちょっと知っているっていうか...」


容姿は見事に両足とも漬物のようにどっぷりおっさんに浸かっているけれど。


「だから、りうちゃんが真剣に嫌な思いをしているのを知らずに、変な下ネタ言ってごめん」

「ううん、知らないのは当然だし、全く気にしてないよ、大丈夫」


良かった。りうちゃんにドン引きされていないのなら、もう何だって良い。


「でも、つまりこういうこと?」

「うん?」

「キミが私の体操着姿に興奮して、えっちなピストン運動がしたい気分だ、と」


ちょっ!!


「あ、その!それは...えっと」

「大人になるまでは約束があるからしないけど、大人になったらキミは私に“お注射”をしたい。えっちなピストン運動をして、何かを私の体内に送り込みたい、と。合ってる?」

「それは...その、えっと、り、りうさん?」

「違うの?」

「...あ、合ってます...すみません///」

「どうして謝るの?私、別に嫌だなんて言ってないし、思ってないよ?」

「いや、それは嬉しいです、ハイ」


顔面沸騰しそう。10才以上年下の女の子に、下ネタでからかわれて赤面させられる羽目になるなんて。なんたるダメ男。


当の彼女は、ニヤニヤと笑って満足気だ。


くっ...注射嫌いのりうちゃんに水を向けた俺への仕返しか!お。覚えておけ...!

顔が熱い。きっと耳まで真っ赤に染まっているに違いない。


「あー、良いもの見れちゃった♡」

「うー...恥ずかしいやら、情けないやら」


「ふふっ、教えてくれてありがと!じゃあ、外にいって運動しよっか!」

「本当にその格好で行くの?」

「うん」


住宅街とはいえ、休日のお昼時だ、結構人も多いかもしれない。この辺りには、若人はすくない印象だが、もしりうちゃんの体を舐め回すように見る輩がいたら、成敗してくれよう。


...それ、俺か。


「歩いて行けるところに、運動ができる広場があるんだよ。あまり人が少ない場所もあって、この時期には綺麗な桜も咲いているんだよ」

「そうなの?」

「うん、だから、ね?」


うっ...運動しに行くとは言ったものの、実は俺、花粉症なのだ。

花粉の辛さと体操着デート。そしてこの上目遣い。


いつも思うが、この上目遣いはわざとではなく、彼女が天然過ぎるがゆえに威力が倍増する。

魚も仕草も天然物は全てに勝るわけだ。


両者を天秤にかける。

花粉ごときが、“有栖川ブルマ”に勝てるはずがなかった。




※※※




りうちゃんだけに体操着でふらつかせるわけにもいかないので、俺も適当なスポーツジャージを引っ張り出してきた。しわくちゃなのは気にしてはいけない。

そうして近所の、通称『さくら広場』にやって来た。


何年もこの街に住んでいるが、この季節に来たのは初めて。


「うお、すごいな」

「でしょー!」




桜、桜、桜。




春爛漫の一面の桜だ。

舞い散る花弁がふたりを取り巻くように吹雪く。物語の主人公にでもなった気分だった。

視界は白桃色で覆い尽くされ、目の焦点が合わないほど。


「すごいな、これ、河津桜(かわづざくら)だ」

「分かるの?」

「まあ、仕事柄、少しだけね」


今は3月初旬。

東京などでよく見かける、いわゆる桃色の桜は『ソメイヨシノ』という品種だ。通常、ソメイヨシノは開花の時期がもう少し後、3月下旬から4月上旬にかけて満開を迎える。

一方、目の前でさんさんと咲き乱れている桜は『河津桜』という品種。静岡県の熱海あたりに多く生えていて、東京でこれだけまとまって咲いているのは珍しい。こちらは2月下旬から3月中旬が見頃の時期。

つまり、今が最も美しく咲き誇る満開の時期なのだ。


駅前の桜並木通りにはソメイヨシノが植えられていたはずだから、この広場の河津桜が散り始めた頃に、今度はそちらを見に行くのも良いかもしれない。

その時には、自分がりうちゃんを誘ってお花見にでも...と、思って辺りを見回しても、りうちゃんの姿がない。


「あれ?」

「こっちこっちー!」


自分が桜に見惚れている間に、彼女はそそくさと一段低くなった平地で準備運動を始めていた。俺も斜面を駆け降りる...。


途中、足を止めた。


否、止まってしまった。自分の意思とは反して。


それは。


それは、まるで、冬に背を向け春を迎え入れる女神のようにさえ感じた。


俺の記憶の中で、これほど“美しい春”は今までにあっただろうか。













「きれいだね」

「うん、すごく」


幾星霜の時を経ても、この素敵な気持ちを形容する言葉は見つからないだろう。


もし、この感情の名付け親になれるのなら、俺はこの気持ちに「りう」と名を付すと思う。

恥ずかし気もなく、そうするだろう。


平地へ駆け降り、ふたり一緒に準備運動を行う。

まずは屈伸から始めよう。




Fin.

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