第七章「頼もしいレイとわたくし」一括公開 (Pixiv Fanbox)
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68.嫌疑
「冗談じゃありませんわ!」
日も落ちた後の学院寮。
魔力の灯りがともる中、わたくしの大きな声が部屋を震わせました。
机の上のレレアが身をすくめるように小さくなります。
牢から解放されたレイが持って来たのは、とんでもない話でした。
まず、レイの学院籍を解き、ロセイユ陛下直属の特務官に任命し、リリィ枢機卿やわたくしもそれを補佐せよとのこと。
これについては驚きもありましたが、まだ許容できる話です。
ただの平民に過ぎないレイの出世を喜びこそすれ、反対する理由は何もありません。
問題はレイが命じられた貴族の不正調査の対象にお父様が含まれていることでした。
「お父様が不正!? そんな馬鹿な話があるわけがありませんわ!!」
お父様は理想的なバウアー貴族です。
金庫番としてバウアーにその身を捧げて来たというのに、こんな汚名を着せられるのはあまりにもあまり。
「まあまあ、まだ疑いがあるというだけですし」
レイはそう言いますが、あのロセイユ陛下が疑いレベルでそんなことを不用意に言うとは思えません。
陛下は恐らく何らかの確信をもってお父様を疑っているはずでした。
「そんな疑いを掛けるだけで陛下の正気を疑います! フランソワ家は代々王国の金庫を厳粛に預かって来たのです。それが不正などと!」
バカンスで貴族制度に疑問を抱いて以来、わたくしは貴族たちの腐敗について学んできました。
そして、調べていく内に実際に不正を働いていそうな貴族の情報も掴んでいます。
ですが、お父様は違います。
違う……はずなのです。
「で、でも、クレア様、これは逆にチャンスかもしれません」
激昂するわたくしの剣幕に怯えつつも、そう言ったのはリリィ枢機卿でした。
彼女は偶然わたくしの部屋に遊びに来ていて、ちょうどレイの報告を一緒に聞くことになったのです。
「チャンスって、どういうことですの、リリィ枢機卿?」
「リ、リリィもお父様がそのような不正をしているとは信じたくありません。ですから、リリィたちでお父様たちの潔白を証明すればいいのではないか、と思います」
リリィ枢機卿の言うことはとても前向きでした。
確かにわたくしたちでお父様たちの潔白を証明出来るならば、それに越したことはありません。
ですが、何かがあることを証明するのに比べて、何かがないことを証明するのは難しいものです。
わたくしは嫌疑を掛けられたお父様たちが、なし崩し的に罰せられることを危惧しました。
「お、お父様たちに掛かっているのは、どのような不正の疑いなのですか?」
「それが、私もまだ詳しくはうかがっていないのです。陛下はロッド様に聞くようにと仰っていました」
「でしたらうかがいに参りましょう」
一体、どのような荒唐無稽な話がまかり通っているのか、わたくしは一刻も早く確認したいと思いました。
しかし、
「さすがに今日はもう遅いですよ。明日になればクレア様やリリィ様宛の辞令も下るでしょうから、それを待って改めてうかがいましょう」
「……歯がゆいですわね」
レイに止められてしまいました。
わたくしが取り乱しつつあるからか、レイはとても冷静です。
いえ、彼女はいつも冷静ですが。
「大体、どうしてリリィ枢機卿まで巻き込んでいますの、あなたは」
「え? いや、だって、サーラス様のことも調べるのであれば、リリィ様にも協力を――」
「事の重大性が分かっていませんのね。この国の有力者の内情を探るということは、それ相応の危険が伴うということですのよ?」
下級貴族たちならまだしも、サーラス様やお父様たち上級貴族を調べるということはそういうことです。
お父様たちはこの国の権力者なのです。
万一、お父様たちに後ろ暗いことがあったなら、それをもみ消そうとするはず。
その手段は必ずしも不正を追及する者の命を保証しません。
「リ、リリィも水属性魔法の使い手です。きっとお役に立てます」
「危険すぎますわ。そもそも、レイの護衛にはわたしがおります」
わたくしとて火の高適性魔法使い。
そんじょそこらの腕自慢には負けません。
「で、でも、リリィは心配なんです!」
「杞憂ですわよ」
「ふ、二人っきりになったらクレア様がレイさんに何をするか!」
「そっちですの!?」
むしろ心配するなら、レイがわたくしに、でしょう!?
「え? なにかしてくれるんですかクレア様?」
「しませんわよ!?」
「なんでですか!!」
「なんでもなにもありませんわよ!」
「レ、レイさんに手を出さない!? 正気なんですか!?」
「ああ、もう、面倒くさいですわね、あなたたち二人とも!!」
何だかこういうやり取りも久しぶりな感じがしますわね。
このところ、色々立て込んでいましたから。
空気が緩んだのを敏感に感じ取っているのか、レレアも心なしか嬉しそうです。
「仕方がありませんからリリィ枢機卿の同行も認めますけれど、くれぐれも注意をなさって下さいまし」
「も、もちろんです」
「レイもですわよ?」
「はーい」
そんなやり取りをして、その日はお開きとなりました。
◆◇◆◇◆
明くる日の放課後、私たちはさっそく王宮のロッド様を訪ねました。
「お、来たな」
ロッド様の部屋はさすがは王族という印象で、趣味の良い高級調度に囲まれた広い部屋でした。
室内は暖色系の色使いでまとめられています。
わたくしの自室もそこそこのものと自負していますが、それでもこの部屋には及ばないでしょう。
教会で清貧な生活を送っているリリィ枢機卿は、目に毒なのか居心地が悪そうにしています。
レイが平然としているのは、大物なのかそれとも別の理由なのか。
「オレは回りくどいことは嫌いだからさっさと用件を済ませるぞ。サーラスとドルは不正に財を蓄えている」
そう切り出したロッド様の言い方は、容疑ではなく断定でした。
日頃からそういう所のあるロッド様でしたが、この時ばかりはうんうんと頷いてばかりもいられません。
「お言葉ですがロッド様。そのようなことを仰るからには、何か決定的な証拠があるのですわよね?」
冷静にね、と昨晩カトリーヌに言い含められたわたくしは、ロッド様に根拠を問いました。
「いや、ない」
「な、ないんですか?」
リリィ枢機卿が拍子抜けしたような声を出しました。
それはそうでしょう。
根拠もなしに疑いをかけるのは、言いがかりとなんら変わりがありません。
「まあ、待て。ないのは決定的な物証だけだ。状況証拠ならいくらでもある」
そう言うと、ロッド様はこれまで彼が捜査した調書を見せて下さいました。
「サーラスもドルも頭が回る。そう簡単には尻尾をつかませちゃくれない。言葉にしたり書面に残したりはせずに、部下や周りの者が忖度して勝手に動くんだ」
ロッド様が示した資料には、サーラス様やお父様の周りで少なくない金が消えていると示唆されていました。
中には具体的な容疑と名前が挙がっている貴族もいますが、直接お父様たちに繋がる証拠はないようです。
「ここに名前がある者から捕まえればいいのではありませんの?」
ここに至ってもまだ、わたくしはお父様の無罪を信じて疑っていません。
飽くまで嫌疑を晴らすために、わたくしはロッド様に問いました。
「実際に手を汚すのは確かにこいつらだが、こいつらをいくら取り締まっても意味がない。トカゲの尻尾切りで終わるだけだ」
実際に何人か捕まえてもみたんだがな、とロッド様は言います。
「で、どうするんだ?」
ロッド様が挑戦的な光を湛えた目でレイに問いかけました。
「陛下にも話しましたが、まずはロッド様の仰る枝葉の部分から取りかかります」
「ほう?」
「この資料、写しを頂いても?」
「そう言うと思って用意させてある。持って行け」
ロッド様が卓上の鈴を鳴らすと、側仕えの者が紙の束を持って来ました。
レイがそれを受け取ります。
「ではロッド様。私たちはこれで」
「ああ、ちょっと待てレイ=テイラー」
部屋を辞そうとしたレイを、ロッド様がなぜかフルネームで呼び止めました。
レイが嫌そうな顔で振り返ります。
「何でしょうか?」
「いや、何でもないことなんだが、一応、今のうちに訊いておこうと思ってな」
ロッド様が珍しく言いよどんだ。
なんだというのでしょう?
「なんだか、私、ものすごくうかがいたくないんですが」
「そう言うな」
「帰っていいですか?」
「オレの用件が済んだらな」
そうして、ロッド様は言ったのです。
「レイ=テイラー。お前、オレの妃になるつもりはあるか?」
それは紛れもないプロポーズでした。
69.価値観の相違
「レイ=テイラー。お前、オレの妃になるつもりはあるか?」
あまりに突飛な発言に、レイもリリィ枢機卿も、そしてわたくしも硬直してしまいました。
求婚……それも平民であるレイに対して?
混乱する頭を何とか整理して、わたくしはロッド様の真意を問い質すことにしました。
「正気ですの、ロッド様!?」
それでも、わたくしの問いかけはほとんど悲鳴じみていたと思います。
「へ、平民を、王族に加えると仰るんですか!?」
「そうだが?」
リリィ枢機卿の問いにも、ロッド様は平然と応じました。
レイはどうかと見れば、珍しく真面目な顔で考え込んでいます。
無理もありません。
王族からの突然の求婚です。
混乱しない方が無理というものでしょう。
レイはしばらく考え込んでから口を開きました。
「一応、おうかがいしますが、からかっていらっしゃいます?」
「いや、本気だ」
「はあ……。一体、私のどこがお気に召しました?」
「性格と……あとは能力だな。お前のことは以前から大したヤツだと思っていた」
ロッド様が楽しそうに言いました。
対するレイは……表情が読み取れない複雑な顔です。
「私、何かしましたっけ?」
「学院襲撃を未然に防ぎ、セインの毒を治療し、オルソー家の断絶を救い、マナリアに一泡吹かせ、ユークレッドの幽霊船騒ぎを解決した」
ロッド様は非常に正確にレイの手柄を把握していました。
こうして列挙されてみると、レイの能力が非凡なことがよく分かります。
身分などよりも能力や面白さを重視するロッド様なら、確かにレイのような女性を選ぶかも知れません。
でも、レイはわたくしのものなのに――。
「いえ、それほとんどクレア様の手柄なんですが……」
「そうなのか、クレア?」
ふいに名前を呼ばれて我に返りました。
動揺している自分を自覚してさらに動揺しそうになりましたが、わたくしは必死で立て直してロッド様の問いに答えました。
「いえ。レイの尽力によるものですわ」
確かに彼女一人ではなしえなかったことが多かったように思います。
ですが同時に、彼女なしではなしえなかったことであることもまた事実。
悔しいですし認めるのも怖いですが、彼女の成し遂げてきた成果は正当に評価されるべきだとわたくしは思いました。
――仮にそれで、彼女がわたくしから離れていくとしても。
「決定的だったのはユーの一件だ。王宮が長年抱えていた難問を、お前は見事に解決して見せた」
「あれも私一人の手柄ではないのですが……」
「謙遜はよせ。中心にいたのはお前だと言うことは分かっている」
ロッド様の言う通りです。
レイがいなければ、ユー様は未だに望まない性別での生活を余儀なくされていたことでしょう。
「オレの伴侶となるべきは、つまらん深窓の令嬢などではなく、お前のような女傑が相応しい」
わたくしは二人が並んでいる様を思い浮かべてみました。
王となったロッド様と王妃となったレイ。
不思議と、その姿は簡単に想像出来ました。
「で、どうだ?」
ロッド様がからかうような調子で問いますが、その目は全く笑っていません。
ロッド様は本気です。
「どうって、普通にお断りいたしますが」
「ちょっと、レイ!?」
わたくしは動転しました。
まさかレイが断るとは思っていなかったからです。
平民が王族に名を連ねるなど前代未聞ですが、平民にとってはこの上ない名誉のはず。
清貧生活に甘んじているレイのご両親だって、大喜びするはずでした。
それを断るなんて!
「あなた、自分が何を言っているか分かっていますの!?」
「何って、求婚されたからお断りを――」
「王妃になれるかもしれないんですのよ!?」
「ええ、別になりたくないですもん」
普段とまるで変わらない、まるで宿題の手伝いをこわれて断るかのような軽い調子でレイは言います。
この子、何を言っていますの!
「望んでも得られない栄誉ですのよ!?」
「私にとっては栄誉じゃありません」
「どうして!」
「だって、私が好きなのはクレア様ですもん」
いえ、話はもうそういう問題ではないでしょう。
あなたがわたくしに好意を寄せてくれていることは分かっているつもりです。
ですが、結婚は別でしょう?
結婚は家と家の関わり合いです。
そこに個人の好悪など差し挟む余地はないはずなのです。
「ふはっはっは! そうだよな! お前ならそう言うよな!」
ロッド様が机を叩きながら、心底おかしそうに笑いました。
「クレア。レイにとってお前と一緒にいることは、王族との結婚よりも価値があることらしいぞ?」
求婚を断られたというのに、ロッド様は面白がるようにわたくしに言いました。
わたくしは真っ青になりながら、どうにかこの貴重な縁談がご破算にならないように話を続けました。
「ご無礼は平に。この者も突然のことで混乱しているのです。落ち着けばきっとロッド様のお気持ちに応えようと思うはずです」
「いえ、私はいたって冷静で――」
「お願いですから、あなたはちょっと黙っていらして」
レイを黙らせつつ、わたくしはロッド様への取りなしを続けます。
レイは事の重要性を分かっていません。
これは平民同士の惚れた腫れたとは全く別次元の話です。
王族からの求婚を平民が袖にしたなどと知られたら、自分の娘を王妃に据えたがっている他の貴族が黙っていません。
ここぞとばかりに攻撃の対象にしてくることは間違いないでしょう。
ロッド様にその気がなくても、不敬罪がどうとか言われるに決まっています。
聡明なロッド様のことでしょうから、その辺りのことには睨みを利かせるでしょうけれど、表だっての動きはそれで潰せても、闇討ちや暗殺までは防げません。
レイにとって一番いいのは、求婚を受けてロッド様の庇護下に入ってしまうことです。
「ロッド様。どうかこのご縁談、この場限りになさらないで下さい」
「もちろんだ。レイがどう思おうと、オレの気持ちは変わらんからな」
「ありがとうございます。ではこのお話は改めて」
「ああ」
「行きますわよ、レイ、リリィ枢機卿」
そう言うと、わたくしはレイとリリィ枢機卿を引き連れてロッド様の部屋を辞去しました。
「ちょ、ちょっと、クレア様」
「……」
レイが何やら非難がましい目を向けてきましたが、わたくしは思い切り睨み付けてそれを黙らせました。
わたくしが再び口を開いたのは、リリィ枢機卿と別れて帰りの馬車に乗ってからのことでした。
「レイ……。ふざけるのも大概になさいな」
わたくしはレイを真剣に咎める口調で言いました。
「ふざけてるって、何がですか?」
「決まっているでしょう! ロッド様の求婚を拒否したことですわ!」
この期に及んでまだ茶化すつもりかと思うと、わたくしはつい言葉がきつくなるのを抑えられませんでした。
「いえ、だって、好きでもない人と結婚出来ないでしょう」
「結婚はあなた一人の問題ではありませんのよ!? あなたが王室に嫁げば、ご両親のお喜びはいかばかりか……」
ロイヤルファミリーの一員になれば、当然、その家族にも国庫から支度金その他の名目でお金が支給されます。
いえ、お金という実利的な面を除いても、大変な栄誉です。
自分達の娘が王族の一員となる――ご両親にとって、それ以上の喜びがあるでしょうか。
「でも、多分ですが、両親も私の選択を支持してくれると思いますよ?」
レイはのほほんとそんなことを言う。
そういうことではありません。
レイは何も分かっていません。
「それはそうでしょう。あなたのご両親は素敵な方々ですからね。でも、あなたはそれに甘えていいんですの? お父様やお母様を喜ばせたいとは思いませんの?」
「それは……」
レイは結婚をあまりにも個人的な事に矮小化し過ぎています。
少しでもいい相手と結婚して、ご両親を喜ばせたいとは思わないのでしょうか。
王族からのプロポーズを蹴るなど、これ以上ない親不孝です。
「でも、クレア様。私はクレア様以外の誰とも結婚したくないんです」
レイの声は真剣なものでした。
王族との結婚よりもわたくしを選ぶと聞いて、心がぐらつくのを感じましたが必死に自制心を保ちます。
「レイ、よくお聞きなさい」
わたくしはレイを何とか説得しようと語気を強めました。
「あなたがわたくしを慕ってくれているのは分かりました。そのことは素直に嬉しいと思います。でも、結婚は話が別ですわ」
「別じゃないですよ」
「いいえ。恋愛はある程度自由にすればいいでしょう。でも、結婚は個人の意志でするものではありませんわ」
「クレア様……」
「ロッド様の求婚をお受けなさい。別に結婚したからといって、わたくしとの縁が切れてしまうわけではありませんわ。むしろ、王族と上級貴族なら、今よりも懇意になることだって――」
「クレア様!」
レイに強く言葉を遮られ、わたくしは思わず口をつぐみました。
ひょっとしたら初めてではないでしょうか。
彼女がわたくしの話を遮るなんてことは。
「私にとって、結婚は恋愛と同じくらい……いえ、恋愛以上に個人的なことです」
「レイ……」
「なんと言われようと、私はクレア様以外の方と結婚するつもりはありません」
正面から目を見つめられてそう言われて、わたくしは一瞬、幸せな妄想に襲われました。
レイと二人で思い合って暮らし、時々、カトリーヌやミシャ、そしてレーネが訪れてくる生活を想像してしまったのです。
ピピやロレッタとも一緒に買い物に出かけたり。
リリィ枢機卿も時々ちょっかいをかけに来るかも知れませんわね。
仕方がないから、彼女は愛人の地位くらいは……いえ、何を考えているんですのわたくしは。
そんな都合の良いことは起こりえません。
現実をきちんと見据えなければ。
わたくしはレイとの価値観の乖離を自覚しました。
平民にとって結婚とはそれほどまでに個人的なものなのでしょうか。
ですが、長い目で見れば絶対にわたくしの言うことが正しいはずです。
「レイ、よく考えなさい。同性同士では結婚は出来ないんですのよ?」
「なら、私は一生結婚しません。それだけのことです」
「わたくしが誰かと結婚しても?」
「……はい」
わたくしはフランソワ家の一人娘です。
わたくしがレイをどう思っているにせよ、必ず高位の貴族との政略結婚が待っています。
それをわたくしは理不尽だとは思いません。
結婚とはそういうものなのですから。
レイはそれでもいい、と言います。
王族との結婚を蹴ってまで。
「……あなたのこと、最近では少し理解出来るつもりでおりましたの」
「ありがとうございます」
「でも――」
わたくしはこう続けました。
「あなたのこと、また分からなくなりましたわ」
わたくしの一言に傷ついた顔をしたレイを見るのは、とても辛いことでした。
70.罪
「それで? レイちゃんとは仲直り出来たのー?」
「ええ、それはまあ」
トンプソン男爵家の監査を終えた日の夜。
レイが帰った後の寮の部屋で、わたくしはいつものようにカトリーヌと就寝前の雑談をしていました。
カトリーヌはもうベッドに入り、わたくしはドレッサーの前に座っています。
「正確には仲直りというか……問題の先延ばしに過ぎないのかも知れませんけれど」
トンプソン男爵家を調べる直前に、レイとはひとまず結婚の話題を棚上げすることにしました。
「別にいいと思うよー? 時間でしか解決出来ないことだってあるもん。あ、クレアちゃん、飴取ってー?」
「また分かったような分からないようなことを……。ちゃんと後で歯を磨くんですのよ?」
「分かってるってー」
わたくしはカトリーヌの机の上にあるキャンディポットからいつものように飴を取り出しました。
「だいぶ減りましたわね。これであと三個しかありませんわ」
「美味しいからねー。これでも大事に食べたんだけどー」
飴を手渡すと、カトリーヌは嬉しそうな顔で受け取ってそれを口に放り込みました。
わたくしも自分のベッドに入ります。
「まあ、レイちゃんとの問題はそれでいいとしてー」
「……いいのかしら」
「いいとして!」
「はいはい、何ですの?」
「肝心の腐敗貴族の調査はどうなったのー?」
「……まあ、トンプソン男爵家は黒でしたわ」
男爵の家で帳簿をレイが調べ、ロッド様から頂いた資料と照らし合わせて矛盾を突きつけると、男爵は自ら罪を認めました。
さらに、レイが司法取引なるものを持ち出すと、イェール伯爵家との繋がりも判明しました。
レイがあんなに切れ者だったとは知らなかったので、わたくしはとても驚いています。
途中のミト○ーモンごっこなる謎の茶番劇は、説明を受けて一瞬納得しかけましたが、今振り返るとやはりよく分かりません。
「ふんふん、それで?」
「それで、とは?」
「クレアちゃん……長い付き合いなんだから、誤魔化すのは無理だって分かってるでしょー?」
「……」
「他に分かったことがあるんだよねー?」
「……悪い知らせが一つありますわ」
本当は帰ってすぐ話すつもりだったのですが、何ぶん内容が内容なので今まで切り出せずにいました。
カトリーヌはレイたちがいる間は姿を隠してしまうということも、理由の一つではありますが。
「聞かせてー?」
「……トンプソン男爵家から押収した資料の中に、アシャール侯爵家に関する記述がありました」
「……それは、どんなー?」
語調こそ普段と変わりませんが、ベッドの上から降ってくる声には僅かな震えがありました。
わたくしはためらいを覚えましたが、彼女も貴族の娘――けじめのつけ方は知っているはずでした。
「アシャール侯爵はバルリエ男爵家と組んで人身売買を行っている疑いがあります」
「……」
上のベッドからの反応は、重たい沈黙でした。
トンプソン男爵が持っていたのは、バルリエ男爵からの手紙です。
そこには売り買いする人間の人数をもっと減らすようにという、バルリエ男爵――ピピのお父様であるパトリス様からの苦情とクリストフ様もそれを支持している旨が記載されていました。
もちろん、これだけではクレマン様を追い落とすには足りません。
下手につつけば、パトリス様が蜥蜴の尻尾切りにあって終わりでしょう。
ですが、状況証拠としては十分過ぎるものでした。
「お義父様は……捕まるのかな」
「人身売買は言い訳の余地のない重罪。逃すわけにはいきませんわ。必ず捕まえます」
「……そっか」
上のベッドで寝返りを打つ気配がありました。
わたくしは忸怩たる思いで続けます。
「カトリーヌ、あなたはこのことを知っていたんですの?」
「んーん、全然。でも、義兄様は知ってたんだねー。知らなかったのはウチだけかー」
「お察ししますわ」
「ありがとー」
こんな言葉だけの慰めが何になるでしょう。
カトリーヌの境遇を思うと、やりきれませんでした。
「あなたについては、できる限り減刑の嘆願をするつもりですわ」
「そんなの、いいよー」
「いいわけありませんわ! だって、あなたは何もしてないじゃありませんの!」
「……何もしてない、かー」
「……カトリーヌ?」
突然、自嘲的になった口調が不安になって、わたくしはベッドから起き上がると上のベッドの様子を覗き込みました。
カトリーヌは背中を向けて寝ているので、その表情は窺い知れません。
「まさか、あなたも人身売買に何か関わっているんですの?」
「んーん、それについては本当に無関係」
「だったら――」
「でも、ある意味でそれよりも重い罪を犯してるから、ウチ」
「それは……一体……?」
わたくしが問うと、カトリーヌはごろりと寝返りを打ちました。
やっと見えるようになった彼女の顔は、いつもと同じようなのほほんとしたもの――ではありませんでした。
「カトリーヌ……あなた何て顔をしてますのよ」
「……たはは、やっぱり酷いー?」
「顔が真っ青ですわ」
口調はそのままでしたが、明らかにそれは無理をしたものでした。
表情は青ざめ、視線も落ち着きなく右往左往しています。
あのカトリーヌがここまで取り乱すなんて一体――?
「ねぇ、クレアちゃん」
「なんですのよ」
「クレアちゃんはやり直したい過去ってあるー?」
「……突然なんですのよ」
わたくしはカトリーヌの質問の意図を測りかねました。
「いいから答えてー」
「……そりゃあありますわ。たくさん」
「一番を挙げるならー?」
「分かりきってる質問をしないで欲しいですわ」
「……だよね」
お母様と和解出来ずに死別したこと――わたくしにとっての一番辛い過去の思い出です。
「ウチもね、やり直したい過去があるんだー」
「……それは?」
「今は秘密ー。いずれちゃんと答えるよー」
「……そう」
でも、なぜ今、このタイミングでその話を?
彼女が抱える罪とは。
そしてやり直したい過去とは何なのでしょう。
「……色々、精算する時が来たんだと思う。お義父様も、お義兄様も……そしてウチも」
「カトリーヌ……」
「クレアちゃん、捜査に手を抜かないでね。減刑嘆願もいらない。裁かれるべきが裁かれるように取り計らって」
「……分かりましたわ」
わたくしはそう答えました。
そう答えるしかありませんでした。
なぜなら、カトリーヌがあまりにも思い詰めた顔をしていたからです。
その表情を一言で表わすなら――悲愴。
もしもわたくしが違う答えを返していたなら、それだけで崩れ落ちてしまいそうな、そんな危うさを感じました。
長年付き合ってきた姉妹のような彼女に、こんな一面があったなんて私は知りませんでした。
でも、わたくしは一つ嘘をつきました。
彼女のことを諦めるなんていうこと、わたくしには出来っこないのですから。
「お願いねー」
そう言って、カトリーヌはもう一度寝返りを打つと、すうすうと寝息を立て始めました。
最後の一言だけは、もういつもの彼女でした。
わたくしも自分のベッドに戻ります。
「……」
誰にだって隠したい秘密の一つや二つあるでしょう。
でも、カトリーヌが抱えるそれは、明らかに異質で途方もなく重いもののように思えました。
「ねぇ、カトリーヌ」
「……」
完全に眠ってしまったのか、頭上への呼びかけにいらえはありません。
でも、わたくしは構わずに言葉を続けました。
「あなたが何を抱えているのか、わたくしは知りません。でも、それはわたくしと分かち合うことは出来ませんの?」
「……」
聞こえて来るのは寝息だけ。
「レイが言っていたんですの。分かち合えば喜びは二倍、悩みは半分になるって。あなたが抱えるその重荷を、分けて貰うことは出来ませんの?」
「……」
やはり答えはありません。
どうやら完全に寝てしまったようです。
わたくしの頭も、徐々に睡魔に冒されていきました。
「カトリーヌ……あなたとわたくしは……本当の姉妹の……ように……」
意識が深く沈み込んでいきます。
まどろみの底に落ちていく意識の中で、その言葉はわたくしには届きませんでした。
「その役割はレイちゃんに譲るね。ウチには……その資格がないから」
71.正義と信仰
王宮の特務官室。
壁や黒板に張り出されたいくつもの資料を眺めながら、わたくしはこれまでのことを振り返っていました。
サッサル火山の噴火やセイン様のお生まれに関する噂で世間が持ちきりになる中、わたくしたちの捜査は順調に進みました。
――途中までは。
これまでに十人以上の不正貴族を摘発し、その対象は徐々に中位、高位の貴族へと及ぼうとしていました。
しかし、高位の貴族になればなるほど、その隠蔽工作は巧妙になっていきます。
ある程度までは証拠を固めて突きつけられたものの、肝心の二人――サーラス様、そしてお父様に迫る証拠は見つかりません。
そんな中、アシャール侯爵――クレマン様に関する疑惑はいよいよ大詰めという所まで来ていました。
(……とは言え、これは大スキャンダルですわ)
わたくしはレレアの頭を撫でながら、一人ごちました。
クレマン様が行った人身売買に関係する貴族はおよそ十人以上。
その中にはピピの実家であるバルリエ家も含まれています。
関与したその十数人の貴族に関しては、ほぼ証拠固めが終わっています。
後は、クレマン様にトカゲの尻尾切りを行わせないための決定打が必要でした。
「クレア様、どうします? 今のままでもある程度の所までは追い詰めることが出来ると思いますが」
横に座っているレイがそんなことを言います。
わたくしは首を横に振りました。
「ある程度、では足りませんわ。確実にクレマン様を捕まえなければ、いつまた同じ事が繰り返されるか分かりません」
「で、でも、これ以上の証拠はなかなか集めるのが難しいのではないでしょうか」
リリィ枢機卿の言うことにも一理あります。
ロッド様から頂いた各種の財務記録、司法取引で得た各種の証言や手紙、財務諸表、その他諸々の雑証拠。
集められる証拠はほぼ集めきったようにも思えます。
これ以上、となれば、もう少し思い切りが必要になってくるかも知れません。
「バルリエ家に参りましょう」
「ば、バルリエ家?」
「ピピ様のご実家ですね。クレマン様の人身売買の舞台になっている領地の所有者でもあります」
「そ、そうでしたね。じゃ、じゃあ、バルリエ男爵を捕まえるんですか?」
レイの説明を受けてリリィ枢機卿が聞いてきます。
「いいえ、パトリス男爵はまだ捕まえません」
「何故ですか?」
「パトリス男爵はクレマン様に近すぎます。今、男爵を捕まえれば、クレマン様はその罪を全て男爵にかぶせて、自分は逃げおおせるでしょう」
「や、厄介ですね」
クレマン様は用意周到だ。
いざという時の責任転嫁の手段など、無数にあるに違いありません。
「なら、何をしにバルリエ家へ?」
「捕まえはしませんが、秘密裏に捜査に協力して貰うのです。レイが以前言っていた、司法取引というやつですわね」
「な、なるほど!」
先ほど述べたとおり、パトリス様はクレマン様に非常に近い貴族です。
領地が人身売買の舞台になっていることからも、彼は有力な情報を持っている可能性が非常に高いと言えます。
これまでに得た証拠を突きつけ、罪状減免の見返りとしてクレマン様に繋がる証拠を提出するよう交渉すれば、最後の一手を詰められるかも知れません。
「でも……、いいんですか、クレア様?」
「何がですのよ」
「バルリエ家はピピ様――クレア様のお友だちのご実家ですよ?」
「……それがどうしましたの」
「司法取引である程度罪が減免されるとはいえ、人身売買は重罪です。バルリエ家が貴族位を失うのはほぼ間違いありません」
レイはこう言っているのです。
親友を失うことになっても、わたくしが正義を貫けるのかどうか、と。
「わたくしがそれを分かっていないとでも?」
「……お覚悟の上でしたか」
「確かにわたくしはピピからの信頼を失うかも知れません。ですが、ピピとてバウアー貴族です。わたくしが彼女の本質を見誤っているのでなければ、彼女は運命を受け入れるでしょう」
もちろん、彼女はわたくしを恨むかも知れません。
それでも、わたくしはなすべきことをなさねばならないと思いました。
ここで怖じ気づくようでは、お父様を追求することなど出来っこないのですから。
「……く、クレア様、どうしてですか?」
「リリィ枢機卿?」
「く、クレア様はどうして――ご友人の家が没落することになっても、正義を貫こうとなさるんですか?」
リリィ枢機卿の問いを、わたくしは最初理解することが出来ませんでした。
それはあまりにもわたくしにとって当たり前のことだったからです。
「リリィ様はこう仰りたいんだとと思います。クレア様のお立場なら、いくらでも身内に甘くなれるのに、と」
「それではわたくしたちが罪を問おうとしている不正貴族たちとなんら変わりませんもの。正義を掲げる者は、自ら正義を実践する義務がありますわ」
「……そ、その対象が、仮に実の父親になったとしても、ですか……?」
「……ええ」
一瞬の逡巡の後、わたくしはリリィ枢機卿の言葉を肯定しました。
これまでの捜査の結果、サーラス様とお父様が不正を行っていることはほぼ間違いありません。
リリィ枢機卿はひょっとすると迷っているのかも知れません。
このまま実の父親の罪を暴くことが、果たして正義なのかどうか、と。
「リリィ枢機卿。もし辛いなら、あなたは捜査から外れてもいいんですのよ?」
「……」
「あなたはもう十分に捜査に貢献して下さいました。後はレイとわたくしに任せて貰っても、誰もあなたを責めませんわ」
「……」
リリィ枢機卿の顔には迷いが見て取れました。
わたくしは彼女が捜査から手を引くかも知れない、と思いました。
しかし、
「……や、やっぱり、リリィも最後までご一緒します」
迷いを振り切るようにぶんぶんと首を強く振った後、リリィ枢機卿は決意したようにそう言いました。
「いいんですの? あなたは貴族ではありません。正義に執着する必要は――」
「り、リリィは信仰に生きる者です」
言いかけたわたくしの言葉を、リリィ枢機卿はやんわりと遮りました。
「し、信仰とは正義や倫理を示すものだとリリィは思います。き、貴族が自らを強く律する必要があるのと同じように、信仰を持つ者もその信仰が示す生き方に殉じる必要があるとリリィは思います」
ある意味で、貴族と精霊教徒は同じなのだ、とリリィ枢機卿は言います。
「そ、それに、リリィは違っても、お父様はバウアー貴族です。つ、つまり、お父様には正義を実践する義務があります。そ、そのお父様が自ら罪を犯しているのだとしたら、リリィこそがそれを諫めなければならないのではないでしょうか」
「リリィ枢機卿……」
悲愴とも言える表情で決意を表明するリリィ枢機卿の手に、レレアが慰めるように頬ずりしています。
それを見たリリィ枢機卿はふっと表情を緩めると、続けてこう言いました。
「つ、罪は裁かれなければなりません。か、神は全てを見ておいでです。お、お父様の罪をこの手で追求することも、神が与えたもうた試練なのだと、リリィは思います」
もうそこに、先ほどのような迷いはありませんでした。
リリィ枢機卿は決して気の強い性格ではありませんが、その本質は驚くほど潔癖で清廉です。
レイを巡る恋敵ではあるものの、わたくしは彼女の在り方に強い共感を覚えました。
「分かりましたわ。なら、最後までご一緒して下さいな」
「は、はい!」
「レイ、証拠資料をまとめてちょうだい。それが終わり次第、バルリエ家へ向かいます」
「かしこまりました」
辛くないと言ったら嘘になります。
避けられるなら避けたいことです。
ですが、わたくしが貴族である以上、もう後戻りは出来ないのです。
(ピピ、許してちょうだいとは言いませんわ。それでも、わたくしは違う生き方は出来ませんの)
理想を体現する貴族であれ――お母様の教えを反芻しながら、わたくしはその実践がいかに痛みを伴うことかを噛みしめるのでした。
72.父と娘
「申し開きはありまして、パトリス男爵?」
「……」
バルリエ男爵邸を訪れたレイ、リリィ枢機卿、そしてわたくしは、応接室で当主であるパトリス=バルリエ男爵と向かい合っています。
携えてきた人身売買に関する証拠を突きつけると、パトリス男爵は俯いて押し黙ってしまいました。
「パトリス様、沈黙は肯定と見なしますよ? いい加減観念して白状したらどうですか?」
「り、リリィたちはパトリス様の罪状を減免する用意があります。つ、罪を認めてクレマン様への捜査にご協力頂けませんか?」
レイとリリィ枢機卿も畳みかけます。
飴と鞭という言葉がありますが、二人はまさにそれでした。
大抵の貴族はこれで落ちます。
しかし、パトリス男爵は沈黙したままでした。
「パトリス男爵、沈黙は金なり……とは、この場合なりませんわ。それは分かっているでしょう?」
「……」
「人身売買が実際に行われていたのはバルリエ領です。このままだと、パトリス様が全ての罪を被ることになりますよ?」
「だ、男爵お一人が悪者にされていいんですか? 罪状の減免を受けなければ、パトリス様だけでなく奥様やピピ様だって――」
「何も言えない」
リリィ枢機卿の言葉を遮るように、パトリス男爵はぴしゃりとそう言いました。
「男爵……」
「罪は認める。全ては私が企てたこと。どんな刑罰も受け入れよう」
相変わらず俯いているので、パトリス男爵の表情は見えません。
ですが、男爵は絞り出すような声で、全てを受け入れると言いました。
「その結果、奥様やピピまで巻き込むことになってもいいんですのね?」
「妻やピピには申し訳ないと思っている。私は死罪だろうし、バルリエ家は取り潰しになるだろう」
「ええ、そうでしょうね」
「残される二人には苦労をかけることになる。だが、それでいい」
パトリス男爵の声は震えていました。
彼は小心者だということで有名な人です。
代々受け継いできた家が取り潰しになり、自分自身も処刑されると聞いて、平常心でいられるはずがないのです。
それでも、男爵は頑として口を割りませんでした。
わたくしがどうしたものかと思案していると、突然、応接室の扉が開きました。
「お父様!」
乱暴な音を立てて開かれた扉の向こうにいたのは、ピピでした。
怒り心頭といった感じの彼女の様子から察するに、どうも会話を盗み聞きしていたようです。
この部屋は防音されているはずでしたが、一体どんな手を使ったのか。
いえ、そんなことはどうでもいいですわね。
部屋に入るなりつかつかと父親に詰め寄ったピピは、その肩を揺さぶりながら言いました。
「どうして黙っているんですか、お父様! 話してしまったら良いじゃないですか! 全部、アシャール侯爵に言われてやったことだって!」
「黙りなさい、ピピ」
糾弾するピピの方も向かず、男爵は相変わらず俯いたままです。
「こんなのおかしいじゃないですか! どうしてお父様一人が罪を被らなきゃいけないんですか!? 正直に話せば罪の減免が受けられるのでしょう!? それなら全部――」
「ピピ!」
「っ……!」
まくし立てるピピに対して、男爵は強い語調でそれを遮りました。
「話すことは出来ないんだ。私一人が罪を被る。それでいい」
「お父様……どうして……!」
「クレア様、今まで娘と仲良くして下さってありがとうございました。このような結果になりましたこと、誠に申し訳なく思います」
「男爵……それでいいんですの……?」
「はい」
男爵は顔を上げました。
その顔は何かを覚悟した男性のそれでした。
「お父様の馬鹿……ばかぁ……!」
ピピはその場に泣き崩れました。
わたくしは見ていられませんでしたが、これも仕事です。
男爵の決意は固いようですし、証拠のことはひとまず諦め、わたくしは男爵を逮捕しようとしました。
その時――。
「あまりいじめないで上げてくれないかな、ピピ様。男爵が黙りこくっているのは、あなたと奥様のためなんですから」
柔らかい声が新たに応接室に響きました。
扉の方を見ると、そこにいたのは意外な人物でした。
「クリストフ様……」
「クレア様、男爵の逮捕は少々待って頂きたい。事情は私から説明致しましょう」
クリストフ様は一人の使用人を拘束していました。
何かを察したらしいレイがそれを引き継ぐと、クリストフ様はゆっくりとした足取りでピピに近づき、そっと彼女を抱き起こして男爵の隣に座らせました。
「クリストフ様、どういうことですか? 父が脅されていたとか、母と私のためだとか」
「言葉通りの意味です。男爵は父――クレマン侯爵に脅されているんですよ。言うことを聞かなければ、妻と娘の命はないぞ、とね」
「――!?」
ピピは驚きに目を見開くと、すぐに隣の父親を見ました。
男爵は再び俯いて体を震わせています。
「そもそも変だとは思いませんでしたか? 小心者で有名な男爵が、こんな大それた犯罪を犯すなんて」
「そこはわたくしもおかしいと思っていましたわ。どう考えてもリスクにリターンが見合いませんもの」
ピピと仲良くなって以来、男爵とも長い付き合いです。
わたくしは彼の性格をよく知っています。
どう考えても、こんなことに自ら首を突っ込むような人ではありません。
「全ては父の計略です。リスクだけをパトリス男爵に負わせ、自分は利益をかすめ取る――我が父ながら最低な男です」
クリストフ様は穏やかな表情と口調で言いましたが、口にした内容は辛辣極まりないものでした。
「そこの使用人は父の手の者です。彼はもし男爵が裏切ったら、奥様とピピ、あなた方を殺害するように命令を受けています」
「――そんな……!」
「事実です。だから、パトリス様は何も言えなかったのです」
クレマン様らしい、卑劣なやり口だと思いました。
「ピピ様、あなたのお父様は本当に立派な方ですよ。家族を人質に取られ、望まぬ人身売買に手を貸さざるをない状況でも、何とか被害者を減らそうとご尽力なさった。男爵は私と組んで捕まった人たちを秘密裏に逃す活動を行っていたのです」
「お父様が……?」
「ええ。それだけではありません。男爵は何とか父上の悪事を止めようと奔走されていました。以前話題になった新聞記者の一件も、男爵が考えた狂言です。そうですね、男爵?」
「……」
「男爵は誓って悪人ではありません。どうかお父上のことを誇りに思って上げて下さい」
クリストフ様の言葉を受けて、ピピは男爵を見上げました。
娘の無言の問いかけに、男爵は――。
「ピピ……黙っていてすまなかった」
「う……ううっ……わあああ……!」
父親の無実を知ったからか、はたまた単純な安堵からか、ピピは男爵にすがりついて泣き出してしまいました。
「でも、いいんですか、クリストフ様? ばんばん自白しちゃっていますけど?」
「いいんです。父も年貢の納め時でしょう。むしろ、もっと早くこうならなければならなかった」
「ご協力に感謝しますわ、クリストフ様」
「いえ、ご苦労をお掛けします、クレア様。……男爵、あれを」
「ええ」
クリストフ様に促された男爵は、やんわりとピピを引き剥がすと、一度部屋を出て行き、戻ってくるときには紙の束を抱えていました。
「アシャール侯爵家が人身売買に関与した証拠と、取り引きの明細です」
「――!」
「これがあれば、流石の父も言い逃れ出来ないでしょう」
「いつかこういう日が来ると信じていた甲斐がありました。クレア様、こちらをあなたに託させて頂きます」
「ええ、必ずやご期待に添える結果にして見せますわ」
男爵から受け取った資料は、人身売買の全容を事細かに説明するものでした。
「父も見る目がありませんね。よりによってパトリス男爵に犯罪を持ちかけるなんて」
「私は小心者ですから。いざという時の備えは忘れませんよ」
「本当の小心者は、ここまで牙を研ぎません」
「それはそれ、これはこれ、です」
そのセリフは、ピピが時々口にする口癖でした。
「ありがとうございます、男爵、クリストフ様。これでクレマン様を追い詰められます。レイ、リリィ枢機卿、いよいよチェックメイトですわよ」
「ええ、頑張りましょう、クレア様」
「は、はい!」
73.決戦前夜
「と、いうわけで、明日の音楽祭でクレマン様を捕らえますわ」
「……そっかー。とうとうお義父様も年貢の納め時だねー」
国王主催の音楽祭を明日に控えた日の夜。
わたくしはカトリーヌと供に最後の打ち合わせをしていました。
わたくしたちがバルリエ男爵家を訪れたことをクレマン様は既に知っているようで、彼は今姿をくらましています。
恐らく、証拠の隠滅と責任逃れに奔走している最中だと思われますが、その居場所は息子であるクリストフ様でも分からないのだとか。
ですが、クレマン様は音楽祭の企画責任者です。
明日の音楽祭には必ず姿を現すはずです。
わたくしたちはその機を捉えて、クレマン様を告発するつもりでした。
「くれぐれも気をつけてね。お義父様、本当にしぶといし諦めが悪いからー」
「ええ、分かっていますわ」
「うん、ならいいやー」
カトリーヌは穏やかに笑っています。
それがわたくしにはたまらなくやりきれませんでした。
明日、クレマン様を捕まえれば、アシャール家は終わりです。
必然的にカトリーヌもまた、路頭に迷うことになります。
それが分かっていてなお、カトリーヌはこうして笑っています。
――なぜか。
「カトリーヌ、無理しないでいいんですのよ?」
「何がー?」
「あなたがどんな顔をしていても、わたくしの決意は揺らぎません。ですから、無理して笑おうとするのはおやめなさいな」
「たはは……。バレバレかー。クレアちゃんには敵わないやー」
そう言うものの、カトリーヌの表情はやはり変わらないのでした。
「カトリーヌ。あなた、うちの子になりませんこと?」
「クレアちゃん、何言ってるのー? そんなこと出来るわけないじゃないのさー」
カトリーヌは面白い冗談だと笑いました。
でも、わたくしは全くもって真剣でした。
「養子縁組という手がありますわ。アシャール家の息女であれば家格は十分でしょう?」
「そんなの、ドル様が許可するわけないよー。敵には容赦しないことで有名な方でしょー?」
確かに、お父様は一度敵対した相手には容赦がありません。
お父様が恐れられている理由の一つでもあります。
ですが、わたくしはどうしても諦められないのでした。
「わたくしが説得しますわ」
「どうやってー?」
「どうやってでも」
「無理だよ、クレアちゃん。政敵かつ犯罪者になった者の娘に情けをかけたなんて噂がたったら、フランソワ家の名に傷がつくよー」
「むしろ懐が深いと思われるかも――」
「クレアちゃん」
なおも言いつのるわたくしをカトリーヌはやんわりと、しかしぴしゃりと遮りました。
「今は余計なことを考えずに、明日、確実にお父様にチェックメイトをかけること。それだけ考えて、ね?」
「……分かりましたわ」
などと言いつつ、わたくしは欠片も諦めていませんでした。
何とかしてカトリーヌを救う方法はないか。
貴族としては無理でも、平民として、あるいは修道女として生きていく道はないか、と思考を巡らしました。
「ねぇ、クレアちゃん」
「なんですの」
「ウチら、知り合ってどれくらいになるんだっけー?」
「もう十年になりますわね」
「そっかー。長かったような、短かったような……」
そんな過去形で言わないで欲しいとわたくしは思いました。
「まだまだこれからですわよ。あなたみたいに世話が焼ける人、放っておけるわけないんですから」
「それをクレアちゃんが言うー? クレアちゃんだって大概だと思うよー?」
「言いましたわね!」
「きゃあ、ギブギブ! クレアちゃん、参った!」
「全く……」
ひとしきりじゃれると、不意に沈黙が訪れました。
カトリーヌとわたくしの仲ですから、別に沈黙は不快ではないのですが、この時はなぜかこのままではいけないような気持ちになったのです。
わたくしがせき立てられるように何かを言おうとすると、
「クレアちゃん、飴取ってくれる?」
カトリーヌの方が先に沈黙を破りました。
「またこんな時間に。あなたよく虫歯になりませんわね?」
「えへへー」
「飴ですわね。ちょっとお待ちなさいな」
「クレアちゃんにも一個上げるー」
「いりませんわよ」
「お願い。一緒に食べて。最後かも知れないでしょー?」
「……カトリーヌ……」
わたくしは猛烈に反論したくなりましたが、それをぐっとこらえました。
彼女の机にあるキャンディポットから飴を二つ取り出し、一つをカトリーヌに渡し、もう一つを自分の口に放り込みました。
リコリスの独特の風味が、口を満たしていきます。
「残り一個ですわね」
「だねー」
「明日一日、良い子にしていたら、新しいのを買ってあげますわ」
「悪い子にしてたらー?」
「食べてしまいますわ」
「そいつは大変だー。良い子にしてるー」
「そうしてちょうだいね」
決して好みではない味の飴を舐めながら、わたくしはカトリーヌとの軽口を心地よいものに感じていました。
その時、扉をノックする音が聞こえました。
「私です」
「エマ? どうしましたの、こんな時間に?」
「あ、ウチが呼んだの。明日のためにねー」
「明日の? どういうこt――」
「エマ、入ってー」
「失礼します」
入室してきたエマはまだ仕事着のままでした。
「クレアちゃん、ウチのことはいいから、エマのことをくれぐれもお願いねー」
「あなた、またそういうことを――」
「お願い」
カトリーヌは普段の締まりのない顔から真剣な表情になって、そう言いました。
わたくしは彼女のお願いに弱いのです。
彼女自身も、それを分かっていてそう言っています。
「はぁ……、分かりましたわ。仕事の当てを探しておきま――」
「お断りします、お嬢様方」
溜め息混じりに請け負おうとしたわたくしの言葉を遮って、エマは厳然とカトリーヌに反抗しました。
「エマ……?」
「わたくしがお仕えするのはこの世でただお一人、カトリーヌお嬢様だけにございます」
エマはいつもの生真面目で神経質そうな表情のまま、カトリーヌに忠誠を宣言しました。
「エマ……気持ちは嬉しいけど、明日になったらウチはもうキミを雇う余裕はなくなっちゃうんだよー」
「構いません。お嬢様にお仕えできるのであれば、給金など必要ございません」
「そういう訳にはいかないでしょー? ねぇ、エマ。聞き分けて?」
「嫌でございます」
飽くまで一歩も譲らないエマに困ったのか、カトリーヌが「助けて」という視線をこちらに向けてきました。
「エマ、あなたは何故、そんなにカトリーヌに執着するんですの?」
「お嬢様に拾って頂かなければ、わたくしはとうに野垂れ死にしておりました。わたくしの命はお嬢様のものです」
エマの話によると、彼女はスラムにいたことがあるらしいです。
元々は他国でそれなりの地位にあったそうですが、政争に敗れて落ち延びたのだとか。
流れ流れて王都にやって来て盗みを働いて捕まり、殴る蹴るの暴行を受けていたところを、カトリーヌの取りなしによって救われたと言います。
その後、エマはカトリーヌ付きのメイドになったのだそうです。
最初はクレマン様の言いなりなのかと思っていた彼女ですが、実は本当に心の底からカトリーヌに心酔してのあの発言だったということです。
「くすくす……困りましたわね、カトリーヌ?」
「笑ってないで、クレアちゃんもエマを説得してよー」
「無駄でございます」
「エマもさあー……」
ほとほと困り果てた、という様子のカトリーヌに、わたくしは笑いが止まりませんでした。
「ほら、カトリーヌ。諦めて明日の向こうを生きる方法を考えなさいな。……いいえ、一緒に考えさせてちょうだい」
「クレアちゃん……」
「あなたには友人も、仕えてくれる使用人もいるのです。わたくしたちの信頼を裏切らないで、ね?」
「……はあ、みんな頑固なんだから」
お手上げ、といった様子で天を仰ぐカトリーヌは、それでもどこか嬉しそうで。
解決すべき問題は山積みでしたが、わたくしは何となく、全てが上手く行きそうな気がしていたのでした。
――それが、全て幻だったということにも気付かずに。
74.音楽祭
バウアー音楽祭は国王主催で行われる国際的な音楽イベントです。
ロセイユ陛下を始めとする王族も臨席しています。
出演する音楽家たちはバウアー人だけではなく、隣国のアパラチアやスースのみならず、西方のロロからもやって来ます。
非常に権威のある音楽祭で、ここに招かれることは音楽家にとってこの上ない名誉であるとともに、将来の成功を約束する大変重要なものでもありました。
「その素晴らしい機会を、このような形で損なってしまうことを、まずはお詫びしますわ、ピピ、ロレッタ」
わたくしはステージ衣装に身を包んだ二人に頭を下げました。
ピピとロレッタは慌てたように首を振ります。
「頭を上げて下さい、クレア様!」
「そうです! 確かに今回の音楽祭はきっと滅茶苦茶になるかもしれませんけれど、私たちにはまだまだチャンスがありますから」
顔を上げると、そこには「また必ず実力で戻って来てみせる」と頷く、頼もしい二人の姿がありました。
最初に出会った頃の、頼りない二人の姿はもうありません。
「大体、こうなったのは全部クレマン様のせいじゃないですか」
「そうですよ。クレア様のせいじゃありません」
「ありがとう、二人とも。協力に感謝しますわ」
クレマン様が顔を出すと思われるのは、音楽祭最後の表彰式のタイミングのみです。
表彰式はロセイユ陛下も出席するため、警備は厳重であり、無論、手荷物検査もあります。
そして限られた者しか舞台には近づけないのは言うまでもありません。
そのため、参加者である二人の協力は欠かせないのです。
「まずは二人とも、演奏に集中してちょうだい」
「はい!」
「楽しんできます!」
◆◇◆◇◆
音楽祭が始まりました。
会場となっている王立コンサートホールは貴族を中心とした様々な国からの招待客で埋め尽くされています。
誰もがこの後に待っている混乱など知るよしもなく、音楽家たちが奏でる至上の演奏に聴き惚れている様子でした。
「クレア様、そろそろロレッタ様とピピ様の出番ですよ」
「分かっていますわ」
「お、お二人とも、演奏に集中出来ると良いのですが……」
「きっと大丈夫ですわよ」
プログラムを見ていたレイの声に応え、心配げな様子のリリィ枢機卿を宥めつつ、わたくしはホールの中を油断なく観察していました。
(……警備の数が多すぎますわ。それも、恐らくアシャール家の私兵ばかり。クレマン様、何を考えていらっしゃいますの……?)
不吉な予感が頭をよぎる中、いよいよピピとロレッタが登場してきました。
二人はかねてからの夢を、この音楽祭の場で実現させようとしているのです。
――私、彼女のピアノと一緒にヴァイオリンのコンサートをするのが夢なんです
そう言って笑ったピピは、今、ヴァイオリンを構えながら舞台でロレッタに笑いかけています。
ロレッタもピアノの前に座り、ピピの合図を待っています。
演奏が始まりました。
虹色のパレットを持つと評されたロレッタの鮮やかな旋律に、ピピのストイックなほど正確で超絶技巧の調べが加わります。
特徴的には真逆のはずの二つの音は、不思議と溶け合い絡み合い、新しい音色を作り上げていました。
(ピピ、ロレッタ、本当に素晴らしい演奏ですわ)
観客の中にはハンカチを取り出す者も少なくありません。
それほどに、二人の演奏は聴く者の心を五感から揺さぶって来ました。
演奏時間は恐らく十分ほどだったでしょう。
ヴァイオリンとピアノの協奏曲としては普通の長さです。
ですが、今日この場にいる誰もが思ったことでしょう。
もっともっと――それこそいつまででも聴いていたい、と。
最後の一音が虚空に消えたとき、会場からは地鳴りのような大きな拍手が湧き起こりました。
「ブラボー!」
「新たな天才たちに祝福あれ!」
「素晴らしかったわー!」
惜しみない賛辞が、舞台の上の二人に送られます。
わたくしも、手が痛くなるほど拍手を送りました。
「私、音楽は素人ですけど、ピピ様とロレッタ様が凄いことは分かりました」
「り、リリィもです」
「当然ですわ。だって――」
わたくしは誇らしい気持ちで二人に言いました。
「だって、二人はこのクレア=フランソワの親友ですわよ?」
◆◇◆◇◆
プログラムは進行し、ついに最後の表彰式を残すのみとなりました。
壇上には今回の音楽会で演奏した音楽家たちが一堂に会しています。
客席からは再び彼らを賞賛する拍手が送られていました。
貴賓席にはセイン様を伴ったロセイユ陛下の姿もあります。
「それでは本音楽祭の企画責任者であらせられる、クレマン=アシャール様よりお言葉を賜ります」
司会のその言葉に、会場が静まりかえりました。
わたくしはレイとリリィに目で合図をすると、二人も頷き返して来ました。
壇上を注意深く見守ります。
スポットライトが当てられ、舞台袖から一人の老紳士が杖を突きながらやって来ました。
クレマン様です。
ですが、まだ油断は出来ません。
壇上の人影はよく似た影武者かもしれないからです。
「国王陛下におかれましては、本年も御前に音楽を奏上奉れましたことをお喜び申し上げます。また、ご参加の諸君に心よりの賞賛を送りたい。此度は栄えあるバウアー音楽祭に――」
朗々と祝辞を読み上げるその声も、確かにクレマン様のもの。
流石にここまで確認すれば大丈夫でしょう。
あれはクレマン=アシャール侯爵本人に間違いありません。
「以上をもって、企画責任者の挨拶の言葉とする。静聴に感謝する」
「異議あり!」
「!?」
糾弾の声はクレマン様と同じ壇上から発せられました。
「我が父、パトリス=バルリエを唆し、あまつさえ己の罪を全て着せようとした重罪人に、栄誉ある音楽祭で祝辞を述べる資格などありません!」
声の主はピピでした。
ピピはホール全体に響き渡るような大声で、クレマン様の罪状を読み上げました。
「誰かと思えばバルリエの娘か……。愚かな。何を世迷い言を申しておる」
「世迷い言ではありませんわ!」
言い逃れを始める前に、わたくしも客席から声を発しました。
クレマン様はわたくしの姿を目に留めると、露骨に舌打ちをして睨み付けてきました。
ですが、あの日アシャール邸で無力感に打ちひしがれたわたくしと、今のわたくしは違うのです。
わたくしには頼りになる友がおり、知己がおり、そして、レイがいるのですから。
「フランソワ家のご令嬢までもか。バウアー貴族も落ちたものだ。言いがかりも甚だしい」
「これを見てもまだそんなことが仰れるかしら?」
わたくしは火属性魔法の一つライトを使い、レイに手伝って貰ってまとめ上げたクレマン様の人身売買の概要を舞台の幕に投影しました。
「クレマン、申し開きはあるか?」
貴賓席にいるロセイユ陛下がクレマン様を問い質しました。
クレマン様は落ち着き払って、
「このようなことは承知しておりません。わたくしは何らあずかり知らぬこと。大方、ドルめらがわたくしを陥れようと――」
「言葉を弄すでない。提示された証拠はそのような言いがかりでないことは自明である」
「……」
陛下にぴしゃりと言われ、クレマン様は黙りました。
「言い訳は牢で聞くとしよう。クレマンを捕らえよ」
陛下が命じると、警備の兵たちはクレマン様を捕縛しに動き――ませんでした。
「……何をしておる。クレマンを――」
「もはやこれまで。事ここに至っては御命を頂戴し、転身の手土産とさせて頂こうかの」
クレマン様――いえ、クレマンは持っていた杖を振り上げると、その先をロセイユ陛下に突きつけてこう言いました。
「兵ども。バウアー国王、ロセイユの御首(みしるし)を上げよ」
75.決着
「無駄な悪あがきはやめなさいな、クレマン!」
「大口を叩くな、小娘。いくら大局的には追い詰められようと、事この局面においては儂の方が有利。お前にこの盤面を覆せるか?」
「……くっ!」
やられました。
わたくしたちは確かな証拠さえ突きつけ、その罪を確定させればそれで終わりだろうと思っていました。
ですが、甘かったのです。
クレマンはロセイユ陛下の命を狙い、あまつさえそれを手土産にどこかへ逃げ去ろうという心づもりのようです。
陛下の御首を手土産に喜ぶような相手と言えば、その候補は恐らく――。
「クレマン、あなた帝国と通じていたんですのね!」
「侮るな、小娘。帝国なぞバルリエと同じく儂の商いの相手に過ぎん。それを通じるなどと言われてはの」
「クレア様、お下がり下さい!」
「離しなさい、レイ! 陛下のお命が危機にさらされているのに、黙って見ているわけには行きませんわ!」
陛下だけではありません。
この場には周辺各国から招いた著名人や文化人、それに政治家たちもいるのです。
このままではクレマンを捕らえるどころではなくなってしまいます。
「陛下、ここは私に任せてお逃げ下さい」
「セイン……」
「御身はこのバウアーになくてはならぬ方。ここでクレマンごとき外道に害される訳には参りません」
「……セイン、お前はもしや――」
「さあ、お早く」
「……任せる」
貴賓席ではセイン様がロセイユ陛下を逃がそうとしているようでした。
数少ない近衛兵のほとんどを陛下の供に回し、自分の身は自分で守る、という心づもりのようです。
「……全く、セイン様ったら健気ですこと!」
近づいて来たクレマンの私兵を手加減しつつ焼き払いながら、わたくしは苦笑しました。
セイン様は恐らく例の噂から、ご自身の出生に疑いを持っているのでしょう。
つまり、ロセイユ陛下は本物の父ではないかも知れないという疑念があるはずなのです。
それでも、セイン様の選択はああでした。
彼の陛下に対する敬愛は、単なる血縁以上に深くて重いものだということです。
「それに比べて、あの者のなんて浅ましいこと!」
クレマンは舞台の上の音楽家たちを人質に取り、自分は壇上で高みの見物を決め込んでいるようです。
動いているのは私兵たちのみ。
彼らだって恐らく、クレマンに何かしら弱みを握られているのだとわたくしは感じていました。
そうでなければ、手加減などせず全力で焼き払っているところです。
「粘るな、小娘ども。だが、そこまでだ。セイン王子、あなたもだ」
低く声が響きました。
つられて舞台を見れば、クレマンはロレッタに短剣を突きつけていました。
「一歩でも動けば、この娘を殺すことにしよう」
「やってみなさい。その瞬間にあなたを焼き尽くして差し上げますわ」
「出来るかね? この人間の盾をかいくぐって?」
「……この外道」
「老獪というのだよ、これは」
皺を深くして笑うクレマンの姿は、醜悪そのものでした。
本来であればロレッタほどの使い手が、大人しく人質になるはずがありません。
ですが、今の彼女は丸腰です。
手荷物検査をかいくぐって、せめて魔法杖の一本でも持たせることが出来ていたら……。
クレマンが短剣を持ち込んでいるのは、当然、不正でしょう。
「クレア様、私に構わずクレマンを討って下さい」
「何を馬鹿なことを言っていますの」
「クレア様のためなら、私、死んでも構いません」
「いいわけないでしょう! 必ず助けますから、あなたは少し黙っていなさい」
「黙りません!」
「!?」
その叫びはとても悲痛で、わたくしは少し動揺しました。
「やはり小娘は小娘よな、ミリアの娘。クグレットの娘が何を言っているか分からんと見える」
「……あなたには分かるとでも?」
「分からいでか。こやつは貴様のことを好いているのよ。気付かなんだか」
「!? ロレッタ……あなた……」
「すみません、クレア様。私なんかが好きになってしまって。でも、あなたにもしものことがあったら、私……」
ロレッタはそう言うと俯いてしまいました。
陰になって見えないその顔から、光るものが流れ落ち絨毯を濡らします。
「さあ、小娘、諦めよ。なに、この場限りの引き分けよ。大局的には既に儂の負けだ――この国ではな。だが、貴様との決着はまたそのうち、の」
「逃がすと思いますか?」
「平民、貴様にも何も出来まい」
「私はロレッタ様なんてどうでもいいです。なんならセイン様やロセイユ陛下も」
「レイ!?」
とんでもないことを言い出したレイに、わたくしは思わず目を剥きました。
「だからこそよ。貴様の優先順位はフランソワの小娘であろう?」
「耄碌してとち狂ってる割にはよく分かってるじゃないですか」
「そうとも。ここで儂を仕留めたとして、フランソワの小娘が大事にしておる者たちが死ねば、貴様が小娘から決定的に信頼を失うこともな」
「……クソジジイ」
「言っただろう。これが老獪というものだ」
レイですら、かの老人の手の中だというのでしょうか。
何か……何か方法はありませんの……!
「全員、そのままでな。兵ども、逃げたロセイユを追え。儂は――」
「と、いうわけで、そろそろ良いでしょ、ピピ?」
「ええ、ロレッタ」
何ごとか、と誰もが思ったその瞬間――。
「天使の咆哮(エンジェル・ハウリング)!」
質量を伴うような重低音が響き、わたくしを含めその場にいた全ての人間が膝を着きました。
「な……これは……!」
「はい、今度こそチェックメイト……で、いいのよね、ロレッタ?」
「うん」
まだ立てないでいる――どころか、何が起きたのかさえ分からずにいるクレマンを、ロレッタが近くにあったコントラバスの弦で縛り上げました。
「ば、バルリエ家の小娘……貴様、一体何を……!」
「ヘイトクライってありますよね。ご存じないですか、クレマン様?」
「は、はあ?」
「今のは楽器でそれを再現したものです。ここまで広範囲かつ高出力になるとは、ちょっと思っていませんでしたけれど」
ピピはニコニコしながら手の内を明かしました。
ヘイトクライは魔物が使う一種の威嚇咆哮で、無防備な状態でこれを受けると、一時的な行動不能状態に陥ります。
レレアの母親が使ったものと同じですわね。
ピピはそれを模した魔法を使ったというのです。
「な……では、その楽器は……?」
「ええ、魔道具ですよ。ちょっと偽装してますけれどね」
てへ、と舌を出したピピは、まるで悪戯が成功した子どものようでした。
「こんな……こんなことで……この儂が……」
「ええ、終わりです」
「バカな……! 兵ども、何をしている! 早く立って何とかせぬか!」
往生際悪くクレマンが檄を飛ばしますが、それに答える者は誰一人いませんでした。
クレマンが捕まったと見ると、私兵たちは一人、また一人と自ら投降して行きました。
脅しや弱みにつけ込む形でしか人を使えなかった老人の、それはそれは憐れな末路であると言えました。
「お手柄ですわね、二人とも!」
ピピの魔法から立ち直ったわたくしは、舞台に駆け上がると二人を抱きしめました。
「痛い痛い! 痛いですよ、クレア様!」
「これくらい我慢なさい。あんな小芝居までして。心配したんですのよ?」
「小芝居、ですか?」
「ほら、わたくしが好きとかなんとかいう」
あれも当然、演技なのだろうと思っていると、
「……はぁ」
「何ですのよ、その溜め息は?」
「同情します、ロレッタ様」
「流石にもう叶わぬ恋だね、これは」
「ロレッタには私がいるでしょ?」
「えっ?」
「えっ?」
「えっ?」
「えっ?」
と、新たな火種が生まれつつあったところに、
「皆の者、よくやってくれた」
「陛下!」
貴賓席から降りてきたロセイユ陛下の登場に、一同が一斉に膝を折った。
「よい。此度の働き、誠に見事であった。特にバルリエの娘とクグレットの娘。そなたら二人の働きについては、特別厚く報いてやらねばな」
「そんな!」
「もったいないお言葉です!」
ピピとロレッタは陛下の言葉に恐縮しきってしまいました。
「クレア=フランソワ、レイ=テイラー、リリィ=リリウム」
「はっ」
「はい」
「は、はい!」
「そなたらの報告では、バルリエ家には人身売買への関与の件で、罪状減免の嘆願があったな?」
「左様にございます、陛下」
「前向きに検討しよう。引き続き、特務官の任に当たって欲しい」
「かしこまりました」
陛下は頷くと、近衛兵たちを連れてホールを退出なさいました。
「それにしても、危なかったですね」
「レイですら、やり込められることがあるんですのね」
「あれは私と同類ですから」
「ど、同類?」
「目的のために手段を選ばないタイプです」
「あ、あー……」
レイの説明にリリィ様は納得しかかっていましたが、
「全然違いますわよ」
わたくしはきっぱりと否定しました。
「どこがです?」
「レイはそもそもの目的が邪悪だったりしませんもの。全然違いますわ」
「……ほら、ね、ロレッタ?」
「こっちはちゃんと分かり合ってるんだね」
「何のことですの?」
「何でも!」
「クレア様のバカってことです!」
「えええ!?」
そんな会話をして、ひとしきり笑っていると、視界の隅に映るものがありました。
わたくしは会話を切り上げると、その人物の後を追いました。
76.さよなら
「そこのあなた、お待ちなさいな」
「……!」
コンサートホールの裏口から出てすぐ。
関係者や業者が利用するその裏道は既に暗くなっていました。
わたくしが呼び止めたのは燕尾服に身を包んだ音楽家と思われる男性でした。
一見すると怪しい所はありませんが、なぜ息を潜めるように、しかも裏口から出て行くような真似をしたのかが気になりました。
「何か、ご用でしょうか?」
「失礼。二、三おうかがいしたいことがございますの。少し、お時間をよろしくて?」
「生憎と先を急ぐ身でして。それではこれで――」
「動いたら撃ちます」
「!」
わたくしはホールから出るときに返して貰った魔法杖を抜き、男性に突きつけました。
はっきりとは分かりませんが、この男性には何か違和感があります。
あるいは、それは既視感だったかも知れません。
「何をするのです」
「手を――手を見せなさい」
「どうぞ?」
男性は素直にわたくしの言葉に従いました。
わたくしは少し近づいて男性の手を観察しました。
舞台でこの男性が持っていたのはピピのそれと同じヴァイオリンでした。
男性の手には、ヴァイオリン弾きらしい弓だこが見て取れます。
しかし、わたくしの疑念は晴れません。
「腕輪だよー、クレアちゃん」
「! 変身の魔道具!」
「ちっ……!」
男性は苛立たしそうに舌打ちすると、身を翻して駆け出そうとしました。
「旦那様、ここまでです」
「!? エマ、貴様、裏切るつもりか!?」
「わたくしの主はカトリーヌお嬢様ただお一人にございます。旦那様にお仕えした覚えはございません」
「離せ! 離さぬか……!」
男性を取り押さえたのはエマでした。
地面に組み敷いたその手際は、とても一介のメイドの技とは思えませんでした。
「エマ……それにカトリーヌも。旦那様……ということは、この人は……?」
「うん。エマ、腕輪をー」
「はい」
エマが男性の腕輪を引きちぎると、男性の姿がみるみる内に変わり――。
「クレマン=アシャール……一体、どうやって……?」
「音楽家の中に、アシャール家が手配した魔法使いがいたんだよー。もしもの時に体を入れ替えることの出来る、ねー。キャスリングとかいう魔法だったかなー?」
説明するカトリーヌは車椅子に乗っていました。
車輪を器用に手で動かしながら、カトリーヌはこちらにやって来ます。
「カトリーヌ! 貴様、育てて貰った恩を忘れたか!」
「それについては心から感謝しています、お義父様ー。でも、もうやめましょー? これ以上、アシャール家の家名に泥を塗らないで下さいー」
「何を言う!」
クレマンは組み敷かれたまま身をよじり、なおも逃れようとあがいています。
「儂こそがアシャール家そのもの! 儂さえ生きながらえれば、アシャールは終わらぬ!」
「もうとっくに終わっていますよ、お義父様ー。十年前のあの日にねー」
「十年前……? カトリーヌ、あなた何を言っていますの……?」
不吉な予感がしました。
何か、とても良くないことが起ころうとしているような、そんな予感が。
「ウチはクレアちゃんに謝らないといけない」
「カトリーヌ……?」
「十年前、クレアちゃんのお母様であるミリア様を殺したのは――ウチだよ」
「――!?」
わたくしは一瞬、何を言われたのか分かりませんでした。
いいえ、耳はきちんとその言葉を聞き取りました。
ですが、心がそれを理解することを拒否したのです。
だってそんな、そんな馬鹿なことがあって!?
「何を言っているの、カトリーヌ。お母様は事故で亡くなったんですのよ?」
「その事故が、仕組まれていたことだったんだ。ウチはお義父様の差し金で、フランソワ家に差し向けられた暗殺者なんだよ」
「何を……あなたはさっきから何を言っていますの!」
わたくしはやむを得ず杖を構えました。
カトリーヌは動く様子を見せず、ただ車椅子の上で微笑んでいます。
――いつもと変わらぬ微笑みで。
「あの日、フランソワ家の馬車と衝突した平民の馬車には、ウチとやり手の暗殺者三人が同乗していたんだ。事故に見せかけてフランソワ家の馬車を止めると、ウチらはドル様たちに襲いかかった」
カトリーヌはまるで独り言のように言葉を続けます。
「ウチらの襲撃を防いだのはミリア様だった」
「お母様が……?」
「ドル様は多分、戦闘向きの魔法が使えないのかな? とにかく、ウチらに応戦したのはミリア様だった。ミリア様はドル様の乗る馬車に何らかの防御魔法をかけて封印すると、自分は徒手空拳でウチらを相手にした」
カトリーヌは目を閉じました。
まるで当時のことを思い出すかのように。
「……それで……?」
「結果的に、ウチらは相打ちになった。こちらはウチを除いて全滅。ウチも左足に大けがをして行動不能だった。そしてミリア様は――」
「……お母様は……?」
「ウチを庇ってお亡くなりになった」
「どういう……ことですの……?」
説明を要求するわたくしに、カトリーヌは再び目を開けました。
その顔は、見たことのない自虐に歪んでいます。
「監視がいたんだよ。ウチらが失敗したことを察した監視たちは、証拠隠滅を図った。ウチと三人の仲間は消されそうになったの。でも、ミリア様がウチを助けてくれた」
「お母様……」
「全てが終わった後、ウチはウチの魔法を使って全てをなかったことにした。きっと事故現場にいた人には、ただの事故としか思われなかっただろうね」
「カトリーヌ……あなたは一体……」
「だからね、クレアちゃん。ミリア様を殺したのはウチなんだ。ずっと謝らなきゃと思ってた。ごめんね」
カトリーヌは車椅子の上で深く体を折りました。
「今さら……どうしろというんですの……! そんな……そんなこと……!」
「許してくれとは言わないよ。ウチはそれだけのことをした。でも、償いをさせて欲しい」
「償い……?」
わたくしが問うような口調で呼びかけると、カトリーヌは顔を上げました。
そして、その手には魔法杖が握られています。
「!?」
「安心して。危害は加えないから」
そう言うと、カトリーヌは杖を――クレマンに向けました。
「待て、カトリーヌ! 何をする!」
「お分かりでしょう、お義父様。ウチの魔法は――」
「や、やめよ! 儂はまだ終わらぬ! 帝国に逃げ延び、再起を――!」
「消去(イレイザー)」
カトリーヌの杖から強い魔力を感じました。
目には見えないその何かは、クレマンを包み込みました。
「嫌じゃ! 忘れたくない! 儂が儂でなくなってしまう!」
「……」
「誰か……! 誰か……儂を……助け……」
かくり、と力を失ったように、クレマンの体が崩れ落ちました。
「……殺しましたの?」
「んーん。心をね、ちょっと弄らせて貰ったの」
「あなたの魔法は、姿を消す魔法ではなかったんですの?」
「そういう使い方も出来るけど、根本的には別の魔法だね」
カトリーヌはエマに指示を出して、クレマンを連れて行かせました。
「ウチの魔法は記憶の消去だよ」
「記憶の消去?」
「うん。いつも姿を隠しているのは、視覚記憶を部分的に消去させて貰ってたの」
「器用ですわね」
「えへへ。でも、この魔法の本来の使い道は――」
「!?」
わたくしは油断していました。
危害は加えない、というカトリーヌの言葉を鵜呑みにしてしまっていたのです。
カトリーヌの魔法はわたくしに向けられていました。
「カトリーヌ……!」
「クレアちゃんから……んーん、みんなからウチに関する記憶を消させて貰うよ」
「そんな……!」
「ウチが犯した罪は、死罪でも生ぬるい。ウチはこの先、誰の記憶にも残らずに生きていくことにするよ」
「そんなの……存在の否定みたいなものじゃないですのよ!」
誰の目にも留まらず、誰の記憶にも残らない――そんな在り方はもう、生きているとは言えません。
「そうだね。それがウチに課された罰――この呪われた人生の生き方だと思う」
「考え直しなさい!」
「ごめんね、クレアちゃん」
手足から力が抜け行くと同時に、頭の中から何か大切なものがかき消えて行くのが分かりました。
「わたくし、絶対に忘れませんわよ! あなたが何をしたって、絶対に……絶対に!」
「クレアちゃん……」
「見てなさい、カトリーヌ! ……いくらあなたが強がったって……わたくしには……分かって……」
意識が、遠くなります。
わたくしは……誰と、何を話しているのでしたっけ……?
「……やっぱりやだ……やだよう……。でも……でも!」
薄れ行く意識の中、誰かが涙ぐむ声が聞こえます。
でもそれが誰かはもうわたくしには分かりませんでした。
「さようなら……クレアちゃん」
最後に聞いた声はとても悲しくて、わたくしは頬を伝う涙を抑えられないまま、眠りにつきました。
77.リコリスの記憶
目が覚めると、そこは寮のわたくしの部屋でした。
確か……わたくしはクレマンを追い詰めて……。
曖昧な記憶を辿りつつ、辺りを見回します。
何もおかしな所はありません。
下段にしか布団が敷かれていない二段ベッド、一つだけ置かれた机やドレッサー。
わたくしはここに、一人で生活しているのでした。
外は明るくなっていました。
朝というよりはもう昼に近いような温かい日差しが部屋に入り込んでいます。
「クレア様ー!」
返事をする間もなく、扉が開けられます。
入ってきたのはレイでした。
「ちょっと、レイ。いくらあなたでも、ノックくらいしなさいな」
「私、でも!? それはあれですか、私はやっぱり特別、みたいな?」
「くっ……最近、調子に乗りすぎですわよ、あなた」
「てへへ、すみません。ところで、お身体の具合はいかがですか?」
ふざけた調子から一変して、レイは心配げな視線を寄越してきました。
「いかがって、別に普通ですわよ?」
「良かったー。一時はどうなることかと」
「何かありましたの?」
「何かもなにもありませんよ。覚えてないんですか?」
レイは腰に手を当てて、少し怒ったような様子でした。
「記憶が曖昧ですのよ。説明してちょうだい」
「クレア様はコンサートホールの裏道で倒れてたんです。姿が見えないと思ったら、何をしてたんですか、あんなところで」
「何って……何だったかしら」
よく覚えていません。
確か、誰かを追いかけて外へ出たような気はします。
「クレア様みたいに聡明な方でもあるんですね、ど忘れって」
「そりゃあ、ありますわよ。記憶力には自信がある方ですけれど、それだって限界がありますもの」
「ですよねー。ちなみに私は最初にお目にかかった日から全ての日の、クレア様のお召し物と髪型を記憶してます」
「記憶力の無駄遣いが過ぎますわね!?」
そんなことをして一体何が楽しいのでしょう。
「いやあ、忘れたくないことってあるじゃないですか」
「ありますわね」
「私にとって、クレア様情報というのはまさにそれです。少しでも多く、長く、記憶しておきたい情報ですね」
「はいはい、それは結構なことですわね」
わたくしが呆れるように言うと、ふとレイは何かに気がついたような表情をして、
「何だろう」
「どうしましたの?」
「いや、何なのか分からないんですけれど、何か大事なことを忘れているような……」
「奇遇ですわね。わたくしもですわ」
「やっぱりですか! じゃあ、おはようの口づけをば――!」
「永久に記憶から抹消しなさい!」
わたくしは枕をレイに投げつけました。
「冗談ですってば。ファーストキスはやっぱり、クレア様から頂きませんとね」
「そんな機会は永遠にないから安心なさい」
「クレア様つれなーい。そこが好きー!」
「つ、疲れますわ……」
わたくしがげんなりしていると、
「まあでも、お倒れになってたのは事実ですから、今日はどうか安静になさって下さい。明日も特務官の仕事は一日休日にしましょう」
「そんな訳にはいきませんわよ。まだサーラス様とお父様が残っているんですのよ?」
「クレマンを捕まえたのだって大手柄ですよ。陛下も一日くらいは許して下さいますって」
「ですが……」
「いいですか、クレア様?」
レイは真剣な表情をしながら指をピンと立てて、
「いい仕事はいい健康から」
「は、はぁ……」
「不調をおして仕事をしたって、満足するのはいけ好かない上司だけですよ?」
「それはまさか、ロッド様のことを言っていますの?」
だとしたら不敬にも程があります。
「あ、いえ、別件です」
「それにしてはやけに実感がこもっていましたわね?」
「やー、ブラックな労働環境については一家言ありまして」
「そ、そう……」
ブラックな労働環境とやらはよく分かりませんでしたが、何となく語感から察しました。
「とにかく、今日はゆっくりして下さい。今、朝食……や、もう昼食か。とにかくお持ちしますよ」
「ありがとう」
「クレア様、食欲あります?」
「ええ、普通に」
「じゃあ、ちょっと待ってて下さいね」
「ありがとう。お願いね、レイ」
わたくしが見送ると、レイは部屋を出て食事の用意をしに行きました。
「とはいえ、起きたばかりでまた横になるのもね……」
レイに見られたら何か言われそうですが、わたくしは本でも読もうと、立ち上がって机に近づきました。
「? これは……?」
わたくしの机の上に、見慣れないキャンディポットがありました。
レイが買ってきたのかとも思いましたが、蓋を開けると中身は一個しかありません。
「これは……リコリス?」
独特の風味が鼻を擽りました。
決して好きとは言えない香りですが、わたくしはなぜだか自然と、飴を口に運んでいました。
「……え?」
急に、涙がこぼれました。
なぜだか分かりません。
でも、あふれ出した涙は、拭っても拭っても止まることはありませんでした。
根拠はありません。
痕跡もありません。
記憶すらも。
それでも何故か、わたくしの側には大切な人がいたような気がしました。
「どうしたのかしら……わたくし……」
そのままじっとしていると、飴を舐め終わる頃には感情の嵐は過ぎ去っていました。
「お待ちどおさまです、クレア様――って、ダメじゃないですか、寝てなきゃ」
「起きたばかりで寝られませんわよ――って、わっ!?」
レイはわたくしの顔を見るやいなや、食事の載ったトレイを机に置くと、ぐいと体を近づけてきました。
「クレア様、何がありました?」
「な、なにって? ちょっとレイ、近い! 近いですわよ!」
「目が真っ赤です。泣きましたね?」
「寝起きだからですわよ」
「さっきは全然普通でした。言ったでしょう? クレア様情報は忘れないって」
「知りませんわよ!」
だって、自分でも全く分からないのです。
どうしてあんなに涙が溢れたのか。
あんなにも悲しい気持ちになってしまったのか。
「とにかく! わたくしは大丈夫ですから食事にしましょう。今日は何ですの?」
「後できっちり問い詰めますからね? 今日は――」
その後は、いつも通りのレイとわたくしでした。
こうしてわたくしは大切だった人の記憶を失いました。
失ったことにすら、気がつかないままに。
78.誰もがあなたを忘れても
※カトリーヌ=アシャール視点のお話です。
クレアちゃんを始め、ウチを知っている人たちの記憶は、一人を除いて全て消した。
これからも、出会った人全てについて、ウチに関する記憶を消していくつもりだ。
――それが、ウチが自分に課した罰だから。
倒れて気を失っているクレアちゃんを見る。
普段のキツイ印象に比べて、眠っている彼女の顔は酷く幼い。
そんな彼女を、ウチはずっと殺そうとしてきた。
これはクレアちゃんには話さなかったけれど、ウチがクレアちゃんと幼馴染みになったのは偶然でも運命でもない。
お義父様の命令があったからだ。
ウチはお義父様の密命を帯びて、クレアちゃんを殺す機会を虎視眈々と狙っていた。
――いや、狙っているフリを続けていた。
ウチにはクレアちゃんを亡き者にするつもりなんてさらさらなかった。
この命そのものが、クレアちゃんのお母様であるミリア様に救って貰ったもの。
そんな大恩ある人の娘を、どうして殺せるだろう。
ウチがクレアちゃんを暗殺せよという密命を受け続けたのは、ウチがそれを受けることで、他の暗殺者が手配されないようにするためだ。
でも、そんな日々もこれでお終い。
倒れているクレアちゃんを最後にもう一回抱きしめてから、ウチは体を離した。
あまり長くここにいる訳にはいかない。
支度は万全にしてあるから、早くバウアーを出なければ。
ウチは車椅子だからあまり速くは移動できない。
そのことにもどかしさを感じながら、ウチは王都の西の門を目指した。
「……」
王都の夜は賑やかい。
もうとっくに月が昇っているのに、通りに面した食事処や酒場からは陽気な声が聞こえてくる。
一日の仕事を終え、仲間たちとそれを喜び合っているのだろう。
でも、これから先、ウチにそういう相手はいない。
――孤独。
これまではクレアちゃんがいることが当たり前の生活だった。
そんなウチがどれだけ一人で居続けられるかは分からない。
でも、やらなきゃ。
自殺なんていう生ぬるい逃げは、ウチには許されない。
「クレアちゃん、無事に寮に帰れたかなー」
心配はないはずだった。
何しろ彼女にはレイちゃんという素晴らしいパートナーがいる。
クレアちゃんはまだ心を許しきっていないみたいだけれど、あれは時間の問題だ。
あの二人は遅かれ早かれくっつくだろう。
クレアちゃんには味方がたくさんいる。
例えばピピちゃん、ロレッタちゃん、ちょっと前まではレーネちゃんもいた。
ウチが一番印象に残っているのは、マナリア様だ。
クレアちゃんの姉貴分とも言える彼女は、ウチと初めて会った時、ウチの魔法を無効化した上でこう言った。
――キミはクレアの敵? それとも味方?
マナリア様にはウチの魔法の正体はばれているようだった。
だから、それが暗殺と親和性が高いことも分かっていたのだろう。
答えによってはその場で殺されてしまっていたかも知れない。
だから、ウチは正直に全てを話した。
――もしもの時はボクを頼るといい。少しくらいは力になれると思うから。
マナリア様はウチのことを妹分の友人として認めてくれた。
そこには、妹分を思う姉貴分の真摯な姿があった。
「いいなー……」
知らず、羨望の声が漏れた。
いけない。
ウチにはクレアちゃんにとってのレイちゃんやマナリア様のような存在を求める資格なんてない。
決めたじゃないか。
ずっと一人でいるって。
「せめてクレアちゃんは、幸せになってくれますよーに」
そんなことを思いつつ、西門までやって来た。
「ん? 何だお前?」
当直の門番がウチに気付いた。
「こんばんはー」
「ああ。もしかして、外に出たいのか?」
「はいー」
「今日はもう門を閉じるんだ。明日にしろ」
「そういう訳にもいかなくてー」
ウチのことを覚えている人は誰もいないはずだけれど、お義父様の一件で王都はちょっとした騒ぎになるはずだ。
そうなったら、検問が厳しくなるかも知れない。
「ダメだダメだ。今夜は諦めろ」
「仕方ない、かー」
ウチは残り少ない魔力を体中から集めて、門番の人からウチの記憶を奪った。
気を失って倒れる門番を、優しく受け止める。
「ごめんねー。通らせて貰うねー」
門番を地面にそっと横たえると、ウチは車椅子を押して門をくぐった。
「どこへ行くつもりですか、お嬢様。供も連れずに」
「……え?」
西門を通り抜けた直後、ふいにウチを呼び止める声があった。
声のする方を見ると、そこにはいるはずのない人影があった。
「エマ……?」
「ちょっと目を離した隙にいなくなられたので、あちこち探しましたよ」
「いや……それは……」
「どこかに行かれるのなら、わたくしに仰ってからになさって下さい」
「……どうして……?」
ウチはエマにも確かに忘却魔法をかけたはずだった。
なのに、エマはウチのことを忘れていないようだった。
「どうして、と仰いますと?」
「だって、ウチの魔法は相手から記憶を消す魔法なんだ。どうしてエマは……」
「ああ、そういうことでございますか」
エマは至って落ち着いた様子で続ける。
「わたくしは魔法が効きにくい体質なのです」
「魔法が……効きにくい?」
「ええ。原因はよく分かりませんが、私の娘に至っては魔法の全く効かない体質でした。遺伝でしょう」
以前、エマから聞いた所によると、彼女はかつてさる国の王族だったそうだ。
没落して国を捨てたのだと聞いている。
国を捨てる前に彼女が生んだ娘は、魔法が全く効かない体質だったらしい。
「ですから、お嬢様はわたくしの記憶を消すことは叶いません。諦めてお側に置いて下さい」
「そんな……ダメだよ……。ウチは独りで生きていくことを自分に課したんだ。それはエマだって例外じゃない」
「そんなことは存じ上げません。わたくしの主は生涯カトリーヌお嬢様ただお一人。お嬢様がどんなことを考えていらっしゃろうと、わたくしはそれを変えるつもりはございません」
ウチの説得をエマは頑としてはねのけた。
エマは頑固な女性だ。
こうなったら説得は難しいかも知れない。
でも、納得して貰わなくちゃならない。
「ウチはもうアシャール家の人間じゃない」
「存じております」
「エマを雇うお金もない」
「それも存じております」
「だからエマがウチに仕えてくれる必要はもうない」
「わたくしの恩返しはまだにございます」
「エマ……」
エマは飽くまで着いてくるつもりらしい。
「お嬢様はわたくしの命を救って下さいました。右も左も分からぬ世間知らずであったわたくしに、もう一度生き直す道を下さいました」
エマの瞳は真摯な色を湛えていた。
「お嬢様がこれから歩まれる贖罪の道に供することこそ、わたくしのご恩返しと考えます」
エマはそういうとウチの目の前で臣下の礼を取った。
ウチは大きく嘆息して、
「ウチは知らないよ。好きにしたらいい」
「ええ。好きにさせて頂きます」
「……この頑固者」
「お嬢様こそ」
ウチは車椅子を翻してその場を離れようとしたけれど、ふいに車を押す手が軽くなった。
「自分で歩くから」
「わたくしはわたくしの好きにさせて頂いているだけでございますゆえ」
「手が弱っちゃうでしょ」
「今日は普段よりも多く歩かれたはず。今日の分の運動は足りていらっしゃるでしょう」
「……」
エマはどうあってもウチに仕えるつもりのようだった。
その事に途方もない罪悪感を覚える――と、同時に、これからの長旅が孤独でいられないという事実が堪らなく嬉しい。
「……エマ」
「はい、お嬢様」
「……ありがと」
「もったいのうお言葉にございます」
これからどう生きていくか、どこまで生きて行けるのか、それはまだ分からない。
でも、ウチの贖罪の旅はきっと、長いものになるだろう。
それでもウチは生きていく。
不器用でも、心優しい従者と一緒に。
79.禁忌の火
胸の奥に何か大きな喪失を抱えたまま、しかしその正体は分からぬまま、わたくしは不正貴族たちの摘発を続けました。
その過程でレジスタンスに接触し、レイに言われるがままその頭目との会談も行いました。
わたくしにはその意味や意義は分かりませんでしたが、レイには何やら得るものがあったようです。
そうしてサーラスを追い詰め、レレアの活躍もあり、今こうして目の前の彼にチェックメイトをかけようとしたところで――。
「リリィ……哀れな子だ。……|主よ、憐れみたまえ《キリエ・エレイソン》」
何かの呪いだったのでしょうか。
サーラスがその言葉を唱えると、すぐ隣にいたリリィ枢機卿が崩れ落ちました。
「リリィ枢機卿!?」
わたくしは慌てて駆け寄ろうとしましたが、
「クレア様、離れて!」
レイに服を引っ張られて引き離されました。
体が後ろに反れた瞬間、銀色の弧閃がわたくしの髪を数本散らして行きました。
「全く……、イヤになんなー」
場にそぐわない、のんきな声が響きました。
レイがわたくしと様子の変わったリリィ枢機卿の間に立って、油断なく問います。
「お前は……」
「やあ、レイさんにクレア様、昨日ぶり」
別人のように変わった口調には覚えがありました。
忘れもしない、わたくしたちの前に何度も立ち塞がった仮面の男です。
「サーラス! リリィ枢機卿に何をしましたの!」
豹変したリリィ枢機卿を警戒しつつ、わたくしはサーラスを問い詰めました。
「そっちの平民は|二重属性持ち《デュアルキャスター》でしたね」
「わたくしの質問に答えなさい!」
「答えていますとも。学院時代の私の専門は暗示でね。テーマは“多重属性の人工的な実現”だったんですよ」
サーラスは昏い笑みを浮かべながらそう言いました。
「近衛兵、サーラスとリリィを取り押さえよ」
ロセイユ陛下が告げると、近衛兵がサーラスとリリィ枢機卿を取り囲みました。
しかし――。
「こんなザコどもに俺が止められるかよ」
リリィ枢機卿はどこからか短剣を取り出しそれを一閃すると、近衛兵たちは一気に防戦一方になりました。
このように言うと近衛兵たちが不甲斐なく聞こえるかも知れませんが、近衛兵に取り立てられるのは王国選りすぐりの精鋭です。
一対一ならまだしも、この人数を相手にするのは仮にレイであっても厳しいでしょう。
つまり、近衛兵たちが弱いのではないのです。
リリィ枢機卿の強さが尋常ではないと言うべきです。
「リリィ枢機卿、おやめなさい!」
「ムダですよ。あれはリリィであってリリィではない」
くっく、とサーラスが笑います。
「二重属性を人工的に作り出す……その試みは半分だけ成功しました」
「どういうことですか?」
レイが問うと、サーラスは不出来な学生に説明するような口調で続けます。
「私は暗示によって人の中にもう一つの人格を作り出すことに成功しました。そして、現れた新しい人格は、新たに魔法適性を獲得することが分かったのです」
リリィ枢機卿の本来の魔法属性は水属性だったはずです。
そこにサーラスは暗示を掛けて新たな人格を造りだし、別の属性を持たせたと言うのです。
そんなことが可能なのでしょうか。
にわかには信じられないことです。
「あの仮面の男の正体は、リリィ様だった、と?」
「その通り。私に対する不正追及をしながら、その実、その捜査情報は私に筒抜けだった、というわけですよ」
最後の最後に裏をかかれましたがね、とサーラスはわたくしたちを嘲笑しました。
つまり、サーラスの部屋で最初に帳簿を調べたときに何も出てこなかったのは、リリィ枢機卿経由でサーラスに情報が漏れていたから、ということなのでしょう。
「でも、姿が全然違いますわよ! 変装程度でどうにかなるような差では……」
「多分、魔道具です。ほら、ユー様の事件の時に、リリィ様から借りたじゃないですか」
レイに指摘されてわたくしははっとしました。
確かに、レイがユー様と入れ替わるときに使った魔道具がありました。
あの時は便利なものがあるなとしか思いませんでしたが、恐らく本来は彼女が正体を隠すために使っていたのでしょう。
「自分がこんな状態であることを、リリィ様はご存じなんですか?」
レイが問います。
その口調は、半ば返答を予想しているかのように固いものでした。
「知らないですよ。知っていたら、あの子は自ら命を絶ってしまうでしょうからね」
なんて卑劣な。
あの純真そのもののリリィ枢機卿を、自らの野心のために手駒にするとは。
「さあ、リリィ。こいつらを全員始末しなさい」
「簡単に言ってくれんなあ。ここにはレイとクレアがいるんだぜ?」
「お前ならなんとか出来るでしょう」
「出来なくはないが、てめぇの安全を保証できねぇぞ?」
「ふむ……」
二人が会話する間も、一人、また一人と近衛兵たちが倒れていきます。
その刃に迷いはなく、人を傷つけることにためらいは一切ないようでした。
このままでは……いけません。
「ならリリィ。ここは脱出を優先することにしましょう」
「逃しませんわよ!」
わたくしは既にマジックレイの発射態勢に入っていました。
サーラスはともかくリリィ枢機卿の命を奪うのは気が引けますが、場合が場合です。
「サーラス、リリィ枢機卿。わたくしのこの魔法は手加減が出来ませんわ。命が惜しければ投降なさい」
わたくしは二人を視界に収める位置に移動すると、そう警告しました。
「だ、そうですが?」
「お前もちっとは働けよ……な!」
リリィ枢機卿は自分を取り囲む近衛兵の最後の一人を打ち倒すと、今度はサーラスを囲む近衛兵たちに斬りかかりました。
わたくしの言葉など気にも留めない様子で。
「やめなさい、リリィ枢機卿! 次に戦闘行動を起こしたら撃ちますわ!」
「やってみな」
「!」
わたくしの最後通告にも関わらず、彼女はナイフを振るうことを止めませんでした。
これ以上、被害者を出すわけにはいきません。
「……くっ、ごめんあそばせ!」
わたくしは覚悟を決めると、リリィ枢機卿にマジックレイを放ちました。
四条の光がその小さな体を居抜かんと殺到し――。
「なんですって!?」
マジックレイの光は彼女を焼き貫くことなく、その直前で幻のように霧散してしまいました。
「このリリィは私の最高傑作でしてね。マナリア王女には及びませんが、勝るとも劣らない魔法を使うんですよ」
サーラスが愉悦に染まった笑みでそう言う。
「スペルブレイカーではないんですか?」
「あそこまで常識外れな魔法ではありません。このリリィの適性は風の高適性。得意な魔法は時間操作です」
時間操作……ですって?
なら、彼女はわたくしのマジックレイの時間を巻き戻して、魔法として成立する前の魔力に戻した――そういうことでしょうか。
何というデタラメな魔法でしょう。
「最高傑作、と仰いましたね? つまり、リリィ様だけではないんですね?」
「当たり前ですよ。我が子で最初に試す親がどこにいますか。リリィに施術したのは、研究が完成してからですよ。もっとも――」
そこでサーラスは言葉を切って、
「研究完成の為には随分掛かりました。廃人となった孤児は、十や二十じゃ利かないでしょう」
涼しい顔でおぞましいことを平然と口にしました。
「この外道!」
わたくしは照準をサーラスに変えて、もう一度マジックレイを放ちました。
「おっと」
しかし、すんでのところで、近衛兵を全て切り払ったリリィ枢機卿に無効化されてしまいます。
ならば――!
「レイ、サーラスを狙いなさい! 手数重視で!」
「はい!」
レイは瞬時にわたくしの狙いを悟ったようで、氷矢を二十ばかり生成するとサーラスを取り囲むようにそれを放ちました。
「ちっ……、さすがに戦いなれてやがんな」
レイの氷矢を無効化するには、リリィ枢機卿はサーラスの元から動けません。
つまり、足止めです。
レイとわたくしはサーラスとリリィ枢機卿に立て続けに魔法を放ち、リリィ枢機卿はサーラスを守るためにそれを無効化します。
状況は膠着状態――かというと、そうではありません。
「諦めなさい、リリィ枢機卿」
「なんでだ?」
「このままなら、あなたの方が先に魔力切れになります」
向こうはリリィ枢機卿一人なのに対し、こちらはレイとの二人がかりです。
しかも、こちらが使っている魔法は基本の魔法矢でしかありません。
リリィ枢機卿が使う時間操作がどれほどの魔力消費量かは分かりませんが、魔法矢よりも少ないということはないと見積もりました。
「リリィ様、もう、やめて下さい」
「俺だって別に好きでやってるわけじゃあ、ねえけどな」
「なら!」
「けどよ」
そこでリリィ枢機卿は言葉を切って、
「こんなんでも、父親なんだわ」
自嘲するように顔を歪めると、懐からポーション瓶を取り出してひと思いにあおりました。
「まさか、カンタレラ!?」
レイの悲鳴じみた言葉にユークレッドでのルイ戦を思い出します。
ただの冒険者だったルイですらあれほどの強さになったのです。
このリリィ枢機卿が魔法の効かないアンデッド状態になったら、その脅威は計り知れないものになるでしょう。
「ちげーよ。こいつは超級の魔力回復ポーションだ」
すげなく言う彼女の言葉に、ほっと胸をなで下ろしました。
「そんな貴重品、いくらも持っていないでしょう」
「ところが、俺の場合はなんとかなっちまうんだな、これが」
リリィ枢機卿はポーション瓶に視線を送ると、それに集中するように視線を送りました。
「!? そんなインチキ!?」
レイの悲鳴も無理からぬもの。
空のポーション瓶がみるみるうちに満たされていきました。
おそらく、これも時間を巻き戻したことによる現象なのでしょう。
「まあ、こういう使い方も出来るわけだ」
「くっ……」
わたくしは奥歯を噛みしめました。
超級の魔力回復ポーションは魔力をほぼ完全に回復してしまいます。
そんなものを何度でも使われたら、先に魔力切れを起こすのはわたくしたちの方です。
「つっても、このままじゃあ、長期戦は覚悟しねぇとなあ」
「……」
何か策はないか、と頭を巡らせながらリリィ枢機卿を警戒します。
その時――。
地面が、激しく揺れました。
◆◇◆◇◆
突然の揺れに動揺していると、突然体を押し倒されました。
直後、ガシャン、と音がして謁見室の窓ガラスが割れます。
「一体、何が……」
どうもわたくしはレイに押し倒されたようで、彼女はわたくしを守るように上になっています。
そのまま、しばらくじっとしていました。
「もう、大丈夫なはずです」
レイはそう言うと立ち上がってわたくしに手を貸してくれました。
何が何やら分からないわたくしは、謁見室の様子を見て愕然としました。
きらびやかだった室内は見るも無残な姿に変わり果てていました。
調度品は壊れ、赤いカーペットの上には大小さまざまな石が転がっています。
「陛下!」
近衛の一人が声を上げました。
見ると、王座に駆け寄って誰かを助け起こそうとしています。
わたくしは血の気が引きました。
倒れていたのはロセイユ陛下でした。
しかも、頭から大量の出血をしています。
「レイ、治療を!」
わたくしが言い終わるよりも早く、レイは陛下に近寄って治癒魔法を試みました。
しかし――。
「……ダメです。お亡くなりになっています」
「なんてことですの……」
バウアーは賢王ロセイユ陛下を失ってしまいました。
それはすなわち、国の危機に他なりません。
「そうですわ、サーラスとリリィ枢機卿は!?」
広間を見回しましたが、二人の姿はすでにありませんでした。
どうやらどさくさに紛れて逃亡したようです。
わたくしは動揺を押し殺して状況把握に努めました。
恐らくこれは歴史の記述にあったサッサル火山の噴火でしょう。
推測ですが恐らくこれは正しいと思われました。
歴史の示すところによれば、サッサル火山の噴火は噴火そのものよりも、その後の影響の方が大きいはずです。
バウアーはこれから苦難の時を迎えます。
わたくしが、すべきことは――。
そんなことを考えていると、ふとレイが膝を突いて茫然自失の状態にあることに気がつきました。
無理もありません。
ですが、彼女には力になって貰わなければ。
「レイ……、レイ! しっかりなさいな」
わたくしが呼びかけると、レイの目がゆっくりとわたくしに焦点を合わせます。
ですが、まだ意識がはっきりしていないように見えました。
「サーラスとリリィ枢機卿のことはいったん忘れなさい。しなければならないことは山ほどあります」
「……クレア様」
「これから王国は危機に瀕するでしょう。過去の歴史によれば、サッサル山の噴火の後、大飢饉が起こったと聞いています」
火山弾や火山灰による農作物への影響は甚大なものになると思われます。
何も手を打たなければ、国内に大量の餓死者が出るでしょう。
わたくしたちはそうならないよう、策を講じなければなりません。
「王国はこの危機を乗り越えなければなりません。しかも、ロセイユ陛下抜きで」
そう。
賢王だったロセイユ陛下はもういません。
わたくしたちは新たな王を選ばなければならないのです。
しかも、早急に。
「近衛兵、貴族院議長に連絡を。緊急の議会を招集します。それから、ロッド様とセイン様の安否を至急確認するように」
まだ呆然としているレイのことは一旦置いて、わたくしは身動きの取れる近衛兵たちに指示を与えました。
事は一刻を争います。
近衛兵たちも動揺しているようでしたが、やはりそこは訓練を受けた精鋭たちです。
自らがすべきことが明確になると、直ちに行動に移してくれました。
レイはまだぼうっとしています。
こんなことはしたくありませんが、仕方ありません。
わたくしはレイの頬を引っぱたきました。
「しゃきっとなさい! わたくしを支えてくれると言ったあの言葉は嘘だったんですの!?」
それは半ば懇願に近いものだったかもしれません。
これからわたくしを待っている艱難辛苦に立ち向かう上で、彼女の存在はなくてはならないものです。
わたくしはどうにかレイに立ち直って貰う必要がありました。
レイは頬を摩りながらほんの少し呆けていましたが、その目に徐々に光が戻って来ます。
「申し訳ありませんでした。もう、大丈夫です」
「よろしいですわ」
そう言うと、わたくしは少しの間だけ彼女を抱きしめました。
お互いの存在を確かめ合うように。
「乗り切りますわよ、この危機を」
「はい!」
直後から、わたくしたちは迅速に行動を開始しました。
初動の動きとしてはまずまずのものでしたが、やがて一つの凶報がもたらされます。
それは、ロッド様が行方不明だという知らせでした。
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以上で第7章は終了となります。
第8章公開まで、またしばらくお時間を頂きます。
気長にお待ちいただければ幸いです。