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 私には、好きな女の子がいた。  小学生の頃には、手をつないで走り回っていた。  中学に上がると、私は走るのをやめ、彼女は走り続けた。  走り続けた彼女は、県外の陸上競技の競合校に進み、私は地元の普通科高校に進学した。  もちろん、大学も別々。彼女の顔をときおり選手権のテレビ中継で見ながら、私は平凡な大学生として過ごした。  その頃、恋し焦がれた女の子と私の人生は、もう二度と交わることはないのだと悟った。  やがて彼女の顔を見るのもつらくなり、テレビ中継を見なくなった。  いつしか彼女の活躍が、地元の友人たちの話題に登らなくなったことにも、私はかえって胸を撫で下ろした。  久しぶりに聴こえてきた噂は、彼女が不祥事を起こし、大学を退学させられたというもの。  その不祥事が何なのか、具体的な情報はなく、その後彼女の消息はまったく伝えられなかった。  そして卒業。長引く不況で一般企業への就職が叶わなかった私は、新たに民間委託されることになった犯罪者収容者で、臨時雇用の看守になった。  収容所には経営母体の企業を含め、何かと黒い噂が耐えなかったが、生きていくためにほかの選択肢はなかった。  そこへ送られてきた、新しい収容者。  施錠された革の拘束衣の胸には、通常囚人番号と指名が記される。しかしその女囚には、名前がなかった。名前どころか、拘束衣と一体のフードを被せられ、顔も奪われていた。  顔を失った名もなき収容者。  だが私は、奇妙な胸騒ぎを覚えていた。  同時に、抑えられない衝動に駆られていた。  私以外の看守の姿が消え、拘束衣を鎖で吊られた収容者とふたりきりになった私は、勝手に開けられないようフードのファスナーを固定する結束バンドを切断し――。  そして現われた顔は、忘れたくても忘れられない女性《ひと》のものだった。  彼女が、どうしてここに送られてきたのかは知らない。なぜ名前と顔を奪われていたのかも。  黒い噂の絶えない会社のことだ。おそらく彼女には落ち度はなく、一方的に会社側に問題があるのだろう。  だが――。  すっかり顔を忘れたかのように、憎い敵として睨みつけてくる彼女を見て、私のなかにどす黒い感情が生まれた。  その感情につき動かされるまま、彼女に再びフードを被せて結束バンドで封印し、私は小さな声でつぶやいた。 「これから毎日、たっぷり苛めてあげる……名前のない収容者として」

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