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「ねえ、シロくん……シロくんでしょう?」 「は、はい……」  大学進学のため出てきたばかりの都会で、中学時代のあだ名で呼ばれて思わず答えてしまい、心のなかでほぞを噛む。  それは、そのときの僕が『シロくん』ではなかったからだ。  いや、正確には僕は僕なのだが、今の見た目が『シロくん』ではないのだ。  僕は今、母校である中学のセーラー服を着て女装していた。  そのセーラー服がなぜ手元に届いたのか、僕自身にもわからない。卒業式の日、家に帰って鞄を開けると、なぜかそこに入っていたのだ。 (どうして、女子の制服が僕の鞄に……?)  それは、わからなかった。 (女子だって、制服のまま帰ったはずなのに……)  だがその疑問は、鞄に入っていたセーラー服の上衣の首元に刺繍されたネームを見て晴れた。  棚埼蜜果《たなさき みつか》。  僕の地元で一番の――いや、全国でも指折りの――資産家の令嬢である。  そんな令嬢が田舎の公立中学に通っていたのは、将来の支配階級として、若いうちに庶民の暮らしを肌感覚として知るため。同時に、自ら望んで支配階級から下りたとき、日々の暮らしに困惑しないよう。  彼女の家、棚埼家では、男子は元服に際して将来の進路を選択する伝統があった。  それはかつては男子のみで15歳の誕生日だったそうだが、今は男女問わず中学卒業時。  ともあれ棚埼家の子女は、中学卒業と同時に、ある選択を迫られる。  つまり、棚埼家の一員として、生涯統領たる長子を支えて生きるか。生涯勝手の暮らしと、それを可能とするだけの財産分与と引き換えに、棚埼家の一員としてのいっさいの権利を放棄するか。  大半の棚埼家子女が前者を選択するなか、蜜果は後者を選択した。  そして総額10億とも20億とも噂される資産を手にした彼女は、自らの名義で都会にマンションを買うとともに、かの地の有名女子校に進学することを決めた。  そんな蜜果だ。一般家庭の子ならたいてい1着しか持ってない、冬用の制服の洗い替えを持っていたとしても不思議ではない。 (だから、きっと……)  なんらかの理由で、僕の鞄に洗い替え用の制服が紛れ込んでいたのだろう。  もう卒業したのだから、中学の制服は必要ない。それに、今さら誤って彼女の制服を持ち帰ったと申し出るのもはばかられる。  そのうえ、僕は――。 (蜜果、さん……)  心の中でさえ彼女のことを『さん』づけで呼び、手にしたセーラー服に顔を近づけた。  そして、上質でぶ厚い冬生地に染みついた彼女の匂いを、鼻腔いっぱいに吸い込む。  そう、僕は蜜果に惹かれていた。  彼女が棚埼家の令嬢だからではなく、蜜果その人に恋していた。  とはいえ、彼女と自分がつり合わないことも、僕は自覚していた。  蜜果が生粋の令嬢であるのに対し、僕はありきたりな庶民。彼女は手足がスラリと長い美人なのに、僕は男子として小柄で華奢で地味な容姿。成績でも蜜果は学校で一二を争っているのに、僕はよくて中の上。  蜜果との交際なんて夢想することすらできない僕にとって、彼女の制服は、天からの賜りもののように思えた。  洗い替えの制服をなぜ、蜜果が学校に持ってきていたのか。それがどうして、僕の鞄に入っていたのか。  細かいことを気に留める余裕もなく、僕は彼女の制服に夢中になってしまう。  はじめ、手で触れたり匂いを嗅いだりするだけだった。  やがて、その制服に袖を通すようになった。  僕は、男子としては小柄で華奢だ。身長は、蜜果よりほんのわずかに高い程度。身体各所のサイズも、彼女と大差ない。  調整式のホックを目いっぱい外に出せば、スカートはなんとか穿くことができた。肩周りは少々窮屈だったが、上衣も着ることができた。  いや、わずかばかりの窮屈さは、彼女に抱きしめられて身体の制約を受けているようで、かえって嬉しくも思われた。  そして、セーラー服姿で鏡の前に立ったとき、僕は息を飲んだ。  そこに映っていたのは、ショートカットの女子だった。僕と同じ顔をした女の子が、鏡の中にいた。  小柄で華奢。髭もほとんど生えない地味な顔。男子としてコンプレックスしかなかった僕の特徴が、地方の公立中学のセーラー服には似合っていた。  やがて、僕は蜜果の制服と、その制服を着ることの虜になっていく。  地元の公立高校に通うようになってからも、運動部にも所属しなかったから筋肉もつかなかった。節制して、太ることも避けてきた。  すべては、蜜果のセーラー服を着るためである。  身長がほとんど伸びなかったことも、幸運だと思えるようになっていた。  さらに同時に偽名で作ったSNSのアカウントに制服着用写真を上げたとき、ほんとうの女子だと思われたことが、僕を少しずつ狂わせていった。  そして3年後、都会の大学に進学を果たした僕は、蜜果のセーラー服を着て外出するようになった。  セーラー服を着た僕は、女の子にしか見えないはずだった。  この都会には、まだ僕のことを知っている人は、ほとんどいないはずだった。  実際これまで、僕のことを気に留める人はいなかった。  にもかかわらず――。 『ねえ、シロくん……シロくんでしょう?』  もし、声をかけられても、知らんぷりで立ち去っていたら。 『は、はい……』  答えてしまっていても、振り返らず足早に逃げていたら。  あとから思えば、それが運命の分かれ道だった。そうしていれば、僕の人生は違うものになっていた。  しかし僕は、声に魅入られたように振り返ってしまった。 「やっぱり、シロくんだ」  すると、有名女子校の制服に身を包んだ美しい女性《ひと》――棚埼蜜果が、妖しくほほ笑んでいた。 小説版(キャプションの続き)は次週掲載予定です。

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