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しれっと復刊。


最近更新が滞っておりましたが、2月はダウンしていたというわけです。インターネットから逃げ出して、海沿いの小さな町で架空の紙芝居屋さんをしたりしていました。そういう夢をみました。


〈目次〉

・かけらたましい

・魔女っ娘MOD(魔女っ娘モジュレーション)

・落書き(少数枚)

・刊行再開についての覚書

・最近の制作

・おまけ


・かけらたましい


 霧の向こうから大きなトラックがやってきて、異常に巨大な永遠駐車場を散歩中の自分のとなりに駐車する。


 なんとなく興味がわいたので、運転席を降りた作業員さんに「これは何を運んでいるんですか」ときくと、「これはかけらたましいの在庫なんですよ」と教えてくれた。


 なんでも、かけらたましいというのは、たましいの製造過程で発生した大量の端材を再利用するために、小さな人形のかたちに詰めたものらしい。それが時々、どこからか(おそらくはたましいの製造元だろうが)送られてくるので、それを一部の好きものたちに売りに行く途中だという。かけらといってもたましいはたましいなので、それぞれに意識になりかけの、知覚に似たものはあるとのこと。

「どうです、手に取ってみます?」

と聞かれたので、せっかくだからご厚意に甘えて、トラックの荷台を開けてもらい、なかから一体取り出してみせてもらった。


 例えるなら、手のひら大のクリオネみたいだった。手にハムスターを乗っけたときと同じくらいの温度があるが、触感はなめらかなマット加工のプラスチックみたいで、それが掌のうえでもぞもぞとせわしなく動くのだ。意識や思考はもたないけれど、たましいを持ったものに触られるのはわかって、それが何となくうれしいらしい。なんとなく、自分たちが感動したりしたときの、感情部分のそこにある「こころが動く感じ」のみを取り出したものに似ているのかな、と思う。


「ちょっと指で押してみてください」

と言われたのでその通りにしてみると、親指がたましいの表皮をつき破ってかけらたましいにめり込んでしまった。

「わっ」

嫌な感触がした。かけらたましいは一層ぐにぐにと動いて、手みたいな部分をバタバタさせる。

「これ、ちょっと、どうしたら、」

…パニック状態から我に返り、親指を引き抜こうとしたときにはもう遅く、かけらたましいは「くてっ」として動かなくなった。ほんのわずかに軽くなった気がした。


 あんまりのことに半泣きのわたしに作業員さんは続ける。

「それがかけらたましいの遊び方です。表皮の奥の、剥き身のたましいに触れてもらうのがうれしいんですよ、かけらたましいは。そうするととうとう死んでしまうんですけど、その瞬間ようやくかけらたましいは自分のたましいと触れ合ってもらって、救われるんです。」

そんな理不尽なことがあってたまるか、と言う。

「考えてみてください。この子たちのたましいは端材なんです。そのままだともう二度と、どこにも使われないまま廃棄されます。それならせめて有効活用して、最後に感覚で遊んでもらう方がたましいも救われるし、こちらとしても娯楽を提供できて双方に利益があるんです」


 大量のかけらたましいを積んで、卸売市場へと去っていくトラックを見送ってから、理屈は通っているはずなのに、誰もしいて不幸になる話でないはずなのに、わけのわからないかなしみでいっぱいになり、その場でしばらく泣いていた。


完(自分が加害をしたという事実もやりきれなかったのかもね。)


・魔女っ娘MOD(魔女っ娘モジュレーション)


 魔導系に進んでいく魔女っ娘たちは、一般的な学生や社会人に比べて、自分のからだやこころへの執着が薄いのはよく知られたことです。なにしろ魔法というものは自分の一部を現象に変換して放出するものであり(つまり「マジック・ポイント」というのは自分の中身といっても差し支えないわけです)、常時自分を消費したり、自分を補給したりするうちに、魂の外側の「こころ」と「からだ」を、不変の「魂」というものが着ている服くらいにしか思わなくなっていくのです。

 そして、その価値観の元で魔法を修めていく彼女たちは、卒業(明確な定義はなく、一人前の魔法使いとしてやっていく準備ができたものから、自然と魔導学校を離れる)するころには多くが命を落としたり、不可逆的に精神が変質したりします。残りはきみたちの世界で言う「健康体」のまま(いわゆる人間のかたちのまま)魔法を修めきるものや、適した形にからだやこころを作り変えながら魔法を修めていくものなどに分かれていきます。


 今回は後者について紹介していきたいと思います。自分で自分を改造(=MOD、モジュレーションという。)していく魔女っ娘たちのお話、「魔女っ娘モジュレーション」です。


○魅ォ里(みおり)ちゃん

 魅ォ里ちゃんは魔導学校在学中の2年次、転送魔法の実習中に足を損傷しました。彼女曰く、その瞬間、自分の体の一部が転送されて無くなる感覚を足掛かりに、「からだ」というものへの執着が薄くなったといいます。


 まず足を完全にオミットした魅ォ里ちゃんは、得意だった浮遊魔法を常に発動し続けて移動することを構想しました。浮遊魔法の常時発動には多大なMPを必要とするため、人工的な魔分生成器官である魔法袋をいくつも体に増設し(具体的には呼吸で常に空気が循環する肺と接続する)、からだの底部に魔法杖を下向きに2本埋め込む形で自由移動を実現したのです。ついでに体の底部を蔓状の、植物質の触手に変質させることで、必要があれば何かに絡ませたり地面に刺したりして、身体の位置を保持することができるようになりました(実質足にも似た役割をしている)。


 さて、他にも燃費が悪い代わりに性能の非常に高い高等魔法をたくさん習得している魅ォ里ちゃん。魔分生成器官の他にも、魔法活動をする際に多大なカロリーを必要とするので、食事の効率を上げるために以前使っていた小さな口を塞ぎ、代わりに首元に巨大な食事用の口を増設しました。専門技術をもった魔法使いへの依頼一回あたりの報酬は非常にはずむので、これだけの器官を満たすほどに食事量を増やしても、特に困ることはないそうです。今後は「首から上を身体と切り離し、頭は常に本拠地にある状態で、身体を遠隔操作する」などのMOD案も検討しているらしいです。


○夕雨戸(ゆうこ)ちゃん


 夕雨戸ちゃんはMODのなかでも、一般的な個としてのあり方をだいぶ放棄した方だと思います。まず前提として、夕雨戸ちゃんには友だちの魔女っ子がいて、その子は魔法使いとしての知識、魔術の発生経路の構成に関しては非常に稀有な才能を持っていた(通常の魔法使いの使う魔法よりもかなり繊細で、例えるなら雪国のスキー場で夜ライトに照らされる粉雪みたいな、見るものを情緒でぐしゃぐしゃにしてしまうほどの、とても綺麗な魔法が出せる)のですが、体内魔分の流れる量が非常に少ないので、魔法の発動回数が非常に少ないというジレンマを抱えていました。それはすなわち、彼女の魔法は実地では全く使い物にならないことを意味していたのです(発動試験の時は詠唱しながら何本も何本も魔材を飲んでいた。実地でそんな悠長なことはしていられない)。


 その子の才能に惚れ込んだ夕雨戸ちゃんは、なんとかして、たとえ自分を失ったとしても、その子の才能が世の中でいかんなく発揮されることを望んだといいます。夕雨子ちゃんは、本人と話し合った末、自分のからだそのものを魔分発生装置としてその子に搭載することにしました。杖とからだを癒着させたうえで、その子の右肩から先に、自分を「その子の右腕兼独立した魔分ジェネレータ」として接続したのです。


 その後、夕雨子ちゃんを搭載したその子は潤沢な魔分を使って、たいそうきれいな高級魔法をたくさん実地で披露し、ひとかどの魔法使いになったそうです。

(ちなみに副次的な利益として、夕雨子ちゃんたちに向けて撃たれた精神分析魔法などは、対象をうまくとれずにバグるらしいです。)


…このように、魔女っ娘たちのなかには魔法使いになる過程で、自分をMODするものもかなり存在するのですが、決して無秩序にMODをしているわけではなく、彼女たちなりの一定の法則性だったり美意識のようなものはやはりあるんです。そういういびつさの中の規範だったり、また肉体とこころを思うまま、気軽に壊しては直していってしまう、そういう「けして手の届かない価値観の飛躍」のようなものが、魔法使いたちに対する、なおさら大いなる畏れを、世俗のひとびとにもたせているのだろうな、と思います。


完(みなさんも魔女っ子MODを考えてみると楽しいかもしれないし、魔法使いというものの得体の知れないうつくしさを体感できるかもしれない。)


・落書き(少数枚)

かけらたましいの草案。

さかな覚書

なんだか悲しそうな葵ちゃん

魔女っ娘MODの草案。


とるりりのデモ 録音風景(あとでちゃんとスタジオで録ったけども。)


 今月分だとか、月刊くじら休刊前の最後の方のノートの中身を見るに、なんだかこう、単一のキャラクターとかは何となく描いてるんだけど、その後ろにあるものを書けていない感じがする。むしろ苦し紛れになんとか手を動かしている感がとてもあった。こう、頭の中が多層的に働かないというか、一番浅瀬の部分でしか個別の物語を味わえていないのが非常に歯がゆいなと、振り返って思いました。そういう部分がうまくいかなくなって、一旦は月刊くじらを継続できなくなったのだろうと今では思っています。


琴葉姉妹と研究所。対象物のみではなく、つたわりゃしなくても、こういうところまで自然と書きたいな。そう思うくらい日頃から頭を働かせることができたらいいなと思います。


・刊行再開についての覚書


 最近、というかここ数カ月ほど、自分が長い文章や曲を書くのが億劫になっていたように思う。現にコンテンツが身を結ぶ前にかなり頓挫しているし、今年の2月にはついに曲を書くことも含め、何にもできなくなってしまった。こういうことは何度かあったが、そのたびに「こころを強くもたなければ」という場当たり的な解決方法しか見いだせなかったし、それを材料に曲を書くのが正しいことだと思っていた。


 しかし、そういうことを繰り返すばかりだと、自分の作曲における最終命題は結局「できないよォ~…ひィ~っ…」というところに落ち着いてしまうわけで、なんならそういう自分に価値さえ見出すだろう。そいつはかなり頂けないし、もっといろいろなこと、もっと広範な気持ちやお話を取り扱っていたいので、今回はいっそ、しっかり頭を回してみることにした。つまり、そういう状況に浸かった状態から一度上がってみて、なにが自分をだめにしているのかを考えてみることだ。


 作曲ソフトを禁じ、インターネット機器を持たない状態で練り歩き、大きな公園に行ったり、奥多摩に行ったり、ふらふらとさまよったりしながら考えるうちに、その辺について大分整理が出来たので、自分の中の整理も兼ねて覚書としますが、まあこの章は読み飛ばしてもらっても結構です。


 おそらくものが書けない一番大きい理由は、制作をするにあたって、自分が明らかに「ひとに伝えようとしている」ということだと思う。なんなら、今年になってなおさら自分が観測されている側だという感覚が強まり、なおかつ恣意的な解釈をされることもかなり多くなったように思うのだけど、それに対して、わたしはおそらくずっと「正しく理解してもらおう」という姿勢を保っていたように思う。「こういう見方をされるのは嫌だから、なるべく見ないことにしよう」としつつ、目に入ってしまったらしっかりダメージを受けて、「じゃあ次は誤解のないようなものを作ろう」みたいな感じで。ただ、それはいたづらに自分の選択肢、楽しみの部分を削っていく。「何が好きで何が書きたいか」は、だんだん「何をどういうふうに書くべきか」に変わり、自分の知覚や感覚はどんどんおろそかにされていく。最終的には「そんな状態でも終われないこと」ばかりを書くべきことのように錯覚しだすから、まったくどうにもしようがない。


 そういう状態のまま、昔に還ることを夢見ながら書き続けるか、あるいは名前も姿も変えてどこかでやりなおすか。おそらくどちらを選んでも、自分の中で経験したことや、陥ってしまった価値観は変わらないわけだから、今より良くなることはないんだろう。


 「知覚を大事にする」ことをしなければならないと思う。自分自身が何を考えたか、何かを見たときに、どういう感覚がからだとこころを包んでくれただろうか。そういう水の中みたいなものに、いつだってどぼんと入れるようにしたい。そしてそれをまず、自分のために日記みたいに、曲や絵や怪文章なんかに翻訳することが必要だと思う。今の自分はその段階ですでに「仮想の他人」の侵入を許してしまっているから作るのがくるしい(日記描いてるときに横から覗かれたら「今書いてること、どう思われるんだろう」なんて思って書けなくなるじゃないですか。あれです。)。自分の中で普段制作するにあたって、知覚や感覚の内向的な翻訳段階と、それを他人に伝える段階を明確に分けたうえで、前者になるべくながい間たゆたうように心がけたい。知覚したことを「他人に魅力的に映るように伝えること」よりも「自分のために反芻して、あるいは変化させて、日記みたく書き記す」ことに重きを置きたい。


 そしてなんとなくその辺のバランスが良かったのは「月刊くじら」を刊行していたころだと思っていて(去年の3月までやってた連載記事)、あのときは少なくとも文章の上でなら、ちゃんと後者を優先させていたように思う(特に初期は)。それはおそらく、作曲よりも文章の方が趣味で書いているぶん、余計な矜持や「いいものを書かなけりゃ」がないからだと思う。その感覚を自分に教え込むための足掛かりになればと思って、今回「月刊くじら」を再開することにした。そうやって得たものをそのうち、曲をかくことに適用させることを、いまは目標にしている。

ワーイじゃない。



・最近の制作


 実は最近書いている(書かなきゃいけない)曲が6曲ほどあり、そのうちのいくらかはまだ表に出せない。本当はボカコレというやつに出たりして、お祭りの屋台群の光を目の端くらいにちらつかせながらひらひらと歩くのもいいなと思ったけど、そういう理由で今回はパスした。


 以前言った通り自分はボカデュオ(動画とか曲とか歌とか絵とか、色々な分野のモンが(モモンガみたいだ)あつまって、ひとつの作品を作る企画)に参加することにしたのだけど、これがまたとっても楽しい。わたしはほっといたら前述のようなことを延々悩み続けてしまうのだけど、そういうところから否応なしに引っ張ってくれるというか、現実が先に動いてくれるような気がしてありがたい。ちょっとした楽しさみたいなものを見つけ出すチャンスになっているな、と思うし、実際みんなとてもいいものを作る。ゆるやかにお楽しみに。


 それから、ボカデュオを境にすこし周りの者との交流に対してのハードルが下がったので、適宜情報交換や情報共有などを行うようにしている(まあそのたびに「本当に自分は景色や町としかうまく話せないんだな」と思い、自分の特性をちょっと恨めしくも思うのだけど)。でも色んなひとたちから色んな話を聞くのは楽しいよ。


 それから知己に頼んでホームページを作ってもらいました。


とってもいい。以前はツイフィールを使っていたんだけど、今度はシンプルにまとまっていて見やすいし、画面もにぎやかでいいね。


 ここだけの話だけれど、今後写真の中のほうにたくさんキャラクターを置いて(PC版だとクリックできる)、クリックするとどっかに飛べたりしたら楽しいだろうな、と思っている。これは本当にゆっくり更新するけど。


 ここのところはそんなふうです。多分最近の感じは、ひとりで同じところを延々と回っているのより全然いい。頭の中を整理してみて、自分がどうして色々できなかったか、それをどうしたら楽しくできるようになるかが分かってきて、なおかつそれを助けてくれるようなものたちも周りにいる気がしているので、あとは本当に自分がうまいことその流れにのれりゃァいいなと思っています。


・おまけ


短いBGM(ループ再生用にぴったり切ってある)

待合室


3月号のテーマ



 以上、なんだかレシートみたいな記事になっちまいましたが、実はまだ話すこと自体はいくらかあって、奥多摩で撮った写真だったり、肩にイマジナリーしらすを乗っけている話だったり、寿司屋でボロ泣きした話(ツイッターでちょっと話した?)だったり、火の玉みたいな流れ星を見た話だったり、楽器屋さんに行った話だったり、まあそのうち機会があればまたそういう話をします。こういうのを、ようやく長い文章としてちゃんと思った通り出力できるようになったのが本当にうれしいな、と思います。


 改めてにはなりますが、みなさまがたにおかれましては、日頃からご支援ありがとうございます。こんなふうにいきなりレシート状の記事が公開されることもあれば、まったく音沙汰がなかったりもしますので、どうかご無理はなさらず、自分のお財布事情と相談しながら気まぐれにプランに入ったり抜けたりしていただければな、と思います。本当にありがとうございます。


 そういうわけで、また次回の更新をおm






…おっと子供たちが紙芝居が見たいと呼んでいる。ちょっといってきます。



以上

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Anonymous

魅ォ里ちゃん足をとっぱらったのに足と似たような機能のものをつけちゃうのおっちょこちょいでかわいい