Home Artists Posts Import Register

Content


 ここは現実ではない。

 天の川銀河太陽系惑星地球、その星に住まう知的生命体である人類の歴史でいうところの二十一世紀初頭の日本国首都東京を模して形作られた箱庭空間。

 ここは、そういう特殊な空間なのだ。

 ただ、その空間の中心には『聖杯』と称せられる万能の願望器が存在している。

 時間も次元も、常識も法則も異なる世界から、『聖杯』に選ばれた『マスター』が強制的に呼び出され、そのマスターたちは自分たちの『力』である『サーヴァント』を召喚する。

 7人のマスターと、7騎のサーヴァント。

 彼女たちをPC(プレイヤーキャラクター)とし、聖杯をGM(ゲームマスター)とするならば、この東京の街に溢れかえっているそれ以外の、まるで生きている命のように見える存在は、実際は命を持たずにそれぞれの世界に実在した人物たちの行動パターンをインプットされただけのNPC(ノンプレイヤーキャラクター)だ。

 聖杯という名のGMは、この世界で唯一の命であるマスターに戦えと命じた。

 勝ち抜いた一人に奇跡を与えると、勝手に呼び出しておいて、勝手に決めてしまった。

 通常の聖杯戦争と異なり、脱落なんて許さないと。

 残酷に、冷酷に。

 戦え、戦え、と。

 聖杯は、戦いを命じたのだ。



「……」


 少女――――古見硝子もまた、そのマスターの一人であった。

 硝子は俯向いたまま、まるで氷像のような整った顔立ちを顔色一つしか変えずに、見覚えのない通学路を怯えながら歩いているが、その実、内心は恐怖に泣き叫んでいた。

 硝子は、奇跡なんて求めていない。

 当たり前のようにあった穏やかな生活だけを求めていた。

 誰も殺したいなんて思ったこともないし、誰にも殺されたくはない。


『マスター……』


 そんな硝子の耳に、硝子にだけ届く声が響いた。鈴のなるようなきれいな声に、硝子は己の下腹部が疼くことを感じた。いやらしい意味ではない。硝子のシミひとつない美しい肉体、その下腹部には薄く怪しげな紋様が刻まれているのだ。もちろん、硝子が己の意思で刻み込んだものではない。

 その淫紋の名は、令呪。

 サーヴァントに対する絶対の命令権を意味する、三角で刻み描かれた呪紋なのだ。すなわち、それは硝子がマスターである証。誰かにこの令呪の存在がバレれば、硝子がマスターだと知られてしまうということとなる。


『恐ろしいかもしれませんが、普段通りの行動を心がけてください。NPCたちは皆、そのように動いています。怪しいと思われる行動を取れば、敵のマスターやサーヴァントにあなたの存在を気取られるかもしれません』

「……」


 硝子は空気を震わせない声に対して、無言のまま頷くことで返事をする。その声は聞こえるものの気配がまるで感じられない硝子のサーヴァント『暗殺者(アサシン)』のクラスで召喚された存在だ。

 と言っても、硝子は暗殺など目論むつもりは到底ない。その硝子の心をアサシンも承知しているからだろう、斥候の役目だけに努めてくれていた。

 正直に言えば、アサシンのことすら恐ろしい。

 姿も見せない、暗殺者なのだ。普通の女の子の硝子にとっては恐怖で泣き出してしまいそうになるぐらい、怖ろしい存在だ。それでも、アサシンは自分を守ってくれると言ってくれた。


「……」


 ありがとう、と。

 呟こうと思ったのに、小心者で人見知りの硝子の口はうまく動いてくれない。自分のために頑張ってくれる人にお礼も言えない。そんな自分のことが硝子は一番嫌いで、どうしようもなく悲しくなってしまった。



 アサシンのサーヴァント、静謐のハサンは背を真っ直ぐに伸ばしながら平然とした顔で歩いてゆくマスターの古見硝子を見守っていた。聖杯戦争において、自身を召喚してみせた可憐な少女だ。そして、聖杯戦争という個人と個人の戦争に対して強い忌避感と恐怖感を覚えており、戦意というものを失ってしまっている。

 一方で、静謐には聖杯にかける願いはある。硝子を魅了して良いように扱って、優勝を目指す道もあるのだろう。だが、静謐にはその気が、不思議なことに起こらなかった。このなんでもないように振る舞うマスターの少女が、夜、自室で一人震えて泣いていることを知っているからだ。


 ともに青春を過ごしていた友人もいない。

 かけがえのない家族たちは命を持たない偽物。

 味方なんてどこにもいない、なのに、命を狙ってくる敵はいるかもしれない。


 湧き上がってくる恐怖は途切れることなどなく、そして、その恐怖は決して大げさなものではない。そんな事実に耐えられるほど、硝子は強い人間なんかじゃない。このお人形さんのように美しく、誰もを魅了する絶世の美少女は、ただの女の子なのだ。


『……なのに、私にはその体を抱きしめてあげることも出来ない』


 昨日の夜、誰にも抱きしめてもらえなくてベッドの中で静かに泣いているこの女の子を、静謐は自分に重ねてしまった。改めて、そんな泣いている女の子を抱きしめてあげることも出来ない自分がどうしようもなく嫌になってしまった。血と肉と毒で塗れたこの体と魂で、どうしてこんな当たり前のように生きていた普通の女の子を抱きしめることが出来るだろうか。

 何も出来ない。

 ハサンである自分に出来ることなんて。


『殺すことしか、出来ない』


 静謐のハサンは、覚悟を決めた。

 この少女を、暗殺者としても中途半端な自分では救うことは出来ない。かつて、自分がハサンであることにすら耐えられなかった、19人いるハサン・サッバーハの中で唯一偽物のハサンである自分では、なにも出来ない。それでも、この震えて眠る女の子のためになりたいと、柄にもなく思ってしまった。その毒を、信仰のためではなく、女の子を助けたいと思った自分のために振るう覚悟を決めたのだ。


『敵のマスターを……殺してみせる……』


 静謐のハサン。

 ハサンでありながら強い使命も持たなかった、暗殺者としてはあまりにも天性の才能を所持しながらも、ハサンとしてはこれ以上ないほどに未熟なハサン。

 その在り方が破綻しているハサンが死後に至って始めて、自分のために殺しをすると、自分の頭でその暗殺者としての脅威を振るわんとしているのであった。



 だが、硝子の哀しみは。/だが、静謐のハサンの決意は。

 全て、滑稽なものであった。


 これは、聖杯戦争などではない。

 これは、性杯戦争。

 薄汚れて爛れた欲望が、男にとってだけ都合の良い欲望が、世界を歪めて作り上げたモノ。


 悲劇ではない。

 英雄譚ではない。

 喜劇ですらない。


 これは、単なるポルノショー。

 美しい女たちが、男たちの毒牙にかかるために集められただけの、どうしようもない醜悪なショーなのだ。


 古見硝子と静謐のハサンが、男の欲望によってその心すらも都合よく捻じ曲げられるまで。

 あと――――。


Files

Comments

No comments found for this post.