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 ◆  禍福は糾える縄の如し。  幸福のあとには不幸が、不幸のあとにはやってきて、人生においての幸不幸の総量は変わらない。  だからまあ、今が悪くたって前を向いてさえいりゃ、いつかは幸せになれる時が来る。        ――そんな言説、クソ食らえだ。     「やさぐれ猫おじさんが不幸な目に遭う話」  頭蓋に錐をねじ込まれるような激痛で、渋々と目を覚ます。  視界に広がるのはいつもと変わらないシミだらけの天井。開け放たれた窓から流れる下町独特の臭気を帯びた風が、襤褸布のカーテンを小さく揺らしている。 「……痛ってえ、クソ」  半壊したベッドから体を起こす。身体が重い。全身の血管を巡る血を鉛にでも挿げ替えられたようだ。ぐわんぐわんと響くような頭痛が頭の中を駆け巡り、こみ上げてくる胃液に口を抑え込む。  喉までせり上がってきた熱い液体をどうにか抑え、深く息を吐く。いつもと同じ、最悪の気分での目覚めだった。  部屋に立て掛けられたヒビだらけの姿見には、気だるそうな顔つきの猫人の姿が浮かんでいる。一糸纏わぬその肉体は猫人の例に漏れず小柄で、まるで枯れ枝みたいに痩せ細っている。ロクに手入れもしていない灰色の毛並みはごわごわに毛羽立ち、さながら襤褸雑巾のような様相を呈していた。  部屋の床に散乱する酒瓶を蹴り散らかし、ふらつく足どりで立ち上がる。昨日の寝酒のせいか、まだ全身がふわついていた。壁伝いにどうにか歩いて、部屋の出口までたどり着く。 「……チッ」  扉越しに漂ってくる、空腹を揺さぶる香り。燃えるように湧いてくる食欲とは裏腹に、俺は露悪的な舌打ちをした。  勢いよく扉を開けば、スープの煮えるいい香りが流れ込んでくる。それと同時に、調子はずれの滅茶苦茶な鼻歌が部屋に響いている。俺は思い切り眉をしかめ、キッチンに立つ大柄な熊獣人に声を掛けた。 「おい」 「うわっビックリした! ……あ、親分やっと起きた、はざっす」  低く唸るような俺の声に一瞬身体を震わせ、熊獣人は振り返る。苦虫を噛み潰したような表情で睨み上げる俺とは真逆に、茶毛の熊獣人は朗らかに微笑んでみせた。俺は盛大にため息を吐く。 「はざっす、じゃねえ。なんで当然のように俺の家に入り込んできてんだよ」 「や、鍵開いてましたし」 「家の鍵壊れてんだよ。つか開いてても入ってくんじゃねえ、クソガキ」  当然のように住居侵入を目論む眼前の熊獣人は、名前をクーという。俺の体躯の二倍ぐらいのタッパがあり、年齢は俺の半分よりも下だ。以前仕事の依頼人として知り合って以来、なぜか勝手に自分のことを親分と呼んでくる。正直鬱陶しいことこの上ない。 「つーか裸じゃないですか。服着て下さいよ」 「ここは俺の家だ。俺がどんな格好でいようと勝手だろ」 「そりゃま構わないっすけど。でもオレ口が柔らかいから、師匠のチンチンがちっさいこと眼に焼き付けちゃうし、滅茶苦茶方々に言いふらすけど、いいっすか? 尾ひれもめっちゃつけるし」 「……」  おまけに口も回る。なんだったら種族上、力さえもクーの方が強いだろう。力でも言葉でも叶わないために、こうして毎日のようにやり込められるのが俺の日常となっていた。 「スープ煮込んでますから、さっさと着替えてきてくださいね」 「……チッ」  俺は本日二度目の舌打ちをし、部屋へと取って返す。床に散乱していた衣類を適当に引っ掴み、苛立ち交じりに袖を通した。  いつだって、人生とは上手く行かないものだ。ゴミみたいな家に生まれ、ガキの頃から必死になって汗水垂らして小金を稼ぎ、ようやく作ったまともな家庭も不況のせいで台無しにされる。嫁も子供も去っていって、残されたのは小汚い猫人ひとりだ。  今では豚小屋みたいに狭いボロ小屋に押し込められ、楽しみと言えばゲロみたいな味の安酒を煽るぐらい。人生の目標などとっくに潰え、生きている限り死んだように毎日を送り続けるしかないのだ。  ろくでもない。本当にろくでもない人生だ。楽しいことなんて、何一つとしてなかった。努力も夢も、何一つとして上手く行くことはなかった。いつしか希望を持つことさえ忘れてしまって、最初から諦めた方が楽だという事に気付いてしまった。 「……クソ」  脳裏に蘇る、無数の嫌な記憶。ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしって、こみ上げてくる苦々しいものを忘れようとする。  苛立ち交じりに部屋を出れば、クーと顔を突き合わせる羽目になる。自分より年下の女にガキのように世話を焼かれている現状に、やり場のない苛立ちと情けなさがふつふつと湧き上がってきた。 「どしたんすか親分、二日酔い? なんか機嫌悪そうすね」 「放っとけ、クソガキ」 「なになに、なんかあったんすか? オレに話してくださいよ、めっちゃ聞きますよ」  俺が苛立ちのままにいくらぞんざいに扱っても、クーはそれを意にも介さない。自分一人で空回りしているようで、より一層腹立たしい。 「あちょっと、どこ行くんすか。もうすぐスープ出来上がりますよ」 「便所」  まとわりついてくるクーを押しのけて玄関に向かい、外へと出る。  家賃格安のボロ屋のなかには便所がなく、外にある集合家屋用の共同便所を使うことになっている。このご時世だというのに未だに汲み取り式で、目隠し用の囲み板や屋根板にはところどころ穴が開いていて思い切り中が見える。  加えて、どういう訳か通り沿いに設置してあるせいでプライバシーもへったくれもあったもんじゃないが、そこで用を足したところで今更減るものもない。恥じらいなんて繊細なものを持つ連中が、こんなオンボロ小屋に住むはずがないからだ。 「……あ?」  徒歩十秒の便所までたどり着き、そこで足を止める。入り口の歪んだ木扉に、「使用禁止」の張り紙が張ってあったからだ。  張り紙に目を凝らせば、下部に使用禁止の理由が記載されていた。 「祭事により汲み取り車が通行不能、衛生面を考慮し本日夕方まで使用禁止とさせて頂きます……マジかよ」  そういえば、今日は勤労感謝のパレードだかなんだかで、街道の車両通行が禁止されていた。なるほど、そのせいか。 「クソ、めんどくせえ……」  頭を掻きむしる。昨晩はいつもより瓶を開け過ぎたせいか、起きた時から結構な尿意を覚えていた。扉越しにつんと漂ってくるアンモニアの臭いが下腹部に溜まったものを連想させ、排尿を促してくる。  色々考えたが、夕方まで我慢し続けることはまず無理だ。少々億劫だが別の便所まで足を運ぶほかない。だが、この近くに公衆便所はなく、一番近いところでもまあまあの距離を歩かなくてはいけない。さてどうするか。 「……待てよ」  なにも公衆便所でなくとも、知り合いとかに借りればいい。訳を話せば便所ぐらい気軽に貸してくれるだろう獣人の知り合いが、幸運なことに近くに店を構えていた。  尿意は少しずつ膨れ上がっていく。さっさと済ませて、自称子分のクソガキを家から蹴り出して、それからいつものように自堕落な生活を始めればいい。 ◆ 「駄目だ」  開口一番、けんもほろろ。  寝起きだったのか心底憮然とした表情を浮かべた虎獣人は、俺の頼みにきっぱりとノーを突き付けてきた。 「まだ店は開いてねえ。帰んな」  しっしっと手で払われ、扉を閉められそうになるのを半身を滑らせて阻止する。 「ちょちょっ、待てって! 何も別に呑みたいって言ってる訳じゃなくてだな! おいビリー!」  虎獣人――ビリーは、俺の家の近くで酒場を構えている。家主の厳つい人相にふさわしく、俺も含めてろくでもない連中ばかり集まる治安の悪い場所だ。それが中々に心地よく、度々足を運んでは飲んだくれることがある。  つまり常連なのだ。まだ店は開いていないが、常連の頼みなら便所の一つ二つ貸してくれるだろう――などという目論見が見事に撥ね退けられそうになり、俺は懸命に食い下がった。こっちも死活問題なのだ。 「ああ、解ってるさダグラス。便所が使えなくて、だから代わりにウチのを使わせてほしいってことだろ」 「そういう事さ。な、頼むよ。便所ぐらいいいだろ」  徒歩五分の道のりの合間に、眠りから覚めたらしい膀胱の活動が大分活発になっていた。中々に切羽詰まってきて、尿意を堪えているように見せない歩き方をするのも一苦労だ。  ここで見捨てられたら、それこそかなりのピンチだ。よっぽどないと思いたいが、最悪の場合は適当な物陰で済ませなくてはならないだろう。酔っている時ならともかく、素面でそれをやるのは少々ばかり気恥ずかしい。 「頼むよビリー、もう結構やばいんだ。常連のよしみってやつで、頼む」 「常連、ねえ……」  両手を合わせて拝む俺の姿を冷めた目で見降ろして、ビリーは大袈裟にため息を吐いた。 「な、なんだよ」 「常連ぶるのはいいが、その前に溜まったツケを払いやがれ。お前だけ溜まってるもんをすっきりさせるのはフェアじゃないよな」  痛いところを突かれ、俺は頬を引くつかせた。  来るたび来るたびツケで飲んでいたせいで、今やツケの総額は万単位にまで膨れ上がっている。耳を揃えて返すなんてことが出来るほど金持ちじゃないし、そもそも今財布を持ってきていない。 「……そ、それとこれとは別問題だろ」 「問題かどうかはオレが決める。払えるか?」 「……無理だ」  俺が首を横に振るや否や、首根っこを掴まれて外へと放り出される。 「いって……! おい待てビリー! 頼むから――」 「家に帰ってオムツでも付けてろよ、お似合いだぜ」  最後の抵抗を遮るように捨て台詞が吐き出され、ガチャンと激しい音を立てて扉が締められる。 「おい待ってくれ! おい! 店の前でションベンするぞ! おい!」  扉に縋りついて叩く。声を荒げて扉の向こうにいるだろうビリーに声を掛けるも、返事は帰って来ない。 「ああ、クソ……!」  これはもうダメそうだ。身から出た錆とはいえ、こんな無情なことが許されるものなのか。抗議のわめき声でも上げてやりたいところだが、生憎と膀胱は少しずつ限界に近付いている。本能的に、もう一刻の猶予もないだろうことを理解する。 「やべえ……っ、クソ、どうする……」  このままでは本気で漏らしかねない。かといって立ちションするにしても、この辺りは人目に付きやすい場所ばかりだ。最悪衛兵にしょっ引かれて罰金だのなんだのという面倒な話になりかねない。  もうこうなれば、多少遠いが公衆便所を目指して歩くしかない。大通りを横断した先にある公園なら、確か小さな公衆便所が一つあった筈だ。 「……クソ、なんでこんなことに」  何が悲しくて、ぱんぱんに小便を抱えた腹で歩かなければならないのか。いつもいつも不幸ばかりだが、今日のは一段と質が悪い。尿意を我慢してあちこち歩きまわるなんて、屈辱的にもほどがある。  それでも、どうにかしない訳にはいかない。いい年したおっさんが小便を我慢できずにお漏らしなんて事になったら、俺はもう一生涯立ち直れないだろうからだ。 「不幸、ばっかりだ……!」  歯を食いしばり、公園の方へと歩き出す。まったくもってクソッたれな人生だ。 ◆  本来なら十分も歩けば辿り着くはずの公園に、その倍の時間をかけて辿り着く。  その原因は、今日が祭事の日であったことだ。勤労感謝のパレードだか何だかで大通りは封鎖され、楽隊の行列が通り過ぎるまで横断することも出来ない。何かが悲しくて尿意を堪えたまま楽し気な音楽を聴かなくてはいけないのか。  ドラムの音が腹に響くたびに、少しずつ引き締めていた括約筋が緩み、膀胱の水面が揺さぶられる。そんな拷問に等しい時間をなんとか耐え抜き、ようやく公園までやってきたのだが。 「ああ、マジかよ……」  公園はパレードを待機する連中でごった返していた。レジャー気分なのか、そこら中でシートを広げて楽しそうに寛いでいる。  それほど人が居るという事は、当然便所も混雑している訳だ。小さい便所は男女の区別がないらしく、男女入り混じったうんざりするほど長い行列が出来あがっていた。  人気があるから、便所の裏とかの物陰で用を足す訳にもいかない。えげつない行列に並ばされるのは正直嫌でしかないが、とはいえ今更別の便所を探そうという気にはならない。パレードで時間を喰われたせいか、膀胱はもう破裂寸前だった。  渋々行列に並ぶ。並んでいる間にも尿意の波は荒れ狂い、その度にさりげなく足踏みをしたり足を交差させたりしてやり過ごす。我慢の限界がすぐそこまで来ていた。吐く息は荒く浅くなり、シャツの下にじっとりと嫌な汗がにじんでいく。 「……っ、んうっ」  腹の底から、呻き声が漏れる。下腹部が張り詰めていてキリキリと痛む。しかし耐えるほかに道のりはない。  今ここで漏らせば、行列に並んでいる奴ら全員の嘲笑の眼に晒されることになるからだ。せめてものなけなしのプライドが、それだけは御免だと叫んでいた。  一人、また一人と列が進む。便所の入り口から少し離れた場所から、終着点である薄汚い小便器を睨みつける。  早く出したい。早く出してすっきりしたい。小便器の前に立って、ズボンとパンツを下ろし、腹に力を込めてしゃあしゃあと出し切ってしまいたい。それだけが今の俺の望みだった。  また一人と列が進み、ようやく便所の入口へと差し掛かる。あと少し、あと少しだ。今小便器の前に立っている二人の内、どっちかが去れば、この地獄のような尿意からようやく解放される。 「はあ、っ……ん、っぐう……」  便所の入り口に漂う強烈なアンモニアの臭気に、嫌が応にも尿意が加速する。足をきゅっと縮め、入り口の壁に寄りかかる。誰がどう見ても、限界寸前まで尿意を我慢した薄汚い男の姿がそこにある。しかし、もう、体面を気にしている余裕はない。  永遠にも思えるほどに長い時間を過ごし、小便器に立っている一人が用を足し終えたのか去っていく。  ああ、やっとだ、やっと解放される。やっと、小便が出来―― 「おい、そこのお前!」  便所に立ち入ろうとした俺の首根っこを、何者かが後ろから掴み上げる。  ふわり、と宙に浮き、大地に踏ん張ることで堪えていた尿意の一部が無慈悲にも開放される。 「……っ、くっ」  じわり、と嫌な熱がパンツに滲む。そのまま全部溢れ出てしまいそうになるのを、必死に腹に力を込めて抑え込む。 「な、なんだテメエ……っ!」  ようやく便所にありつけそうだったのに、最悪のタイミングでとんでもない横やりだ。俺は顔を回し、俺の首根っこを掴んだ下手人の姿を拝む。  それは見覚えのあるサイ獣人だった。俺の倍以上の巨漢で、顔面は岩のように厳つい。表情はまさしくぶち切れ寸前といったところで、俺は厄介ごとの予感を強く感じ取った。 「よう、おれのことは覚えてるよな。会いたかったぜ、ポンコツクソ修理屋さんよォ」 「……チッ。嫌って程覚えてるさ、稀代のクソ客め」  壊れた小型機械の修理で日銭を稼いでいる俺に、思い出の品だとかなんだとかの懐中時計を持ち込んできたのがこのサイ男だ。かなりの年代物、結構な値打ちものらしいそれを修理してくれ、という依頼だった。  俺は一度断った。成り行きで請け負ってるだけで、別に仕事に対する熱意もなければ真っ当な知識もない。見よう見まねで今まで何とか凌いできたが、お高いものに関しては正直責任が持てない。 「だから俺は拒否したんだ。あんな高くていいものは俺の手に負えないって」 「んなこと知るかよ! さらにブッ壊したのはてめえだろうが!」  がくん、と身体を揺さぶられ、はずみでいくらか漏れ出る。股間を抑えて凌ぎたいところだが、今ここで尿意を我慢している素振りを見せれば、サイ男は間違いなく俺を辱めようとするだろう。どうにか、なんでもないように虚勢を張るしかない。 「お前がどうしてもって食い下がってくるからだろう! おおかた安金で直して貰いたかったんだろうけどな! つか、どうなっても知らないって念を押し――」  じゅうっ。  沁みる。チンコの先端に熱いものが迸り、俺の心臓は跳ね上がった。 「――っ!」  弾かれたように便所の方に視線を向ければ、列は既に進んでいる。俺が小便をするはずだった小便器には、既に他の野郎が気持ちよさそうに小便をぶつけていた。どうやら俺は列を外れた扱いになるらしかった。  ああクソ、本当についてない。よりにもよってなんでこんな緊急事態に、こんなめんどくせえ奴に捕まっちまうんだ。 「ああもう! とにかく放しやがれ!」  このままだと、本当に大多数の前で小便を漏らす羽目になる。便所の目の前でお漏らしなんて、今どきガキでもそんなことしないだろう。だがそれが現実になるのも時間の問題だ。とにかく、なんとか切り抜けなければ……! 「クソ! このクソ力が! 放し、やがれ……っ!」  尿意を堪えつつ、首根っこを掴まれたままじたばたと暴れまわる。しかし小柄な猫と大柄なサイとではパワーの差は歴然で、俺の必死の抵抗を受けてもサイはびくともしない。 「なんだお前、えらく必死だな。……ああ、もしかしてオシッコ漏れちゃいそうか?」 「……っ!」  人の神経を逆撫でするようなニタニタ笑みに、性格の悪さが浮き出ている。仮に俺が小便を漏らしそうになっているとして、絶対に手を離してはくれないだろう。それどころか、漏らしたのを口汚く罵られるかもしれない。 「ほらほらどうした? もう限界か? しーしーでちゃいそうかァ?」 (ああ、クソ、クソ……! ションベン、もう、もれちまう……っ!)  乱暴にゆさゆさと全身を揺さぶられ、膀胱の中にたまったものがたぷんと揺れる。強烈な尿意に歯を食いしばる。  だがもう、ここからどうしようもない。どんなに暴れても振りほどけず、サイが手を放してくれる確率は万に一つもないだろう。  いよいよ万策尽きたという訳か。もうこのまま力尽きて、無残にも小便を漏らすしか―― 「……いっで! 誰だ、石投げやがったのは!」  どこからともなく飛んできた小石が、狙いすましたかのようにサイのこめかみに突き刺さる。突然のことに驚愕したのか、サイの手が緩み、俺の身体は地面に落ちる。 (しめた……!)  痛みにこめかみを抑えるサイ。完璧に無防備な状況だが、今ここで逃げてもすぐに追ってくるだろう。尿意を極限まで我慢した状況では、どう考えても一瞬で追いつかれてしまう。ならば。 「喰らえ、クソ野郎!」  拳を強く握り締め、今までの苛立ちを全部ぶつけるような勢いで、サイ野郎の股間を思い切り殴りつける。ぐにん、と金玉の柔らかい感触が、ズボン越しに伝わってきた。 「――はぐォっ!?」  幾ら屈強な肉体を持つサイ獣人と言えど、ここばかりは鍛えられない。雄として忌避すべき一撃をモロに受けたサイの顔は一瞬にして青ざめ、股間を抑えたまま音もなくその場に崩れ落ちる。  同じ男としてキンタマを狙い撃つのは最低の行為だが、こっちは小便を漏らすか否かの瀬戸際だ。悪いが大人しくくたばってくれ……! 「……お、あ゛ッ……ま、までぇ゛……ッ!」  男の急所を思い切り殴り抜かれ、苦痛と憤怒の入り混じった表情をサイは浮かべた。捕まったら文字通り八つ裂きにされそうで恐ろしい。  便所に並ぶ行列はさっきより長くなっていて、再度並び直すのは色々な意味で自殺行為だった。列の行列で無様に漏らすか、或いは股間の疼痛が収まったサイ男に引っ掴まれて酷い目に遭わされるか、その二択しかない。 「待てって言われて……待つ奴がいるか……ッ!」  俺は脱兎のごとく――溢れ出そうになる膀胱をかばいながらなのでそこまで早くはないが――その場から駆け出した。目指す場所の目途などもうない。とにかく、少しでも人気のない場所を目指して走るほかに、俺のすべきことはなにもなかった。 (ションベン……! どこでもいいから、出せる場所……ッ!) ◆  パレードに姦しい大通りの人混みを駆け抜け、家々の隙間にある小さな裏路地へと雪崩れ込む。暖かい大通りとは裏腹に、裏路地は冷え切ってじめじめしている。  湿った煉瓦の壁に背を預け、荒く息を吐く。全身の冷や汗とチビッた少量の小便がシャツとパンツに張り付き、死ぬほど気持ちが悪い。  漏らさずにここまで来れたのは奇跡だった。火事場のクソ力とでもいうべき忍耐力が発揮されたおかげで、大通りで盛大に粗相をするという最悪の展開だけは免れたわけだ。限界を超えて仕事をしてくれた俺の膀胱に感謝を告げたいところだが、生憎もう一刻の猶予もない。  周囲を見渡す。人気はないが、この場所はパレードの通りに面していた。万が一大通りから覗かれたら、放尿の一部始終を容赦なく目の当たりにされてしまうだろう。流石にここではできない。 「……もう少し、奥へ」  一歩一歩、満杯になった膀胱を刺激しないよう慎重に、裏路地の奥へと足を進める。すぐ近くに、大きなゴミ箱があった。その裏ですれば、全身は隠せなくても下半身を隠すことぐらいはできる筈だ。 (ションベン、ションベン……出る、出るでるでる出ちまう……ッ!)  一歩足を踏み入れるたびに、微妙な振動が膀胱に伝わって、パンツの染みを広げていく。  壁に手を突き、もう片方の手で股間を握り締め、前のめりになりながら歩く姿は死ぬほど滑稽だ。いい歳した男がこんな姿を晒しているなんて、あの自称子分にでも見られたらどんな顔をされるやら。  辿り着いたら一瞬で出せるようにベルトを緩め、チャックを下ろしておく。  心臓がバクバクと波を打つ。あと数歩で目的地だ。  この溜まりに溜まったションベンを、ようやく解放出来る時が――! 「おい、そこのお前! そこで何をしている!」  じゅっ。  急に背から声を掛けられ、俺は弾みでいくらか小便を漏らした。  振り返る。路地の入口に立っているのは犬の衛兵だった。パレードの監視係、だろうか。 「な、なんだよ……」  俺の声は泣きそうだった。せっかく、やっと誰にも邪魔されずに小便が出来る場所を見つけたと思ったのに……!  その場でフリーズする俺に、犬の衛兵はつかつかと歩み寄ってきた。壁に寄りかかっている手を取られ、体ごと地面に勢いよく抑えつけられる。 「あっ、がッ……!」  受け身も取れず、思い切り地面に叩き付けられる。なんだこれは、一体何が起こっているんだ……! 「動くな! ようやく見つけたぞ、薬物の売人め!」 「……はぁ!?」  急に現れたと思えば、どうやら犬は俺の事を薬物の売人だと勘違いしているらしかった。  当然ながら濡れ衣だ。自分は一度なりとも薬物に手を染めたことはないし、そもそもそんな金があれば酒を買っている。 「な、なんの事だよ! おいふざけんな、離せ……ッ!」  膀胱の括約筋が、少しずつ緩んでいく。尿道に、じわりじわりと熱いものが流れ込んでくる。 「抵抗しても無駄だ! この辺りで薬物の売買が行われていることは調べがついている! さあ薬物を出せ!」 「ぎ、あ、があっ……!」  ギリギリと腕を固められ、激痛に喘ぐ。しかし痛みなど今はどうでもいい。 (ションベン、ションベン漏れる……ッ!)  あと一歩のところで拘束され、さっきのように身動きが取れない。素人であるサイと違って今度は衛兵だ、えげつないほどの力で抑え込まれてしまえば本当にどうしようもなかった。 「ち、違う! 売人なんかじゃねえっ! 本当だ、信じてくれ!」 「ではなぜこんな場所にいる!」 「そ、それは……」  言えない。小便がもう我慢できなくて、路地裏で立ちションしようとしていたなど。そんな恥ずかしいこと口が裂けても言えないし、言ったら言ったで軽犯罪法違反とかなんとかで豚箱までしょっ引かれるからだ。それに、仮にそれを言ったとして、ここで立ちションすることを衛兵が認めてくれるわけがない。  だがもう言うしかない。でなきゃ本当に売人扱いされちまう……! 「……ションベンだよ! ションベン! 我慢できなくて、そこでしようとして!」 「嘘をつくな売人め! オラ立て! 詰所まで同行してもらうぞ!」 「なっ、ぐあっ!」  渾身の訴えも無視され、両手を後ろに回され、手首に枷を嵌められる。  頭を掴まれて立たされたかと思えば、ダメ押しとばかりに後から蹴り飛ばされる。 「――っ! あっ、あ、ああ……っ」  蹴り飛ばされ、おもむろ地面に倒れ込む。  その衝撃で、ついに限界が訪れた。  ――じょろっ、じょろろろろろろろろ……。  チンコの先端から、勢い良く生暖かい液体が溢れ出す。  ぎちぎちに引き絞られていた膀胱の括約筋が、白旗を上げたように緩みだしていく。 「……っ、ああ、いやだ、クソ、クソッ……!」  股間を抑えようとしても、腕は背中に回され、手首には枷がはめられている。がちゃがちゃと鎖の擦れる音だけが無常に響く。  一度堰を切ったように溢れ出せば、もう止まることはない。小便を止めようと股間に力を入れようとしても、強烈な脱力感に遮られる。ぱんぱんに張り詰めた膀胱から、ゆっくりと、少しずつ勢いを増して小便が流れ出ていく。 「ああっ、はあ……っ」  パンツを伝ってケツの方までびっちゃりと濡らし、太腿を伝ってズボンまでぐしょぐしょに濡れ染みが広がっていく。うつ伏せになった下半身を伝って、ヘソの方まで小便が広がっていった。  全身にイヤなむず痒さが広がり、酷く不快だった。しかし手枷のせいで全身を掻きむしることも叶わない。路地裏の冷たい風が、しとどに濡れてゆく身体を冷ややかに撫であげた。  つん、と鼻を突く濃いアンモニアの香りが周囲に漂い始める。しかし小便はまだまだ止まりそうにない。倒れ伏した俺の身体を中心に、黄金色の水溜りがどんどん広がっていく。 「ああ、クソ……っ」  限界寸前まで溜めに溜めたションベンが勢いよく流れ出していく。その虚脱感にも似た強烈な心地よさに、荒く息を吐き付ける。性的な快感がぞくぞくと身体の中を迸り、開放感に身体を委ねる。  己の状況の余りの惨めさに、目尻にじわりと涙が浮かぶ。いい歳した男がションベンを我慢してあちこち駆けまわった挙句、結局堪え切れずにお漏らしをしてしまったなど、こんな恥ずかしいことがあるか。己の矮小さに、消えてなくなってしまいたい。 「ふん、それで一芝居打ったつもりか! 詰所まで来てもらうぞ!」 「待ってくれ……まだ出てる……」 「知ったことか! さあ立て!」  もう一度立たされ、路地の入口まで歩かされる。チンコの先端からまだまだ続く放尿が、既に水浸しになった下半身を通じて地面へと流れ出ていく。  大通りには多くの人が居る。全身を水浸しにした、近づかずとも強烈な尿臭を放つ男を見て、群衆が何を思うのかは、想像しなくても簡単に思い至れることだった。 ◆  詰所での数々の尋問は、思い出したくもないほどに酷いものだった。  着くや否や地下の尋問室に通され、服を脱がされ全裸にされる。全身をまさぐられて薬物を持っていないかを調べられ、ケツの穴まで開かされたのだからお笑いだ。  肌寒い尋問室で全裸のまま、大勢の男達に囲まれてあれこれ問いただされる。当然何も知らないのだから、知らないと言うしかないのだが、奴らにとってはしらばっくれているようにしか思えなかったらしい。  だがまあ、結局俺が薬物を所持していなかったこと、衣類に付着していた小便からも反応は出なかったことから、最終的には白という判定を下された。誤認逮捕というやつだ。全く持って腹立たしい。 「……クソ」  ようやく解放された時には、時刻はもう夕方になっていた。小便まみれの服をそのまま着させられ、蹴り出されるようにして詰所から追い出された。あまりにも不当な扱いだが、正直もう、抵抗する気力すらなくなっていた。 「おーい親分! おかえんなさい!」  どこかで聞いた声に顔を上げると、詰所の外門の前で巨漢の熊獣人がぶんぶんと手を振っていた。 「クー、お前……」 「いやあ大変でしたねえ。ありゃ、びっちょびちょだ。帰って着替えたら大浴場いきましょ」  悲惨な状況の俺の姿を見ても、詰所の連中と違って鼻で笑いもしない。それが逆に腹立たしい。 「……幻滅しろよ」 「ん? なにがっすか」 「俺のこの格好だよ。……ションベン、我慢できなくて、漏らしちまったんだぞ」 「ん、まあそういう日もあるっすよ。ドンマイっす」 「……」  いっそ鼻で笑ってくれた方がどんなに楽だったか。とことんまで馬鹿にされてしまった方が気が楽だというのに、コイツはそんなこと微塵も思っていないようだった。  人生はクソッたれの連続だ。  幸福のあとには不幸が、不幸のあとにはやってきて、人生においての幸不幸の総量は変わらない。  だからまあ、今が悪くたって前を向いてさえいりゃ、いつかは幸せになれる時が来る――なんて、微塵も思わないが。     「……クー。迎えに来てくれて、ありがとな」 「そりゃ、オレの親分ですから」  まだ、少しだけ信じていたいものがあった。

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