瓢箪から駒 (Pixiv Fanbox)
Published:
2020-04-06 14:22:55
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2023-05
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会社を首になった。いや厳密には潰れたのだが……。同じことだ。転職先は決まっていない。憂鬱に苛まれながら、私は行きつけの飲み屋に足を運んだ。週末は会社帰りにここで飲むのがささやかな楽しみだったのだけど、それももう終わりだ。
マスターは私より数歳下の温和な顔つきの青年で、話すだけでもちょっとだけ気分が晴れたものだった。まあ話すと言っても、私が一方的に仕事や婚活の愚痴を垂れ流すだけなんだけど。今日は最後の日ということも手伝い、私はいつも以上に荒れてしまった。会社の愚痴、上司の悪口、要領よく先んじて転職していった同期への妬み、一向に光明の見えない婚活、明日から始まる無職生活……。飲んでは愚痴り、愚痴っては飲む。いつの間にか店は看板になり、客は私一人だった。それでも私は居座り続けた。意識が朦朧として、立ち上がる気力もなかった。もう嫌だ。ぐちぐちぐちぐち、店が閉まっても帰らない酔っ払い、そんな大人になんてなりたくなかった……。あぁあいつからだろうぅ。こんな暗い人生になったのは。
「あぅぁー……。子供のころに戻りたいぃ……」
小さい頃はよかったなあ。こんな不安も責任も仕事もなく、全部誰かがやってくれてて……。ああ仕事。んだどうしよ。
「朧さぁ~ん、雇って~ぇ」
マスターに呼びかけると、彼は困ったように肩をすくめて、横目で店の奥を見た。同時に、その視線の先から大きな騒音が響き、私の意識を揺らした。うるせえよぉ。なんだよお前はぁ。
僅かに首を傾け、視線を泳がすと、メイドロボが掃除機をかけているのがわかった。まぁだ客残ってんだろぉ、ざっけんなアホぉ。
「あ~、うるせ~ぇ、止めろ~ぉ」
「やれやれ……」
朧さんの気配が遠ざかった。あーあもう。あんなロボットなんか作るから仕事なくなるんだよぉ。いいなあもう。メイドロボはぁさぁ、仕事絶対なくぅならないしぃ、婚活しなくてぇいいしさぁあ……。
「いいなあメイドロボ……」
小声でそう漏らした後、朧さんが戻ってきた。
「裏メニュー、いきます?」
「はぇ?」
「カクテルです。僕の」
朧さんは私の目前にスマホを差し出した。カクテルの写真が表示されている。彼は二枚の写真を交互に見せながら説明してくれた。
「こっちは幼児カクテル。幼児に戻ったような気分を味わえます。それからこっちはロボットカクテル。メイドロボットになれます」
「ぶははは。なにそれ。やっば」
「どっちにします?」
んだなあ。せっかくだからいただこっかなーぁ。
「ん~」
幼児カクテル
「こっちー」
私は幼児カクテルを注文した。子供に戻ったような気分になれるお酒とか最高じゃん。
寝落ち直前に運ばれてきたのは、フルーツジュースのようにやや濁った黄色い液体。私はすぐに口をつけ、勢いよく飲み干した。何しろ口当たりがよく、ジュースのようにゴクゴクと飲めるお酒だった。いや本当にジュースだったのかもしれない。私はカウンターに突っ伏し、眠りに落ちた。昔飲んだ甘いジュースの味を思い出しながら。
「ん……」
目が覚めると、肌ざわりのよい、きめ細やかな布の感触が全身を包んでいた。意識が明瞭になるにつれて、見知らぬ天井、覚えのない空気、そして体の感覚がおかしいことがわかってきた。あれ……なんだろう。私は昨日……。
(ああ……そうだ。昨日は飲み屋で……)
閉店後も居座り、最後にジュースみたいな酒を飲んだところまでは覚えている。そのまま寝てしまったのか……。ここはどこだろう。少なくとも私の家じゃない。ひょっとして、店に一泊してしまったのだろうか。だとしたら酷い迷惑をかけてしまったことに。飲みすぎた。
(……?)
しかし、徐々にもっと根本的な違和感が膨らみ始めた。私はベッド……? に寝かされているらしい。しかし、周囲の柵が大きすぎる。まるで牢屋みたいだ。
私は体を起こした。おかしい。脳が異常を訴えている。手足の感覚がおかしい。昨日までと違う。腰もだ。でも一体何が……? なんか、動きが鈍いというか、動かせないというか……。二日酔い? そういえば頭が重いし……。水が欲しい。
しかしベッドは四方を大きな柵で囲まれていて、出入りできそうなスペースがなかった。扉さえない。え、え、何これ? これじゃ上からしかでられなくない?
その時、大きな人影が現れた。朧さんかと思ったが、知らない女性だった。誰?
「あらー、おっきしたのねー。すぐミルク飲ませてあげるからねー」
は? ミルク?
(いやあの、ここどこですか? あなたは?)
と尋ねた。……つもりだったのだが、何故か声が出なかった。
(あれ?)
何度喋ろうとしても、上手く口から言葉が出てこない。飲み過ぎたのかな……。ていうかミルクって? 水じゃなく?
(あ、あのっ!)
私は柵を掴んで叫んだ。しかし実際に出たのは
「あ~ん!」
という甲高い、泣き声のような叫びだった。
(えっ。何今の声? 私が?)
「はいはい、できましたよー」
女性が哺乳瓶を持って近づいてきた。私は彼女のスケールに圧倒された。私の二倍以上ありそうな、信じられない背丈の持ち主だったからだ。
(えっ、えっ、ちょっ)
視線を落とすと、柵を掴んだ私の両手が目に映った。プニプニの太い手首。短い腕。視界情報が全身の違和感とフィットした。手足が短くなって……いや、これは……。
「はーい、いっぱい飲んでねー」
見知らぬ女性は大きな腕で私を赤ちゃんみたいに抱きかかえ、柵付きのベッドから取り出した。そして真っ白な液体が詰まった哺乳瓶を、私の口に強引に押し付けてきたのだ。
「んーっ! んーっ!」
(ちょっ……待っ……嘘っ……! こんなこと……!)
「あーら、ご機嫌が悪いのね~」
抵抗空しく、私は口に哺乳瓶を突っ込まれ、生暖かく不味いミルクを、強引に喉の奥に押し流されてしまった。
(違うっ……夢よ! こんなの夢よ! ありえない!)
短い手足をバタつかせるも、どうにもならなかった。何がどうなっているのかさっぱりわからない。私は、一晩の間に幼児になっていたのだ!
ベッドに戻された私は、必死に昨日の記憶を探った。店で飲んだ。それで確か……。寝た。うん。そこからの記憶はない。まっさか、そのまま死んで生まれ変わった……? いやいや、そんなまさか。朧さんもメイドロボもいたのに。その前は……えっと……。
(あっ)
私は、裏メニューという言葉を思い出した。朧さんが何か言ってたような……。確か、子供に戻れるカクテルがどうの……。
(えっ、嘘でしょ、まさか……)
私は、朧さんのカクテルを飲んで、本当に子供に戻ってしまった!?
嘘だ。そんなことありえない。そんな飲み物があったら、今頃世の中大騒ぎだ。私は頬をつねってみた。痛い。感覚は極めてリアルだ。夢……じゃないの……?
「さっ、脱ぎ脱ぎしましょうね~」
謎の女性は私の服を脱がせにかかった。
(ひ、一人でできますっ……ってそうじゃなくって!)
だが、何故か体が動かせなくなってしまった。私は従順に服を脱がされるのを待った。声も出ない。な、なんで……。動いてよ……。いい年して人に脱がせてもらうなんて……。それより、私が大人だって言わないと……。ていうか、結局この人は誰なの!? 少なくとも、私のお母さんではない。朧さんでもない。全く謎だ。
ベビーウェアを脱がされた私は、おむつをはかされていることに気がついた。
(やだぁ!)
「あらぁ、またやっちゃったのね」
(え?)
女性が私のおむつを取り外すと、そこには染みが広がっていた。えっ、嘘でしょ。だってさっきまでそんな感覚、全然……!
(違うっ、違いますっ、おもらしなんて! 嘘よーっ!)
私は本物の赤ちゃんみたいに泣き叫んだ。女性は私をあやすかのように撫でた後、お風呂場へ私を連行した。
下半身を洗われた後、私は再びおむつを装着されてしまった。逃げ出すことも、抗議することも、何が起こっているのか尋ねることもできなかった。そうしようとすると、急に体が上手く動かせなくなってしまうのだ。
「あ……あー!」
まるで赤ちゃんみたいな声を絞り出すのが精一杯。言葉になってくれない。
(なっ……なんでよ! これじゃ、本当に赤ちゃんじゃない! 違うのに! 私は! 大人なの!)
まごまごしている間に、謎の女性は服のようなものを持って近づいてきた。今度は着せられるの……? 体が動けば自分でできるのに……っ!
が、その服がなんなのかわかると、私は絶対に着るもんかと、必死に抵抗を試みることになった。彼女が私に着せようとしているのは、水色のスモック、ピンクのスカート。幼稚園の園児服だった!
「やぁーっ!」
(いやよ、そんな服! もう三十近いのに! いや!)
「んもう、供子ちゃんも、一人でお着替えできるようにならなくちゃいけないのよー」
(一人でできるわよ! ……じゃなくって!)
抵抗空しく、私は園児姿にされてしまった。何より恥ずかしいのは、おむつの上から着せられたこと。スカートの下から膨らんだ白いおむつが顔を覗かせている。余りにもみっともない。そしてスモックに取り付けられたチューリップ型の名札には、「そのべ ともこ」と書かれている。私の名前だ。生まれ変わったわけではないらしい。じゃあ、この人はホントに誰なの!? 私は一体どうなっているの!?
「さあ、行きましょうね」
(行くって……どこへ?)
彼女は私の腕を掴んで、玄関まで連れ出した。えっ、外にでるの!? ……この格好で!?
(いやーっ!)
「やーっ!」
私は絶叫した。いい年して園児服を着て外に出るなんて、恥ずかしすぎて死んでしまう。しかも、よりにもよっておむつを装着したままで!
しかし、小さい幼児と化した私には、彼女の腕を振りほどく力がなかった。黄色い帽子を被せられ、私は往来に連れ出されてしまったのだ。おむつをはいた幼稚園児という、この上なくみっともない姿で。
外は地獄だった。記憶にない町で、自分がどういう状況にいるのか相変わらずわらかない。しかもただでさえ惨めな格好なうえ、足取りがおぼつかなくって、上手く歩けないのだ。私は真っ赤になって終始俯きながら歩いた。標識が見れれば、ここがどこかわかったかもしれないけど、到底顔を上げる勇気がなかった。
しばらく歩かされると、幼稚園に到着した。え、え、嘘。まさか私、幼稚園に入れられるの? この年で?
手を振りほどいて逃げようにも、そう考えた瞬間、体が私の意志をぼんやりとしか受け付けなくなる。体は導かれるがまま、幼稚園の敷地に足を踏み入れてしまった。
(待って……何かの間違いよ。こんなこと……)
確かに、子供に戻りたいとか何とか言ったような気はする。でもそれは酔っ払いのたわ言、冗談であって、何もそんな、本気で……。
私は先生に引き渡された。去っていく女性に声をかけようとしたが、やはり意味を持った言葉は出せなかった。
「すぐ迎えに来るから大丈夫よ」
違う。別に寂しかったわけじゃないのに。ああ……。先生は私と同世代に見えるが、今の私の二倍以上ある、立派な大人の体をしていた。当たり前といえば当たり前だけど。並ぶと比較されているようで、ますます居心地が悪かった。
(あ、あの、私、大人なんです、子供じゃないんです……)
「うー……」
私は必死に窮状を訴えようとしたが、上目遣いで先生の服の裾を握ることしかできなかった。勿論、逃げ出すことも叶わない。足が動かないのだから。
「はい、教室に行きましょうね~」
先生に連れられ、私はとうとう幼稚園の教室に入れられてしまった。まさか、この年で幼稚園に逆戻りすることになるなんて……。しかも先生は同世代ときている。情けなさ過ぎて泣きたくなってくる。でもダメ……泣いちゃダメ。絶対、ママと離れて寂しくて泣いてる、みたいな解釈をされる。これ以上同世代の前で幼児ムーブをかましたくない。
教室の中は、私と目線が同じ幼児で溢れていた。やっぱり、私本当に子供になっているんだ……。不思議なのは、誰も私に格段の興味を示さないこと。私は前からここに通っていることになっているんだろうか? そんな魔法みたいなことが可能なの?
先生が私から離れると、私は手持無沙汰になった。まさか本当に園児たちと一緒に遊ぶわけにもいくまい。それより、この隙に逃げ出せないだろうか。
廊下に向かって歩き出すと、やはり足の感覚が急にぼやけて、脳からの指示が霧散するようになった。くそぉ……。
それどころか、体が向きを変えて、教室の奥の方へ歩き出す始末。ヨタヨタと左右に揺れながら、私は人形遊びをしている集団に近づいていった。
(待って、やめて……)
「いーっれて」
言おうともしていなかった言葉が勝手に口をついて出た。
「いいよー」
すんなりと了承され、私はおむつ越しにお尻を床につけ、着せ替え遊びをやらされる羽目になった。
(こ、こんなことしてる場合じゃないのに……)
駄目。体が勝手に動く。止められない。自分の体なのに、自分じゃない何かに操られている。他の女児は中々センスがいいコーディネイトをしている中、私は一人フリルやリボンを無意味に増やす作業を強いられた。他の女児たちにクスクスと笑われ、私は恥ずかしくて消えてしまいたかった。
(ち、違うってば。手が勝手に動くのよ。本当よ……)
ああ。本当に何をしているの私は。もっとやらないといけないことがあるはずなのに。でも体が人形遊びを止めさせてくれない。
その後も園児たちと混じって、私は数々のお遊戯に強制参加させられた。外れた音程で童謡を歌ったり、変な踊りをやらされたり……。しかも私を苦しめるのは、私はどうやらこの中で一番出来が悪い子らしい、ということだった。何をやっても私だけ飛びぬけて下手だったり、幼かったりするのだ。
(ちがうわ、私、ホントはもっと……じゃなくて、大人なの。体が言うことをきけば、こんなクイズ……じゃなくて、逃げ出せるのに!)
そのうち昼になり、給食が用意された。うわー、少ない。あんなもんだったっけ。
だが、配膳が、椅子が一つだけ足りない。私の足はすくんで動かず、あっという間に私だけが突っ立ったまま取り残されてしまった。私の分がない。どうして?
「供子ちゃんは、ちょっと待っててね~」
あ、忘れたわけじゃないんだ? でもなんでわざわざ分けるの? 無駄じゃない?
その答えはすぐに明らかになった。先生は中身の詰まった哺乳瓶を持って教室に戻ってきたからだ。
(えっ……。い、いやそんな、ちょっと……)
「ミルクー!」
(えっ!?)
驚くべきことに、私はニッコリ笑って、両手を掲げて先生を歓迎したのだ! 無論、私の意志じゃない。体が独りでにやったことだ。
(や、やめて! 冗談じゃないわ!)
「ミールークー」
「はいはい」
園児たちは馬鹿にしきった目つきでニヤニヤとこっちを眺めている。な、なんでよ。どうして私だけ赤ちゃんみたいな扱いなのよ!?
なおも私の体は勝手に動き続け、先生の足にしがみついた。やだ……こんなことしたくないのに……。
(お、お願い、ちょっと、いうことをきいて!)
「はい、いただきますの挨拶をしましょう」
「いただきま~す」
他の園児たちは給食を食べ始めた。が、私は赤ちゃんみたいに先生に抱きかかえられ、朝のように哺乳瓶を咥えられようとしていた。
(んー! 待って! 私も普通に食べられるから! 大丈夫ですから!)
「ミルクーぅ」
必死に叫ぼうとしても、体は満面の笑みでミルクを心待ちにしていたかのようなリアクションしかとらしてくれない。暴れることすらできない。
(か、体が……ちょっと……)
「はい、いっぱい飲んでねー」
(んんっ!)
抵抗することさえ許されず、私はまたしても生暖かいミルクを飲まされた。いや、飲んでいる。私の体は勝手に喜びの表情を浮かべているのだ。
(や、やだっ……)
嬉しくなんかないのに。逆なのに。顔の筋肉が私の意志を一切反映しようとしない。手も足も、バタバタと揺らすことさえできない。私は従順に先生の腕に抱かれながら、ミルクを美味しそうに飲まされるという拷問に耐え続けるしかなかった。
ようやく飲み終わると、布で口周りを拭かれながら、他の園児たちに囃し立てられる羽目になった。
「赤ちゃんみたーい」
(わ、私だって、体が自由なら普通に食べられるもん!)
しかし、抗議の声はどうしても形になってくれない。それどころか、私は先生のエプロンをつまんで
「もっとー、ミルクー」
などと言い出す始末。私は顔から火が出る思いだった。
(ちっ、違うんです、体が、体が勝手に)
「そんなに飲んだら、またおもらししちゃうわよ」
「う~」
(お、おもらし……? また、って?)
その答えは、一時間後に訪れた。突然尿意を催した私は、トイレに行こうと歩き出した……つもりだった。が、何故か足が動かない。立ちすくんだまま、歩いてくれない。
(ちょ……ちょっと! トイレ! トイレよ! 逃げるわけじゃないわ! それだったらいいでしょ!?)
私は理不尽な体の縛りに対し、脳内で抗議声明をあげた。でも、私の両足はどうしても私を教室から出す気がないらしい。
尿意はあっという間に閾値に迫り、私は両手でおむつをさわりながら、その場でうめいた。
「ん~っ、んーっ!」
我ながらとんでもなく情けないが、それ以外どうしようもなかった。
(やばっ……げんかっ……)
今にも溢れてきそう。しかも、感覚からして、あまり抑えておけそう……に、ないっ……かもっ……!
(せ、先生ー! 助けて! トイレ! トイレよ! 教室から出して!)
が、先生に窮状を伝えることすら許されず、私の体は遂に限界を迎えた。
(あっ……あああーっ!)
勢いよくおしっこが放たれ、おむつがじんわりと湿っていく。一旦出始めると、全くせき止められなかった。それどころか、ますます力強く放尿しだして、下半身が全く制御できなくなっていく。
「んー?」「あー! ともこちゃん、またやってるー!」
近くの園児たちがいち早く異常に気付き、私を囃し立てた。それが一層私の羞恥を煽り、自尊心を傷つけた。や、やだぁ……。園児たちの中でおもらし、なんて……。そんな……。と、止まって、早くぅ……。
「あらら」
全部出しきってしまったころ、ようやく先生が近づいてきた。私は目から涙がポロポロと零れだし、今度はそっちが止まらなくなってしまった。
「う、う、うえええん、あああ~!」
「もう、おしっこしたい時はおトイレに行くのよ。先生に言ってくれればいいのよって、いつも言ってるでしょう」
(だって……だって、体が……体があああぁぁ~!)
操られてではなく、他ならぬ私自身の涙が止まるまで、頭の中が真っ白に飛んだまま、私は幼児みたいに愚図り、泣きじゃくった。
(ほ、ホントはできるもん……。一人でトイレ行けるんだもん……)
「さようならー」「またねー」
私の母親……ということになっているらしい、謎の女性に迎えられ、私は帰路についた。行きとは違う、新しいおむつがスカートの中から丸見えだ。
「もー、またおもらししたんですって?」
「……」
私は情けなくて顔を上げられなかった。頭の中がぐしゃぐしゃだ。幼児に戻されて……見知らぬ女性の子供になって……幼稚園に入れられて……その中でもおむつや哺乳瓶から卒業できない劣等生だなんて……。わ、私これからどうなっちゃうの? まさか、これから一生を、この人の子供としてやり直さないといけないの?
「や、やだぁ……」
「なら、ちゃんとトイレに行く練習をしなくちゃね」
「……」
先のことを思うと、不安と絶望でいっぱいだ。体が自由に動けば、開き直ってニューゲームというのも……なくはなかった、かもしれない。でも、おもらしを強制してくるような理不尽な縛りに囚われたまま、第二の人生をずっとやらされるのか、と思うと……。想像しただけで息が詰まる。肺が重い……。
晩もやはりミルク、そして柵で囲まれたベビーベッドに入れられて、部屋の光が消えた。やだ、嘘でしょ、続くの……? これ。
(元に戻してよぉ、こんなの嫌よぉ)
暗闇の中で私は願った。お願い……大人に戻して。こんなの望んでない。だれか……だれか助けて。
(そうだ……朧さん)
発端はあの店……。彼の仕業なら、あの店にいかないと……。でも、どうやって。体が無理やり幼児をやらせてくる以上、自分の意志じゃあの店に行くことはできない……。なんとかして、母親役の人に事情を説明できないだろうか。いや、朝はそれやろうとして阻まれたんだっけ。ていうか、本当に誰なんだろう。朧さんとグル……なら、私は……。
考えている間に、眠気が重く重くなり、私の意識は闇に落ちた。
起きているんだか寝ているんだかわからない、半覚醒状態で私の意識が戻った。冷たい朝の空気が張り詰めている。痛い。何か固いものに顔を預けているらしい。
(あれ……変ね。私は……ベッドで……)
寝ぼけ眼でゆっくりと重い頭を上げると、頭痛が走った。
「いっ……」
見覚えのある景色。飲み屋だ。飲み屋のカウンター……。徐々に記憶がハッキリしてきた。あっ、あっ、あっ、あの店だ!
勢いよく立ち上がると、再び頭に激痛が走り、私はその場にうずくまった。飲みすぎた……。いやそれよりも……。私、確か、子供になって……?
「あっ、起きました?」
朧さんとメイドロボが姿を現した。
「? ……えっと……?」
混乱する。どうなってるんだろう。なんでここに戻って……。戻ってる! 私の体が、元に戻ってる!
頭を抑えながら、私は立ち上がった、水を飲ませてもらいつつ、大人に戻った自分の姿を穴のあくほど観察した。ああ……よかったぁ……。
「昨日は大変だったみたいですねえ」
「あっ……いえ、こちらこそ、とんだご迷惑を……」
朧さんに問い詰めようと思った瞬間、常識が私を抑え込んだ。子供になるカクテルなんてありえない。夢……そうだ、夢だったのよ。うん。
「お仕事決まりましたら、またいらしてください」
「はっはあ……どうも……」
彼の爽やかなスマイルを見ていると、やっぱりあり得ないという思いを強くした。全部夢だったんだ。
冷静になってくると、だいぶ恥ずかしくなってきた。酔いつぶれてカウンターで一泊とか。さぞ迷惑だったろう。私の顔も、酷いことになっているに違いない。
丁重に謝罪しお礼を言って、私はそそくさと店を後にした。
日付が二日進んでいることと、自分が湿ったおむつをはいていることに気がついたのは、帰宅してからのことだった。
ロボットカクテル
「おっいいすね~ぇ、ロボットぉぅ」
私はロボットカクテルを注文した。マぁジヤバいわぁそのカクテル。飲みの席のネタになりそうぅ。
しかし運ばれてきたのは灰色の不味そうな液体で、私は大分興をそがれた。
「これは自信作なんです。さ、どうぞ」
朧さんが勧めるので、私は灰色のカクテルに口をつけた。っと、これが案外いけるもんで、蕩ける口当たりでガンガン喉に押し込めた。
「よっしゃもういっちょ!」
「いいんですか、園部さん。メイドロボットになっちゃいますよ」
「ばぁろぉ、ロボットになるのが怖くて酒が飲めるかあ」
それから何杯飲んだかは覚えていないが、気がつけば私の意識は途切れていた。
私が起動したのは朝の五時だった。気づけば私は見知らぬ部屋の隅に直立していた。両脚はピタリ閉じ、背筋を真っ直ぐ伸ばし、両手をスカートの前で重ね、真顔で前方を見据えている。体が動かない。この姿勢を維持したまま、まるで石にでもなってしまったかのように、固く静止している。金縛り……じゃない。意識も手足の感覚もハッキリしている。でも、いくら動かそうとしても、一ミリも動いてくれない。ていうか、なんで私寝てたのに立ってるの? ここはどこ?
(うーん、私は確か……)
急いで昨日のログを検索する。が、不思議なことに、データが空だった。
(あれ? おかしいな……)
確か私は……そう! 会社を首になって、それで……いっぱい飲んだ気がする。家に帰った記憶がない。店で酔いつぶれたのかな? しかし、行動ログが残ってないのは変だ。
仕方なく、もっと前まで遡ってみた。一昨日……三日前……まだない。一週間……あった!
自分の一週間前の行動ログ。記憶通り、いきつけの店で酔いつぶれてしまったらしい。灰色のお酒を飲んで……。たしか、えーと……。会話ログによると、裏メニューのメイドロボになれるカクテル。ああそうそう。思い出した。……って、まさか……ええ?
私は視線を落として、今の自分の姿を確認しようとした。が、それさえできない。目ん玉すら動かない。私は彫刻のように、見知らぬ部屋で一人立ち尽くしていた。
わけがわからない。私は一体どうなったんだろう? 何で一晩で一週間? 夢でも見ているのだろうか?
五時半になると、体が動き出した。どうやら私は台座の上に立っていたらしい。そして、ようやく私が一人じゃなかったことに気がついた。同時に動き出したもう一人の存在。メイドロボだった。私のすぐ隣に、まったく同じように佇んでいたのだ。テカテカとした光沢を持つ、ブヨブヨしたメイド服。金属のように冷たい光沢を放ち、あちらこちらに線が走っている無機質な肌。ゾッとした。
(まさか……わ、私……メイドロボになっているの!?)
自分の姿は見えないけれど、そうとしか考えられなかった。だって、私は今まさに、朝食の準備を始めているところだったからだ。足を踏み入れたはずのないキッチン。私の体はよどみなく、スムーズに準備をこなした。どこに何があるのか、何をどのタイミングで作ればいいのか、その全てを熟知しているようだった。
(うそ……嘘よ……)
止められない。手足は全く、これっぽっちも私の指示を聞いてくれない。感覚はある。けど、指示だけが飛ばせない。私じゃない誰かが、体の支配権を奪っている。
(う……く、くそ……そんな……)
それはまったく奇妙な恐ろしさだった。体の感覚は完全に機能している。私の意識も明瞭だ。指先から、厚いゴムのような白い手袋を通じて、自分が触っているものの感触も伝わってくる。しかし、手足の動きは私の意志と連動していない。動作感覚は通常なのに、動作は私じゃないものによるものなのだ。映画とその観客席のように、私は現実から完全に切り離されていた。
(で、でも……どうして、こんなことに……)
もう一度、一週間前のログを漁った。メイドロボになるカクテル……。泥酔していたとはいえ、なんでそんなもの飲んじゃったんだろう。……いやだって、まさか本当にそんな効果があるだなんて思わないじゃん!
誰もいないテーブルに一人分の朝食を配膳し終わるのと同時に、誰かがもう一体のメイドロボに連れられて、リビングに姿を現した。ああ、やっぱり。朧さんだ。
「おはようございます、マスター」
私はスカートの裾をつまみ上げ、丁寧にお辞儀した。当然、したくてしたわけじゃない。体が独りでに動くのだ。
「ん」
返事かどうかもわからない声を上げ、朧さんはタブレットを見ながら朝食をとり始めた。私には目もくれない。
(ちょ、ちょっと、ふざけないでください! どうしてこんなことするんですか! ……元に戻して!)
私はあらんかぎりの大声で叫んだ。……脳内で。私の唇は固く結ばれたまま動かない。ただジッと、朝食が終わるのを待っている。
(う、動いて! 動いてよ!)
いくら力んでも、どうにもならなかった。私は彼が立ち上がると同時に、後片付けのフェーズに移行したのだ。
彼に背を向けて洗い物をしている間、心は沸々と怒りに煮えたぎっていた。まさか、人間をメイドロボに改造するだなんて、信じられない。こんなことがあっていいの? 犯罪も犯罪、大犯罪でしょ。何とかして通報するか、逃げ出さないと。……でも、どうやって……。
キッチンが何事もなかったかのように落ち着きを取り戻すと、私は再び部屋の隅に向かって歩き出した。丸い円形の台座が二つ並んで設置されている。私が夜の間立っていたところ。充電台だ。上にのぼり、リビングを方へ向き直り、背筋を伸ばして、両手をスカートの上に重ねた。私は時が止まったかのように動けなくなった。視界の片隅に映っているアイコンを見た限り、充電が始まっているようだ。……これが私の朝食なんだ? ……これから、ずっと?
(ひ、酷い……。これじゃ、本当にロボットじゃない……)
助けを求めることも、逃げることもできない。体を僅かに揺らすことさえできず、リビングの二人を眺めている他ない。どうやら朝食以降の面倒は、先輩ロボが見るらしい。私はもう用がないから、待機していろってこと……?
一人暮らしのようだし、そこまで必要な家事も少ないのだろうか。二人が姿を消すと、私一人がリビングに取り残された。微動だに出来ない。充電完了しても、まるでインテリアのように、ただこの場に固まっているほかなかった。
(……な、なんで、わざわざ、私を……こんな目にあわせてまで……)
何か打開の手がかりはないか、再び先週のログを確認した。会話ログを見返していると、自分が朧さんに「雇って」「ロボットになりたい」と発言していたことがわかった。
(ま、まさか……それを本気で……!?)
そんなの、酒の上の冗談に決まってるのに。まさか、本気にするだなんて……。
(も、元に戻してください! 嫌です! 全部嘘! 冗談だったんですーっ!)
誰もいないリビングに向かって、私は心の中で叫んだ。
日中の間、私は部屋の掃除や洗濯を担わされた。買い出しや店の手伝いは、本物のメイドロボの方がやっているらしい。別にそっちのほうがしたいわけでは断じてないけど、無性に悔しく感じるものがあった。
(うっ……なんで私が……こんな、雑用ばっかり……)
昼も過ぎると、用事が一旦途切れて、私と先輩ロボは一緒にリビングを彩った。お互いピクリとも動けない。メイドロボと一緒に並べられているのが心底不快だったし、自分がますますロボットと同じ身分に落ちていくようで、忸怩たる思いだった。外部と連絡をとりたくても、「私」の権限ではそういう機能は使えないらしい。私はただ、見ているだけの存在だった。
時間だけが過ぎていく中、ますます焦燥感がつのる。
(誰か……助けてよ。お願い。元に戻して……!)
誰かが訪ねてきてくれないだろうか。私をみて、人間だと気づいてくれたりは……。無理かな。自分の姿は相変わらずわからないけど、手だけは見える時があった。隣のロボットと全く同じ、ゴムみたいなテカテカした白い手袋をはめていた。きっと外見はすっかりメイドロボ風にされているのだろう……。その上でこうして、本物のロボットと並べられていたんじゃ、まさか生きた人間を改造したものだなんて発想、でるわけない。
(せめて、この子と一緒じゃなければ……)
ふと、恐ろしい疑問が湧いて出た。このリビングにいるメイドロボが、自分が人間だと知っている私だからでる、身の毛がよだつ疑問。今、隣で同じように静止している、この「先輩」は……。果たして、本当にメイドロボなんだろうか。ひょっとして、ひょっとしたら、私と同じように……!?
(あのっ……。わ、私、園部っていいます。人間です。あなたは……)
答えは返ってこなかった。当然か。通信もできないし、ただ脳内で呼びかけただけだもんね……。
でも、もしも彼女も人間だったなら。こんな恐ろしい話が現実にあっていいのだろうか。あの優し気な顔を浮かべる朧さんが、そんな悪魔のような男だなんて、誰が信じてくれるだろう。
全て夢であってくれればよかったが、翌日も私は同じように起動して、同じように朝食の準備を始めた。
(ああ……)
最後の希望をあっけなく打ち砕かれた私は、例えようのない絶望に打ちひしがれながら、いそいそとキッチンで働いた。
(ど……どうすれば……)
相変わらず、体は自由に動かせない。というか、昨日から何一つ「私」に権限が渡されない。眉毛さえ私の意志を受け付けない。
これじゃ、逃げ出して通報だなんて、それこそ夢のような話だ。
(わ、私……ずっとこのままなの? これから一生、メイドロボとして、あの人に仕えなきゃいけないの?)
朧さんは、何一つ特別な反応を示さず、何事もないかのように、落ち着いた様子で朝食をとっていた。いつもと変わらない、何年も続けてきた朝のように。
(い、いい加減にしてください。酷いです……。なんで、なんでこんなことするんですか……?)
問いただすことさえ許されず、私は静かに彼が食べ終えるのを待っていることしかできなかった。
そんな日がまた一日、一週間、一ヶ月と続いた。私は自分の行動を傍観者のように眺め続けた。いっそのこと、この心も失ってしまいたい。そうすれば楽になれるのに。しかし、そんな日は待てど暮らせど訪れなかった。どこにも逃げ場がない地獄のような日々の中、突然メンテの話がやってきた。
(め、メンテ?)
まずは先輩ロボットから。一日で終えて戻ってきた。次は私の番だ。
ひょっとしたら、助かるかもしれない。そんなことを私は思ったし、願わずにはいられなかった。なにせ人間を改造したメイドロボットなんだ、絶対に工場産の本物とは違いがあるはず。
でも……バレるなら、マスターは私を工場に送らないはずだ。それに先輩も元人間なら、発覚せずにメンテを終えてしまったということに……。
(い……いや、先輩は本物のロボットだったのよ)
どちらにせよ、私には祈ることしかできない。
検査当日、私はマスターにメンテに出ることを事務的な口調で伝えてから、店を出た。一ヶ月ぶりの外の世界。私が消えた世界は、何事もなかったかのように変わりなく進行しているらしかった。女性がこのあたりで一人失踪した、そんなニュースが流れることはなかったのだろうか?
メイド服で往来を歩くのはかなり恥ずかしかった。それも、見知った道ならなおのことだ。きっと顔が私のモノなら、真っ赤になって俯いていたかもしれない。しかし、私は真顔で堂々と最寄りの整備工場へ向かって進行した。誰か、誰か知り合いとすれ違わないかな。
せっかく外に出たのに、助けを呼べないというのが心底もどかしく、また私が人間だと気づいてくれない周りの人たちが恨めしかった。
(ちょっとぉ……誰か一人でもわからないの?)
道行く人々は、誰一人として私に関心を払わない。気づいてくれないのもそうだけど、メイド服を着て町を歩くなんて恥ずかしい行為をやらされているのに、それに注目する人すらいないのが悔しい。私は本当にただのロボットだと思われていて、車かなにかと同列にカテゴライズされているってことだ。
(ちょ、ちょっと……。ホントに誰もいないの? 私が……メイド服で……歩いてるのに?)
結局、私のメイド姿にはなんの価値もないってこと? そんな……。
整備工場に着くと、他にも数体のメイドロボがやってきていた。やがて同じ出入口に並び、一列になって中に入った。薄暗い廊下で壁に沿って並ぶ。数体ずつ部屋に入っていくらしい。
(う……。本物のロボットと同じ扱いなんて……)
ここの人たちがグルなら、私だけ特別扱いかもしれない。そんなことを考えていたので、虚をつかれた気持ちだった。
(だったら、気づいてくれる……かも……)
私は、ジッと自分の番が来るのを待った。
数十分後、ようやく順番が回ってきた。他四体と一緒に中に入り、また壁に沿って並ぶ。整備室の中央はごちゃごちゃした大きな機械が鎮座していて、多くのアームがせわしなく動き、剥き出しの基盤やコードで彩られている。脇の机には何個ものモニターを持った大きなパソコンもあり、なんだか複雑そうな画面が映っている。
私の隣にいたメイドロボが工員に呼ばれ、機械の中央に上がった。円形の台座。家の充電台との違いは、側面から基盤がむき出しなこと、いくつものコードが伸びていること。
大きなアームが上から降りてきて、メイドロボの頭を握った。まるでクレーンゲームみたい。次の瞬間、恐ろしいことがおこった。工員が首にバーコードリーダーみたいなものを当てた後、アームがぐるぐると首を回し始めたのだ。
(ひっ!)
凄い勢いで回転し、ポンっと首がとれてしまった。残された胴体が両手を横に伸ばし、同じようにして両腕ももがれた。
凄絶な光景に、私は泡を吹いて倒れてしまいそうだった。え……嘘でしょ? 私も……ああされるの? それって、つまり……死……。
頭が真っ白になっている間に、私の番がきた。工員に招かれ、処刑台に向かう。
(やっやめて! 違う! 違うんです! 私、人間です! ロボットじゃないんですーっ!)
あらんかぎりの力を振り絞って、私は体を動かそうと試みた。が、やはり指一本動かせず、私は黙って台座の上に基本姿勢で直立してしまった。上からアームが迫り、ゆっくりと私の頭を掴む。
(お願い、助けて。死にたくない)
工員に、神様に、必死に懇願した。だが、粛々と処刑の用意は進んでいく。首に機械があてられ、ピッと音が鳴り、工員が下がり、安全確認の点呼がとられる。さっき見たのと全く同じ光景。なにも特別扱いの様子はない。
(あ、あ、あ)
次の瞬間、一挙に世界が動き出した。横へ横へスライドしていく。超高速のメリーゴーランドのように、私の頭がもぎ取られていく。
(あああああっ!)
私は心中で泣き叫んだ。死の激痛が首を襲い、凄惨なスプラッターが始まる……はずだった。高速で視界が回転しているのに、不思議と気持ち悪くならなかったし、首の痛みもない。
(あれっ……?)
あまりにも早く首がもぎ取られたことで、痛みを感じる間もなく死んでしまったのだろうか? そうではなかった。突然回転が止まり、私はスーッと宙に浮かんだ。痛みだけじゃない。首から下の感覚が全部ない。私の首は脇の機械にそっとおろされ、検査用の機械に接続された。信じたくない光景と現実が私を襲った。私は首だけになっても「生きて」いた。それどころか、血の一滴も流さない。その上、検査の機械と私の首は何の問題もなく「接続」したのだ。ちょうど胴体の行く末が見えるポジショニングだったため、自分の胴体の上側を見ることができた。首の切断面には血も骨も肉もない。銀色のジョイント部分が露出しているだけだ。
(あれ……え……私の……?)
一体、どうしてこんなことを信じられようか。見えない間に自分の胴体と他のロボットの胴体がすり替えられたんじゃないかとしか思えない。テカテカのメイド服はまごうことなきメイドロボのメイド服。露出している肌部分も、金属の光沢を放つ無機質なつくり。ところどころに入った線に沿って、目の前で両腕が綺麗にもがれた。いや外された。最初からそうであったかのように、綺麗に外れた。互いに銀色のジョイントが露出している。赤い血も、白い骨も、そこにはなかった。
(え……え……?)
どういう……こと? 私は……人間……でしょ? だった……はず……だよ……ね……?
両足も外された胴体に、種々のコードが接続されていく。私はそれを黙って眺めていることしかできなかった。どうみても、一から十まで機械で構成されているようにしか見えない。
(うそ……私、私は……人間で……それを……改造……したんじゃ……ない、の……?)
わけがわからない。一体どうなっているの?
そうこうしている間に、頭脳のチェックが終わった。
「はい、問題なしでーす」
ないの? 問題、ないの? 私、こんなに頭が混乱しているのに?
他のパーツもチェックが終わると、さっきとは逆の過程をたどって、私は元通り組み立てられた。胴体とジョイントしたのち、パッと一瞬で体の感覚が復活したことに私は面食らった。痛みも違和感もない。何事もなかったかのように元通りだ。
複雑な思いが胸中を駆け巡る。何か不具合があってほしかった。いやあっちゃ困るんだけど、くっつく瞬間、あることを私は期待していた。だって、首が切断されたんだよ。普通の人間なら絶対に死んでた場面だよ。なのに、何もないの? 本当に、何の問題も、なかったの……? 私の体、一体どうなっちゃったの? 改造っても、限度があるでしょ? これじゃ、生身の部分なんて、何一つ残ってない感じじゃない? 私の脳とか、大丈夫だったの? 脳……脳はあるの? 「私」は一体なんなの? この首、本当に私の脳は入っているの?
全体チェックののち、私のメンテは終了し、他のメイドロボと連れ立って、整備室から出された。その際一体だけ、不良のあったロボットが別室へ行くよう指示されるのを私は見た。
(私は……)
足取りは止まらない。店に向かって、来た道を戻っていく。人も変わらず行き来している。誰も私に注目しない。首が切断されたのに生きている人間が歩いていても、誰一人気にしない。
「ただいま帰りました」
「結果は?」
「問題ありません」
「ん」
私はリビングの充電台に戻された。スカートの前で両手を重ねる、昨日までと全く変わらない、いつもの待機姿勢で。だけどもう、昨日までの自分でいることはできなかった。「私」は……本当に人間なんだろうか。この男にメイドロボに改造された……のだとばかり思っていたのだけど。本当は、自分を人間だと思っている、おかしなメイドロボなんだろうか。
(……いや! 私は人間よ!)
私は必死に自分の名前、生まれ、育ちを回想した。園部供子、28歳。生まれは東京、両親は……学校は……。
記憶のログにはしっかり、最後に首になった会社、そして酔いつぶれた店……ここだ……まで記録されている。私は人間だ。間違いない。
でも……でも、私の体に血は流れていなかった。あいや、でもそれは、改造されたから……。改造って何? ログには何も残っていない。空白の一週間になにがあったのか、私にはわからない。
目の前のマスターなら知っているんだろうか。そうに違いない。でも、私には彼に訊くことができない。体が動かせないんだもの。
決して明かされることのない重大事項と、鬱屈として戻らない心に悩まされながら、私は昨日までと変わらぬ姿で、静かに充電の完了を待ち続けた。