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「あったー!」 私は思わず声を上げた。登山道から離れた木々の奥に隠された秘湯、人形温泉の隠し湯。私はそれを無事探し当てたのだ。 この町には古くから人形温泉の異名をとる温泉旅館がある。肌がまるで人形のようにツルツルになるというのが由来らしい。最近は美容効果で売り出していて、そこそこ客足も伸びているようだ。しかし、一部の温泉マニアの間には、旅館の露天風呂より遥かに効能が高いという、より源泉に近い隠し湯があるという噂が流れていた。場所はこの町の山の奥。地元の人たちは時たまこっそり入りにきていて、そのおかげでこの町の人たちは見た目が若々しく、人によっては永遠に生きていられるとか……。まあ半分はオカルトマニアがつけた尾ひれだけど、隠し湯そのものは本当に存在するらしく、たまにSNSで発見&入浴報告をする人がいる。私も入ってみたくて連絡をとったのだけど、何故か返事がこず、私は断片的な情報を元手に、単独で探し当てねばならなかった。それだけにこの発見の感動はひとしおなのだ。 薄い湯気が立ち込める岩場。整備されていない隠し湯だけあり、ゴツゴツした岩壁に四方を囲まれている。しかし、全くの未整備というわけではないようだ。凹凸はあるけど、大きく張りだした岩はほとんどなく、「壁」と言っていい形になっている。明らかに人の手が入ったものだ。形濃い肌色のドロッとしたお湯で底は見通せないものの、何となく床はそれなりに平らにならされているらしいことが伺えた。そして、岩場に一か所だけ切れ目があり、そこだけなだらかな土の坂になっていて、比較的安全に入浴することができそうだった。地元の人が密かに利用しているという話は本当なのだろうか。旅館で訊いた時ははぐらかされたんだけど。それとも、この秘湯も売り出す予定で整備を進めていたのかな。 周囲に人がいないことを確認し、私は荷物を下ろして服を脱いだ。湯へ続くなだらかな坂の入り口に、おあつらえ向きに凹んだ岩があり、ここへ服を入れておくといいですよといわんばかりだった。助かる。やっぱり誰か管理してるのかな? 断りもなく入っていいものだろうか。でも近くに誰もいないし、立て札もないし、別にいいよね。 全裸になった私は恐る恐る、湯に足首を浸けてみた。旅館の人形温泉も肌色だったけど、ここはさらに濃く、粘性が強い。まるで体にまとわりついてくるようだ。でもそれが不思議と癖になる心地よさで、暖かく出迎えられているかのように感じられる。 慎重に一歩一歩手探りしながら、私は秘湯の中に体を浸していった。整備された温泉ほどではないものの、湯の下は大分滑らかだった。これはやはり「床」といっていい。足に石が刺さったり凹凸に引っ掛かって転んだりすることもなく、私はこの隠し湯の中央に座り込むことができた。 (ふぁーっ、気持ちいい……) あっ、スマホ岩場に忘れた。撮らなくちゃいけなかったのに。しかし、私は腰を上げることができなかった。粘っこいクリームのようなお湯が、想像以上に心地よくって、もっと浸りたい、浸かっていたいという気持ちにさせたからだ。 (まあ……写真はいつでも撮れるし……) 粘性のある肌色のお湯なんて気持ち悪いと思うのが普通かもしれないけど、このお湯の素晴らしさは格別だ。私の全身を柔らかく包みこみ、全ての疲れを癒してくれるようだ。母親の腕に抱かれている赤ちゃんにでもなった気分。物理的にも、精神的にも暖かい、ホッとできるすごい湯だ。地元の人があまり教えてくれないのもわかる。これは壊されたくないよ。手元においておきたいよね。 すぐに、私は胸から下だけじゃ我慢できなくなってきた。全身をこのお湯に浸したい。再度周囲を見渡し、誰もいないことを確認したのち、 (ごめんなさいっ) 心の中で謝り、私は足を伸ばし、腰を伸ばし、顔まで全てを秘湯の中に沈めた。髪もだ。悪いとはおもうけど、到底我慢できなかった。 (うわーっ、最っ高……!) 体は不思議と沈み切らず、私の体は底から少し浮いたところで漂った。フカフカのベッドに寝転がっているみたいに心地いい。顔にも髪にも、粘り気のあるお湯が張り付いていく。まるで私をコーティングしようとしているかのようなくすぐったい感触だった。ずっとここにふわふわと漂っていたい。とはいえ、残念ながらそれだけは無理。息をしないといけないからだ。私はゆっくりと体を回転させ、両足を地につけ、顔を水面に出した。首から下は全て肌色のお湯の中だ。冷たい空気が顔をはたく。が、どこか感覚が鈍かった。フルフェイスのマスクでもしているように、一皮空気が遠かった。 突然、胸騒ぎがした。おかしい。何か感覚が……。いや、様子が……。両方……? 両手で顔を触ってみると、ツルっと滑らかな、どこか硬い感じがした。 (えっ、あれ?) もう一度。顔がなんだかおかしい。いやこの感じ……。指も。両方だ。改めて両手の甲を観察してみると、私はビックリしてしまった。私の手は画像加工でもしたかのように、ツルッツルの肌色一色に染め上げられていたのだ。 (何……コレ!?) 裏返して手のひらを見た。同じだ。どこも均質に、全く等しく同じ色。血管もない。産毛もない。皴さえ、関節周りに大きなやつが数本残っているだけで、あとは綺麗さっぱり消え去っている。手相もなにもあったものじゃない。 視線を落とすと、胸も同様だった。触れてみると硬くて形が変わらない。凹みもしない。その質感はまるでフィギュアのようだった。日の光を反射して光沢さえある。 (え? え? え? え?) 慌てて全身を見回した。足も、腰も、全身がそうだ。私はいつの間にか、フィギュアみたいな見た目になっていたのだ。 一体どうなっているの? お湯が張り付いた……いやそれはそんな感じがしただけで、まさか本当に……。体を擦ってみても、何も変化はなかった。つまり、粘々したお湯が体にベットリくっついたわけではなく、私の肌が変質しているのだ。 (そういえば、確か……) 人形みたいに肌が綺麗になる、それが名前の由来だったっけ。そして山奥の秘湯は、旅館のものよりずっと効果が高い、って……。で、でも、だからって、いくら何でもこんなことある!? 本当に人形みたいになるなんて!? それも、まだ十分も経ってないはずなのに! (と……とにかく、一旦上がろう……) これ大丈夫だろうか。すぐ病院とか……。いや大袈裟か。しばらく様子みて……って、帰るまでに目立ちまくるよ。冗談じゃない。 色々なことが頭を駆け巡る。顔はどうなってるんだろう。手足と肌が同じように変質しているんなら、不気味の谷に落っこちて超気持ち悪くなってたり……してたらやだな。 しかし、私はなかなか岸に近づけなかった。んん……? なんでこんなに歩きづらいの? 元々粘っこかったお湯が、まるで私を引き留めようとするかのようにまとわりついて、体が重い。何しろ首までドップリ浸かっているもんだから余計に……。首? え? こんなに深かったっけ? それに、何か床も変だよ。キチンと整備されていない天然の温泉とはいえ、ここまでゴツゴツして、膝まであるような大きい岩は、入浴するときにはなかったはず……。 私は足を止め、改めて周囲を見渡した。……広い。確かに、ちょっとした露天風呂ぐらいには広かったけど、今はもう池のように見える。周囲の岩場も、もはや「崖」のように私を見下ろしている。そして、私は今直立しているのに、首まで温泉に浸かっている。そんな深くはなかったはず……。 恐ろしい考えが浮かんだ。ひょっとして、私は……小さくなってる? 縮んでる? まさか。ありえない。科学的に絶対、そんなことはない。でも温泉が一気に大きくなるのもおかしい……。二つに一つ。私は急いだ。まとわりつくクリーム状のお湯を押しのけ、崖の切れ目に向かって歩いた。 なんとかお湯から脱出しても、なだらかだったはずの坂は非常に勾配が強くなっていた。段々わかってきたけど、わかりたくない真実が迫っている。お願い、何かの間違いであって……! 公園の砂場のように広い、凹んだ岩の中に、私の脱いだ服が折りたたんで置いてあった。私よりはるかに大きい。 (う……うそ、でしょ……?) ありえないことが起こってしまった。私は温泉に浸かっている間に体が縮んでしまっていたのだ! 頬をつねると痛い……いや、つねれない。硬い。コンコンと乾いた音がする。 (な……何、何なの、どうなっちゃったの私は!?) 自分の顔を確認したい。いや、それより助けを呼ばなくちゃ……。大きな服の上に降りて、スマホの画面に触れた。まるで布団のように大きい。うう……私、本当に小さくなっちゃったんだ。しかし、スマホは何故か反応してくれない。何度画面を叩いても駄目だ。まだ充電は十分あったはずなのに……。どうして? タッチパネルが壊れたの? それとも……。私は自分の両手をマジマジと眺めた。……静電気がでないの? ただ人形みたいな見た目になっただけじゃなくって、本当に人形に……人形……。 さらに恐ろしい発想が浮かんだ。ツルツルの硬い肌、服より小さくなった自分……。ひょっとして、私は小さくなったのではなく、人形に変わってしまったのでは……? (ま、まさか、いくらなんでも、それは……) 濃い肌色のお湯の中では、体を隅々まで調べることはできなかった。私はこの時初めて、乳首がなくなっていることに気がついた。 (あ、あれ? うそ、なんで……どうして……) どれだけ入念にまさぐっても、私の胸は滑らかな凹凸のない曲面を描くばかりで、突出するピンクの物質はどこにもなかった。痕さえない。最初から何もなかったかのように、ツルツルテカテカしている。 (う、うそ……嘘よ……) 不安になって股間も調べた。すると、そこにも異変が生じていた。何もない。私の股間はのっぺりとした肌色の曲面になっていて、あるはずのものがなかった。体に貼りついたお湯で埋まった……いや。存在そのものがなくなってしまっているようだった。触ってもコンコンと硬い音が響く上、他の個所と音の具合が全く同じなのだ。埋まったわけじゃない。乳首と同じように、最初から何もなかったかのようだ。 (うそ……うそ……一体、何がどうなって……) わけがわからない。あまりにも突拍子のない事態に、思考が追いつかない。温泉に浸かったら肌が樹脂みたいになって、乳首と秘所が消滅して、体が縮んだ!? そんなことが現実にあるの!? 十数分が経った。何も変わらない。目が覚めて夢だったことにもならなければ、私が幻覚を見ているわけでもないらしかった。 (どうしよう……) まさか、こんなことになるなんて……。まだ日は照っているけど、このまま夜になったら、凍えて死んでしまう。スマホは反応しないし、裸かつ20センチ程度のこの体で無事に下山できるわけもなし。 (誰でもいいから、ひょっと助けに来てくれないかな……) 服の上に寝転がりながらそう思った時だった。 「あー! いたー!」 「っ!?」 甲高い声が空高く鳴り響いた。何事かと立ち上がった瞬間、巨大な手が私を鷲掴みした。 (ひぃっ!?) 一気に体が上空に引き上げられ、頭がクラクラした。怖い。ヤバい。死ぬ。全身を恐怖が支配し、私は顔面蒼白になって、ガタガタと震えることしかできなかった。 巨大な人の顔。私の勘違いではなかった。私は本当に小人になっていたのだ。相手は子供……小学生くらいの女の子のように見えた。普通なら微笑ましく感じたであろう笑顔が、今の私には悪魔の形相に見える。私の数倍ある人間。ただそれだけのことが、私の本能から死の恐怖を鳴らしてやまない。 (あっ……そうだ、助けを……) 黙って震えていたんじゃしょうがない。この温泉に浸かったら体が縮んでしまったのだということを伝えて、助けを呼んでもらわなければ。が、それより早く、私は彼女が持っていた鞄の中に突っ込まれてしまった。 「きゃっ!」 すぐに鞄が閉じ、私は閉じ込められてしまった。ま、まずい。どうしよう。ピンク色の鞄の中身は財布やペンケース、スマホ、カラフルなメモ帳、キーホルダー等で占められていて、窮屈な上危険だった。 「ああ、あの! 待って! 出して! 話を……」 世界が大きく揺れた。あの子が走り出した……いや、スキップしているらしい。大きな衝撃が断続的に部屋全体を揺らす。強度のない床、締め付けてくる周りの障害物たち。とてもじゃないが立てないし、周囲の物品から身を守るので精一杯。なにせ私は裸なのだ。身を守るものがなにもない。声を上げる余裕もない。 し……しかし、どうしよう。子供に拉致されるなんて……。一体この子はどうして私を……。恐怖で動けなかった私を見て、人形だと思ったのかな。そうだ、そうに違いない。しかし困った。温泉に入ったら人形化したなんて、どう説明すればいいのだろう。私の服や荷物、スマホは置き去りっぽいし……。私の身分証がどんどん遠ざかっていく。で、でも、地元の人はあの隠し湯のことを多少なりとも知っているはず、だとしたら人が縮む話は知られた話かもしれない。そうであることを祈るばかり。 (て、ていうか、普通に話せばわかってくれる……よね?) 生きた人形なんて存在しない。ここまで精密に動いて話すロボットだって、あるはずがない。誰か大人とさえ話す機会があればなんとかなるはずだ。人が人形になることもありえないけど……。いや、実際そうなっているんだから、目の前にすれば信じざるを得ないはず。 私は怪我しないよう必死に身をよじり、鞄の中で身を守ることに専念した。よく考えたらいい方向に転がったのかもしれない。あのままだったら凍死か、下山を試みても行倒れただろう。この子に見つけて運んでもらえる分、ラッキーだったに違いない。私のこの姿を見せて説明すれば、嫌でもわかってくれるはずだ。 「あらー、あったの? よかったわねー」 「キレイでしょー」 私をさらった子供の家。私は鞄から取り出され、テーブルの上で母親に謁見した。デカい……。巨人だ。顔の汚れ、鼻の中までハッキリ見えてしまい、どうにも気持ち悪かった。人の顔ってこんなに汚いもんなんだ。私の顔は今、どうなっているんだろう。手足と同じ、フィギュアみたいな肌になっているんだろうか。この子に人形だと思われたのも仕方ないかな……。 「あ、あのっ」 私は勇気を出して、声をかけた。驚く……よね。人形がいきなり喋ったら。 「ん? なーに?」 (え?) 驚かされたのは私の方だった。母親は何一つ疑う素振りを見せず、さも当たり前のように答えたのだ。 「えっと、私……その、人形じゃなくってですね……」 思わぬ反応に戸惑った私は、たどたどしく事情を説明した。人形温泉の裏手にある山に登り、隠し湯に入ったら体が縮み、肌も気持ち悪いぐらいにツルツルになってしまったこと……。 「知ってる知ってる。懐かしいわ~、私も昔そこでレベッカちゃん拾ってきたのよね~」 「は? え? レベ……?」 彼女はニコニコと微笑んでいた。何言ってるんだろうこの人……。いやとにかく重要なことは、やっぱり地元の人には知られているんだってこと。 「あ、あの、それで、助けてほし……ぃ……」 その時だった。突然、口の動きが鈍った。重いというか、固い……。口だけじゃない。手足が、腰が、体全体の筋肉が動かしづらくなってきたのだ。 「あっ……体が……んっ……?」 「ほら真穂。もうすぐお人形さんになってくれるわよ」 「ほんとー!」 母子が揃って私を見下ろした。娘の瞳はキラキラと輝いている。何言ってるの、この人たち……。早くなんとかして……。 私は必死に身をよじったが、無駄な抵抗だった。体が次第に硬化していく。指先もピッチリ並んで、真っ直ぐ伸びていく。まるで伸ばしたバネが元に戻ろうとしているかのように。背筋も勝手にピンと伸ばされて、両腕も斜め横に垂れ下がる。 「た、助けてください……体が……動かな……く……」 必死に助けを求めても、二人はまるでハムスターでも眺めているかのように和み切った雰囲気を崩さない。ちょ、ちょっとふざけないでよ、本当におかしいの、体が固まっていくんだってば……! 人が縮むのは信じられるのに、固まるのは取り合えってもらえないの!? 「きっとこの子、入ってすぐだったのね」 母親は私の額をツンとつついた。私は全身の姿勢を変えることなく、まるで一つの板のように前後に揺れた。 「あっそうだ、名前! 名前決めなくちゃ!」 娘が叫んだ。 (名前……決め……?) 「だっだから……かし……も……絵里香……って」 「エリカちゃん! これからよろしくねー!」 (は、はぁ!? 何言ってるのよ! いいから病院に連れてって!) とうとう筋肉が完全に動作を止めて、私は着せ替え人形みたいな姿勢でテーブルに突っ立っていることしかできなくなってしまった。 「あ……う……」 私の意志を誰も汲み取ってくれない。目前で交わされる二人のやり取りを聞いている間に、ようやく私は真相を理解し始めた。この町の子供……女の子は、あの温泉の犠牲者を拾って、自分の人形にしてしまうのが普通なのだ、ということを……。 なんという恐ろしい話だろう。私は絶望するほかなかった。 「い……や……死にたく……ない……」 人生最後かもしれない涙が一粒だけ零れてくれた。それを見て、ようやく母親が私の意志に反応を示した。 「あら、平気よ。人形になるだけなんだから。死んだりしないわ。ね」 まるで幼い子供をあやすかのような口調でそう言うと、彼女は私のカチコチになった頭を撫でた。 「……!」 そしてこの時を最後に、私はうめき声一つ漏らせなくなってしまった。髪先から足のつま先まで全てが石のように固まり、ピクリとも動かせない。息もできない。……のに、ちっとも苦しくない。 静かになった私をひっつかみ、娘はリビングから自分の部屋に移動した。 (やめてぇ! おろして! 人形になんてなりたくない!) だが、もう私にはどうすることもできない。体を一ミリ揺らすことさえ許されないのだ。パステルカラーが眩しい子供部屋の一角に、可愛らしい服、勇ましい服、ドレスを着た三体の着せ替え人形が並んでおかれるスペースがあり、私はその端に置かれた。 「すぐ可愛い服着せてあげるからね~」 (やめてー! 私は人形じゃないってば!) さっき視界に映った限りでは、私の隣に立っているのは安っぽいプラスチックの着せ替え人形たち。私がその仲間のように並べられているのだと思うと、全身がゾワゾワする。まるで私が本当に人形の仲間入りを果たしてしまったかのように思えて、ここから逃げ出したい気持ちが膨れ上がっていく。しかも、他の三体は服をちゃんと着ているのに、私だけが裸なのが無性に恥ずかしく感じられる。人間である私が、安っぽい着せ替え人形より下の存在であるかのような状態。冗談じゃない。 しかし、抜け出そうにも、体が動かないんじゃどうにもならない。私は黙って運命に身を委ねることしかできなかった。 娘が私に着せる服を決めるより先に、スマホが鳴った。私のじゃない。彼女のだ。 「あっ、うーん! 私! ゲットしたよー!」 (……?) 友達から電話らしい。……早く服着せてくれないかな。……いや着せ替え遊びしてほしいわけじゃなく、いつまでも全裸じゃ恥ずかしいから! 「私もねー! やっと本物の人形手に入れたんだー!」 (ほ……本物の人形!?) 私のことに違いない。通話内容を聞く限り、どうやらこの町では、あの温泉に浸かって人形になってしまった人のことを、「本物の人形」と呼んでいて、そうでない普通の人形……。今私の隣に並んでいるプラスチック製の人形たちを「偽物」と呼んでいるらしい。女の子の間では、「本物」を所持しているかどうかで一種の格差があるのだろう。娘の声は心底嬉しそうであり、誇らしそうでもあった。 (う……嘘! 逆よ! そんなのおかしいじゃない!) 私は人間だ。絶対に人形なんかじゃない。隣の安っぽい子たちこそが、本物の人形のはず。人間の私は、人形としては偽物で……。 しかし、ここで思考を進めるのが躊躇われた。私が偽物で、人形が本物……? な、なんか納得いかない。それじゃ私が人形以下の存在みたいな……。 い、いや、だからといって、この町の恐ろしいしきたりに従いたいわけじゃない。じゃあ……えっと……私は……。 通話終了後、私はピンク色のドレスを着せられ、床の上に置かれた。カチコチに固まったとばかり思っていた自分の体だけど、どうやら外からは問題なく動かせるらしい。 (な、なんでぇ! なんで自分じゃ動かせないのよぉ!) 子供に人形扱いされて服を着せられた屈辱に耐えながら、私は理不尽すぎる現状に怒った。しかし、かといってどうすることもできない。相変わらず、私は意思表示の手段が奪われたままだ。 娘は自分のコーデに満足したらしく、写真を撮って、それを私に見せてきた。そこに映っていたのは、まごうことなき人形の姿だった。フィギュアのような質感を持ち、光沢を放つ体。染み一つなく、血管も毛もない。私は初めて自分の顔を見た。私は優しい笑顔を浮かべていた。 (う……うぅ……) 不意に泣きたくなった。こんな酷い目に遭っているのに、苦しくって辛いのに、笑顔のまま表情を変えられないだなんて。でも、もう私の瞳から涙は出なかった。アニメキャラクターみたいに大きな瞳。フィギュアか彫刻のように一体化した髪。一つの塊に見える。しかし、娘が触ると普通の髪の毛のようにばらけて、髪型も変えられるらしい。 スマホの写真に映っていたのは、まごうことなき人形。これが人間だなんて、普通の人にはまず発想すら不可能だろう。かといって、ただの普通のフィギュアでもない。リアルで存在感のある肢体は生気に満ち満ちていて、今にも動き出しそうだ。……なのに、私は自分から動き出すことはできない。……酷い。どうしてこんな目に。 その日の夜、私は他の安っぽい人形たちと同じ場所に「片付け」られた。この家には父親もいるようだけど、私を見に来ることはなかった。話していないのか、話しても犯罪だとは思わないのか……。助けてはくれなさそう。 明かりが落ちた暗い部屋の隅で、私は心中で涙した。これから一生、この子の人形として、玩具として生きていかなければならないの? 本当に? 信じられない。信じたくない……。何も食べていないのに、一向に空腹感には襲われない。尿意も便意も催さない。息ももう長いことしていない気がする。 (私……本当に……人形になっちゃったんだ……?) どうしてここの隠し湯が、一部マニアしか知らない秘湯のままでいられるのか、ようやく私は悟ることができた。でも、それはあまりにも遅すぎた。私にできることはただ一つ、全てが夢であったことを祈るだけ。最も、それはありえないと本当はわかってる。でも、縋らずにはいられない。 玩具箱の人形スペースの中、安っぽい「偽物」たちに囲まれながら、私は静かに眠りについた。

Comments

rollingcomputer

縮小した人間ではなく、本物(偽物?)の人形になることは面白いです。同じくAIドールになる話もいいと思います。いつもありがとうございます。

opq

コメントと長期のご支援ありがとうございます。今後もできる限り続けていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。

Gator

人間が人形になったのを知っていながら完璧な人形として扱うというところが印象深かったです。 もし、あんな温泉があったら、部外者を罠に騙して人形に変え、網などで拾って売るという悪い人もいるでしょうね。(Translated)

opq

連日ありがとうございます。きっとそういう人間もいるでしょうね。