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退院してしばらく。教え子から連絡が届いた。会って相談がしたい、話を聞いてほしい……と。ちょうど人手が必要だったので、私は彼女を自宅に招いた。 当日、玄関先に現れた彼女は以前よりずっとやつれて見えた。 「先生……こんばんは」 「こんばんは。会えてうれしいわ。さ、上がって上がって」 靴を脱いだ彼女が床を踏んだ瞬間、ちょっとした振動を感じた。後ろを見なくても、あの子がゆっくりと気をつけながら歩いているのが伝わってくる。普通の大きさだった時は人の歩く振動なんて感じたことなかったけど、今は嫌でもわかってしまう。なにせ、今の私は身長26センチしかない。ちょっとした振動も大きく、敏感にわかってしまう。 人体が縮む奇病、縮小病に罹った私は入院中に26センチまで縮んでしまった。半年前までは高校教師を勤めていたけど、流石にこのサイズでは復職は難しいということで、私は仕事を辞めざるを得なかった。頼れる親戚もいない中、私は巨人の世界と化した自宅の整備に追われる日々だった。26センチが一人暮らしするには、色々と環境を整えなければならない。必要最低限の生活環境は病院の人と同僚の先生方が手伝ってくれたものの、それ以上の改善や細かいところは自分で何とかするしかなかった。しかし今の私は小物入れすら容易に運べない。だから今日、石田さんが来てくれたのは本当に嬉しい訪問だった。特によく面倒を見てあげた子だし……。だから、彼女の相談事も大方察しがつく。 「……まだ、続いてるの?」 「……」 私は先に彼女の悩み相談に乗りたかったが、彼女は気まずそうに視線を泳がせて、中々切り出してくれなかった。仕方なく、私はこっちの用事を先に済ませてもらうことにした。私が幼児より小さく、人形みたいになっているのがショックだったかもしれない。作業が一段落つくころにはきっと慣れて、また前みたいに話してくれるようになるだろう。 今日構築してしまいたかった移動経路が無事完成したので、私は石田さんにお礼を言ってから、彼女の悩みを改めて訊いた。涙ぐみながら語ったその内容は、概ね想像通りのものだった。彼女はいじめに遭っている。私がいた時から。いじめっ子たちは皆、この辺の権力者の子供たちで、周囲に誰も咎める者がいなかった。私は担任を任されるようになってから、何度も彼女たちを叱ったし、両親にも話したのだが、暖簾に腕押しだった。彼女たちのいじめを止めようという気があるのは私一人で、他の教職員の先生たちは誰も味方してくれなかった。やはり、親が皆この土地の権力者たちだったからだ。それでも私は一生懸命石田さんを庇い、できる限り助けようと努めた。しかし、そんな中に人形病を患い、私は教壇を降りなければならなくなってしまった。全く理不尽な世の中だ。見て見ぬふりをしている他の連中ならよかったのに。 とにかく、石田さんによると、私がいなくなってから、ますますいじめは苛烈になっているらしい。聞いているだけで胸が痛んだ。でも、今の私にはどうすることもできない。無力だ。何もしてあげられない自分が情けなかった。今できるのは彼女を慰めてあげることだけ。 「大丈夫。辛くなったらいつでもおいで。私の生徒なのはずっと変わりないからね」 最後にそう言って、私は石田さんを見送った。何とかしてあげたいな。でもやっぱし無理だ。今は自分のことだけで手一杯。家の片づけは大体終わったし、まずは仕事を探さないと……。でも26センチじゃまともな仕事はできそうにない。ホントどうしよう……。 仕事探しは中々捗らなかった。26センチじゃ出社するのも危険で億劫だ。在宅で何かやるしかないかな。でも持ってる資格は教員免許ぐらい……。運転免許は事実上失効だし。今からプログラムの勉強……いや、この体じゃそれも難しそう。メール一つ打つのに全身を動かさなきゃいけないっていうのに。焦りとイライラが積み重なっていく日々だった。唯一私の心を癒してくれるのが石田さんだった。彼女はあれ以来、ちょくちょく訪ねてくるようになったのだ。私も人と話せるのは嬉しいので、歓迎した。ずっと広ーい家の中で、体の手入れもおぼつかないまま腐っているのは辛い。だから石田さんの訪問は本当にありがたいことだった。他の生徒たちの様子も気になるし。いじめの悩み相談は聞いてるだけでムカムカしてくるけど、こうして話を聞き、辛さを共感することで、ちょっとでもこの子の役に立てていることが嬉しかった。それに、この子の前だと、まだ私は先生でいられるし、社会との繋がりも感じられた。縮んでからはずっと、周り全員が巨人の世界で、何の仕事にも就けない小人でいることを余儀なくされたから。だから頼りにされるのは救いだった。 しかしある日、予期せぬ来訪者が私を脅かした。例のいじめっ子グループが玄関に姿を現したのだ。石田さんはいじめっ子三人の後ろで真っ青になって、体は震えていた。 「えっちょ嘘、マジぃ!? ちっさ~!」 「ぶっ、あはははは!」 「可愛いーじゃーん、センセー」 三人の巨人は私を嘲笑しながら家に上がり込んできた。私に気を遣っていた石田さんとは異なり、何一つ遠慮せず床を勢いよく踏み、ズンズンとこっちへ迫ってきた。大きな振動と恐怖で身動きできない。私なら十歩かかる距離が二歩で埋まり、私は己の6倍の背丈を持つ巨人たちに取り囲まれてしまった。まるでビルのようにデカい。三人はその場に屈んで、スマホを取り出し、私を至近距離から撮りだした。 「あっ、こらっ、やめなさい!」 「はー? いいじゃん別にー。きしし」 スマホのフラッシュが眩しい。私は両目を閉じて光の嵐が過ぎ去るのを待った。 「……で、何の用?」 「はー? なにー、その態度。お見舞いに来てくれた生徒に最初に言うのがそれなわけー?」 「ああ、お見舞いに来てくれたの? それはどうも」 「あーそんなビビんなくてよくなーい? 傷つくんですけどー」 「別に……」 「震えてんじゃーん」 三人が爆笑した。私の背丈ほどもありそうな巨大な顔が複数揃って笑っているのは心底恐ろしい光景だった。笑いの威圧が凄まじい。人の笑いが風圧を生むことを、私は生まれて初めて知った。私だってできることなら震えたくなんてない。仮にも生徒相手に。でも仕方ないじゃない。折り合いつかなかった人たちが6倍サイズで私を見下ろして来たら、本能的に恐怖しちゃうのよ……。 しかし、怯えているのは私だけじゃない。石田さんは三人の後ろでずっとプルプル震えながら、事の成り行きを心配そうに見つめている。その涙に滲ませて俯いた顔からは、「この人たちを連れてきちゃってごめんなさい……」と謝罪する声が聞こえてきそうな気がした。脅されて案内させられたのであろうことぐらい、言われなくてもわかる。別に石田さんが謝ることじゃない。 「大きさ的にしょうがないでしょ。少し下がって……あっちょっと!」 三人はズシンズシンと大きな足音を立て、私をまたいでいった。巨大な足が頭上を次々通過していく。情けないことに、私は反射的に頭を抱えてうずくまり、その場から動けなかった。家の中に上がり込んだ三人はまるで観光地にでも来たのかのように、無遠慮に私の家を歩き回った。 「えー、なにこれなにこれ」 「これ何? あっ切れた」 「ちっさかわい! これママゴトのやつでしょ!」 「いい加減にしなさい! 壊さないで!」 苦労して作り上げた私の生活インフラが……。親が金持ちだからって何してもいいと思っている節がある。全く腹立たしい。 「あんたたち、いつになったら人の迷惑がわかるようになるの? 石田さんが」 「はぁ!?」 冷たく、怒りのこもった大声に、私はビクッとしてしまった。前まではこの子たちにビビることなんてなかったのに。ただ小さいっていうそれだけの理由で、私は本能的にこの子たちを恐れ、自らを下位に位置付けてしまっている。それが悲しかった。 「仲良くしてるし~。ねえ?」 「……っ」 石田さんは口をパクパクと開閉した後、黙って俯いてしまった。 「ちょっと~、何それ、うちらが怖いみたいじゃ~ん」 また巨大な足が私の頭上と、すぐ横を通り過ぎていった。ちょっとでも当たって蹴られたり、踏まれたりしたら私は大けがを負ってしまう。生きた心地がしなかった。私をケガさせたらどうしよう、なんて思いは微塵もないらしい。 一人が石田さんに近づき、いびり始めたので、私は再度声を張り上げた。 「だから! そんな風に石田さんを構うなって言ってるの! お金も返してあげなさい!」 「は? うざいんですけどー、センセー、立場わかってないんじゃん?」 彼女は足早に私に近づき、屈んだ。巨大な顔が私の視界を占領する。怖くて動けなかった。そして丸太みたいな人差し指が、私をグイっと後ろへ突き飛ばす。 「……あっ」 私は勢いよく後ろへつき飛ばされ、床に尻餅をついた。 (な……何考えてるのよ、この子は……) 幸い怪我はしなかったが、力の加減によっては大惨事になっていたかもしれない。心臓がバクバクいってる。こんなに怖かったのは生まれて初めてだ。自分を快く思っていない巨人三人に囲まれるなんて。同時に、この子たちに手も足もでず、怯えて台風が過ぎ去るのを待つしかない小動物と化した自分が心底情けなくって、惨めだった。 「……危ない……じゃない……」 私の口から出た声は、自分が思っていたより随分小さく、芯がなかった。 「あれ~? センセー泣かせちゃったー? ごめんってー」 「ちょー、あんまり脅かしちゃ可哀想じゃーん」 「だからごめんってー、ねーセンセー?」 「……」 三人がゲラゲラと笑った。なにが可笑しいのかさっぱり。何か言い返してやりたかったけど、言葉が出なかった。サイズ差が生む絶対的な力関係に、私はすっかり打ちのめされてしまっていた。 「えーマジ可愛くない? ねーみんなで面倒みてあげなーい?」 「あそれイイー! さんせー!」 「は?」 茫然としていると、三人がまた恐ろし気な話を進めだした。私をなんだと思ってるの。捨てられた犬猫じゃないんだから。 「こらこら。私は……」 「んでもここまで来るの大変じゃーん?」 「そっかー、そだねー」 聞いちゃいない。 「あっ、じゃあ学校持ってこ!」 「それイイー!」 彼女たちの一人が突然私を掴んだ。 「ちょっ……!?」 巨大な手に鷲掴みされた私は、反応する間もなく空中へ一気に上昇させられた。肝が冷え、血の気がひいた。両足は踏むべきものがなく、ダラリと宙に垂れ下がった。私の体はこの子の右手だけによって支えられている。私は恐怖で声もでなかった。「おろしなさい!」と叱り飛ばしたかった。でも、この子が手を離せば、私は床へ真っ逆さま。今の私からしてみれば、二階か三階から落ちるのに等しい。骨折でもしたら洒落にならない。26センチじゃ、簡単な手術も困難を極める作業となってしまう。治るかどうかわからないのだ。 私は青ざめて彼女の顔を見上げた。私の方など見ていない。自身の鞄を開け、私をその中に放り込んでしまった。 「いたっ!」 鞄の底にある固い容器にぶつかり、私は悲鳴を上げた。薄暗い鞄の中は、強烈な革と紙の匂いがした。 「いい加減にしなさい! ここから出して!」 我慢できずに叫んだ。しかし、鞄はあっさりと閉められ、私は光のない真っ暗な世界に投獄されてしまった。しかも、すぐに大きな揺れが私を襲った。歩き出した……っぽい。船みたいな揺れに加え、この鞄全体の浮遊感が、激しく私の心を揺さぶった。怖い。やだやだ。やめてよ。ここから出してよ。 何度か声を出したが、反応はなかった。鞄が大きく揺れ、世界そのものが位置を変える。ロープの切れたゴンドラに乗っているかのように、不安と恐怖で胸が締め付けられる。どうしよう。今の私には危ないものだらけで、下手に動けない。 嫌な笑い声と、ドアの開閉音……。空気が変わった。私は家から連れ出されてしまったらしい。こいつら、私をどこへ運ぶんだろう。まさか、本当にペットとして飼うつもりじゃあるまい。いくらなんでも、両親が許さないだろう。大問題になる。 (はぁ……) 私はため息をついた。どうしてこんなことに。そう言えば石田さんはどうしただろう。私はちょっぴり、彼女が助けてくれないかと思ったが、無理だろうなと思い直した。それに、今鞄の取り合いなんぞされたら死んでしまう。待つしかない。三人が家に帰ったら、ここから出してくれるはず。その時たっぷりと言い聞かせてやらなくちゃ。 「いい加減にしなさい! そんなもの誰もつき合うわけないでしょ!」 私は長い木製の机上から吠えた。私が持ち込まれた場所は、発症前まで勤めていた高校。その三階角にある、科学部の部室だった。三人は私の世話は科学部員に押し付けることとし、私を好きな時にからかう機会と権利だけを欲しがったのだ。休日の部室には私達五人以外誰もいない。職員室は反対側の一階だから、助けも望めない。 石田さんは科学部員でもなんでもないのだが、私の世話を押し付けられようとしている。彼女は何も言い返せず、時折小声で何か呟くだけだった。 「センセー仲良かったんでしょ? 見てあげなよ面倒~」 「いいじゃーん。いつでも会えるようになるんだから~」 「あのね! こんなとこで生活できるわけないでしょ! 私はハムスターじゃないのよ!」 苦労して作り上げた専用の生活環境があっても、精神的に結構辛いってのに。私は物理的にこの部屋の扉を開閉できない。トイレや風呂はどうすればいいと思っているんだろう。考えてないのか。何にも。馬鹿だから。 「あるじゃん、服~」 「友達なったら~?」 三人は棚のフィギュアを指さした。丁度私と同じスケールのアニメキャラクターのフィギュアが数体並んでいる。科学部員はオタク気味の子が多い印象はあったが、部室にこんなものが飾ってあるとは知らなかった。だから私をここに持ち込んだのか。しかし、フィギュアの手入れと人間の介護を同列に考えるなんて……。この子たち、人の心はないの? 「いまなら黙っておいてあげるから! 私を家に帰しなさい!」 仁王立ちして、腹から声を張り上げても、三人はニヤニヤと私を見下ろすだけで、一向に取り合ってくれない。私が先生やっていた時とは大違いだ。ひょっとして、もはや私を同じ人間だと看做していないんだろうか。物理的なサイズ差というのは、そんなにも認識をゆがめてしまうものなの? 「ぁ……あ、えっと!」 突然、石田さんが声量を上げた。 「駄目……だよ。先生、帰してあげない……と……」 (い……石田さん……!) 私はビックリした。石田さんがこの三人相手に物申すなんて……! そう! そうよ石田さん! こんな奴らに屈し……あ。 三人はいたく気分を害したらしく、石田さんに詰め寄り、キツイ口調で攻め立て、髪の毛を掴んだり、耳元で大声を出したりして彼女をいじめ始めた。 「やめなさい! こら!」 「っせーなぁ! 黙っとけよ!」 情けないことに、凶悪な相で怒鳴られた瞬間、私は全身が震えて固まってしまった。まるで蛇に睨まれた蛙だ。どうしても本能が、6倍ある巨人を恐れてしまう。 「……っぶ! ははは」「固まっちゃった」「ちょっとつっちー、脅かしすぎ~」 また笑いの渦が巻き起こった。私は悔しくて悔しくって、ふいに涙を浮かべてしまった。しかし、私の小さな涙は、三人には見えないらしかった。 「あっはは、フィギュアみたい」 動かない私を見て、一人がそう言った時、石田さんの髪を握っている方が言った。 「センセー、うちらが石田と遊ぶの嫌なわけー?」 「……いじめは止めろって、言ってる……のよ……」 「んーじゃあさー、いーこと思いついちゃった」 「は……はあぁぁ!? 何で私がそんなママゴトに付き合わなくっちゃいけないわけ!? あんたたちおかしいんじゃないの!?」 三人は信じられない提案を私に強要してきた。石田さんをいじめるのを止めてやる代わりに、ここで人形のフリをしていろというのだ。私が人間だとバレないでいる間は、石田さんには手を出さないでおいでやる……と。 「え~なんで? センセーはうちらと石田遊んでほしくないんでしょ? 嘘なーん?」 「いやっだから! それと私がそんな遊びをすることに何の関係があるのよ!」 「あーあ。石田カワイソ。センセー、石田そんな好きじゃないんだってー」 「だっだから……」 石田さんは終始怯えて顔を下に向けたまま、一言も発さなかった。 「……仮に! 私がそれに付き合ったって、石田さん以外の人をいじめだすんじゃ意味ないじゃない」 「ん? じゃあそうすんならやんの?」「センセー、フィギュアやるって」「よかったなー石田。ん? なぁ、なんか言ったらどうなん? イラつくんだけど」 「あのね……!」 垂れた前髪の隙間から、石田さんの目が覗いた。潤んだ瞳でジッと私に視線を向けている。私は日和った。僅かな期待と「助けて欲しい」というサインが込められた眼差しだった。もしも万が一、約束通りにいじめから解放されるのであれば、私にフィギュアごっこを受けて欲しい、助けて欲しい、でも自分からそんなことを先生に頼むわけにはいかない……。そんな葛藤も表情からは読み取れた。 私の心は揺れた。彼女がずっとつらい目に遭っているのをこの目で見続けてきたのだから尚更だ。でも……そんな遊びにつきあったところで、この三人が本当にいじめを止めるかは……。私をからかって恨みを晴らしているだけなんだろうし……。 逆に三人の表情からは、「この女にそんな度胸ない」「所詮口だけ」「本気でいじめを止めさせようだなんて思ってないくせに」というような嘲笑を感じる。 (んんっ……) 「わかったわ! やってやろうじゃない!」 意地だ。どうにかこいつらに一矢報いてやりたいし、助けられるなら石田さんだって助けたい。縮まなければまだここにいて、石田さんの力になれた。それがずっと心残りでしこりになっていたけど、縮んだことが逆に彼女を助ける益になるんなら、きっとこんな機会は二度とない。 「は? マジ!?」 三人はまた爆笑した後、ニヤニヤしながら大きな顔面を近づけて、本気かどうか念押ししてきた。もう引き下がれない。 「その代わり! あんたたちも、その間誰もいじめたりしないこと! いいわね!」 「ご……ごめん……なさぃ……」 「いいってば。引き受けたのは私なんだから」 日が暮れた科学部室。そこにいるのは机の上に座り込む私と、申し訳なさそうに俯く石田さんだけだった。 (う~ん……) 勢いでフィギュアごっこをやってしまうことになってしまったが……。危機が去り、冷静になってくると、やっぱりあり得ない話に思われた。普通にバレる。縮んだだけで私は人間だ。フィギュアたちは綺麗に造形・彩色されていて、顔もデフォルメされていて、ピクリとも動かない。私の顔は生きた人間まんまだし、体は毛も生えてるし、碌にスキンケアもできていないから、肌荒れも目立つ。目を凝らせば血管だってある。いきなり知らないフィギュアが増えていたら目立つだろう。手に取ってよく調べるはず。第一、トイレやお風呂はどうするんだ。 (やっぱり、科学部の子たちに……) この部室を使う人たち全員に事情を話して、お芝居に付き合ってもらおうか。しかし、あの三人は絶対揺さぶりをかけてくるはず。この学校であの三人に正面切って反抗できる人はあんまりいないし、ましてや大人しい子が多そうな科学部では……。 (じゃあやっぱり真面目路線で……? でもフィギュアだとバレないように見せかけることなんてできるのかしら……?) とりあえず、この部屋にあるフィギュアを見てみよう。 背丈はどれも私と同じくらい。スケールも同じ……。でも、この中に私が並べばすぐわかる。フィギュアたちは樹脂製の硬そうな肌とコスチュームで成型されていて、肌も均質な肌色一色で表現されている。髪の毛と眉毛以外の体毛なんか存在しない。毛穴もない。肌荒れなんて言葉とは無縁の存在だ。画像修正ソフトで修正したような肌をリアルで持つもの、それがフィギュアだ。髪の毛だって本物の人間とは違う。独立した毛の集積体ではない。決まった形に成型された樹脂に過ぎない。ほら、触れば固くて……あれ? フィギュアの髪の毛に指先が触れた瞬間、サラリと別れた。 「えっ!? えっ!?」 驚いた。てっきりカチカチで髪型なんて弄れないのかとばかり……。しばし両手で髪を弄ってみると、本物みたいに新しく縛ったりすることもできるらしかった。でも、見た目は最初からその形で作られた一塊の樹脂にしか見えないのだ。 (へぇー……) フィギュアなんて見たこともなかったからしらなかったけど、今はここまで技術が進歩してるんだ……。 その後、関節があって手足を動かせることもしった。ぱっと見、ポーズ固定かと思ってたのに。少なくとも外からは関節は全く見えない。そこは人間と同じ……。だけどビックリ。筋肉まで再現してあるのかな。指まで細かく動かせる。信じられない。え、今時のフィギュアってみんなこうなの? この部室のフィギュアが特別高級なやつなの? コスチュームも同様だった。カチコチの樹脂かと思ったら、かなり伸縮性があって、体に合わせて動くのだ。手触りはブニブニしていて、柔らかいゴムみたいだった。 私は俄然興味が湧いて、もっとよく調べてみたくなった。石田さんに頼んで、黒マジックで「ふぃぎゅあ」と書かれた引き出しを開けてもらい、中身を机上に並べてもらう。その中に、フィギュアクリームと書かれた瓶があった。 (あれ。どこかで聞いたような……?) そうだ。確か、入院中に同じ縮小病患者同士で話題になってたような。あれを塗ったらトイレやお風呂が不要になるとかなんとか……。トンデモ医療だと思って聞き流していたやつだ。見た目も人形みたいに綺麗になって、面倒なケアなんかしなくてよくなるとか……。 (うーん……) 私は石田さんに部室のパソコンを使って、このクリームについて調べてもらった。元々はフィギュアの修復や洗浄、保全に使うためのものらしい。折れたパーツをこれで塗ってくっつけると修復してくれるとか。手垢や油脂もナノマシンが順次分解してくれるからフィギュアを常に清潔に保てるとか。縮小病の人が体に塗った時、トイレやお風呂が不要になるのはこういう理屈か。普通の人に塗っても無理だけど、縮んだ人なら分解スピードが追いつけるってわけだ。ふーん……。 でも、フィギュアに塗るために作られたクリームなんて、直に肌に塗って大丈夫なんだろうか。健康上の心配は……。うーん、調べた限りでは健康被害については発見できなかった。平気、ってことなんだろうか。 「これ塗ったら……あ、ぃや……」 石田さんは呟くようにそう言って、気まずそうに沈黙した。まあ、バラさない路線ならこれしかないか……。明日は月曜で、もうみんな来るんだし……。あまり悠長なことは言ってられない。 「うん。石田さん、手伝ってくれる?」 「え、でも……」 「いいから。もうこれ以上あいつらにいじめられたくないでしょ。ギャフンと言わせてやらなくっちゃ」 「ごめんなさい……あたしのせいで……」 「だー、いいからもう」 私は石田さんにフィギュアクリームを塗ってもらうことに決めた。最初は右腕だけで様子見。彼女は恐る恐る瓶の中に指を突っ込み、肌色のクリームを掬った。私は座り込んで右腕を掲げた。石田さんは苦悶の表情を浮かべながら、私の右腕に人差し指をそっとあて、指先を震わせながらゆっくりと、私の腕に光沢のあるクリームを広げていった。 「そんな緊張しなくっても大丈夫だから……」 「す……すいません……」 私の腕を折ったりしないか心配しているのだろう。彼女は慎重に慎重に、私の腕自体には一切触れないように注意しながら、クリームの塊だけを押し、クリームが腕全体を覆い隠すよう塗りつけていった。その結果、凹凸やムラが激しく、私の右腕は肌色の粘土細工みたいになった。 「ぁぁぅ……ごめんなさい……不器用で……」 「いいからいいから。気にしないで」 ネットで見た説明通りなら、形状を検出して自動的に綺麗に補正してくれるはず。果たしてどうなるか。 しばらく待っていると、クリームがうねり始め、独りでに動き出した。指先から余分なクリームが波のように駆け上ってくる。そして波が去った跡には、見違えた私の腕が艶々と輝いた。棚のフィギュアと全く同じ質感。樹脂製の硬い腕のように見える。でも、指や肘は何の違和感もなく、いつも通りに動かせる。 「すごっ……」 感心している間に、クリームが右肩まで登って、私の胴体を服ごと飲み込み始めた。 「あっ、ちょっ……」 慌てて服を脱ぎ捨てようとしたが、右肩のあたりで体とくっついてしまい、私一人ではどうしようもなかった。石田さんにクリームごと切り取ってもらう羽目になり、気づけば服は千切れてボロボロに……。 「ぁう……ごめんなさい……」 「いや、仕方なかったわ、今のは……」 縮んだ私は下着なんかつけていなかったので、これで全裸となってしまった。女同士とはいえ、学校の部室に生徒相手というのもあり、恥ずかしくていたたまれない。 「ぁ……でも、すごい……きれい……」 石田さんは見惚れるように私の右腕を観察した。まあ、確かに……。体毛も汚れも肌荒れもない、均質で滑らかな見た目。けど、大分人間離れしてるから素直に良い事だとは思えなかった。 「問題、なさそう、ね……」 しばらく右手の開閉を繰り返したり、物を掴んだり、肩をぐるぐる回したりして感触を確かめたが、驚くほどいつも通りだった。重さも感じないし、つっぱったりもしない。 「いいわ。全身やっちゃって」 「……ぇ。ほ、ホントにいいんですか?」 「仕方ないでしょ。もう遅いし、石田さんも早く帰りたいでしょう」 申し訳なさそうに愚図る石田さんを励ましながら、私は全身を肌色のクリームで覆いつくされていった。しかし、一糸纏わぬ姿で全身ねっとりとしたクリームを教え子に塗りつけられていくというこの状況。妙な背徳感が付き纏い、終始居心地が悪かった。石田さんも気まずそうだ。自分ひとりでやった方がよかったかも。いやでも、自力で塗るのは無理か……。 やがて、首から下全てが塗り終わった。蛍光灯の光を反射して、私の全身はテカテカとした光沢を放っている。フィギュアたちとまったく同じ肌だ。体毛は全てクリームの底に沈み、肌色一色で染め上げられた皮膚には毛穴も皴も残っていない。どれだけ目を凝らしても血管が見えることはない。最初からこの形で成型された樹脂のようにしか見えない。これが私の体だなんて信じられない。中でも驚愕したのは胸と股間だ。私の乳房からは乳首が消失してしまった。といっても、千切れてしまったわけではない。クリームの中に埋没してしまったのだ。きっと人形に乳首はないからだろう、クリームの自動補正が乳首を覆い隠すために、私の胸をひと回り大きくしてしまったのだ。お陰で私の胸は突起がない滑らかな曲面に変わり、本当に人形みたいになってしまった。股間も恐らく同様の理由で覆われてしまい、後にはなにも残っていない。凹凸のない、ツルッツルの曲面。まるでマネキンのような股間。肛門も塞がれた。もしも本当にクリームのナノマシンがウンチやおしっこを分解してくれなかったらどうしよう……。酷いことになりそう。 「あの……」 「あ、うん。顔ね。……ふう」 深呼吸してから、私は目を閉じた。大丈夫、パックみたいなものだと思えばいい。 「……いきます、よ」 石田さんの言葉から数秒後、顔面にぬるついたクリームがべちゃっとくっつけられた。顔はクリームの補正に全部任せることに決めたので、塊をくっつけていくだけだ。左右から、そして後頭部。髪……。 クリームの補正が始まると、私はくすぐったくてたまらなくなった。何しろ顔面、いや頭の隅から隅、首から耳の裏までネチョネチョとしたクリームが這うように蠢くのだ。私の頭の形にそって、僅かな隙間も作らず張り付いてくる。何故だか、私という存在に蓋をされているかのように感じて、ちょっと怖くなった。 私の心配をよそに、クリームは着実に仕事をこなしていった。髪の毛が次第に重くなっていく。フィギュアみたいになっちゃうんだろうか。一塊の樹脂みたいな髪に……。 「先生? 先生? 終わりました……よ。多分……」 「ん……」 私はゆっくりと目を開けた。もう顔面にくすぐったさは感じない。けど、ちょっと違和感があった。重いというか、固いというか、顔面を何かで覆われていることを肌で感じられる。手足では得られなかったこの感触。顔が敏感だからだろうか……。 「あっ、そうだ、鏡とかある?」 「ぇっと……」 石田さんは周囲を見渡した後、自分のスマホでカメラを起動し、私の前に立てた。 そこに映っていたのは、可愛らしい女の子のフィギュアだった。自分なのになんだけど、そうとしか形容のしようがない。私の顔はまるでアニメキャラクターのようにデフォルメされていて、瞳も大きいし、幼くされてるし、髪の毛もフィギュアのようだったからだ。手入れされていないボサボサのショートだった私の髪は、背中まで伸び、肩幅まで広がる長ロングに変貌していた。顔だけ違和感があったのは、他のとこよりクリームを使ってすごい改修を施したせいだったに違いない。いや、ていうか目だよ目。これどうなってんの……? 瞬きすると、画面に映るフィギュアの大きな目も瞬いた。視線も……問題なく動かせる。視界や目の感覚そのものは変わってない。……はずなんだけど、極端に装飾された大きな瞳は、私の目の動きと完璧にリンクしている。どういう理屈なんだろう。今日一番驚いた……。 髪に触れてみると、サラリと別れた。一見、一塊の樹脂みたいなのに普通の髪みたいに扱えるのは不思議。ていうか、私の髪が埋まっているのはこのほんの一部分だけのはずで、あと全部クリームが勝手に髪っぽくなっているだけのはず。それでもこんなになるんだー……。 「……こ、これなら……わかんない、です。きっと……」 石田さんが呟くように言った。うん。確かに。マジで私はフィギュアになっちゃった。すごい大変身だよこれは。止まってればわからないだろうな。いや、ここまでデフォルメされちゃ、あの三人でさえすぐにはわからないかも。 「失礼、します……」 「うん。今日はありがとう。よく休んでね」 「はい……」 石田さんはドアを閉める際、モゴモゴと口を動かしたが、小声過ぎて聞き取れなかった。科学部室に一人取り残された私は、虚無感と孤独に襲われた。本当にこれでよかったのかな。マジで明日からフィギュアごっこやるの? かつての教え子たちの前で、こんな姿をさらすの? 私……アラサーの教師が無茶な若作りをしているところを想像すると、怖気が走った。いやでも、今は「アレ」なんだから、ちょっとはマシ……かな。客観的に言って、今の私はいわゆる美少女フィギュアにしか見えな……いやいや、何美少女って。そんな年でも顔でもなかったでしょ。あー恥ずかしい……。うー……。でも今更どうにもならない。ここから一人で帰宅するのは無理なんだし。あの三人にいじめを止めさせる最後の機会でもある。 私は机から教卓を渡り、棚に近づいた。私と同じスケールのフィギュアたち。どれもこれも美少女揃いだ。当たり前だけど。この中に混じるのかと思うと、改めて気まずさを感じる。場違いじゃない? いろいろと。 でも、見た目はそっくりだし、何とか……。私は視線を落とし、改めて自分の体を観察した。ツルツルテカテカ、均質な樹脂っぽい体。同じだ。うん、そっくり。棚に上がり、そっとフィギュアたちの間に立ってみる。……馴染む、かな? 見た目は周りと同じだし、動かなければ……いや待って。違う。違う! 私は自分が全裸であることを思い出した。周りの子たちは可愛らしい服を着てポージングしている中、私は下着一枚身につけていない。 (服……服……なにか服……) クリームで覆われているから、厳密には自分の裸じゃない……なんてことは言えなかった。私は間違いなく「裸」だ。これで生徒たちの前に姿を現すなんて無理! 大急ぎでフィギュア用の衣装を漁った。自分の服は千切れて着られないからだ。しかし案の定、小学生でも素面じゃ着ないような、媚びっ媚びの服やエッチな服ばかり。 (うわーん、どうしよう……) 考えてなかった。服は。 散々悩んだ末、メイド服のエプロンドレスだけ着ておくことにした。メイド一式にはカチューシャやニーハイソックス、靴なんかもあったけど、それは着なかった。生徒の前でメイドのコスプレなんて……。一式全部着込んだら、まるで私がノリノリみたいになっちゃうから無理。石田さんやあの三人になんて言われるか……。 夜、私は机上のタオルの上で眠りについた。こうして私のフィギュア生活が幕を開けることとなった。 朝……いや昼に私は目を覚ました。部屋の時計を見ると、既に10時を回っている。部屋の外からは生徒たちの喧噪も聞こえる。まだ部室には誰も来ていないらしい。 (結局……どうしようかな) 布団代わりにしていたタオルを確認したところ、クリームは一滴も私の体から離れなかったようだ。バレないようなメイクを施したとはいえ、本当にずっとフィギュアのフリをし続けるのかと考えると、やっぱり何かおかしい気がしてきた。まあいいや。放課後、部員たちの出方を見て、ばらした上で協力してもらうか、本当にフィギュアやるか決めよう。 しかし、暇だ。何しろ、この部室には窓もない。昔倉庫だった関係で、かなり殺風景で圧迫感のある部屋だ。こんなところで放課後まで何もせずボーっと待つのは時間を長く感じてしまう……かと思ったが、そんなこともなかった。久しぶりに耳にする学校の音と空気が懐かしくって、ついつい耳を傾けて、その空気に浸ってしまう。 気がつけば、放課後を告げるチャイムが鳴っていた。 鍵を差し込む音が響いた。 (来たっ……!) 私はタオルの上に座り込んだまま、やや俯いて動きを止めた。扉が開いた。入ってきた……! 「あれ? 誰か土日来た?」「は? 何で?」「明かりついてる」「消し忘れたんじゃねーの」「金曜最後出たの誰?」 ゾロゾロと科学部員たちが入ってきた。ど、どうしよう……。心臓がバクバク鳴り始めた。病気でやめた先生がフィギュアのコスプレして部室に忍び込む……やっぱ駄目だ。名乗り出る勇気が……湧かない……。助けて……。 「ん? アレ何?」「フィギュア?」「やっぱ誰か来たろ」 (ぎゃあああ来る。こっち来るうぅ) ヤバい。想像以上にいたたまれない。帰りたい。やっぱおかしいよこの賭け。やめときゃよかった……。 「あれ? こんなんあったっけ?」 一人が私を掴み上げた。ゴツゴツした固い手。男子の手だ。無造作におへそのあたりを親指が強くくい込んでくる。背中も残り四本の指がグイっと押し込んでくる。痛くはないけど、バレるんじゃないかとか、怪我するんじゃないかとか、色々なことが頭を一瞬の間に駆け回り、どうしていいかわからなかった。 目が合った。この子誰だっけ……。知らない。私が受け持った子ではない。私は視線や表情を動かさないよう必死にこらえたが、恥ずかしくて顔が紅潮するのを制御できなかった。 (あーバレる! バレるー!) しかも彼は私を他の部員たちの眼前につきつけ、確認を取り始めた。 「いや、なかったよねコレ」「私物? 忘れ物?」「汚しちゃまずくね? 置いとけよ」 しかし不思議なことに、誰も私の顔の変化に突っ込まなかった。ひょっとして、最近のフィギュアって顔が赤くなる機能があるの? 顔が……。あっ、クリームか! 本当の私の顔はクリームの下だった! 忘れてた。危ない。 (あれ? でも、なんか変……) 顔の感覚が昨晩と違う。普通だ。重いクリームの存在を感じないよ。変だな。まるで、このデフォルメされた顔が本当に私の顔に成り代わっちゃったみたい……。 しかし、表情は勿論、手足もずっと同じ姿勢をキープし続けなければならないのは想像以上に疲労がたまるし、緊張でストレスも急上昇だ。やっぱ、言っちゃおう。その上で、みんなあの三人には知らないふりをしてもらおう……。 そう思った瞬間。部室のドアが勢いよく開き、あの三人が部室に入ってきたのだ! (なっ……!?) 私は思わず目を見開き、視線を彼女らに向けてしまった。やばっ……。でも全員が同じように三人に注目していたので、難を逃れた。 「あっ、えっ……」「土田……さん!?」 「ごっめーん、ちょっといいー?」「ちょい見学ぅー」 科学部員たちは招かれざる客に困惑し、恐れおののいていた。やっぱり、苦手な子ばっかりか……。 「あ、それー!」 彼女らはすぐに私を見つけ、男子から奪い取った。私にしてみたら、屋上から屋上へジャンプさせられるようなものだ。こればっかりは慣れない。何度やられても肝を冷やす。 (ちょっと! 危ないじゃない!) 落としたりどこか骨折ったりしたらどうするつもりだったの。考えてないのか。睨みつけてやりたかったが、そういうわけにもいかない。この場にいる全員が私に注目している。 「ん?」「やだ、これマジの人形じゃん」「なぁんだセンセー、逃げ……ん?」 一人が私のすぐ目の前まで顔を近づけてきた。うっ……。至近距離まで接近した巨大な人の顔。メイクの細かな粗、鼻の中、目の毛細血管、全てがハッキリと見て取れる。正直、気持ち悪い。見たくない。私は思わず目を逸らしてしまった。 「……ぷっ」 彼女が噴き出し、私に唾がかかった。き、汚い……。クリームが分解してくれるといいけど……。 「ちょ! マジ!? マジ! 超マジじゃん!」 「え? 何? どしたのつっちー?」 「センセー! センセーよコレ!」 「は? マジ?」「マジマジ!」「見せて!」 たちまちのうちに争奪戦に発展し、三人は私を奪い合いながら、四方八方から嘗め回すように私を観察した。私を嘲り、爆笑しながら。 「メイク! やっば! マジ! 超マジ!」「気合! 入り! ……過ぎ!」 床から遠く離れた上空でブランブラン振り回されるのも生きた心地がしないけど、この子たちに心底馬鹿にされるのはそれ以上に効いた。今まで生きてきた中で、こんな屈辱を受けた試しはない。こいつらをぶっ飛ばしてやりたかったし、この場から消えてしまいたかった。 (何が「超マジ」よ! やりたくてやってるわけじゃないっつーの!) 「ひーっ、やっば、腹。腹いった」「脇。そこ脇腹」「マジ脇」 科学部員たちは距離をとっている。私は三人が落ち着いたころを見計らって、表情と指で「話させろ」とジェスチャーした。耳元に近づけてくれたので、私は小声で囁いた。 「約束。守るのよ」 「はいはい。バレなかったら、んしょ?」 彼女は部員一人を呼び出し、私を手渡した。相変わらず宙で足をプラプラさせる状態が続く。高所恐怖症ではなかったはずだけど、流石にきつい。しかも、ずっと表情や手足の姿勢が変わらないよう維持し続けなければならないのだ。 (……む、無理……) これ以上続けたら全身筋肉がプルプルしてくる。縮小生活は結構体張るから、まだなんとか持ちこたえられているけど、あと二、三時間もは……。 「えっと……」 男子部員は怪訝な表情で、私と三人の間で視線を行ったり来たりさせた。 「ほらぁ、こないだ人形壊しちゃったじゃぁん、これでナシってことで!」 「えっ!? あ、うん、わかった……」 そんなことまでしてたのか。可哀想に。男子部員は不満がありそうだったが、何も言わず私を受け入れたようだ。 (んん……そろそろ机に置いてほしい……) 男子部員は悔しさのせいか、私を持つ手に力を入れ始めた。締め付けられる痛みも中々のもんだ。 「ねーさあ、ちょっとその人形くすぐってみない?」 「は?」 (ちょちょちょっと! 何それ! そんなの反則でしょ!) 男子部員は困惑している。そりゃそうだ。私をただの人形だと思ってるんだから。でもどうしよう。絶対我慢できない。物理的、生理的に無理でしょ。それで「はい失敗残念でした~」ってするつもり!? 卑怯だ。ずる過ぎる。抗議したいけど、したら終わっちゃう……。こいつら……。 その時だった。ノックの音が響いた。他の部員がドアを開けた。誰? ……石田さん!? 「えっと……?」 「石田さん? どうしたの?」 知り合いらしい子が進み出た。私をくすぐる話は有耶無耶になりそう? 助かった……。けど、石田さんはどうしてここへ? 「ぁ、あの……」 相変わらずの小声で、私にはよく聞き取れない。 「あんさあ、もうちょっとハッキリ話せんわけ? イラつくんだけどー」 (ちょっと! いじめないって約束でしょ!) あの三人は全くもう。石田さんが何か言った。聞こえない。私持ってる人、近くに寄ってくれないかな。 石田さんが何やら話している間に、私は机の上に置かれた。や、やっと地面を踏めた……。地面じゃないけど。声は聞こえないけど、幸い視界には捉えられた。部員と何か話してる……。 しばらくすると、ようやく状況がわかった。驚くべきことに、彼女は科学部に入部希望だという。あ……あの引っ込み思案の石田さんが部活! 私は嬉しくなった。もう高二の三学期だっていうのに、そんな時期に友達もいない部に入部というのは結構勇気がいるはずだ。 石田さんと目が合った。石田さんは僅かに会釈した。 (あ……私の、ため……?) 私をサポートするために、勇気を出して……? 嬉しい。彼女の心も、成長も。 しかし、その意図は三人にも伝わってしまったらしい。一度は有耶無耶になった私の弄りが再開されてしまった。 「最近の人形ってさぁー、よー出来てるじゃーん」 電柱のような指が私の顔をつつく。やば……。必死にパントマイムをする私を見て楽しむつもりだ。 「この辺こすったら……」 (んんんーっ!) 彼女は思いっきり私の横腹をくすぐった。限界は一瞬で超えられた。 (だ、だめ! 無理!) 私は耐えきれず、身をよじりながら笑いだしてしま……えなかった。 (んんんっ!? なに……体がっ……?) 滅茶苦茶にくすぐられて、今すぐ笑いながら暴れだしたいはずなのに、私の体が言うことをきかなかった。ピクリとも動かない。 (ちょっ……んんっ、ダメっ……ああああ!) 身悶えしたい。笑いたい。強烈な生理的欲求が、効かない。私は手足が動かせないどころか、表情一つ変えられなかった。 (ちょっ、あぅんっ……っだめぇ!) 拷問だった。こんなにくすぐられているのに、表情筋一つ動かせず、手足もまるで石みたいに硬くて動かせない。 (何がっ……あっ、あははひゃは……) くすぐりが終わってから数分待たないと、私は正気に戻れなかった。私が反応しないので諦めてしまったらしい。いつの間にか三人の気配は部室から消えている。 (一体……何が……) 激しく息をしながら、私はずっと天井を眺めたまま転がっていた。バレなかった……らしい。よかった……。でもなんで……? (動けない……) 私の体は、自分で動かそうとしても動かなかった。視線さえ操れない。まるで本当に人形になってしまったみたいだ。髪の先から足先まで、カチコチに固まっていて、0.1ミリも動かせない。固い体は最初からこの姿勢で成型された一塊の樹脂のようだった。ついさっきまで動かせていたということが信じられなくなってくる。 バレなかったのは助かったが、こうなるとこれはこれで問題だ。まさか動けなくなっちゃうなんて……。 その後も、何人かの部員が私を持ち上げ、ジロジロと無遠慮に観察してきたり、スカートの中を覗いてきたりした。下着なんかつけていないので、死ぬほど恥ずかしかった。ま、まさか生徒に股間を直で見られるなんて……。ありえない……。いや、クリーム塗ってるからセーフ。と思い込もうにも、何も纏っていない肌色の股間が見られていることは事実……。 (やめてよー、そんなとこ見ないでよー。私人間なの。花咲先生よ! 花咲クルミよ! 覚えてない?) いや、バレたらダメなんだからわかられちゃ困る。でも、ここまで疑うことなく人形だと思われるのも、それはそれで癪だ。 悶々としていると、ある部員が私の着ているエプロンドレスを脱がし始めた。 (ちょちょちょっと! 何するの!?) 簡単に手足を曲げられたので、動けるようになったのかと思いきや、自分では動かせなかった。 (ど、どうして……) あの三人が私に何かしたのだろうか。でも一体なにを? 「えー、それここ置くん? 後で土田に……」「いいじゃん。要するに弁償してくれたってことだろ?」「あー、そっか。そうだな」 あっという間に私は全裸にされてしまった。 (やだー! 見ないで! 見ないでよー! 変態!) 子供たちに服を脱がされるなんて、なんたる屈辱……。同時に、教師としてやってはならないことをしてしまっている罪悪感もあった。 (い、いや……自分で裸を見せてるわけじゃないんだから……この子たちが無理やり……!) しかし、黙って人形のフリをし続けているのは間違いなく私の意志。変態なのは私かも……。いや状況的にはどう考えてもそうだ。この子たちは人形だと思ってるんだから。 (あうう……) どうやら、私に別の服を着せようとしているらしい。男子たちに着せ替え人形にされるなんて……。恥ずかしいし、情けないし、罪悪感もあるしで、死ぬほど居心地が悪かった。逃げたい……。でも、私は全裸でバンザイしたまま動けない。微動だにできない。この子たちのなすがままだ。 (石田さん……そうだ、石田さんは……) 助けてくれないだろうか。今どこにいるんだろう。首も視線も動かせないから、視界にいない人の動向はわからない。 そうこうしているうちに、私は黒いゴシックロリータのドレスを着せられた。 (ちょ、ちょっと、やめてよ! 私、そういうキャラじゃないし……アラサーだし……) 「おっ、可愛いじゃん」「だろー?」 男子部員たちの言葉が、私の羞恥心を刺激した。着せ替えられちゃった……。先生だったのに……。 その後、私は棚に収納された。フィギュアたちが並んでいる隣に。新しく白い台座が置かれ、私はその上に立たされて、スカートの前で両手を重ねるポーズをとらされた。 (うっ……。ほ、ホントにフィギュア……になっちゃった……) 昨日見たあのフィギュアたちの隣に、こうして並べられてしまったことで、本当にフィギュアの仲間入りをしたんだということを意識させられた。 これから、こうしてここでジッとしていなくちゃいけないのか……。でも、放置されて立っているだけなら楽そう。 (あっ、いや、でも……) 私は自力でパントマイムをしているわけじゃない。本当に動けないのだ。部員たちが雑談をしている間、私は手足を動かそうと試みた。しかし無理だった。体に力を入れることができない。私の体には筋肉というものが存在せず、最初からこのポーズで彫られた彫刻であるかの如く、動かすという行為そのものが封じられていた。 (どうなっているの?) 石田さんが視界に入った。心配そうにこっちを見ている。 (石田さん! 助けて! 私、動けなくなっちゃったの! フィギュアのフリをしてるんじゃなくって、本当に動けなくって……!) しかし、アイコンタクトすら送れないので、彼女と意思疎通を図ることは難しかった。小声なら大丈夫と思い、声を出そうとしたが、声も出なかった。うめき声一つ漏らせない。 (そ、そんな……私、一体どうなっちゃったの……) どうすることもできず、私は日が落ちて部員たちが帰宅するまで、ただ黙って飾られている他なかった。

Comments

sengen

フィギュアとして固まっていても体の感覚は押し寄せてきて、バレてはいけないけど身悶えしたいのに動けないという2・3重の葛藤に煩悶させられる描写がとても気に入っています。

Gator

従来は誰も内緒でフィギュアになるケースが多かったが、協力者とフィギュアを監視する不良学生の間で人間であることがばれないというストーリーがとても新鮮でした。 人間であることを分かってほしい内容ではなく、人間であることを知らないほしいストーリー。 とても興味深く読みました。(Translated)