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(水泳の授業なんかなくなればいいのに) そう憤りながら下校している時だったので、私は大変驚いた。突如見知らぬお婆さんが 「泳げるようになりたいかい?」 と横から声をかけてきたのだ。え、まさか声に出てた? 心中を見透かされたかのような驚きと軽い恥ずかしさでフリーズしている間に、お婆さんは椅子に座って机上に銀色の箱を並べていた。変だな。さっきまでこんな机なかったと思うけど……。住宅街の道端なのに。 私は何も返事をしていないにも関わらず、お婆さんは話を続けた。 「このお肉を飲み込めば、きっと泳げるようになるよ。ひっひ」 そう言って箱の蓋を開け、お婆さんは中に収められていた赤い肉の切れ端をお箸でつまみ上げた。5センチもない赤い身が垂れる。 名乗りもせず不気味に笑うその姿は不審者そのものだったが、不思議と私は警戒心を抱けず、肉の切れ端から目が離せなかった。何の肉だろう。何だかまだ生きてるみたいだ。そう思った瞬間、切れ端がドクンと鼓動したように見えた。ん? 錯覚……だよね? 流石にこんな切れ端が生きてるわけない。 お婆さんはお肉を銀の箱に戻すと、蓋を閉じて私に手渡した。 「ほれ」 「え? あ、いや、ちょ……」 反射的に手を伸ばし受け取ってしまった私は困惑した。何で私は見知らぬ人から生肉の切れ端なんてもらっているんだ。何でこの人の話を聞いているんだろう。その僅かな逡巡の間に、お婆さんの姿は消えていた。 (え?) 周囲を見渡しても、どこにもいない。机も椅子も消えている。そんな馬鹿な。一番近い脇道でも数メートル先だ。腰の曲がったお婆さんが椅子と机をかついで走り去れるはずはない。私は後をおってみたものの、脇道の先にもお婆さんの姿はなかった。走った跡すらない。キツネにつままれたようなおかしな気分だった。今のは誰……いや、何だったんだろう。夢? でも私の右手は、小さな銀色の箱をしっかりと握りしめていた。 家に帰った後、私は箱を開いた。5センチ足らずの赤い肉の切れ端が入っている。夢じゃない。本当に私はお婆さんからこれをもらった……。何で? 見ず知らずの女子中学生に? こんなもの、一体何の肉だか、何が混入しているかもわからないし、捨ててしまうのが一番良い。よいはずなのに……何故だかそんな気になれなかった。一週間後に迫る水泳授業の最終日。足をつかずに25メートル泳ぎ切らなければ出来るようになるまで補習と先生は宣言した。冗談じゃない。小学生じゃあるまいし……。私は昔から筋金入りのカナヅチで、そんな距離泳げた試しがない。 お婆さんの言葉が脳裏に蘇る。確か彼女は……私の心を読んだかのように言っていた。泳げるようになりたいか。そしてこの肉を飲み込めば……。 箱の中で赤身がピクッと震えた気がした。そして気持ち悪くなった。アホか私は。こんな得体の知れない……腐っているかもわからない肉を飲む? 救急車だよ。そもそも生の肉自体がアウトだし。知らない人、それも明らかに普通じゃない人の言ったことだし。……でも何で私はサッサとあの場から立ち去ることができなかったんだろう? 不思議と傾聴してしまった。そもそも、私が泳げないこと、それで困っていることをあのお婆さんが知っていたはずもないし。急に現れた机。一瞬で消えた全て……。私の脳内で、信じられないような発想が、ランドセルを背負わなくなった年齢ではありえないような考えが膨らみ始めていた。あのお婆さんは魔女だったのでは? これは泳げるようになる魔法のお肉なのでは? ……何を考えているんだろう私は。もう中学生なのに。 でも、散々な醜態をさらした今日の水泳と、来週の25メートル試験に対する逼迫が、私の頭をおかしくしてしまった。無意識に指で肉をつまみ、そして……私は正体不明の切れ端を口に入れてしまったのだ。 (っ!?) 自分のやったことが信じられなかった。すぐに出さなくては。うがいも――。けど、体が言うことをきかない。口はよだれを貯め、喉は勢いよくそれを飲み込んでしまった。外にも聞こえたんじゃないかと思うほど大きな「ゴックン」を経て、お肉はもはや取り出せないところへ行ってしまった。 (あ……え?) 何で? なんで? 馬鹿じゃない? これで死んだりしたらもうマジで笑い者じゃん。ていうか食中毒……になれば来週の水泳は回避できる? もしかしてお婆さんはそのために肉を? やってしまったことに対する正当化を脳がひねりだしている間に、変化は始まっていた。足の感覚がおかしい。溶けている。広がっているというかのっぺりしてきたというか……「指の感覚」がない。代わりに「足先の感覚」がある。……よくわかんないけど、つまり指が全部くっついて足全体が切れ込みのない一塊になったかのような、変な感覚だった。 椅子を引き視線を落とした瞬間、恐ろしい光景が広がっていた。さっき言ったことそのまんまの現象が起きている。指がない。私の足先に、指が! ない! 消えている! 「ひっ!?」 思わず後ろに椅子ごと倒れ、私はひっくり返った。肌色の奇妙な肉塊と化した私の両足が視界に映る。ドロドロに溶けている。現在進行形で、私の両足は原型をとどめないほどに溶け出している。 「あっ……あっ……あっ、お、おかあさん!おかーさーん!」 恐怖で叫びながら、まだ誰も家に帰ってきていないことに気づき、私は絶望した。嘘うそウソ。いやだいやだ何で? 足ないの? なくなる? 死ぬ? なんで? ……肉? さっき飲んだ肉? 変なもの食べるんじゃなかった。心底後悔したが、その後悔は足の溶解を止めてくれなかった。溶解は足首まで広がり、私の足から関節は消滅しようとしていた。骨もまとめて溶けているらしい。両足は平べったく広がり、右と左がくっつき、あっという間に融合してしまった。私は真っ青になって声も出せずに自分の体が溶けていくのを眺めることしかできなかった。 脚全体も溶解を開始して、右脚と左脚が溶けあい混ざっていく。しかし足先のようにひらべったくなりはしなかった。まるで脚が一本に統合されようとしているかのように見える。両脚の感覚も視覚情報と合致した。右脚の感覚と左脚の感覚は次第に独立したものではなくなり、おなじ部位の感覚に一体化されていく。そして平べったくなった両足の成れの果てが、次第に見たことのある形に成形されていく。肌色をもつドロドロの肉体が扇子のように薄く放射状に広がり、真ん中に切れ込みが入り二方向に分かれる。やがて何本もの筋が入り、私はそれが何か察した。 (……尾びれ?) 尾びれだ。魚の尾びれ。大きな大きな、人間サイズの魚の尾びれ。私の両足が尾びれに変わってしまった。溶けあった下半身は完全に一体化し、細かい模様が刻まれだした。私の一本足全体に、何かが生えていく。鱗だった。少しメタリックな青色と銀色の混ざった魚の鱗だった。ビッシリと余すところなく、私の一本足全体を覆いつくしていく。尾びれも呼応するように色をつけ、美しい青色の尾びれに姿を変えた。真ん中部分は透き通るようにきれいな水色で、いつしか私は恐怖も体のように溶かされてしまっていた。溶けるのは下半身だけ。両手や胴体、頭は一向に溶ける気配がない。なら私は――死なない!? そして、私が落ち着くころに肉体の変化も終わった。目の前で、いや私という存在そのものの中に起きた超常現象。そっと手で触れてみると、間違いなく硬い鱗の感触があった。引っ張ると痛い。生えている。本当に。私の脚から。 もう、信じないわけにはいかなかった。子供じみた想像は真実だった。あのお婆さんは魔女で、さっき食べた肉は……人魚に変身するアイテムだったのだ。 (マジかー……) 私は尾びれを動かしてみた。ビタビタと上下させることができる。神経が繋がっている。足ではなく、尾びれの形にそった肉体の感覚がある。被り物やメイクじゃない。間違いなく本当に、私の脚……いや、尾だ。 (これで泳げってわけね……) なるほど人魚になればスイスイ泳げるかもしれない。あのお婆さんが言ったことは本当だった……。ただ一つ問題がある。大騒ぎになるという点が……。 (どうしよう、これ。元に戻るの? まさか……一生このままなの? 死ぬまで人魚?) 今なら肉を吐き出すことはできなくはないかな……? でもその前に病院かなあ。ていうか親にどう説明しよう……。経緯がアホ過ぎるだけに言いたくない。知らない人から貰った生肉を食べましたなんて。 歩けなくなった私は下半身を引きずりながら部屋の中を右往左往した。腰もなくなってしまったので立てない。それでも倒れた椅子を立て、必死に机に手を伸ばし、スマホを探した。そこで肉が入っていた銀色の箱が手に触れた。 何か書いてないだろうか。取り扱い説明とか。 スマホより箱を優先したのは正解だった。蓋の裏に、金色の文字で変身方法が記されていたのだ。人魚になるときは人魚の時の肉体の感覚を強くすること。人間になるときは逆。つまり……元の感覚を思い出せばいい、ってことなのかな? 私は鱗で覆われた下半身をペタペタ触りながら、頑張って失われた感覚を思い出そうとした。私の脚は、中央で分かれて二本あった。えーと、多分この辺が膝。そして……尾びれじゃなくて足。指があって……手前ここが足首。 数分前までは当たり前だったことを、頭の中で懸命に思い描く。左右にわかれた両脚。平べったくない両足。五つにわかれた指先……。お尻と腰。 尾の中に下半身の感覚を重ね合わせてウンウン唸ること数分。足と脚を動かせたかのような幻肢を覚えた瞬間。再び変化が始まった。尾全体がシュワシュワと泡に包まれていく。鱗が泡に溶けていき、長く青い尾が分離していく。平べったかった尾びれが厚みを増し、次第に人の足に近い形に戻っていき、左右に分離した。 二分ほどで、私の下半身は帰ってきた。脚を覆う白い泡を手で拭うと、そこには肌色の脚がちゃんとあった。足先も蘇っている。足首、足、指。爪もある。お尻も元通り。「腰」が復活した。壁に寄り添いながらゆっくりと立ち上がる。脚がガクガク震えて中々力が入らないけど、何とか立てる。私は……無事、人間に戻ることができたらしい。 「ふーっ……」 緊張が解け、再び私は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。よ、よかったぁ……。アホな判断で人魚になったおバカ中学生として世間を騒がせる羽目にならなくて。 その日のお風呂で、私は逆を試した。再び人魚になるべく、今度はあの「尾」の肉体感覚を想起した。短い間だったせいか元に戻るより時間を要したものの、また人魚に変身することができた。 (おお……) すごいすごい。行き来自由ならこれはもう……能力、超能力みたいなものなのでは。私は人魚に変身する能力を持つ人間、ってこと。……でもだからって特に何かできるか、良いことあるかっていうと無い……気がする。歩けなくなるだけだし。 (泳ぎ……泳げはするの?) 私は湯の中で尾びれを動かした。湯にちょっとした流れを生める。けど家の湯船の中じゃ狭すぎてどうにもならないなあ……。 その日の夜は中々寝付けなかった。ひとたびリスクがない(多分)となれば、私は人魚化の能力を試してみたくてたまらなくなった。でもどこで? 人に見られたら困る。騒ぎになる。誰もいないところで泳いでみたい。人魚になった状態で……。 翌日の放課後、私はスマホで近くの沼とか池とかを探し訪ねてみた。残念ながら海は近くないし、万一遭難とかしたら死にそうだからパス。かといってプールは絶対人目につく。 が、実際近所の沼や水たまりに足を運んでみると、ここに入って泳ごうなんて気には到底なれなかった。汚すぎる……。普通に病気になりそう。藻や泥でいっぱいだし、泳いでいる魚を見てしまうとちょっと気持ち悪くてダメだった。やっぱプール……プールしかないっていうか、入りたくない……。でも人目につかないプールってある? 中学に戻ると、ちょうど水泳部が上がったところだった。魚が泳いでおらず、藻も浮かんでいない綺麗な水。人が泳ぐための水。やっぱ普通に此処しかない。 人がいなくなるのを待ち、私は柵を乗り越えてプールサイドに降り立った。そして更衣室に行くと、当然ながら鍵がかかっている。てことは……こ、ここで直に着替えるのかあ……。 何度も周囲を確認し、人がいないことを祈りながら、私は夜の学校プールで服を脱いだ。水着だから全裸……裸にならないといけない。お願いだから誰も見てませんように。 去年の水着を引っ張り出してきたので、サイズはきついし少し気恥ずかしかった。そして……下は必要ないということに現地でようやく気付いた私は、再び周囲を何度も見渡しながら、上だけ水着をつけて下には何もつけない状態でその場に座り込んだ。あああぁ……は、早く変身しよう……。 両足をそろえて伸ばし、人魚の時の下半身の肉体感覚を両脚に重ねる。変化が始まった。早くー、早くー。股間から変化して欲しい。 変化完了後、私はミスをしたことに気づいた。更衣室の前からプールまで、這って行かなくてはならないということに……。 重い尾を引きずりながらプールサイドにたどり着き、私は息を吸ってプールに飛び込んだ。夜なのに不思議と寒くない。冷たい水が心地よく全身を叩く。胸がわくわくする。カナヅチの私が魚や絵本の人魚のように優雅に泳げたらきっと気持ちよくてカッコいいだろうな。 ……人魚ってどうやって泳ぐの? 尾びれを揺らし下半身をくねらせるが、私の体は前進することなく、静かにプールの底に横たわった。ええ……泳げないの? 現実には人魚の体は泳げないってこと? 無駄じゃん……。それとも私本人がカナヅチだからか。 息が苦しくなってきたので上がろうとしたが、体が重くて浮かばない。やばい。こうなるとは……思って……なかっ……た……。 油断していたせいですぐ限界に達し、私は水中で口をあけてしまった。プールの水が勢いよく口に体内に流れ込む。やっちゃっ……た。明日プールで人魚の溺死体が発見されたらどんなニュースになるんだろう……と思ったものの、何故か息苦しくはなかった。もうすっかり水を大量に飲んでしまったはずなのに。ジッと底に横たわったまま、何事も起こらない。私は恐る恐る、水中で目をあけた。この私がゴーグルなしで目を開けるなんて、きっと生まれて初めてかもしれない……。 真っ暗なはずの夜のプールは、とても澄み切って壁が見渡せた。両目は何も痛くない。異物感もまるでない。静かだった。こうして水中でパッチリと目を開け、息もせずにいることが生来の自然状態であるかのように……。ん? 息……してない? してる? ゴポッと口から泡が出た。う~ん、もう溺死じゃない? これ。なんで生きてる……人魚だから? 私はもしかして、水中で息ができる? そのまさかだった。息苦しくない。そして初めて、首に見えない切れ込みがあることに気づいた。エラだ。エラ呼吸してる私。意識できた瞬間、エラを出入りする水の波動を感じるようになった。これこそ生まれて初めての……いや、人類初の感覚かもしれなかった。水で息をしてる。水が首を出入りするたびに私の肺が満たされる。変なの……。 溺れないなら安心だ。それからはいろんなやり方で下半身を動かしてみた。バタバタ尾びれを動かし、下半身を左右に曲げる。うーん、なかなか思ったほど自由に動けない。でも魔女が泳げるようになるために私を人魚にしたんだったら、きっと泳げるはず……。 悪戦苦闘の末、私はようやく前進できるようになった。ただ体をグネグネさせるんじゃダメで、水を蹴ったり押したり、流れを作ることが肝心らしい。私は人生で初めて、泳ぐことが楽しいと感じた。苦手の息継ぎをしなくていいってだけで、こんなにも気楽で、そして自由なんだ。水泳って。 初日の実験は大成功だったと言えるだろう。……夢中になりすぎて帰るのが遅れて叱られたことを除けば。 だが、翌日の水泳の授業は惨憺たる有様だった。人魚泳ぎが癖になってしまい、両脚をそろえてゆっくり動かしたり、足首から先だけを上下させたりして、今までより酷い結果になった。水は重いし怖い。目も開けられない。昨日の夜はこんなことなかったのに。やっぱ水泳嫌い。 当てつけのように、その日の夜も私は人魚泳法の自主練に励んだ。昼間の授業とは打って変わっての楽しさ。すぐにターンや浮揚のコツもつかみ、プール内を気持ちよくスピードを出して泳ぎ回ることができた。楽しい! 泳ぐの最高! しかしプールサイドに上がると、結局人間の時は泳げないこと、来週の25メートル試験に落ちることを思い出して、気分は憂鬱になった。人魚状態じゃダメだろうか。ダメか……。 少し悩んだのち、私は人間の泳ぎも練習してみようと思い立った。泳ぐこと自体はすごく楽しかったし……。まあちょっとだけ、ちょっとだけ。 ただ問題点が一点。人間に戻った瞬間、水着の下を持ってきていないことを思い出した。人魚ならいらないなと思い、今日は持ってこなかったのだ。 瞬時に股間を両手で覆い隠し、キョロキョロ辺りを見渡す。大丈夫? 誰もいない? ……なら。 私はプールに戻った。うっ寒! 冷た! 同じ水でも人魚の時とは偉い違いだ。……はぁ、下をつけずにプール泳いでるところ誰かに見られたら私……最悪。でも誰もいないからこないよね。ね? 私は縁につかまり、お尻丸出しでバタ足練習をした。両脚動かさないといけないの面倒だなあ。よくこんな泳ぎ方出来るよ皆……。 流石に恥ずかしすぎてすぐに息継ぎ練習に移ったその時。 「誰かいるのかー?」 心臓がバクンと唸った。私は反射的に水の中に潜り込み、人魚変身を試みた。男子の声だった。まずいまずいまずい。下半身は……股間丸出しはまずい! 見られたくない、その一心で私は人魚の方を選んだ。水中での変身は初めてで、溶けた体が流れていかないかとか、人魚の方が見られたら不味くないかとか、いろんなことが頭をよぎるが、もう止められない。慣れた変身はすぐに終わり、私は何とか股間を隠す……いや消失させることに成功した。 夜だったおかげでおそらく詳細は見えてなかっただろう。声の主は「おーい?」と声を出しながらプールサイドを歩んでくる。私は観念して顔を出した。勝手にプールに侵入して遊んでいたことを怒られるだろう。あー最悪。 (ど……どうも) 「うわっ。……ごめん、誰だっけ? ていうかどこから……」 男子の視線がゆっくりと私の下半身に移っていくのがハッキリ見て取れた。そして、顔が静かに驚愕の表情に変わっていくのも。 (い……一年の海原です、勝手に入ってすみません……) そう声を出したつもりだったが、声が出なかった。ヒューヒューと小さな風のような音が喉を過ぎていく。……ん? 「え? その足は……なんかの練習?」 (あ、いえ、本物です。人魚に変身できるようになって……) と説明しようと思ったが、やはり声がでない。どうやら人魚は喋れないらしい。絵本と逆だ。しかし困ったな。どう説明すればいいのか。私はとりあえずプールから上がり、ヌメヌメと光る青と銀の混ざった鱗で覆われた下半身をプールサイドに引き上げた。生々しい質感から男子は被り物をした見世物の練習でもなんでもなく、本物の魚の……人魚の下半身であることを悟ったらしく、今度は彼が声を出せない番だった。あ、今なら何とかなるかも! 大ごとにせず切り抜けるラストチャンスと見た私は、ジェスチャーで秘密にするよう頼み込んだ。人差し指を口に当てて、何度も念押しする。彼は静かに顔全体を上下させるだけだった。えっとでもどうしよう。帰るには人間に戻らないと。でもそしたら股間丸出しで……。そうだ。 夜にこんなことをさせて本当に申し訳ない……と思いながら、私は手でプールに入るよう指示した。プールサイドとプールを何度も交互に指さして。 「えっ? あ……はい」 彼は服を脱ぎだした。目の前で半裸になっていく男子の姿にちょっと目を逸らしつつ、私は飛び込み台の近くまで這った。 彼がパンツ一丁でプールに入ったところを確認したら、飛び込み台と反対側を交互に指さすことで指示を出した。こっから向こうまで泳げと。 (ごめんなさい、ひーごめんなさい) 男子は納得できねえというような顔をしつつも、大人しく飛び込み台の下まで近寄り、そこから縁を蹴って泳ぎだした。今だ! 全力で変身を解いた。人間の足! シュワシュワと泡を立てながら尾が分離していく。早く早く! 慣れてきたのもあっていつもより早く変身できた。彼が向こうに泳いでいる間に私は急いでプールから走り去り、体を拭くのも忘れて大急ぎで下着を、上着を、スカートをはきプールを逃げ去った。ブラはつけずに上は濡れた水着のままで、何とも不格好で風邪をひきそうな状態のまま。 彼は往復50メートル泳いでくれたらしく、そのおかげもあって私は何とか窮地を脱することができた。ありがとうそして本当にごめんなさい! 物陰から彼が溺れていないこと、プールから上がりくしゃみしながら服を着ているところを確認したのち、私は中学校からも逃げるように立ち去った。 翌日。私は心中穏やかではなかった。彼が溺れ……てないところまでは見届けた。風邪とか引いたら私のせいだ……。会ったら謝りたいなあ……。でもそしたら私が人魚だってバレちゃうのか。いや、ていうか私顔はバッチリ見られてるじゃん。それに脱いであった制服とスマホ見られてたら名前やクラスも……いや女子のものだから遠慮したかな。まあ私は知らない人だったからきっと上級生だろう。そしたら会う機会もほぼ無いだろうし安心……あ。 廊下ですれ違った。間違いなく昨日の彼だった。友達と談笑しながら私の横を通り抜け、隣のクラスに入っていった。 (ど……同学年かーい!) ヤバい。バレ……いや、さっきガッツリすれ違ったけど何も反応なかったよね? セーフ? セーフかな。あーよかった。……いやでも顔バッチリみたのに何でわからないの? 私が眼鏡かけてるから? 髪結んでるから? それとも人魚のインパクトで下半身しか見ていなかったのか……。 (まあ……でも、バレてないならいいか……うん) その日の放課後、気になって私はプールを柵の向こうから眺めた。彼がいる。水泳部だったらしい。名前は山岡というようだ。大丈夫そうかな? 元気に泳いでるから大丈夫かな。とにかく、もう学校で人魚になるのはやめとこう……。 自分の部活を終えてからまたプール近くに足を運ぶと、水泳部はもう終わっていた……が、一人だけ残っていた。山岡くんが一人でプールサイドに立っている。あたりをキョロキョロしている。胸の奥が冷える。もしかしてアレ……私待ち? 人魚を待ってる? 私は近くをウロウロしながら、彼が帰るのをずっと待っていた。何となく悪い気がして帰れなかった。やがて完全に日が落ちても彼が帰ろうとしないので、私は根負けした。今日は水着持ってきてないから泳げないけど……。会うだけなら。私は鍵の開いているプールに正面から入り、更衣室前で眼鏡をはずし、髪をほどいて、下着を脱いだ。人魚に変身する。着衣状態で変身は初だ。ノーパンだけど。 変身完了後プールの方へ移動しようとしたが、スカートが汚れることに気づき脱いだ。結局下半身すっぽんぽんか。プールサイドまで這うと彼が私に気づいた。 「え、あ、お、おぉ……マジか」 夢じゃないことに彼は安心したのか驚愕したのかわからないけど、少し肩の力が抜けたように見えた。 「あ、えっと、その……ここ通ってるんすか?」 目を泳がせながら彼は私に質問を繰り返した。私に興味津々といった感じで、ちょっと興奮しているように見えた。男子にそんな興味持たれたの初めて……いや、非日常に興奮してるだけだよ、勘違いしない方がいいよ、私。 喋れないのでスマホで返答を書いたが、何となく気恥ずかしくて正体……というか名前は明かせなかった。堂々と顔を見せてるのにも関わらず。私は別に海から来た人魚でも宇宙人でもなく、普通の人間で、三日前に変身できるようになったので試してただけだ、とそこはありのまま正直に全て明かした。変な噂立てられてもマジであとが死ぬほど恥ずかしくなるだけだし。……例えば、人魚がこの中学に留学してる、とか。 彼は私が泳ぐところを見たがった。困ったな。もう学校では封印するつもりだったのに。しかし彼の輝く目に負けて、私は明日の約束をしてしまった。……ま、まあ冷静に考えれば山岡くんにはもう人魚バラしちゃったんだから別にいいはずだし。それにほら、水泳部の協力者がいた方がコソコソして思わず恥をかいたりせずに済みそうで確実だし……うん。 翌日の夜、私は更衣室の外ではなく中で着替えさせてもらった後、人魚の泳ぎを披露した。彼はスマホで撮ろうとしたのでやめるようジェスチャーしたが、やめてくれなかった。 その代わり、私に人間の泳ぎをレクチャーしてくれた。人間に戻って彼の前に出ると何ともいたたまれなくって逃げ出したくなったが、耐えた。小学校のころの私服水着なのがますます恥ずかしい。ちゃんと買えばよかったぁ。 それからはそんな放課後が金曜まで続いた。何とか最低限息継ぎできるようにしてくれたので、月曜には25メートルいけそうな気がした。一旦できるようになると、逆に何で今まで出来なかったのかがよくわからない。ただ私が水泳に苦手意識を持っていただけだったのかな。 人魚状態でも遊んだ。人魚化すると打って変わって私が圧倒的になるので爽快だった。水泳部の男子を一方的に打ち負かし、自在にプールの中を縦横無尽に駆けて鬼ごっこ。これまでのどんな水泳の授業よりも楽しい時間だった。 「じゃ、そろそろ上がろうか」 私はコクンと頷き、プールから上がった。下半身すっぽんぽんのまま人間に戻るわけにもいかないので、更衣室近くまで抱っこで運んでもらう。男子に抱かれて運ばれるなんて初めてで、かなりドキドキした。 人間に戻って着替えて更衣室を出る。私は一言も喋ることなく、施錠を見守り、ジェスチャーだけで挨拶して別れた。……彼といる時は人間体であっても、何となく心が人魚モードになってしまう。喋れるはずだけど声が出ない。人魚の時と同じように手で受け答えし続けてしまう。そして私は未だに名前とクラスを名乗れていなかった。言った方がいいのかなー!? でもなんか今更感あるー! 月曜。チャプチャプゆっくりと滑稽な泳ぎではあったものの、私は生まれて初めて授業中に25メートル泳ぎきることができた。それで限界だったけど。 「ふぅ……ふぅ」 ああよかった。水泳の補習なんて馬鹿げた話はこれでナシ。幾人かが本当に補習を告げられた時は心から安堵した。それもこれも皆山岡くんが指導してくれたおかげ……いや。魔女のお婆さんかな。きっとあの人は「人魚になれば25メートル泳げる」じゃなくて水泳の楽しさを知れば泳げるようになると、そう伝えたかったのだろう。いい魔女さんだったんだなあ。この変身能力デメリットないし……。 「あれ? 海原さん、脚なんかついてるよ」 「え?」 太腿の外側に、キラリと光る粒がついていた。手で触った瞬間、それが何なのかすぐわかった。鱗だ。青と銀の混ざった美しい鱗がちょこっとだけ……数個だけ私の太腿に生えている。 「あっ!? あー、あ、ゴミ! ゴミついてたみたい!」 手でパタパタ叩いてその場は誤魔化しながら、私は急いで着替えた。やば……。人間に戻るとき少し失敗したのかな? まーでもバレなかったからセーフ。まさか本物の鱗だなんて思う人がいるわけもないし。そう思ってプールから出た瞬間、唯一わかる人とバッタリ出くわしてしまった。山岡くん……。次水泳だったらしい。 鱗のこともあり、プール上がりでまだ髪を結っていなかった私は、すぐ正体を見破られてしまった。眼鏡効果なし。彼は悪戯っぽく笑うとその場は黙って通り過ぎていった。あー。あー……。 恥ずかし。 その日の夜、名前もバレた私は彼に呼び出された。初めて声を出して会話する瞬間は無性に緊張した。そして太腿の鱗を相談すると、再度変身してリセットすれば消えるんじゃね? と提案されたので言う通りにしてみた。……彼とプールで一旦遊んだ後。 が、鱗は消えなかった。しっかり人間の脚を想像して戻したんだけど、ダメかあ。それどころか鱗が増えていた。昼は気づかなかったけど、膝より下にもついている。マジ? ううっ、なんでだろう。変身しすぎ? お風呂で消えない鱗の数を数えた時、答えはわかった。鱗の数は、これまで人魚に変身した回数を一致する。てことはつまり、おそらく……人魚に変身するたびに、私の脚には鱗が一個増えていくのだ。 (さ……先に言っといてよー!) やっぱり魔女は魔女だったらしい。調子乗って彼と遊ぶためだけに結構変身しちゃったよ。取り返しつかない……よね、こればっかりは流石に。引っ張ってみると痛かった。本物だ。しっかり生えている。私の脚から。 (うーん、いや、でも……) 別に言われるまで気づかなかったぐらいだし、まだ数えるぐらいだから大丈夫かな……。まだ十個ぐらいだし。ハッキリ目立つレベルで鱗がビッシリになることは多分ない。うん、大丈夫。これ以上変身しなければ。授業も終わったし。 そこに、山岡くんからメッセージが届いた。夏休み、二人で一緒に海に行かないか、と。これって……デート!? あたふたしながらオーケーの返事を出したのち、おそらく彼は私に海で人魚になって泳いでほしい、或いはそれがプレゼントのつもりなのだろうと気づく。あっどうしよう。もう変身しない方がいいって明かしたらこのデートは……別に人間のまま海で遊んでもいいはずだけど……彼が興味あるのは人魚の方の私……かも……。 私は無意識に自分の脚をさすった。……いうてまだまだ肌色だよ。鱗なんてホント、数える程度だし。目立たない目立たない。あと一回ぐらい、どってことない。よね? 次の休日、私は水着を買いに出かけた。流石に小学生の水着はもう限界だ。ちゃんとした買わなくちゃ。可愛いやつ。あ、人魚になるなら上だけでいいのかな? 安上り……いやいやいや変身前後やっばいじゃん。私は何考えて……。何も考えてないなあ。鱗増えるとわかっていて変身するようなやつなんだから、私は。 でも、海で人魚になることは抗いようのない魅力だった。一度だけでも試してみたい。気持ちいいんだろうなぁ。泳いで泳いで泳ぎまくってみたい。 去年までのカナヅチだった私からすれば考えられないような変化。小さな鱗の数個なんぞより、こっちの方が遥かに大きな変身かもしれない。私は期待に胸躍らせて、水着選びに励んだ。基準はもちろん、私の尾を覆う青と銀の鱗に似合うかどうか!

Comments

Anonymous

かわいい😊

Anonymous

すごい。もっとよみたいです。

opq

感想ありがとうございます。気に入っていただけたなら嬉しいです。

opq

コメントありがとうございます。また機会があれば書くかもしれません。