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2年前からちょこちょこ書き進めていた竜化TFですが、続きが書きづらくなったので打ち切りアップします。


 第一章 変身


 月の光は厚い雲によって遮られ、地上に恵みをもたらさなかった。草原は肌を刺す冷たい空気で満ち、針葉樹の森は死んだように静まり返っている。音も光もない暗黒の中で、ただ一つ蠢く影があった。人間の女である。土砂で汚れた髪飾りと、コートの残骸から覗く白いドレスが、かつては高貴な身分であったことを伺わせる。まだ少し幼さを残す顔ときめ細やかな肌とが、彼女がまだ成人していないことを物語る。しかしその顔も肌も、今やカサカサに乾き切り、土と血で化粧されていた。右肩では赤黒い血の塊が乾きかけている。かつては美しかったであろう銀髪も、今では見る影もない。足取りはおぼつかず、何度も転んでは新たな傷を作り、左手で体を支え、必死に立ち上がるのを繰り返していた。既に金色の瞳は夜に慣れ、朧げな木々の輪郭を捉えられるようになっていた。しかしそれでも、月明かりさえない夜の森は、彼女に自らの姿を明かしてくれようとはしない。とうに目的地へたどり着く手段は失われているのに、彼女は懸命に歩き続けた。自らがこれほどまでに生に執着していたという事実に、彼女自身が驚いていた。この先に人家も味方もありはしない。獰猛な野生動物に襲われるか、凍えて野垂れ死ぬかの二択だろう。それでもなお、彼女は後方から迫りくる追手に自らを委ねる気持ちにはなれなかった。

 森の外に広がる草原に、見慣れない光の集団が訪れた。馬の額から角のように伸びた白樺の杖の先端に、真っ白な光の球が灯り、前方と騎手の顔を照らしている。その顔つきは精悍でたくましく、多くが立派な髭をたくわえている。頭をくるりと包む縦長の帽子は黒い毛皮で出来ており、防寒具としての役目を全うしていた。彼らが着ている真っ赤な服には金色の刺繍が施され、腰には太いサーベルを帯びている。彼らは黒いブーツで馬を叩きつけ、草原をけたたましく駆け抜けた。

 彼らの張り上げる歓声と恐ろしい威圧感は、すぐ森中が知るところとなった。銀髪の女性は一瞬ブルっと震えた後、自分に発破をかけた。彼らに捕まっては最後だ。ルーシ帝国で最も残虐苛烈な一隊、それが彼らだ。燃え落ちる故郷の恐ろしい光景は、終生忘れることができそうにない。軍人ではない罪なき市民、女子供であろうと容赦せず、遊戯のように殺された。捕まった女はその場で辱めを受けるか、拉致されルーシで辱めを受けるかのどちらかだった。

 彼女はなるべく音を出さないように用心しながら、体に鞭打ち前進した。敵が自分を補足していないことを祈り、何度も後ろを振り返った。ぼんやりと薄れた暗闇が、次第に数を増していく。あれが光に変わった時、自分に最期が訪れるのだ。彼女は恐怖に打ち震えた。どこかに隠れられる場所はないか。目を凝らし、必死に森の中を見渡した。ない。遠く背後から音が聞こえてくる。近づいてくる。

(ああ――)

 彼女は俯き、前を見るのをやめた。それが仇となり、下ろした足が大地を踏み損ねた。彼女は切り立った白い岸壁から転げ落ち、岩にぶつかり跳ねられた。僅か数秒の内に、彼女は冷えた地面の上に、死体のように広がった。途切れていた感覚が戻ると、口を大きく開き、激痛に喘いだ。それでも大声は出さなかった。

(バレた……かしら……)

 敵は今しがた、自分が無様に転げ落ちる音を聞いただろうか。いずれにせよ、もう逃げられない。脚が折れてしまったらしい。彼女は希望が消えた瞳で自分の脚を確認した。暗くてよく見えないが、真っ赤に染まっているのはわかる。自分の脚の中身を見たのは、生まれて初めてのことだった。

 ぼうっと崖の外縁を眺めていると、やがて大きな卵型の輪郭が浮かび上がった。

(岩? それも大きな……)

 あの陰に入れば、崖の上からは見えなくなるのではないか。彼女は仰向けになっていた体をひっくり返し、最後に残された左腕で、必死に這いだした。左脚の亀裂から、地面に尾を引くように流れる血肉のことなど、もはや頭が回らなかった。あの岩に辿り着けば助かるかもしれない。ただそれだけを考えていた。

 彼女は一心不乱に這い続けた。左手の爪は剥がれ落ち、指先は血で染まった。しかし、もはやそんな痛みは感じようがない。目の前の絶望に比べれば。

 岩は岩でなかった。彼女には、それが竜の卵だとわかった。どうやら、ここは竜の巣らしい。

(終わり、ね……)

 だが、肝心の親竜の気配はどこにも感じられない。偶然、狩に出ているのか、それともこの卵は死んでいるのか。そんなはずはない。卵からはほのかに湯気が出ている。暖かい。そういえば、ここは寒くない。死体のように冷えていた彼女の体は、竜の巣が発する熱気で温められた。全身の傷が再び痛みを訴えだす。彼女は悶えた。痛みと大量の出血が重なり、もう卵の脇から動くこともできない。

 陰に隠れるという希望が潰えた今、彼女はようやく、自分の血が大地を染めていることに気がついた。落下地点からここまで、途切れることなく赤黒い線が続いている。彼女は自分にあきれ果てて、がっくりと項垂れた。

 左脚の感覚が無くなってしまった頃、風に乗って人の喧噪のような音が竜の巣に届けられた。それが実際に追手の声だったのかどうか、彼女にはわからなかった。しかし、彼女を再び打ちのめすのには十分な音だった。

(逃げ……)

 しかし彼女の体は衰弱しきり、もはや死を待つだけであった。

(隠れ……)

 瞳を動かし、暗闇の中を見回す。しかし、彼女は何も見つけることができなかった。ここにあるのは、熱した砂で組まれた竜の巣と、その上に鎮座する卵だけだった。

(卵……)

 彼女は湯気の中心地に顔を向けた。白い殻に青い斑紋が渦巻く竜の卵。その直径は成人男性の身長と良い勝負だった。彼女は思った。もしも――もしも、この中に入れたら……? 竜に食べられたと思って、引き返すんじゃないかしら……? 後は親竜の隙を見て、こっそり抜け出せば……。

 左手を伸ばし、殻に触れた。金属のように固い。彼女の華奢な腕では到底割れそうにない。息を吐き、パタリと左手を砂の上に落とした。

「いたっ」

 左手の甲が切れ、残り少ない血液がさらに失われた。割れた竜の鱗に触れたのだ。

 彼女の意識は朦朧として、すでに明瞭な意識が失われていたが、左手で鱗の欠片をつかみ、それを勢いよく卵の殻に突き立てた。あっけなくヒビが入り、二度、三度突き立てると、僅かな穴が出現した。中からは黄土色の液体とも固体ともつかないものが僅かに零れ落ちたが、それ以上流れ出ることはなかった。彼女は尚も鱗を遮二無二叩きつけ、殻を破り続けた。とうとう小柄な人一人通れそうな穴になると、彼女は殻の割れ目に鱗をひっかけた。卵はゆっくりと転がり、殻の穴が彼女の頭を飲み込むかのように覆いかぶさる。彼女の頭は静かに卵の中に入りこみ、ねっとりとした熱い黄土色の流体の中に埋もれた。しかし、不思議と彼女が息苦しさを感じることはなかった。それどころか、幼い頃に乳母の腕に抱かれていた時のような、温かな安心感を覚えたのだった。限界を迎えたのか、緊張の糸が切れたのか、満身創痍な銀髪の女性は、柔らかな安らぎの中で遂に意識を失った。

 流体がうねり始め、多くの小さな渦が穴を囲むように生まれた。これはやがて雛となる中身が外へ流れ出ないようにする防衛機構だった。この流れに乗って、少しずつ彼女の体が卵の中へ吸い込まれ始めた。その光景は、まるで竜の卵が彼女の体を食べているかのように見えた。哀れな女性の肉体はスルスルと飲み込まれていき、遂に靴先まで全てが黄土色の流体の中に溶けた。


 真っ白な体に青い鱗を纏った親竜が巣に帰還したのと同時に、コジャックの一隊が岸壁に姿を現した。雌の竜は小型だが、卵が襲われたことに腹を立て、猛り狂っていた。

 コジャックの一人が馬から降りて、双眼鏡で竜の様子を観察した。彼ら以外に動く者のない、深夜の山中で一匹、異常な興奮を示す竜を見て、姫との関連を察したのだった。しかし暗くてよく見えないため、馬の額に取り付けてあった杖をもぎ取り、糸を結んで崖下へ放った。杖に灯った光は、人間のものと思われる血肉を照らし出した。

「隊長。血が崖下から巣まで続いているようです」

「ふん。つまらん」

 誰の目にも姫が竜に食べられたことは明らかだった。よしんばそうでなかったにしろ、あの怒り狂った雌竜から逃れることは不可能だろう。コジャックたちはそう結論付けて、回れ右して撤退を開始した。本来ならば巣まで行って死体を回収(残っていれば)したかったところだが、それだけのために興奮した雌竜と戦う価値は誰も見出さなかった。既に主だった王族や猛将は処刑したか首を取った後だ。年端もゆかぬ、亡んだ王国の四女など、物の価値ではない。

 コジャックたちが去り、雌竜が気を静めると、森と草原は閑寂を取り戻した。木々の葉は何事もなかったかのように静まり返っている。


 まどろみの中で、レナータ姫は夢を見た。卵の中身と、自身の境界線が溶けていく。食された肉が胃液で消化されるかのように、手足が表面からゆっくりととろけ、次第に形がぼやけていく。水に落ちたインクの如くその肢体は崩れ、拡散していった。少しずつ剥き出しとなる骨も、後を追うように白い流体となって散ってゆく。胴体も、顔も、長い銀髪も、液体となって黄土色の流体の中に消えていった。苦痛はなかった。心地良い安らぎが彼女の庇護欲を満たし、幼き頃の記憶を呼び覚ます。乳母の胸の温もり。父と母の腕に抱かれていたあの日。胎内の……。

 レナータ姫は目を覚ますことなく、記憶の海に沈んだ。


 ある時、姫は今に帰った。彼女はほどよい圧迫感が漂う空間に浮いていた。見渡すと、空も地面も存在しない、黄土色の世界だった。

(――夢ね。これは……)

 彼女が目を閉じると、顎に異変が生じた。上下の歯が上手くかみ合わなくなり、ガリガリと嫌な音が出た。口を開くと歯が鋭く尖り出し、斜めに倒れ、口を閉じることができなくなった。

「あぅわ……はが……?」

 口先が顔から突き出て、顎も伸びだした。鼻がそれに引きずられるようにして縦に引き伸ばされ、やがて突起ではなくなってしまった。彼女の顔の下半分は、まるで爬虫類のようだった。長い口、がっしりとした顎、鋭利な歯……。彼女の視界にも変化が生じた。徐々に視界が横に広がり、首を回すことなく幅広く視えるようになった。耳の脇から骨が後ろへ盛り上がり、皮膚を突き破って巨大な突起が現れた。僅かに湾曲しながら、後方の空へ向かって力強く伸び続けた。木々が光を求めて背を伸ばすように。ゴツゴツとした突起は岩よりも硬く、密度もあった。角である。彼女は大きな二本の角を手に入れたのだ。

 レナータ姫は悲鳴を上げようとしたが、声が出なかった。変化の波は既に首にも及んでいたのだ。彼女の首はひと回りもふた回りも太くなり、ぐいぐいと伸びた。頭と胴体の距離が離れてゆく。彼女は体の重心がわからなくなったが、不思議な空間の圧迫感が彼女の体を支えた。胴体のあらゆる筋肉が肥大化し、背骨が曲がった。乳房も筋肉に飲み込まれ消えた。

(あ……ぁ……!)

 激痛に耐えかね、彼女は声にならない呻きを上げた。無慈悲にも体の変化はさらに勢いを増してゆく。肥大化した自重を支えられるよう、背骨や肋骨も巨大化を開始した。同時に、その構造も変わっていく。背骨は太くなりながら上下に伸びつつ、しなやかに曲がった。彼女は体を真っ直ぐ立てることが困難となり、前傾姿勢になった。背骨の先端、尾てい骨が体の外へ飛び出す。背骨はもはや彼女の体よりも長く伸びていく。身長を二倍にするほどに。追いかけるようにして、血肉が露出した背骨を覆いながら、背中から伸びる一本の長い新器官を成型した。先端の尾てい骨からは爪のような突起が生える。尻尾だった。彼女に身長という概念はもはや適用できなかった。あるのは体長である。

 体表も大きく様変わりしようとしている。胸元で雪のように白い斑点が生じたかと思うと、あっという間に彼女の青白い皮膚を塗り替えていく。人の肌白さを逸脱した、真の白色である。長い首をあっという間に駆け上り、爬虫類のようになった顔全てを白粉で化粧した。白の波紋は下半身も覆いつくし、尻尾の先まで美しく染め上げた。

 その間、手足も並行して肥大化した。体躯に合わせて力強く膨らむ。五指全てが太くなると、指同士が擦れて圧迫された。それに対応するかのように手の構造が変わり、中指と薬指との間に大きく角度がついた。しかし人差し指と中指、薬指と小指同士は潰れて混ざり合った。やがて一本の大きな指に形成されて、彼女の両手は三本指となった。指先からは角のように太く鋭い銀の爪が生え揃う。足も似たような経緯を辿り、太い三本指を持った鳥のような足に変わった。

 背中。縦に二本の切れ目が走った。次の瞬間、血肉をまき散らしながら一組の翼が産声を上げた。

(いやあぁーっ! あっ……あっ、あぁっ……がっ……!)

 彼女は悶絶した。体をナイフで切り裂かれ、そこから内臓を引きずり出されているかのような、凄絶な痛みだった。瞳に涙が滲む。のたうち回りたいのに、奇妙なな圧迫空間が彼女の体の向きを固定し、それを許さない。

 美しい真っ白な翼は血のシャワーを浴びながら、天に向かって上昇していく。やがて付け根が背中の切れ目を覆うと、折りたたまれていた翼が勢いよく広がった。付着していた血肉を一斉に吹き飛ばし、神々しい竜の翼が露わとなった。硬い銀色の翼爪はやや小ぶりで、薄く白い飛膜は華麗だった。

 ようやく苛烈な拷問から解放されたレナータ姫は、ふうと一息ついた。その息は熱く、馬をよろめかせるぐらいの風圧を有した。一体全体、自分に何が起こったのだろう……。彼女は既に答えを知っていたが、それは想像したくもない、ゾッとするような真実だった。彼女は三本指になった己が手をジッと見つめた。

(私……竜に……なっちゃった、の……?)

 全身に鳥肌が立った。なんて恐ろしい、悍ましい夢なんだろう。仮にもポルスカ王国の王女であったこの私が獣に、竜などに身をやつすだなんて……。

 鳥肌は二度とおさまらなかった。その突起から、鳥のような白い毛が生え始めたのだ。それと同時に、銀色の大きな鱗がそこら中から膿のように湧き出た。

(あっ……あっ、あっ、また……)

 鱗が全身の皮膚を突き破る感触は、痛みとこそばゆさが同居する、何とも形容しがたい異様な経験だった。

(いやぁーっ!)

 彼女は大きく口を開き、天に向かって叫んだ。その声は人間の叫びではなく、大地を揺るがす竜の咆哮だった。口先からは火花が散り、やがて大きな火の柱が上がった。白銀の竜が天に向かって吐き出した火炎は、黄土色の空間を赤く染めた。


 季節が巡り、春が来た。険しい大地に構えたリフェウス山脈でも、青々とした草木が芽吹き、動物たちが目覚めた。トウヒやカラマツは鮮やかな青い葉を誇り、ナナカマドの枝は白い花を一杯に咲かせた。ライチョウの雛が孵り、ハヤブサが卵を産んだ。トナカイの足跡の上を黒貂が駆け抜け、哀れな野鼠が命を散らした。

 谷間で蒸気に隠れた竜の巣でも、新たな命が誕生した。卵から孵った雌の雛竜は、全身が雪のように白く、美しい銀色の鱗を纏っていたが、まばらに青い鱗も見られた。この雌竜は、普通の竜とは少し違っていた。その金色の瞳は、凄みのある険しい竜の瞳ではなかった。優しい眼差しを持った人間の瞳だった。通常、竜には見られない睫毛も生えている。顔つきもどことなく人間の顔を想起させる独特の容貌に仕上がっている。頭頂部からは、やはり竜には見られない髪の毛が生えていた。長い銀髪は僅かに目にかかり、後ろは首の中ほどまで伸びた。この不思議な雌竜は一度も空へ羽ばたくことなく、毎夜月に向かって悲し気な咆哮を捧げるのだった。


 第二章 飛翔


 見渡す限りに広がる荒涼とした大地。周囲に山々の影は見えず、遠慮がちに草が茂る。孤立した白い円形の住居のほかに、人の気配を伺わせるものはない。この住居は円筒状で、天井は中心の柱から放射状に広がる円錐構造をしていた。全体を何層もの白いフェルトで覆い、厳しい寒さから内部を守っている。朝日が姿を見せてすぐ、一人の若者が外に出た。ややウェーブのかかった真っ黒な髪と艶やかな褐色の肌とが、妖しく光る紅の瞳を際立たせていた。体格は小ぶりで、年は十代中頃といった印象を与える。青年は深呼吸して背伸びした後、北西に向かって駆け出した。


 物寂しい草原地帯に、物々しい車輪の音が響いた。先頭を率いる馬車の後ろから、巨大な木製の台車が四台続く。歩みは遅く、一台につき五頭の馬を使うことで、ようやく引っ張ることができていた。列の最後尾にいる馬車は台車から少し距離をとっている。手綱を握る御者の隣に、恰幅のよい男性が腰を落ち着けていた。彼の目は台車に載った商品たちを注意深く監視している。

 台車に載って運ばれているのは、小型の竜だった。大きな板の上に腹をつけて寝そべり、何本もの太いロープで厳重に縛り付けられている。四匹の竜全てに、黒光りする金属製の口籠が嵌められ、口先の開閉が封じられていた。稀にロープと口籠に紫色の閃光が走り、青い火花が散った。

 竜商人の一行は、まばらな草とどんよりした雲しか存在しない世界を孤独に進んでいた。先頭を走る御者が、前方に粗末な木製の家屋があることに気づくと、杖を斜め上に向けて一振りした。先端から紫色の光が木の高さまで舞い上がり、花火のように弾けた。後には青紫色に光るサインが残り、十数秒にわたって、頭上で輝き続けた。

 最後尾の馬車に乗っている二人がサインに気づくと、荷台に声をかけた。

「おーい、休憩だ」


 一行は馬たちを繋いでから、我さきに小屋の中へ押し入った。棚から思い思いに水や酒を取り出し、ペチカの前に陣取った。

「よう。遅かったな」

 部屋の隅から、褐色の青年が商人たちの前に進み出た。

「おう小僧。今年も世話になってやるぜ」

「竜は?」

「表だ。いいけど、傷つけんなよ」

 青年は返事を聞く前に小屋から出ていった。小屋の前の道を少し東へいったところに、竜を載せた大きな台車が四台固定されていた。車輪の中心と地面の杭が、紫色に光る細い線で結ばれている。地面の杭は木製だが、うっすらと青紫色に染まっていた。

 青年は一匹一匹、竜の様子を丹念に観察した。一匹目は赤い鱗に覆われた厳つい竜で、例年よりやや大きい。額から立派な一本角が飛び出している。

「中々いいじゃねえか」

 青年はこの竜が欲しくなった。しかし値が張るだろう。こいつら格安業者の竜でさえ、今の自分には手が出せない。青年には人間たちの金という概念が、心底馬鹿馬鹿しく思えてならなかった。

 二匹目は例年通りの大きさで、赤褐色の鱗に覆われている。顎の肉づきがよく、青年は大いに満足した。こいつはいい火を吐きそうだ。自分には到底及ばないにしても。

 三匹目は青い羽毛に包まれていた。見るからに臆病そうな弱弱しい顔つきで、青年は落胆した。背中の筋肉を見るに、上昇は早そうだ。だが、それでも青年の好みではなかった。

「おめえ、逃げるのばっか訓練してたんだろ、え?」

 青い竜は半目で青年を見たが、すぐに目を閉じた。青年は嘲るようにせせら笑い、最後の台車に近づいた。

「うおっ……」

 青年は思わず息を呑んだ。真っ白な体毛に包まれた四匹目の竜は、体の半分ほどが銀色の鱗に覆われているが、まばらに青い鱗も混じっていて、見栄えが非常に悪かった。その顔は、青年が知る他のどんな竜とも異なっている。どことなく人間を彷彿とさせる風貌で、金色の瞳は人間に近く、おまけに睫毛まで生えている。頭頂部からは銀色の髪の毛が。

「気持ち悪いな、お前!」

 白い竜の瞳に涙が滲んだ。まるで同情を乞うように頬の筋肉が吊り上がる。青年はそれを見て鳥肌が立った。つい数秒前に三匹目に下した評を撤回したくなった。お前はまだ竜だったぜ。

 だが、余りの色物ぶりに、かえって興味が湧いた。青年は白い竜の周囲を何度も回り、よく観察した。どうやら雌らしいが、それにしては筋肉の密度が高すぎる。よもや原種との混血……そんなわけはない。あいつらがそんな高級品を扱えるわけがない。それに原種の血が濃いなら、もっとデカいはずだ。体格は通常の小型種と同じぐらいしかない。

 青年は小屋に引き上げる際、改めて白い竜の顔を眺めた。色々と不可解な点は多いが、極め付きはこの気色悪い顔だ。よーく見ると、顔以外の体のラインも、どことなく……人間の女っぽいような……。具体的にどこがどうかと問われると困るが、全体的に、何とも妖しい雰囲気を纏った竜であることは間違いない。

「お前、ひょっとして人間とのハーフなんじゃあねえだろうなあ」

 そんなことは有り得ないと知りつつも、尋ねずにはいられなかった。この言葉を聞いた途端、雌竜が体を起こそうとしてロープが引っ張られた。瞬間、青紫色の閃光が走り、雌竜の皮膚が焼けた。雌竜は苦しそうに大きく目を見開き、力なく崩れた。

「おまけに調教不足か。ますますどうしようもねえな」

 青年はすっかり呆れて、小屋に引き返していった。


「ありゃあ、野生よ。『ニワトリ』に使えるかと思って、ルーシの友人から格安でもらったんだがなあ。誰も番いになろうとしなくてよ」

「はっはっは、だろうな。俺でもお断りだぜ」

 青年がおかしそうに笑った。すかさず商人たちが返した。

「お前、竜と寝るのか?」

「あいつ以外ならな!」

 ひとしきり笑った後、青年が三本目の酒を開けながら続けた。

「んで、そいつは一体どこであんな不細工見つけたんた?」

「リフェウスで獲ったらしい」

「ほー」

 青年はわかったような口ぶりで相槌を打ったが、自分が知っている山なのかどうか、さっぱり見当もつかなかった。人間の命名は今一つピンとこないことが多い。

「値がつかなかったらバラすかなあ……ひっく」

「値が? そこまでか?」

「ああ……」

 商人は瓶に残っていた酒を飲み干し、大きく長い息を吐いた。

「ぁいっつぁ……」

 彼の顔は茹であがり、次第に声も聞き取れないほど小さくなって、瞼を閉じた。他の商人が代わりに答えた。

「あいつ、飛べねえのよ」

「ん? 変だな。体は丈夫そうだったぜ」

 青年は四本目を空け、棚に向かいながら言った。

「それに物覚えも悪くてな」

「らしいな」

 次の酒を用意しながら、青年は考えた。ずっと竜が欲しかった。そのために業者の通り道に居を構え、臥薪嘗胆の思いでプライドを曲げ、人間どもに媚び諂ってきたのだ。いつの日か、市に出される前に安値で竜をいただこうと。ひょっとすると、運命の日が訪れたのかもしれない。あの竜は人間臭くて何とも気持ち悪いが、高密度のいい筋肉を持っているし、怪我や病気もしていない。性格はこの際問わない。自分に命令に従いさえすればいい。

「何で飛ばねんだ?」

「知らねえよ。……ひょっとすると、頭がおかしいのかもしれねえ。せっかく丈夫そうな体してんのに、勿体ねえったらねえよ」


 最後の商人が酔いつぶれた後、青年は彼らの財布から一人三コペイカずついただいた。このぐらいなら盗まれても気づかれないことを、これまでの経験から学んでいた。

 小屋の端にある緩んだ床板を外し、革袋に盗んだ銅貨を静かに入れた。そっと床板を戻し、青年は一息ついた。住処の方と合わせると、これで百七十三ルーブルと二十八コペイカになる。健康な竜を買うには遠く及ばないが、あの雌竜ならば、やりようによっては手に入れられるかもしれない。

 青年は小屋を出て、再び雌竜に近づいた。晩に観察した時の感触では、飛べないような大きな怪我や病気がある風には見えなかったし、頭がいかれているようにも思えなかった。飛べない理由を突き止めなければ。

 雌竜はまだ寝ていなかった。月明かりに照らされた銀色の鱗は、角度によっては金色に光って見えた。体を縛るロープを大きく動かさないように、首を横に傾けている。青年は死角からそっと近づき、声をかけた。

「月が好きなのか?」

 雌竜は首の角度を戻し、台車から少し浮かせてから、頷くような仕草を見せた。それから頭を床に置き、さめざめと泣きだした。

「ふうん」

 青年は確信した。こいつは乱心していない。体にも頭にも問題はない。ならば考えられる理由は一つ。

(プライドだな)

 飛ばない理由も、調教の効果が薄いのも、きっと人間への反抗に違いない。ならば、自分とコイツは同志というわけだ。

「よし。俺がお前を自由にしてやるぜ」

 青年がそう言うと、雌竜は大きく目を開き、口先を突き出した。驚きと希望に満ちた表情だった。青年は自分の推察が正しかったことに興奮した。自分で言うのもなんだが、見るからに金のなさそうな通りすがりの男、その放言一つにこんないい反応を示すのだから、まず間違いないだろう。

「いいね。お前も協力しろよ。何しろ、お前の命もかかってるんだからな」

 青年は作戦を授けた後、満足して小屋に帰った。いよいよ悲願を達成できるかもしれないと思うと、興奮でなかなか寝付けなかった。


 翌朝、青年は竜商人たちに朝食を振舞いながら、雌竜の購入を申し出た。彼らは呆気にとられた表情で互いに顔を見合わせた後、一斉に笑いだした。

「飲みすぎか? 昨日の話、覚えてっか?」

「ああ。だから、俺が引き取ってやるよ」

「冗談はよせよ。第一、金はあんのか?」

「あるさ。たっぷり一万六千ルーブルあるぜ」

 青年は自信たっぷりに宣言したが、商人たちは腹を抱えて爆笑し、誰も本気にしなかった。

「本当だぜ……。そうじゃなきゃ、こんな高級酒用意できるもんかい」


 出発の直前、青年は商人たちの隙をみて雌竜の側にかけよった。

「おい、わかってるな。上手くやれよ。……じゃ、また冬に会おうぜ。バラされなければな」

 そう囁くと、雌竜は全身を小刻みに震わせた。青年はニヤリと笑って、馬車の準備を終えた商人たちの方へ近づいた。

「じゃあなおっさん」

「おう。酒美味かったぜ」

 商人は財布から銀貨二枚を取り出し、道外れの草原に向かって投げた。青年が拾いに行く様を愉快そうに見物しながら、発車の時を待った。

「いいか?」「いいぞ!」

 先頭の馬車が杖で上空にサインを出して走りだし、それを追って竜を載せた台車たちも動き始めた。だいぶ待ってから、最後尾の馬車も後を追い、一行は西へ向かって去っていった。

 一人残された青年は、あの白い雌竜が上手く演技して、無事に売れ残ることを祈った。とはいえ、仮に失敗したとしても、何一つ痛いことはない。

「さて……」

 青年は早速、旅支度を始めた。成功した場合に備える必要がある。流石に今の手持ちでは、帰りに彼らが再び立ち寄った時、譲ってもらうことはできないだろう。

「六千……んん……四千ってとこか?」

 大きな町へ出稼ぎに行き、冬までに資金を用意しなくてはならない。いい加減、自分の手配も忘れられているころだろう。稼ぎによっては、あの落ちこぼれじゃなくて、もっといい竜だって買えるかもしれない。青年は大空に返り咲いた自分の姿を夢想し、胸を躍らせた。


 突き刺すような風が冬の始まりを告げる頃、竜商人の一行が青年の小屋に帰ってきた。四台のうち三台の台車には、大きな青いシートがかけられている。どれもみな大きく膨らんでおり、彼らの成功を物語っている。だが最後の一台だけは、彼らにとって恥ずべき失態の象徴であった。ロープで厳重に台車に縛り付けられた白い雌の竜。最後尾の馬車を操る御者は、苦々しい表情でその尻尾を睨みつけていた。

 小屋の近くに停車すると、雌竜が瞼を開けた。右眼は前を向いているが、左眼は力なく沈んでいる。商人が杖を振り、ロープに紫色の火花が走ると、雌竜は一瞬痙攣した後、両目の瞼を閉じた。商人たちは苦々しい顔で馬車から降り、うち一人が小屋の前に近づいた。彼は一転して朗らかな作り笑いを浮かべて、小屋の戸を叩いたのだった。


「四千ルーブル。それ以上は出せねえ。前ならもっと出してやってもよかったんだがなあ」

 商人は額に皴を寄せ、ギュッとこぶしを握った。

「わしらと小僧の仲でも、流石にそれでは売れんなあ。両足が出ちまうよ」

 青年は頬杖をついて憎たらしい笑みを浮かべた。

「なんだよ。ありがたいことに、俺が売れ残りを引き取ってやろうってえのによ」

「ははは。売れ残りとは。なあ小僧。わしらはな、お前があの竜をとっても欲しがっていたのを覚えていたから、こうして売らずに戻ってきたんじゃないか」

「そういやあそうだな。……バラさなかったのか?」

 商人は覇気のない大きな笑い声を上げた。

「勿論、それも考えたさ。だけどな、わしらみんなで、やっぱりお前に売ってやろうって決めたのさ」

「涙が出るねえ」

 青年の右足はリズムをとるように、小刻みに震えた。

「お前も、わしらの真心に答えてくれると嬉しいんだがな」

 商人は箱に入った貴金属と、クシャクシャのルーブル札の束を見下ろした。まさかこの小僧が、本当に四千ルーブル相当の金を持っているとは。貴金属は明らかに盗品だが、なに、自分たちの故郷で売れば、足がつくことはない。問題は、この小僧があとどれだけの財宝を隠し持っているかだ。

 商人は、流石に青年が八千ルーブルも一万ルーブルも持っているとは露ほども思っていなかったが、もう二、三個くらい、宝石を持っているに違いないと踏んでいた。青年は明らかに態度に余裕があり、自分たちを見下しているからだ。あれは切り札を残している男の目だ。

「いったろ。アレに出せるのはこんだけだ」

「ふー……」

 商人が息をつくと、青年が立ち上がった。棚に近づき、酒を取り出しながら言った。

「ま、焦るこたねえさ。今夜いっぱい……」

 商人は狼狽えた。時間をかけるわけにはいかない。雌竜をジックリと観察でもされたらお終いなのだ。あの竜は青死病に罹っている。左眼が常に下を向いてしまうのは、その典型的な症例なのだ……。その病気に罹った竜は、鱗も火炎袋も使い物にならない。だから値がつかなかった上、バラして売ることさえできなかった。大損害を少しでも抑えるためには、何としてもこのことを隠してあの竜を売り払い、気づかれる前にここを発つ必要がある。

「いやぁ……悪い。今日は泊まらず、このまま行くのだよ」

「なんだよ。もう寒いし、すぐ日が落ちるぜ」

「ん……急ぎの商いがあってな」

「残念だな」

 青年は席に戻り、全財産が詰まった箱を指先でコツコツと叩いた。

「ま、とにかく、俺はこれしか出さねえ。嫌なら……」

 商人は左手の懐中時計を眺めた。ここを出てから、今日中に追いつかれないところまで行き、夜営の準備をして……。逆算すると、もう時間が残っていない。まだ本格的ではないにせよ、この地方の冬は激しく厳しい。これ以上遅れるとまずい。商人は決心した。

「ま……いいだろう。四千で売ってやる。感謝しろよ、小僧。お前だから、特別にこんな安値で売ってやるんだぞ」

「ったく、いちいち恩着せがましいんだよ」

 青年は満面の笑みを浮かべた。本人はこらえているつもりだったが、まるで隠せていなかった。商人はもうすぐ死ぬ竜を処理できたことで安堵した。とはいえ、できればもう少し高く売りたかった。大損害である。

 二人は契約書にサインしたのち、互いの杖を掲げて、先端を交差させた。商人の杖の先から、青白い光の球が尾を引きながら現れた。その球は青年の杖の中に飛び込み、やがて消えた。


 双眼鏡でも馬車が見えなくなったのを確認した青年は、小声でクックッと笑い、次の瞬間、顎を外しかねないほどに口を開け、大声で笑いだした。腹を抱えて転がり続け、日が落ち始めるまで笑い続けた。

「はーっ、はーっ……」

 青年は往来に座り込む白い雌竜に向かって叫んだ。

「おい、もういいぞ! 目ん玉戻していいぜ!」

 だらんと下を向いていた雌竜の左眼は、途端に活力を取り戻し、真っ直ぐ前を向いた。雌竜は目の調子を確認するかのように、あちらこちらへ眼球を回した。左右の眼は問題なく連動していた。

「おっまえ、よくやったな! ははは! はははは!」

 青年は、今や自分の物となった白い竜に、労いの言葉をかけた。雌竜はジッと眼下の青年を見つめ、首を左右に傾けた。

「なんだ? 無口な奴だな。……おっ、そうだったそうだった」

 青年がアカマツの杖を雌竜の口に向けてから振った。ずっと雌竜の口を塞いでいた口籠の固定が解かれ、地面に落下した。

 雌竜は寄り目で、久々に自分の真っ白な口先を確認できた。両手の爪先でちょこちょこと触った後、遠慮がちに口を開き、その後目いっぱい大きく開いた。大きく息を吸い込み、吐く。その様子を見た青年は、自分が朝にやる深呼吸のことを思い出した。

 雌竜は再び青年を見下ろした。彼に感謝しなければならない。彼の助言のお陰で、自分は殺されて解体されるのを免れたのだ。そして今の自分には、縛り付けるロープも口籠もない。夢みたいだった。助かったのだという事実にようやく実感が湧き始め、久々に体の緊張が解け、瞳に涙が浮かんだ。

(ありがとう……でいいのかしら)

 雌竜は青年に向かってそう言った。だが実際にはくぐもった鳴き声が出るばかり。

「なあに、気にすんなって」

(……って、通じるわけないのよね……)

 雌竜は落ち込んだ。これまで何度も、自分は人間で竜じゃない、と伝えようとして叫び続けてきた。それでも口から出る際に全て竜の咆哮と化してしまう。竜たちにさえ馬鹿にされ、全く相手にしてもらえなかった。とりあえず今は商人の手から逃れられたが、人間に戻れそうな手がかりもない。自分は永遠に、この醜い獣のままなのだろうか。

「まあそう落ち込むなよ。そうだな、まずは自己紹介といこうぜ。お前、名前は?」

 雌竜は胃が痛くなった。名前……名前なんて何の意味があるだろう。王国は既に滅んでしまった。お父様もお母さまも、城のみんなも……。人間として死ねたみんなが羨ましかった。こんな辱めを受けながら生きるより、清く処刑された方が絶対に良かった。

(うっ……うっうっ……)

「おいいつまで泣いてんだ、さっさと答えろ、クソ雌」

(レナータ……。私はレナータよ)

 雌竜は両手で顔を覆い、涙を流しながら何度目かわからない自己紹介を行った。伝わらないとわかっているのに、それでも自分の名前を告げずにはいられなかった。それをやめたら、自分が人間じゃないと認めたことになるような気がしていたからだった。

「ふーん。レナータね。俺はアルマスだ。よろし……」

 アルマスはレナータが発した大咆哮に跳ね跳ばされ、一瞬宙に浮いてから尻餅をついた。

(あっあなた……まさか、ひょっとして、まさかっ……)

 彼女は両手を地面にめり込ませて、姿勢を一気に下げた。首を伸ばし、口先をアルマスの目の前に突き付け、瞳を輝かせて彼を凝視した。荒い鼻息が彼をさらに後ろへよろめかす。

(わかるの……!? 私の……言ってること……!?)

「わかるに決まってんだろ? 俺はな、黒鉄の」

 レナータは立ち上がり、天に向かって吠えた。肺の中の空気が全て出ていくまで鳴き続けた。それから祈るように両手を組み合わせて動かなくなった。

「けっ、それやめろよ。気持ち悪いんだよ、人間のそのポーズ」

 アルマスは毒づいた。

(助けてやったのは俺だぞ。俺に感謝を捧げ、永遠の忠誠を誓うのが筋だろ? 人間かぶれめ)

 彼は思った。そうだ、自分の真の名前を明かせば、この雌はすぐに自らの過ちと傲慢を詫び、自分の前にひれ伏すに違いない。彼は胸を張り、芝居がかった大袈裟な手ぶりを加えつつ叫んだ。

「いいか、よく聞けよ! 俺は人間なんかじゃーねえんだ! ……竜だ! 原種のな! 『黒鉄の暴龍』ニーズヘッグとは俺のことだ!!」

 レナータは目線をアルマスの方へ下げ、呆気にとられたように二、三度瞬きした。そして彼女は背中を丸めて両手で口先を覆い、小刻みに震えた。

「あっ、おいてめえ! 信じてねえな! ……笑うな! 笑うんじゃねえ!」

 アルマスは激怒して地団駄を踏んだ。馬鹿にしやがって。雌の癖に。

(だって、あんまりおかしくって。アルマスくん、ニーズヘッグは数年前にルーシに討伐されたのよ)

「だーかーらー、それで人間にされちまったんだよ! あと『くん』はやめろ。『様』だ。アルマス様と呼べ。お前は俺の物なんだぞ。俺が買ったんだ」

(竜が人間に?)

 レナータは笑うのをやめ、再び四つ足になった。

(……それは、具体的にどうやって?)

「ん? なんだ、信じる気になったか? 魔法だよ。カーチャのな!」

 アルマスは険しい表情で、吐き捨てるように言った。レナータは彼の話をまだ信じてはいなかったが、あの人ならば或いは不可能を可能にするかもしれない……そんな強力な魔法使いに心当たりがあった。

(カーチャ……ひょっとして、大魔導士エカチェリーナ様のこと?)

「なんだ知ってんのか。そうだよ。ルーシに諂ったクソ女だ」

(まあっ……。それ、本当なの!? 竜を人間に戻せるって!?)

「戻すってなんだよ。俺は元々竜だ。人間なんか」

(私よ! ……私は人間なの! もしもあなたの話が本当なのなら……あの方に会えれば、私は元に戻れるのね!?)

「はあ? 人間が竜になれるわけねーだろ。やっぱ顔がおかしいやつは頭もおかしいな」

 レナータが立ち上がり、大きくのけ反って大きな咆哮を上げた。その声は荒野中に響き渡り、あたりの動物たちはたちまちのうちに姿を消した。アルマスは轟音で耳の具合がおかしくなって、十数分ほどその場でのたうち回った。


「じゃあこうしよう。好きなだけ身の上語りをしていいぜ。積もる話があるんだろ。ああ信じてやる。その代わりお前も、俺の話を信じることだ。いいな」

(ええ……)

 レナータはアルマスに、自分の身におこったこと全てを話して聞かせた。レナータはここから西方にあるポルスカ王国の第四王女として生を受けた。やや窮屈な立場ながらも、彼女は大病を患うこともなく健やかに成長できた。周囲の人間にも恵まれ、自然豊かな歴史ある祖国のことを、彼女は心から誇りに思っていた。だが隣国ルーシ帝国の侵攻によって、美しい故国の大地は血と炎によって赤く染まり、積み上げてきた歴史は灰燼に帰した。領土はルーシに併合され、王族は処刑された。ポルスカ王国は地図から姿を消したのだ。彼女も捕らわれの身となったが、親交のあった友人に助けてもらい、僅かな家臣たちを連れて北へ逃亡した。だがその途中、コジャックの騎兵隊に捕まり、東に追い込まれてしまったのだった。リフェウス山脈で追いつかれ、家臣たちは彼女たち逃がすために命を散らした。その最期の悲鳴と、コジャックが彼らの体を切り刻む音は、今も彼女には昨日のことのように思い出されるのだった。

 最終的に、彼女は満身創痍となって竜の卵の中に逃れ、そこで意識を失った。目が覚めた時、信じられないことに彼女の体は竜の雛に変身していたのだった。助けを求めて人里へ降りたものの、口から出る言葉は言葉ではなく、竜の鳴く声だった。彼女はあっさりと捕獲され、乗竜としての調教を施されることになった。彼女は何度も自分が人間だと訴えようとしたが、誰とも意思疎通を図ることができず、毎日毎晩調教師たちに痛めつけられた。竜として上手く体を動かすことができなかった彼女は、「同期の竜」たちの間でも飛びぬけた劣等生だったのだ。彼女は方針を変えた。竜の言葉を覚えて、彼らに事情を伝え、助けてもらおうと考えたのだ。王族だった彼女は、人よりは優れた頭脳と教養を有していた。次第に竜と話せるようになったものの、彼らは彼女が人間だったことを信じようとはしなかった。それどころか、人間ぽさを残す彼女の顔は、他の竜には不気味で醜悪なものと捉えられ、罵倒と侮辱を返されるばかりだった。。彼女は大変な衝撃を受け、屈辱を味わった。人間だった頃は、誰もが自分の容姿を称えてくれたし、自負もあった。それが今や醜い獣に変貌してしまった上に、その中でも下位に位置する劣悪な落ちこぼれになってしまったという事実に、彼女は気も狂わんばかりだった。ただ調教師たちは別だった。人間から見た場合、竜化した彼女の姿はとても美しく、色っぽく見えるらしい。それだけが彼女の心の支えだった。同時に、そんなことを拠り所にしてしまう自分自身に驚き呆れ、日々心をすり減らしていった。

 結局飛ぶことができなかった彼女はニワトリとして売却された。ニワトリとは、優れた雄の竜と交配して、卵を産むための竜を指す。彼女がそれを知った時、ルーシと捕らわれた時以上の絶望を味わうこととなった。誇り高きポルスカ王国の王女であった自分が、まさか獣の子を産む機械にされようとは。彼女は毎日毎晩のように泣き叫び、新たな持ち主を困らせた。滝のように涙を流し、手当たり次第に体をぶつけ、自傷に走った。竜にこの身を犯されるぐらいなら、いっそのこと殺処分でもされた方がマシだ。そんな涙ぐましい努力も空しく、彼女の竜舎には若く雄々しい雄竜が派遣された。彼女は最後の望みを託し、自分が人間であることを話し、慈悲を乞った。やはり信じてはもらえなかったものの、幸い彼女が竜相手に貞操を失うことはなかった。雄の竜たちは誰もが「妄想癖のある変な顔の雌」を嫌がり、交配しようとしなかったのだ。

 煮ても焼いても食えないお荷物となった彼女は、遠方に出荷されることとなった。この白い竜の悪評を知らぬ相手に売りつけるか、それも駄目なら解体して鱗や臓器を売却するのがよい。商人たちはそう考えた。この小屋に立ち寄ったのはその道中の出来事であった。


 レナータが自らの体験を語り終えた時、荒野の果てに夕日が沈み切った。空は紫色に染まり、厳しい夜の寒さが空気を刺々しく変えていく。少しの間をおいて、寝っ転がっているアルマスが口を開いた。

「終わりか?」

(え? ……ええ)

 アルマスは立ち上がり、両腕を組んで宣言した。

「よっし、次は俺だ。耳の穴かっぽじってよーく」

(ね、ねえ……。私の話、信じてく)

「あーわかったわかった。信じる信じた。はいじゃ俺の話な。俺は」

(話、聞いてた?)

「聞いた聞いた。で俺は」

(私は誰?)

「……えーと、人間の女だったんだろ? ほらな、ちゃんと聞いてやったんだ。俺はだな、北の大地で」

(私の生まれは?)

「……」

(聞いてないじゃない!)

 アルマスはレナータの轟咆で、再び吹っ飛ばされてしまった。


 アルマス――ニーズヘッグは、ルーシ帝国の北西、スオミ公国領で、鋼鉄のように固い、黒光りする殻を破って生まれた。ルーシとの境界線上に跨る大自然の中で、ニーズヘッグは大地の支配者としての頭角を現した。家畜化された小型竜とは比べ物にならない大きな体格と、鉄より硬い鱗を持って、あらゆる動植物の頂点として君臨した。やがて人里にもその姿を現すようになり、彼は方々を荒らしまわった。人々はやがて彼を「黒鉄の暴龍ニーズヘッグ」と呼んで恐れるようになった。ルーシ帝国はこの凶暴な原種を脅威とみなし、大魔導士エカチェリーナを含めた討伐隊を結成、見事暴龍をしとめることに成功したと国内外に発表した。事実、これ以降ニーズヘッグが人前にその姿を晒すことはなくなった。だが彼は死んではおらず、エカチェリーナの魔法によって、人間に変えられ軟禁されていたのだった。人間の言葉を学習した後、隙を見て逃げ出した彼は、自分を醜く脆弱な体に封印したルーシとエカチェリーナに復讐を誓った。そのためには竜が必要だった。武装した人間たちと戦える竜が。彼は自分を乗せて飛ぶ、忠実な僕を探すようになった。だが少年の肉体に閉じ込められた彼には、険しい大地を冒険して原種を獲りに行くことはおろか、人間から小型種を盗むことさえできなかった。彼にとっては全身から血が噴き出しそうなほどの屈辱だったが、人間たちのルールに従うしかないと悟った彼は、生まれ故郷から遠く離れたこの地で、竜商人の通り道に小屋を構えたのだ。


 真っ暗な夜空いっぱいに星々が所狭しと散らばり、煌煌と輝いていた。レナータは道の上で腹ばいになって、静かに月を見上げている。小屋の中は薄暗く、机の中心に立てられた杖の先端が、弱弱しい光を放つだけだった。それも時折点滅し、魔力が切れかかっていることを伺わせた。アルマスはカチカチのパンを齧りながら、竜の炎で焼き尽くされるルーシ兵たちを想像して悦に入った。いよいよ竜が手に入った。今こそルーシへ乗り込み、おごり高ぶった人間どもをアッと言わせてやる時だ。

 外にいるレナータは、そっと顔を戸に近づけて、囁くように鳴いた。

(ねえ、私のご飯は?)

 レナータは耳を澄まして待った。しかし返事はなかった。彼女は小屋から離れ、大きな岩がない場所へ移った。腰を下ろし、尻尾を曲げて丸まった。

(今日はもう寝よう……)

 彼女は思った。寝る場所を自分で選ぶことができる。たったそれだけのことが、こんなにも素晴らしいなんて。狭い竜舎も、体を縛る魔法のロープもない。人間ならば耐えられないような夜の寒さも、竜となったレナータには少し肌寒い程度であった。彼女のお腹は空っぽだったが、胸は希望に満ちていた。アルマスの話が真実ならば、この世界には自分が元に戻る方法が存在している。永遠に醜い獣として生きなければならないのだと思っていたけど、そうではなかった。きっと神の御慈悲に違いない。

 ただ心配なのは、彼の話が妄想であった場合である。しかし、レナータはすぐに首を振った。

(ううん。きっと本当なのよ。私が本当に人間だったのと同じように。だって、私の言葉が分かるのだから。竜と話せる人間なんて、聞いたことがないわ……)

 レナータは静かに眠りに落ちた。それは竜になって以来初めての、安らかな眠りだった。


 地平線が白々しく明けてきたころ、小屋の中からアルマスが姿を見せた。彼は深呼吸して体をほぐした後、辺りを見渡し、レナータを探した。近くに一本の木も生えていない草原なので、大きな竜の影はすぐに捉えることができた。彼女は気持ちよさそうに、寝息を立てながら眠っている。その鼻から出入りする空気の流れは、牛の鳴き声ほどの音を出していた。

 アルマスは舌打ちした。コイツいつまで寝てやがる。もう日が昇るんだぞ。彼は小屋に戻って、魔力が切れた杖を手に取った。そしてレナータに近づき、杖を彼女の鼻の穴にグイと突っ込んだ。

(……ッ!)

 レナータは突然の痛痒で目を覚ました。

(痛いっ! ……え? 何? 鼻……木?)

 混乱して左右に首を振り回す彼女を見上げながら、アルマスは快活に笑った。鼻の杖は突風のようなクシャミで吐き出され、朝日に向かって飛んでいった。

「よし、帰るぞ」

(え? 帰るってどこに?)

「馬鹿か、俺の家に決まってんだろ」

(ここは貴方の家じゃないの?)

「なわけあるか。あれは奴らから竜を分捕るための仮宿だ」

 アルマスは粗末な木製の小屋を指して言った。そして彼女の返事を待たずに歩き出した。

(あ……ちょっと)

 仕方がないのでついていこうとした矢先、レナータのお腹が大きく鳴った。彼女の顔はほんのりと桃色に染まった。アルマスが不愉快そうに振り向くと、彼女は両手で顔を覆った。白銀の顔は彼女の恥辱を鮮明に浮かび上がらせる。

「チッ、おい、うっせーぞ」

(だって……だって)

 彼女の空腹はおさまりを見せなかった。彼女はますます顔を紅潮させ、その場にうずくまった。アルマスも次第に顔を赤らめながら叫んだ。

「何してんだおい! 立て! 立って歩け!」

(何よ! ……だって私、昨日から何も食べてないんだから……)

「は? 昨日食わなかったのか?」

(だって、あなた何も用意してくれなかったじゃない。だから我慢して……)

「……? え、何? 俺関係ねーだろ? 食えばよかったろ」

(だから、食べるものが……)

「んなもん、いくらでもあんだろ……。ちょっと北に行きゃあ、キツネがいるぜ」

(……それ、みんな生きてるんでしょう? そんなの食べられないわ)

「は?」

(え?)

 アルマスは茫然とした。レナータも狐につままれたような気持ちだった。奇妙な空気の中、再度言葉を交わし、やがて二人の行き違いが解決すると、アルマスは激怒した。

「ふざけんなよお前! 今までどうやって、何食って生きてたんだよぉ!」

(だってだって、そんな残酷な事出来ないわ……生きている動物を食い殺すだなんて、そんな……恐ろしい事……獣みたいに……)

「俺の質問に答えろ!」

(わ、私てっきり……だって、あなた、私を買ったんでしょう? あなたが用意するんだとばっかり……)

「ちげーだろ! 竜になってからどうしてたんだって訊いてんだ!」

 レナータは少しずつ体を丸めながら答えた。

(さ……最初は……その、卵を産んだ雌竜が……私に木の実とか、果実とか、焼いたお肉とか運んできてくれてて……)

「いつまで雛でいたわけじゃねえだろ。すぐ追い出されて独り立ちすることになったはずだぞ」

(へー……。竜って、そうなの?)

「お前も竜だろ!」

(わ……私は人間よ! ……今は、確かに……竜だけど……)

「あーもういい。で? 巣立ちしてからは? 何食ってたんだ」

(巣立ち……巣立ちっていうのがよくわからないんだけど……。とにかく、自分で食事を用意したことはなかったわ。捕まってからはずっと誰かが用意してくれていたし……)

「……お前、巣立ち前に人間に捕まったのか?」

(ん……そういうことになるのかしら……?)

 アルマスは右手で顔を覆い、その場に力なく座り込んだ。嘘だろコイツ……。いい年して、狩も満足にできねえのかよ……。

「あのなあ。お前、人間時代含めて二十年近く生きてんだろ!? 自分の飯ぐらい自分で勝手にとれよ! そんなこともできねえのかよ! おい! なあ!」

(だって……)

 レナータは押し黙り、頭を垂れた。アルマスは憤懣遣る方ない思いだったが、ぐっと堪えた。深く息を吸って、吐き、気持ちを切り替えようと努めた。そうだ。どうしようもない子分の竜に狩の仕方を教えてやるのも、世界で最もカッコよくて逞しく強い無敵の竜として当然の務めだろう。そういう風に考えよう。

「帰るのは止めだ。ついてこい」

 アルマスは進路を変え、西に向かって歩き出した。

(どこに行くの?)

「お前に飯を食わせてやるって言ってんだよ。いいから黙って俺についてこい」


 緑と黄色のコントラストが続く草原地帯に、数十頭にも及ぶ動物の群れがあった。全身に褐色から茶色の毛を生やし、四本の足には立派な蹄を持つ。顔の中心からは、やや腫れぼったい大きな鼻が垂れ、間の抜けた印象を与える。尻尾は短く、遠目では確認できない。この群れの中に数頭、角を持つ個体がいた。ほぼ真っ直ぐ上に伸びる二本の角には、輪のような溝がいくつもある。この角輪こそ、この雄が幾年にもわたってこの大地を生き抜いてきたことを証明する勲章であった。逞しい角を持つ僅か数頭の雄たちが、残る雌全てを率いているのだ。

 群れから少し離れたところに、白い大きな岩が地面から生えている。その裏で白銀の小型竜が体を丸め、息を潜めていた。岩の端から褐色の肌を持つ青年が顔を出し、双眼鏡で群れの様子を観察した。

(あれは何? 牛……。それとも、鹿かしら?)

「サイガだ。奴らは逃げ足が早いぞ。迅速に済ませるんだ、いいな。上空から一気に……」

(無理よ。私、飛べないもの)

 アルマスは双眼鏡を外し、右に顔を向けた。信じられないという表情を浮かべ、視線を上下させた。

(聞いてなかったかしら。……私、飛べないの)

「いや、それは……商人どもに反抗してたからじゃねーのか?」

(え? 違うわよ。どうしてそんな話になったのかしら)

「冗談じゃなくてか? お前、本当に、言葉通り、飛べねーのか?」

(だからそう言ってるじゃない)

「……」

 アルマスは再び腰を落とし、右手で顔を支えた。彼は深い後悔の念に苛まれた。とんだ無能を掴まされちまった……。目の前の馬鹿雌が、自らの苦労と、捨てたプライドと、金の結晶なのだということを認めたくなかった。こんな……よりにもよってこんな奴に……。もっと待つべきだったか。いやでも、用意できる金はあれが限界だった。コイツより高い、真面な竜を買うには後何年もかかっただろう。

(どうしたの? 頭でも痛いの?)

 アルマスは怒鳴りつけたい気持ちを必死に抑えた。ここで大声を出したらサイガの群れに逃げられる。優れた狩竜は平常心を乱さない。彼が強く握りしめた左手は、激しく震えた。

「あのな、竜が飛べなくて、どうして狩をすんだよ……っ」

(だから、私には無理なのよ……)

 アルマスは考えた。飛べないということは、強襲も急襲も、追撃もできない。残る手段は……狙撃か。

「よし。よく聞け。愚鈍で愚図で鈍間で阿呆なお前にも、たった一つだけやれる狩猟法がある。狙撃だ。ここから静かに顔を出して、出したらすぐ、火球を吐いて仕留めるんだ。わかったな?」

(え、ええ……。それなら……。あっ、でも……)

「何だ? 火吐けないとかいうなよ?」

(何の罪もない動物たちを、いきなり焼き殺すだなんて……そんな残酷なこと、私には)

「あのなあ! お前、ふざけるなよ! 人間どもだって好き勝手に動物殺して遊んでんじゃねえか! お前だって、これまで散々肉食って生きてきたんだろうが!? その肉どっから来たと思ってんだ! それともなんだ、お姫様は狩や解体の現場なんか見たこともないってか!?」

(あ……あるわ、狩くらい……)

 レナータは兄が勇ましく狩に出かけていく姿を思い出した。それに疑問を抱いたことはなかった。当然のことで、普通のことだと。しかし、自分がこれから行わなければならない狩は、極めて不自然で、冒涜的なものに感じられた。

(で、でも、人の狩猟とこれとは、違うわ)

「何が違うんだよ!」

(それは……)

 彼女は自分の心に問いかけた。兄たちとの違いは何なのか。自分を怖気づかせている要因は何なのか。

(お兄様の時はただ見ているだけでよかったから? 今は自分で狩らなくてはいけないからかしら……。きっと、それもあるわ。でも、もっと大きな……)

 押し黙って物思いに更けだしたレナータに、とうとうアルマスが激怒した。

「あーそうかい! ご立派だねえ! じゃあ、このまま飢え死にするんだな。俺はお前の飯の面倒なんかみねーぞ」

 アルマスは怒り狂いながら、来た道を戻り始めた。レナータはどうしていいかわからず、その背中を眺めているしかなかった。ほどなく、それすら億劫になった。空っぽになった胃腸がとめどなく催促を行った。彼女は岩からゆっくりと頭を出した。茶色い動物たちの群れはまだ動いていない。再度、彼女の腹が鳴った。ああ……お腹が空いた。食べたい。立派に調理された料理が。私は人間よ。竜でも牛でもないわ。ぐちゃぐちゃに擂り潰された餌なんてもうこりごりよ。

 彼女はサイガの群れをぼーっと眺めた。人間だったころ……。王国が健在だったころ……。美味しい料理がいつも私のお腹を満たしてくれたわ。甘くて美味しい蜂蜜ケーキ。卵とチーズをふんだんに使ったビールスープ。ふかふかのパン。そう、丁度あの動物たちみたいな色だったわ。一番好きだったのは、宴会で食べる煮込み料理。その中の牛肉。柔らかながらも仄かに芯のあるた歯応えと食感。一噛みごとに、私の体に力が溢れてくるようだった。そういえばあの動物は牛に似ているけれど、同じ味がするのかしら? ……いや、マリネされてないんだから不味いに決まってるわ。火を吐いて生きた動物を丸焼きだなんて。野蛮だわ。恐ろしい事。せめてローストに……。

 レナータは手足に力が入らず、ゆっくりと体を沈めた。彼女はかつて経験したことのない飢えに喘ぎながら、だらしなく口を開き、涎を垂らした。

(食べたい。何でもいいから。お料理。パン。お肉……)

 次第にレナータの意識は朦朧となり、目の焦点も合わなくなった。彼女の頭の中で、今まで食べてきた料理の絵が走馬燈のように浮かんでは消えた。平原に点在するサイガ達の輪郭がぼやけ、茶色い染みのように見えた。

(パン。そうパンよ。あの色……)

 彼女は次第に、かつて味わった料理の味を想起するようになった。口内が熱くなり、舌はヒリヒリと痺れ、歯の隙間から黒煙が漏れ出る。無意識のうちに、岩に両手を掛けて立ち上がった。上顎と下顎が静かに開き、赤く渦を巻いた炎が姿を現した。サイガが自身を狙う竜の存在に気づいたのと、火球が放たれたのとはほとんど同時だった。サイガの群れは蜘蛛の子を散らすように駆け出し、一瞬の後には草原から姿を消し去り、遥か彼方を駆ける点になった。火球は僅かに遅れ草原に着弾した。大地が震え、火花が散り、爆音が轟いた。震えた空気が遠くアルマスにも、彼の僕が決断したらしいことを伝えた。

 戻ってきた彼が見たのは、夢遊病患者のようにフラフラと焦げ跡に近づくレナータの姿だった。煤けた大地の中心に、逃げ遅れた哀れな雌サイガの死体が横たわっている。

「ほー」

 アルマスは感心した。幼児のように女々しく泣きわめいたあの女が狩を実行し、尚且つ仕留めるとは思っていなかったのだ。彼は舌打ちした。俺が色々指導してやって、この俺様がいかに優れた狩竜であったかを悟らせようと考えていたのに。そうすればあいつも、俺を尊敬の眼差しで見つめ、より一層従順に振舞うようになるだろう。しかし、どうやらあの女は成功してしまったらしい。いらぬ自信をつけなければいいがな。

 レナータはおぼつかない足取りで獲物に近づいた。黒く焼け焦げたサイガの肉体は、彼女に在りし日の肉料理の香を思い起こさせた。

(ご飯だわ!)

 彼女は爆心地に辿り着くとすぐ、両手を地につけた。ギラギラと光る眼、とめどなく流れ出る涎からは、理性の面影を見て取れない。彼女は舌を垂らしてサイガを見下ろした。焼けた茶色の毛皮は、宮廷で食べたパンと色合いがよく似ている。

 飢えた竜は勢いよく肉塊にかぶりついた。鋭い牙が一瞬で奥まで突き刺さり、軽く骨から肉を剥ぐ。大きな竜の口はサイガの胴体ほどもあり、哀れな動物はたった一口で体の半分を失った。切り裂かれた内臓が露出し、血が大地に流れ灰と煤を洗い流した。雌竜はゆっくりと顎を引き、肉が零れ落ちないように上向いた。肉を切り剥がす牙の役目は終わった。口の奥へと移った肉を、鋼鉄のように硬い奥歯が潰す。血と肉汁が彼女の舌と喉を潤わした。一噛みごとに、朦朧としていた彼女の意識が明瞭になっていく。

(美味しい!)

 レナータは天にも昇る心地だった。――知らなかったわ。生きた動物の丸焼きがこれほど美味だったなんて! 肉の感触は言うに及ばず、砕けた骨の欠片はコリコリとした舌触りで食欲を刺激するし、生暖く粘っこい動物の血は濃いスープのよう。

(もっと! もっと食べたい! まだよ! まだ食べ足りないわ!)

 彼女は口に含んだ肉、骨、血全てを砕き飲み込んでしまうと、間髪入れず再度獲物に喰らいついた。右手で獲物の背骨を押さえつけ、残された下半分の肉と内臓を貪った。土や砂が混じろうが、彼女は歯牙にもかけなかった。あっという間に、折れた背骨と僅かな胸骨を残して、サイガの残骸は首と手足だけとなった。

 竜の巨体は、とてもサイガ一頭では満たされない。食事を摂ったことで、かえって空腹を感じるぐらいだった。手足も食べてしまおうとしたその時、彼女は少し離れたところで痙攣している小さな命に気づいた。

(あっ……? あんなの、いたかしら……?)

 目の焦点が合った瞬間、レナータは我に返った。サイガの子供だった。それもまだ小さく、乳飲み子のようである。彼女はこの雌が何故逃げ遅れたのか、理由を悟った。サイガの幼児は横たわったまま起き上がることなく、静かにレナータを見つめている。

 後悔の波が、彼女の幸福感と満足感を押し流した。

(私……私は……)

 足元に転がる母の死体。首と手足しか残っていない。胴体は? あの子のお母さんは一体どこへ?

 レナータの歯と歯の隙間から、血が滴り落ちた。両手の先は赤く染まり、口の中は血生臭くベタついている。

(私……が……。食べちゃった……)

 彼女は胸が張り裂けそうだった。何故……どうして、自分がこんな残酷なことを仕出かしたのか、皆目わからなかった。手足が震え、心臓は高速で時を刻み、その眼は怯えている。ついさっきまであれほど食欲をそそったはずの血肉の匂いも、今や悍ましい死臭にしか思えない。そしてその匂いは、自分の口の中から発せられるのだ。

(み、見ないで……見ないでよ……。わ、私、そんなつもりじゃ……私……)

 竜の腹が、再び鳴った。レナータはもっと食べたくなった。美味しそうな匂いを放つ手足に、自然と視線が引きつけられる。彼女は無意識にそれを三本の指で掴んだ。

(あっ……だ……駄目よ。何を考えているの? こんな残酷なこと……これ以上は……)

 しかし、彼女の表情は次第に蕩けていった。細い手足は、なんだかお菓子みたいで美味しそう。色もパンみたいだし、お腹空いたし……。

 サイガの子供が最期の鳴き声を上げた。力のない細い声だった。レナータと彼の目が合った。彼女は葛藤した。食べたい。でも、あんな小さな子供の前で、母親を爪の先まで食べつくすなんて、そんな恐ろしい真似を神がお許しになるはずがないわ。獣ならともかく……。

(そうよ。私は獣じゃない。人間なのよ。もうこんなことは……)

 だが、彼女はあふれ出る涎を抑えることができなかった。食べ足りない若き竜にとって、肉付きの良いサイガの手足は余りにも魅惑的だった。

(でも、もうここまで食べちゃったんだから、今更……よね……)

 レナータは握っていた手足を串肉のように口に入れ、一気に噛み砕いた。乾ききった悲鳴のような音と共に、骨が砕け血肉が飛んだ。レナータの手から蹄が抜け落ち、地面に転がった。彼女は恐る恐る、サイガの子供の方を見た。一瞬、子は震えたように見えた。だが、それは風が毛を撫でただけだった。死んでいる。

(ごめん……ごめんね……。でもっ……でも! 美味しいの! お腹が空いていたのよ。食べなかったら私が死んじゃうのよ……)

 レナータは心の中で何度もサイガの母子に謝り、神に許しを請いながら、残る手足の一対も平らげ、サイガの母を地上から消し去った。

 腹が満たされると、彼女は全身が鉛のように重く感じた。どうしてこんなことになってしまったのだろう。私は心まで醜い獣になりかけているのかしら――。

「それ食わねえの? じゃ俺がもらうぜ」

 アルマスが岩陰から姿を現し、子供の肉を剥ごうとした。レナータは慌てて叫んだ。

(な、何をするの!?)

「あ? 捨てていくにはもったいないだろ」

(よくもそんなことができるわね! 人でなし!)

「馬鹿か。てめーが焼き殺したんじゃねえか。あと、俺は人間なんかじゃねえ。何度言わせるんだ」

(……)

 しょんぼりと縮こまるレナータに、アルマスが言った。

「ま、初めての狩にしちゃ上出来、ってところかな。でもいい気になるなよ。こいつは只の偶然だ。次からはこうはいかないぜ。ま、俺様が狩の極意ってやつをたっぷりしこんでやるから、なぁに心配するこたねえよ。追い風にのったつもりでいろ」

 レナータは、アルマスの解体作業を黙って見つめた。目を覆いたくなるような光景だったものの、ひと時も目を離せなかった。最後まで見届けてやることが、この母子に自分がしてやれる唯一の償い、そして弔いであるように思えたのだ。


 太陽が地平線に欠ける頃、アルマスとレナータは草原の中に孤立する白い住居に辿り着いた。

「よう。あれが俺の家だ」

 レナータは目を細め、息を吐いた。

(あれが? まるで野営地だわ)

 布で覆われた円錐状の天井と円形の壁は、彼女にサーカスのテントを連想させた。観覧した経験はないが、祭日になると彼らが巡業に来るので、その光景はよく覚えている。子供たちが色めき立つ様子が城まで伝わってきて、何となく嬉しくなったものだった。しかし、今やその子供たちも大半は殺されるか捕まり、ルーシの奴隷となっているのだ。それを助ける力が自分にないことを、レナータは酷く悲しんだ。

 上機嫌のアルマスは白いテントの中に消えた。レナータは柔そうな住居を傷つけないよう、畑一面分の距離で歩みを止めた。

(あんなお粗末なテントで、夜の寒さが凌げるのかしら?)

 レナータには、昨日まで彼が寝泊まりしていた木製の小屋の方が良く思えた。あれも立派とは言えなかったが、これと比べたら天と地だ。

 その白いテントの中から、アルマスが姿を現した。一際大きな鞍を乗せた台車を押しながら。彼は鞍を地面に下ろし、台車と共にまたテントの中に消えた。次は鐙。そして手綱。頭絡……。

 レナータは黙ってその様子を眺めていたが、全て竜具だと一目でわかった。当然、自分に装着するもののはず。彼女は全身の力を抜き、腹と首を地につけた。

(ああ……。嫌だわ。またあんなものをつけられるだなんて……)

 彼女は調教師の元にいた間、竜具を装着して日夜訓練を受けていた。人を乗せて空を飛べるようにするために。最初は死に物狂いで抵抗したものだった。希望があった。自分は獣ではないのだと、人間なのだとわかってもらえると。なればこそ、獣の証たる拘束具など認めるわけにはいかなかった。王女としての誇りもまだあった。しかし、次第に現実を悟り始めると、彼女は抗う気力を失った。なぜ自分がこのような辱めを受けなければならないのか。当代で国を滅ぼし、見捨て逃げたことへの罰だろうか。あの時コジャック騎兵に捕まり殺されていた方が、遥かに人として、王女としての尊厳を保ったまま死ねたのではないか。死の恐怖に屈し、畜生道に堕ちた自分を呪いながら、彼女は不本意ながらも調教に慣らされ始めた。手綱による制御、掛け声の意味、足の叩き具合による指示の差……。決して自ら覚えようとはしなかった。しかし、体は否応なしに、日々仕込まれる乗竜術を刻みつけていく。僅かな手綱の動きに、首は手足は敏感な反応を示す。その度に、彼女は自分が益々人間ではなくなっていくかのように感じ、心を病んだ。

 そんな彼女が人としての尊厳を僅かに残せた理由は、飛べないことにあった。人としての意識を持って卵から孵った彼女は、他の竜たちが生まれながらにして持っている感覚が、往々にして抜け落ちていたのだ。いくつかは調教の過程で嫌でも身につけざるを得なかったが、飛び方だけはわからなかった。彼女は竜舎で「同期」に尋ねた。どんな竜に訊いても、答えは不変だった。人が腕の動かし方を言葉で説明できないように、彼らは己の翼の動かし方などわかっていなかった。できるからできる。飛べば飛べる。次々と「卒業」していく同期たちを見送りながら、彼女は落第生の烙印を押されたのだった。

 レナータは屈辱と絶望の日々を思い起こし、全身を震わせた。全ての竜具を運び出したアルマスの顔は、初めて玩具を買ってもらえた子供のように輝いていた。

「こい!」

 アルマスは、家から離れ寝そべっているレナータに向かって力強く叫んだ。レナータはゆっくりと起き上がり、僅かな間をおいて歩き出した。竜具を付けられるのは嫌だが、どうせ逃げる先もない。それに、自分と意思疎通ができる人間は、あの子をおいて他にないのだ。

 アルマスは胸の前で、汚れたアカマツの杖と真っ白な白樺の杖とを交差させた。古い杖の先端から、紫色の光が尾を引きながら宙に舞う。その光は緩やかな螺旋軌道を描きながら上昇し、アルマスの頭上まで達した。その後、光は一瞬停止し、螺旋の中心に跳ねたと思うと、真っ直ぐに降下した。紫色の光は新しい杖の先端に飛び込み、その白い杖全体を紫色のオーラで包む。その輝きはすぐに消え、杖が仄かに震えた。

 アルマスは空になったアカマツの杖を草の中に投げ捨て、白樺の杖を目の前に掲げた。遂にこの日がやってきたのだ。配下の竜を手に入れた時のために、ずっと前から用意しておいた新品の杖。薄汚れた中古の盗品ではない、正真正銘、アルマスの杖である。

 アルマスは深呼吸した。目の前まで寄ってきたレナータに向かって、白樺の杖を振った。先端から青紫色の火花が流れ出て、足元の竜具たちに降り注ぐ。竜具たちはふわりと宙に浮きあがり、レナータに向かって飛んでいく。その軌道は小刻みに震え、途中で止まったり、明後日の方向へ飛び去りかけたりした。

(大丈夫?)

 レナータは鼻息を鳴らした。使用人たちが馬に馬具をつける時は、もっと早くスムーズだった。鞍も手綱も頭絡も、皆一直線に収まるべき場所へ向かって飛んたものだ。それは全く当然のことで、気にもとめたことがなかったが、どうもそうではなかったらしい。

 アルマスは必死に杖を右往左往させながら、竜具たちをコントロールしようと努めた。あちこちを飛び交いながらも、竜具たちは少しずつレナータとの距離を詰めた。

「馬鹿にすんな! カーチャに出来て俺にできねえわけあるか! このぐらい……!」

 アルマスの顔は血管が膨張して赤みがかった。日は既に暮れ、凍てつく夜の寒さがその兆しを現しているにも関わらず、彼は全身から汗を流し始めていた。レナータはそんなアルマスの様子を見下ろしながら待った。ややもすると、彼女は子供の遊び相手を務めているような気分になってきたので、竜具への抵抗が心なしか薄れた。

 星々が鮮明に見え出したころ、ようやく鞍が背中に乗った。アルマスは得意げに叫んだ。

「見ろ! 乗ったぞ!」

 レナータは鼻から一息吹いてから、長い首を曲げて背中の様子を伺った。鞍は乗っかっただけで、固定されていない。少し動けば今にもずり落ちそうだ。その上からマットが落ちてきて、鞍ごと地面に落下した。レナータは無性におかしくなって、竜になって以来初めて笑った。

(残りはまだかしら?)

 アルマスは見る間に顔を歪め、前方に杖を突き付け、再び格闘を始めた。

(お腹空いたな……)

 レナータは夜空を見上げた。昼に食べたサイガだけでは、この巨体を満たせない。これからも、あんな風に罪のない生き物たちを殺して回らなければならないのだろうか。血塗られた野生の掟に彼女は震えた。

「だーっ! ちくしょう!」

 草原に夜が訪れた。星空を背景に竜とテントの黒い影だけが浮かび上がる。その狭間に見える小さな動く影。アルマスの悪態だけが、閑静な草の海を響き渡った。


 明朝。東の地平線が紅に染まり、夜が白む。なだらかな丘陵地帯を白い雌竜が闊歩していた。その背には青いマットが敷かれ、その上に鎮座する大きな鞍には、褐色の肌と黒い髪を持つ青年が座っていた。鞍の前には長方形の黒い台があり、横に走る窪みには白樺の杖がはめ込まれている。杖は青紫色に発光し、台の側面に開いた穴から仄かに紫色の粒子が舞う。鐙から青年の頭までを包み込むように。

 その彼が握る手綱は、粒子の繭から抜け竜の口に繋がっていた。黒い頭絡によって固定された銜は、手綱による細かな指示を竜に伝える。竜の銜は左右が独立し、口角を外側と内側から挟み込むように装着される。銀色の銜は紫色のオーラを発し、口内では更に青い半球状の防護魔法に覆われていた。レナータは手綱を通して口を引っ張られる度、瞳が滲んだ。二枚貝のように口を内外から挟み込む竜の銜は、敏感な口内に遠慮なく食い込み、手綱の僅かな動きさえ見逃すことなく告げてくれる。絶え間なく小刻みに引っ張られ、押し込まれ、震える口。物理的な痛みと不快感はもとより、栄光あるポルスカ王国の王女であった自分が、このように家畜同然の扱いを受けているという事実が、彼女にとって何よりも耐えがたいものだった。その上、自分は結局、手綱に逆らうことなく従っている。嫌なはずなのに、自分は反抗の意志すら示そうとはしていない。それが一層彼女の心を蝕んだ。何のことはない、調教通りに人を乗せて歩く今の自分は、車を引く馬と変わりない。馬。私が今までに乗った馬車。それを引く馬たちもこんな気分だったのかしら。考えたこともなかった。馬の気持ちなんて。

 鞍に座り、手綱を握る男。アルマスは内心驚いていた。碌に調教もこなせずバラされる筈だった落ちこぼれ。狩はおろか、飛ぶことさえできないらしい元人間の雌が、指示通りに歩くことができることに。

(なんでえ。しっかり調教されてんじゃねえか)

 アルマスは安堵し、口角を上げた。最悪、一から俺が全て仕込まなければならない可能性も覚悟していたが、思ったよりも楽そうだ。アルマスはわざと、必要のない方向転換や速度の上げ下げ、姿勢の変更、歩き方の切り替え等の指示を出した。人っぽい顔つきをした白い雌の竜は、これといって抵抗する様子も見せず、唯々諾々と従った。アルマスは調教の程を確かめつつ、今後の訓練について計画を練った。根は真面目なのだろう。後は飛び方さえ覚えられれば……。

 レナータは手綱の指示を概ね正確に理解し、それなりにこなすことができていた。調教師に仕込まれた通りの動きを。しかしアルマスの手さばきは、過去自分を担当したどの調教師よりも上だと彼女は感じていた。てっきり、強引で乱暴、それでいて基礎もできていない酷い仕事になるだろうと覚悟していたのに。アルマスの手綱捌きは繊細で正確、それでいて力強さがあった。口を挟んだ銜が引っ張られるのだから痛いのは痛いのだが、慣れてくると大して気にならなくなった。銜にかかる力の向きと大きさが指示ごとに一定でわかりやすく、痛みも少ない。彼女は驚いた。アルマスは竜である。竜として自らの体を動かすことと、人として竜の背に乗り、手綱と足で指示を出すことは全く勝手が違うはずだ。彼は一体どこで、こんな技術を身につけたのかしら?

 空が青く染まり、二人の息があってくると、レナータは訊いてみたくてたまらなくなった。竜の銜は口の開閉を邪魔しないように設計されてはいるが、それでも少し慣れがいる。調教の最中、自分は人間だ、と何度も訴えかけてきたレナータはそれを熟知していた。

(貴方は、どこで乗竜を習ったの?)

「蒙古っつー種の人間からだ。馬だって乗れるぜ」

(ふうん……)

「お前も案外しっかり調教されてんじゃねえか」

(……)

「あ? なんだよ、せっかくこの俺が褒めてやったってのによ」

 レナータはアルマスの無神経さに落胆した。それは褒めることにならないでしょう。それとも、すっかり竜に成り下がった私へのあてつけ? 全く、気がつかない子ね……。


 レナータとアルマスは、なだらかな丘の前で止まった。

「よし、飯だぞ。この向こうに羊の群れがある。とりあえず昨日と同じでいい。そこの丘から顔出して仕留めろ」

(えっ。またやるの?)

「馬鹿か。降りるから動くなよ」

 アルマスは杖置に嵌めてある白樺の杖を素早く二度叩いた。鞍全体と銜を包んでいた固定魔法が解かれ、杖が窪みから外れた。アルマスは杖を手に取り、竜の背から地面に飛び降りた。杖で丘の方を指し、レナータに言った。

「おら何してる。早くいけ」

 レナータは祈るように天を仰いだ後、丘の方へ向かって歩き出した。昨日殺したサイガの母子。またあんな恐ろしいことをしなければならないとは。蘇る罪悪感が彼女を襲った。しかし、あれ以来何も食べていない上、ずっと歩かされたのでもう彼女の空腹は耐えがたい域にあった。やってしまったことは仕方がない。そして、やってしまったのだから仕方がない。あのサイガや、これから殺す羊たちだって、生きるために命をいただいているのだ。お兄様だってたびたび狩に出かけたじゃない。私ばっかり責められるのはおかしいわ。生きるため。そう。これは生きるためには仕方がないことなのよ……。

 レナータは懸命に理屈を作り上げ、自己の罪悪感、そして獣性と戦った。それには昨日アルマスから言われたことが役立った。羊を襲うのは獣だからじゃない。人も狩をするのだから。

 丘の影から羊の群れを捉え、レナータは厳かに肺と火炎袋を震わせた。


 腹ごしらえを済ました後、レナータとアルマスは新たな目的地へ向かって出発した。レナータに行き先はわからない。ただアルマスの手綱に従って、粛々と歩き続けた。大地を覆う草木は次第に遠慮がちとなり、いつしか世界は荒野に移り変わった。何者にも覆われることのない茶色の地面が地平線まで広がる。レナータは時折、首を長くして周囲を見渡した。遠景に見えるのは空と地の境界か、赤褐色の低山しかない。自分たちは一体どこに向かっているのだろう。ルーシに向かっているわけではない。背の彼は何をするつもりなのかしら?

 やがて、行く末に切り立った岩山が現れた。平らな上面を持つ円錐形で、周囲に並び立つ山はなく、孤立している。アルマスはその麓まで歩を進めさせた。

(ここで何をするの?)

 レナータは鞍から降りるアルマスに質問した。ここには何もない。辺りに命の気配はなく、時折風の音が鳴るだけだ。

「決まってんだろ。特訓だよ」

 地に降りたアルマスはレナータの前に回った。そして腕を組み、自信たっぷりにこう告げた。

「ここから飛んで、あの岩のてっぺんに昇れ」

(ええっ!?)

 レナータは驚いた。自分が飛べないということは前に伝えたはずなのに。

(私は飛べないのよ!)

「お前の翼、近くから見たけどな、何もおかしいところはねえ」

(でも)

「それどころか、下手な雄よりいい肉付きしてるぜ。原種の血が濃いな。お前は飛べる。飛び方を知らねえだけだ」

 レナータは困ってしまった。飛び方がわからず飛べなかったのはその通りだが、専門の調教師はおろか、現役の竜に教えを乞いても無駄だったというのに。「元」竜であるこの子に、彼らがわからなかった答えがわかるのかしら? そして、それを私が理解できる形で教えることができるのかしら?

「とにかく飛んでみろ」

(無理よ)

「じゃあ、飛ぼうとしてみろ」

(……)

 アルマスは静かに距離をとった。レナータはため息をついた。仕方がない。無理だとわかればこの子もきっと諦めてくれるだろう。

 レナータは意識を翼に集中させた。ゆっくりと持ち上げ、一旦静止。深呼吸。そして一気に振り下ろす。間髪入れず上に。そして下。レナータは両翼を懸命に上下させたが、その巨体が地面から浮かび上がることはなかった。

「もういい、やめろ!」

 アルマスが叫んだ。レナータが羽ばたきを止めた瞬間、走って彼女の近くに駆け寄り、声を荒げまた叫んだ。

「馬鹿かお前! 真面目にやれよ!」

(なっ……。ちゃんとやったじゃない! 今の見たでしょ!?)

「あーあー見た! 見たぜああ! お前が翼も広げずに葉っぱみてーにそよがせている所をな!」

 彼の目に映った光景は、想像以上に悲惨なものだった。白い雌の竜は畳んだ翼を広げず、斜め上に向けた状態のまま、ほんのわずかに上下させただけだったのだ。最初は冗談かと思ったものの、どうやら本気でやっているらしいと悟った瞬間、彼は馬鹿な雌を叱り飛ばさずにはいられなくなった。何が「私は飛べないの」だ。ふざけやがって。

「広げろ! 翼を! 叩け! 空を!!」

 レナータは目を丸くして固まった。彼の言っていることは調教師が言っていたこととそっくりだ。怒鳴られながら魔法で痛められ続けたあの日々。全身の毛が逆立ち、鱗が締まり、あの激痛に備えた。しかし、その苦痛は訪れなかったので、抗議の鳴き声を発することができた。

(ひ……ひどい。私は一生懸命やったのに、何でそんなに怒るの!? 何もそんな風に怒鳴らなくってもいいじゃない!)

「は? 何でキレてんだお前? いいから翼広げろよ!」

(大体、私は別に飛べなくったっていいのよ! みんなが飛べ飛べいうから仕方なく……)

「うるせえ! 翼を! 広げろ! 話聞いてんのかブス!」

(まあっ……よくもそんな……酷いわ……。確かに今の私は竜の顔だけど、それでもっ……そこまでっ……ひぐっ)

 レナータは地面に腹をつけ、さめざめと泣きだした。アルマスは一層苛立ちを募らせ、声を張り上げた。

「あーっもう! 何なんだお前! 立て! 翼を広げろ! いいから!」

(だからっ……言ったじゃない、私はっ……飛べないのよ……)

 レナータは嗚咽しながら、か細く鳴いた。

「だから! それはてめーが翼も広げずにちょっと揺らしてるだけだからだろ! 早く立て!」

(なんで怒るの? 私だって頑張ったのよ……。あなたがどうしても飛べっていうから……)

「あー!」

 アルマスは地団駄を踏み、頭を抱えてうずくまった。この馬鹿雌を真っ黒に焼き焦がすための炎が吐けないことを、これほどまでに苦々しく思ったことはない。何なんだこの雌は。俺の話を聞かない上、どうも竜になれたことを有難がっていないらしい。わからん。理解できん。俺が竜に戻れたら、躍り上がって喜ぶかもしれねえってのに。


 飛行訓練は、昼夜を問わず連日続けられた。レナータ自身は精一杯翼を広げ、空気を叩いているつもりだったが、実際の所、その翼は半端に広がり切っておらず、小刻みに上下するばかりで、お世辞にも真剣に羽ばたいているようには見えない有様だった。アルマスは毎日のように激怒し、レナータをきつく叱り飛ばして、罵った。

(もう……いいでしょう。私には無理なのよ……)

 ある日、彼女は幾度目かの音を上げた。アルマスは彼女を睨みつけ、口を開いた。が、一言も発さず真一文字に閉じ直し、頭を岩壁にもたれた。レナータは長い首をすくめ、申し訳なさそうに俯いた。

「っでだよ!」

 突然の大声に、レナータは思わず硬直した。

「なんでだよ……っ」

 アルマスは岩壁に頭をもたれたまま、かすれた声を搾り出した。それを受けてレナータは恐る恐る顔を上げ、消え入りそうなか細い声で鳴いた。

(だって……仕方がないじゃない。私は人間なんだもの)

 人は飛べない。人に翼はない。だから感覚を掴めないのだ。レナータはそう考えていた。飛ぶのは鳥と竜だけだ。人のやることではないと。

「竜だろぉ!」

 アルマスは勢いよく顔を上げ、レナータに向き直った。

「お前は! 竜になれたんだぞ! なのにどうして……っ」

 その声は次第に震え、小さくなっていく。アルマスは拳を握りしめ、体も震わせた。レナータは慌てた。彼がこんな風に打ちひしがれるのを見るのは初めてだった。

(ごっ……ごめんなさい……)

 まだあどけない顔をした青年が、泣き出しそうな表情で俯いている様子を見ると、彼女の心は揺れた。やっぱり、飛べるようになってあげなくちゃいけないのかしら。でも、こんなに頑張ったのに飛べなかったのだから、しようがないわ。彼は私を竜だと言うけれど、私はやはり人間なのよ。心と体がちぐはぐなんだわ。きっと理由はこれなのね……。第一、飛べるようになったからって、何か良いことがあるのかしら。ますます人でなくなるだけだわ。翼で飛ぶ人なんていないもの……。

「飛べよ! 翼があるんだぞ!? 竜の体を持ってんだぞ!」

 再びアルマスが大声を張り上げた。それは泣き声のようでも、悲鳴のようでもあった。

「俺に! 翼があったら! 竜に戻れたら! すぐに飛ぶ! そしてカーチャをぶっ飛ばし、ルーシの人間どもをぶっ殺す!」

 アルマスは矢継ぎ早に叫び続けた。レナータは呆気に取られて、身動きできなかった。

「俺は! ――竜に戻りたい! そのためにはなあ! 竜が要るんだ! ――竜がな!」

 揺れる真っ赤な顔から汗が飛び散り、苛烈な眼差しがレナータを貫いた。呑まれた彼女はたじろぎ、一歩下がった。しかし、歯の隙間から黒煙が漏れ、表情が険しくなり、眼下のアルマスを睨み返した。彼は動じず、レナータを真っ直ぐに見上げ続けた。彼女は地につけていた前足を浮かせ、岩壁にもたれかけた。後ろ足だけで立ち上がり、負けじと雄叫びを上げた。

(なによ私だって! 人間に戻りたいわ! 一生竜だなんて、まっぴらよ!)

「っかんねえよ! なんでこんな気持ちわりー貧弱な体が良いんだ!? 火も吐けねえし、翼もねえんだぞ!」

(いらないわ、こんなもの! ケダモノじゃない!)

 レナータは空に向かって炎の柱を吹き上げ、火炎袋が空になるまで吐き続けた。最後に咳と共に大きな黒煙をぶち上げ、地響きと共に地に伏した。その振動でアルマスも体勢を崩し、尻餅をついた。彼は血のように赤い目でレナータを凝視し、即座に立ち上がって

「飛べよ! ――そこまで吐けるなら!」

 と吠えた。

(私は! 人間なのよ!)

 レナータは大地に横たわったまま、掠れ声で鳴いた。

「だから何なんだよぉ! 飛べよぉ! 関係ねえだろお!」

(あなたはいいわよ! 人間になれたんでしょう!)

「いいわけあるかぁーっ!」

 アルマスは岩壁に頭を打ち付けた。側頭部から霧状の血が噴水のように飛び散り、岩壁に紅の模様をつけた。褐色の肌を血が滴り落ち、地面にも赤い点を刻んでいく。レナータは目を丸めた。

「っきしょーっ……」

 その声は枯れ、喉はもう動かなかった。彼は小石を蹴飛ばし、大の字になって地面に転がった。レナータもアルマスも、肩で息をしながら、黙々と青い空を仰ぎ続けた。


 いくつもの雲が過ぎ去った。アルマスは頭の出血部を右手で抑えながら、ゆっくりと立ち上がった。レナータも気づき、視線を空から彼へと移した。アルマスは不服そうに目を細め、一言も発さぬまま、左手でレナータに立ち上がるよう指示した。彼女も無言で体を起こし、アルマスに近づいた。腹の両脇に吊られた鐙が彼の正面に来るよう、向きを調節しながら。アルマスは鞍によじ登り、白樺の杖を杖置の窪みに嵌めた。固定魔法が発動し、紫色の粒子が辺りを舞い始める。アルマスが両足で軽くレナータの腹を叩くと、彼女は厳かに歩き出し、孤立した岩壁を後にした。

 道中、レナータは遠慮がちに尋ねた。

(……頭、大丈夫?)

「はっ、平気だこんくれえ。俺は竜だぞ。あといいから黙ってろ」

 その声はまだ少し掠れていたが、手綱の引きは変わらず精微だったので、レナータは安心した。以後、彼女は粛々と彼の手綱に従って歩き続けた。

 空に赤みが混じる頃、二人は峡谷に立ち入った。レナータは不安がった。ここは始めてくる場所で、テントの家からも遠く離れている。彼はこんなところで一体何をするつもりなのかしら。もうすぐ夜だというのに。

 レナータが何か訊こうとすると、それを敏感に察知したアルマスが素早く手綱を引き、彼女が鳴くより先に黙らせた。彼女は不本意ながらも、指示通りに険しい坂道を上るよりなかった。


 紫色の空を真っ赤な雲が飛び交う中、切り立った断崖絶壁の上に二人はいた。果てなく広がる荒野が一望でき、彼方の地平線はやんわりと曲線を描いている。世界は夕日に屈し、レナータの真っ白な肢体も鮮やかな朱色に染まった。彼女は崖っぷちまであと数歩の位置にいたが、アルマスはしつこく彼女の腹を叩き、前進を促した。

(ちょっと、やめてよ! これ以上進んだら落ちちゃうわ!)

 レナータは振り返って警告した。

「知ってらい」

 アルマスは手綱を引き、強引に彼女の顔を正面に向けさせた。再び彼女の腹を叩き、前進を指示した。反射的に一歩進んでしまうレナータだったが、次の一歩は踏みとどまった。

(だから……)

「進め。命令だ」

(あなた大丈夫? 死んじゃうわよ!)

「死なねえさ。お前が飛べばな」

 レナータは驚愕した。命を賭けてまで自分を飛ばせようとするアルマスの意地に。竜になっている自分は一命をとりとめられるかもしれないが、背中のこの子は間違いなく潰れてしまう。

(あ……あなた、そんなことのためにここまで来させたの!?)

「は? 頭の鈍いやつだな。何すると思って歩いてやがったんだ」

(えっ、だって……。あなたが手綱で指示するから……)

「なら、従いな。行けよ」

 レナータは首を伸ばし、崖下を覗き込んだ。地表は遥か先で、岩も木も、何もかもが豆粒みたいに小さかった。余りの高さに足がすくみ、首が縮んで毛が逆立つ。レナータは震え上がった。

(やっぱり駄目よ。こんな高さから落ちたら、ひとたまりもないわ)

「だから! 飛んだら落ちねえんだよ!」

(私が一度でも飛べて!? あなた死ぬつもりなの!?)

「ああ!」

 一片の迷いもない返答にレナータは二の句が継げず、ただアルマスの顔を見つめるばかりだった。

「一生人間のまま生きるぐらいなら、死んだ方がマシだ!」

 レナータを真っ直ぐに見据えるその目は真剣で、力強い。

「お前もそうじゃないのか?」

 二人の目線が一致した。アルマスの背後から突風が吹き、砂埃がレナータの顔を煽った。彼女が目を閉じた瞬間、首筋から一枚の古い鱗が抜け落ち、風にさらわれ空へ消えた。

 彼は再度手綱を引き、レナータの顔を正面に向けさせ、両足で腹を叩いた。彼女は無心で一歩踏み出してしまい、ついに前足が空を踏んだ。

(あっ)

 レナータは体勢を崩した。重心が一気に前へと傾く。崖端の土が崩れ落ち、二人は崖下へ滑り落ちた。白い雌竜は目を見開き耳をつんざくような咆哮を上げ、アルマスも決死の形相で叫んだ。

「飛べ!」

 今際の地表が迫る中、レナータの思考は鮮明になり、一瞬が何秒にも引き伸ばされた。このまま落ちれば首が折れて死ぬ。体を捻れば背中に乗っているアルマスが死ぬ。いや彼は自分がどんな姿勢で落ちようと必ず死ぬ。潰れてしまう。死……。彼女の脳裏で、この世に生を受けてからの出来事が走馬燈のように過ぎ去っていく。その最期は、家臣やお付きのメイドたちがコジャックに殺される中、一人で暗い森の中を駆ける自分の姿だった。また一人になる。私だけが生き残る。私が見捨て、助けられなかった民たち。処刑された母上。戦死したお兄様……。

 走馬燈は一瞬の暗転を挟み、竜の卵を映し出した。孵る雛。捕えられ、調教される自分。飛べなかった。解体して売るため輸送される私。暗黒の夜、生き残る術を授けてくれた青年。

「飛んでくれ!」

 体内を巡る血管が紫色に充電し、レナータの両翼が広がった。折り目なく限界まで延び切った翼は、アルマスを包み込むかのように力強く撓った。岩々と衝突する寸前、白銀の竜はその翼を鋭く振り下ろし、空気を殴打した。嵐のような突風が舞い、竜の落下は一瞬止まって見えた。刹那、その脇腹をアルマスの両足が突いた。彼女は反射的に翼を掲げ、再度空気を打った。巨体が僅かに浮き上がる。手綱を引かれた顔が上向き、体は地面と水平に。三度目の羽ばたきで、レナータは空中へ舞い上がった。四度、五度。彼女は無我夢中で羽ばたいた。体を激しく左右に揺らし、派手に乱高下しながらも、夕日に燃える白い竜は徐々にその高度を上げていく。

 それは生まれて初めての快感だった。重力から解き放たれた彼女は、自らが重々しい巨獣であることを忘れた。解放された後ろ足。頬を優しく撫でる風。自由だった。阻むものはなにもなく、無限に広がる荒野をどこまでも行けそうな気がする。

 レナータは己を恥じた。ああ――素晴らしいわ! どうして私は飛ぶことを拒んでいたのかしら。

 大きく婉曲した地平線に、彼女は思った。

(ふふっ――地球って、本当に丸かったのね!)

 足元を過ぎ去ってゆく、ちっぽけな峡谷や岩山に、彼女は思った。

(私ったら、あんな小さな世界で、一体何を悩んでいたのかしら!)

 今なら少しわかるかもしれない。彼が取り戻そうとしたものが。彼女は首を曲げ、自らの背に座る青年の顔を見た。彼は紅い目を見開き、一言も発さずに真っ赤な空を見上げていた。絶え間なく零れる大粒の涙が、次々と後方へ飛び去って行く。その感極まった表情は、純真な子供の笑顔でもあった。

 突然、アルマスが右の手綱を引いた。レナータは体勢を崩し、右に半回転して横倒しとなった。

(あっ……ちょっと!)

 彼女は懸命に羽ばたき、何とか立て直そうと試みたが、アルマスがひっきりなしに手綱を弄るせいで、すっかり姿勢を安定できなくなってしまった。

(待って待って! 私、空の調教受けてないのよ! わからない! わからないからやめて!)

「上だ! 上!」

(はぁ?)

「もっとだ! もっと高く!」

(わかった! わかったから手綱で指示しないで! 落ちちゃう!)

 しかし興奮が冷めるにつれ、レナータは疲労を感じ始めた。浮き沈みを繰り返しながら、次第に高度が下がっていく。

(ごめん、やっぱり無理だわ……)

「おら風が弱いぞ! もっと早く!」

 しきりに腹を蹴るアルマスに、レナータは息巻いた。

(あなた怖くないの!? 体力切れて落ちても知らないわよ!)

「空が怖いもんか! もっと早く! もっと高くだ!」

(やれやれ……)

 緑色の閃光が走り、夜空が小さな竜の影を迎えた。その影はふらふらと頼りない軌道を描きながら、黄昏の中に溶けていく。


第三章 入隊

未定

Comments

Anonymous

雰囲気の良い作品で、変身の過程も結果も残酷でしたが、それに合ったストーリースタイルを感じることができました。このような作品を作るのは難しいかもしれませんが、すでにある内容は十分満足しています。♥

opq

感想ありがとうございます。満足していただけたなら嬉しいです。