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「お兄様、わたしに赤ちゃんの作り方を教えてください!」


 眼前に可愛らしくちょこんと座る女の子が、そんな返答に困る問いを投げかけてきた。

 彼女に悪意はない。こちらを困らせようという意図は微塵も感じられない。

 彼女は純粋に、ただ純粋に疑問に思ったから聞いてきたのだ。

 しかしだからこそ、どう答えれば良いものかと悩むのだ。


 彼女の純真無垢な碧眼を曇らせたくはない。

 だからといって、適当な言葉でごまかすのも真剣に聞いている彼女に悪い気がする。

 世のお父さんお母さんは、こうして子供からの何気ない質問に困っているのだろう。


「えぇと、それは……」


 ここはどう答えるのが正解なんだろうか。

 沈黙すること数分。彼は悩みに悩んだ末、あるひとつの結論を出した。



 ×××



 伏木野邦彦(ふしぎのくにひこ)は今年の春から高校に進学する予定の平凡な少年であった。

 しかしある日を境に、彼の日常に転機が訪れる。


「父さんな、再婚しようと思うんだ」


 それは高校受験を控えた1月のある日のこと、邦彦の父が真剣な面持ちで話を始めた。

 家族に関わる大切な話を切り出した父には悪いが、受験のことで頭がいっぱいな邦彦はそれどころではない。

 本人には悪いと思いつつも、彼は冷めた態度で返答した。


「あぁ、あのマリアさんとやっと結婚するんだ」

「なっ……何で相手がマリアだと分かったんだっ……!?」

「いや……去年何回か顔を合わせたし、父さんの反応を見てれば丸分かりでしょ、普通」


 むしろあれは再婚のため息子に紹介をしていたわけではないのか。

 父の天然っぷりに頭を抱える邦彦だった。

 とはいえ、父にとってめでたい出来事に変わりはない。そしてそれは邦彦にとっても同じである。


「僕は再婚に反対しないよ。母さんが亡くなって10年経つし、僕はもうすぐ高校生だし、父さんはもっと自分の人生を大事にしていいと思うよ」


 邦彦の母が病気で亡くなってから、父の伸彦(のぶひこ)は息子のために身を粉にして働いてきた。

 仕事と家庭を両立させ、男手ひとつで子育ては大変だっただろう。

 邦彦は父の苦労を知っている。だからこそ父の再婚の話には前向きだった。

 再婚相手のマリアとは何度か会っている。英会話教室の講師をしているアメリカ人女性で、大らかで気立てがよく話しやすい人だった。

 彼女ならば父とうまくやっていけるだろう。息子として異論はなかった。


「邦彦……本当にありがとう。父さんは邦彦のような父想いの息子を持てて幸せ者だな……!」


 当たり前のことを言っただけなのに、伸彦は感涙にむせび泣いていた。

 親の心子知らずと言うべきか、はたまたその逆か。

 父にとって再婚は人生の一大事だが、息子にとっても受験は人生の一大事である。

 芝居じみた男泣きを見せる父親を置いて、邦彦は席から立つ。頭の中は既に受験に切り替わっていた。


「話はそれで終わり? なら部屋に戻りたいんだけど……」

「あぁ、そうだ。邦彦にひとつ言い忘れていたことがあるんだが……」

「……なに?」

「再婚したらマリアと一緒に住むことになる……」

「……? そんなの当たり前じゃん。分かってる、覚悟はできてるよ」

「マリアと再婚したら、邦彦に妹ができるんだ」

「は……?」


 父は再婚で浮かれすぎて、一番大切なことを息子に言い忘れていたらしい。

 再婚相手の女性には連れ子がいた。

 この春から邦彦は突然兄になる。マリアの娘アリスとの出会いが、彼にとっての人生の転機であった。



 ×××



 そして4月。苦難の高校受験を乗り越えて、邦彦は晴れて高校生になった。

 無事志望の高校に入学した邦彦は、この春から新しい環境で慌ただしい生活を送っていた。

 変化があったのは学校だけではない。もしかしたら、学業以上に家庭環境の変化が彼にとって大きいかもしれない。


「ふあぁ……」


 その日の朝、邦彦は寝ぼけ眼を擦りながら自室を出た。

 中学から高校に進学しようと、寝起きの辛さに変化はなかった。

 重い足を引きずり階段を降り、ペンギンのような足取りで洗面台に向かう。

 顔を洗い歯を磨けば、ようやく思考がクリアになる。

 今日も新しい一日が始まる。歯磨き粉の余韻が残る深呼吸をする邦彦の前に、これまでにはなかった顔が現れた。


「あっ、お兄様。おはようございますっ!」

「おっ、おはよう……」


 邦彦の前でにっこりと笑顔を見せ、やけに丁寧にお辞儀をするのは、この春から一緒に生活をしている義理の妹のアリスである。

 母親に似た容姿の整った金髪碧眼の少女は、日本人が想像する典型的な外国人といった雰囲気だ。

 しかし彼女は日本生まれ日本育ちなので、外見はともかく中身はほとんど日本人だった。

 母マリアの教育の賜なのか、言葉遣いが丁寧で礼儀正しい少女であった。


「アリス……ちゃん、今日も元気そうだね。ここの生活はもう慣れたかな?」

「はい、おかげさまで毎日楽しいです! わたしやお母様が日々健康にすごせるのも、お父様やお兄様のおかげですねっ」

「いやぁ、それは大げさだよ……」


 邦彦はと言うと、この一挙手一投足が眩しすぎる少女にやや気後れしていた。

 この子はまるで、自分や父を偉人か何かのように尊敬しているのだ。

 出会ってまだ一ヶ月かそこらなのに、この親しみっぷりは予想外だった。

 普通ならもっとぎこちなかったり最悪嫌われてもおかしくないと思っていたのに、とんだ大誤算であった。

 これではどちらが年上か分からない。邦彦はまだ突然できた妹との距離感を測りかねていた。


「うちはまだ良いんだけど、アリスちゃんは引っ越しに転校に大変だっただろう? 新しい学校はどうかな?」

「はい、皆さん優しい方ばかりなので良かったです。最初は外国人留学生と間違われて話しかけづらそうでしたけど、自分から話しかけたら仲良くなれました!」

「アリスちゃんはバイタリティすごいねぇ……。そりゃあうちにも馴染めるはずだわ」


 彼女の快活さには毎度驚かされる。

 アリスがあまりにも早く伏木野家に馴染んでしまったため、今では邦彦のほうが居候感ある有様だった。

 そんなこんなで2人は朝の挨拶を済ませ、ダイニングへと移動した。


「あら。アリス、邦彦くん、おはよう。今日も2人とも元気そうね」

「お母様、おはようございます!」

「マリアさん、おはようございます」


 ダイニングで待っていたのは、エプロン姿のマリアであった。

 マリアはアリスをそのまま大人にして綺麗さを足したような美人さんだ。

 正直、邦彦は未だに彼女と話すのは緊張していた。何故か一緒に住んでいる大人の女性という感覚であり、とても義理の母とは思えなかった。

 しかしそれも無理からぬことだった。

 高校に進学したばかりの思春期の少年に、父の再婚相手の女性を家族と思って接しろと言うのは無茶がある。

 道理は理解していても、どうしても本能が彼女を異性と認識してしまう。

 こればかりは慣れるまでの時間が必要だった。邦彦も、そしてそれはマリアでさえも違わない。


「伸彦さんは朝早く出勤していったわ。私も2人を見送ったら出るつもり」

「今日は英会話教室のほうですか?」

「午前中はそう。午後は別の仕事よ」

「相変わらず忙しそうですね……」


 マリアは英会話教室の講師以外にも、いくつかの仕事を掛け持ちしていた。

 バイリンガルで日本に長い外国人という経歴を活かし、講師だけでなく通訳や翻訳といった仕事もしているらしい。

 その話を聞く度に、よくもまぁ父はこんな優秀な人と再婚できたなぁと驚くのだ。

 人間、生きていれば何が起こるか分からないものだ。父であっても、息子の邦彦であっても。


「2人とも忙しいから、貴方たちには寂しい思いをさせて申し訳ないわって伸彦さんと話していたの。だから今度のお休みは、皆で遊びに行きましょうね」

「いえ、お気になさらずに。父が忙しいのは慣れてますので」

「はい、わたしも平気です! 親が忙しいのは良いことだって先生が言ってました。それにお兄様がいるのでわたしは寂しくないです!」

「ふふ、アリスはすっかり邦彦くんに懐いたようね」

「いや、まぁ……」


 懐いたといっても、邦彦側からは特に何かした覚えはない。

 気づいたら懐かれていたというのも、体験してみるとちょっとしたホラーである。


「懐いてくれるのは嬉しいですけど、お兄様って呼び方はどうなんです? せめてお兄さんとかお兄ちゃんとか……」

「そうかしら? 私は可愛くて良いと思うけど……。それに私のことはお母様呼びで、伸彦さんのことはお父様呼びだから、邦彦くんだけ仲間はずれは可哀想よね、アリス?」

「はい、わたしはお兄様のこと大好きです!」

「それってお兄様呼びのことを気に入ってるって意味だよね……?」


 言葉は通じていても自分の言いたいことが伝わっていないような気がする。

 とはいえ自分だけ嫌がるのも、せっかく2人が仲良くしようとしているのに水を差すようで悪いか。

 邦彦はお兄様呼びへの気恥ずかしさを朝食と一緒に飲み込み、これ以上追求しないことにした。


「あらら、もうこんな時間ね。ささ、早く朝食を食べないと遅刻しちゃうわよ」

「はい、食べます! もぐもぐ……」


 そこには数ヶ月前には想像すらできなかった日常があった。

 ある程度察しがついてたマリアはともかく、アリスとの日々は驚きの連続だ。

 だが本当の驚きは、更に一ヶ月後に巻き起こることになる。

 それは邦彦の価値観を根底から覆すには容易すぎる出来事であった。

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