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 ぼくは普段ゲームの感想とか書くときに,専門のゲーム用語だったり,自分のゲーム的な造語だったりを特に断りなく織り交ぜて使っているのですが,そんな中で「モスーさんが時々言ってる,ゲームの『遊びの強度』って言葉がニュアンスはわかるけど,細かいところがよくわからんので詳しく説明して欲しい」って言われたんでぼくの脳内定義の話をさせてもらえればな~と思います。


 ただ基本的にはゲームの完全性と大きく乖離することはナイッス・・・ってことで! 下の記事見てもらったらわかるかもしれん

fanbox post: creator/9495/post/932081

遊びの幅を受け入れる

 プレイヤーが100人いれば100通りの遊び方が行われるのがゲームですが,それらをある程度の範囲で構わないのでプレイヤーの遊び方のまま受け皿になってくれれば「遊び」の幅が広く,強度が高いなと思います。

 まずここのニュアンスが難しいのですが,自分が選ばなかったプレーを想像可能であれば(あるいは,自分が選ばなかったプレーの先にあるものが不透明であっても)そこに遊びの幅があると考えて差し支えないと思います。つまり,プレー内容を言葉にしたときに,自分には想像もつかなかったような遊び方,あるいは自分が排除した遊び方を追求したプレイヤーの話を聞いて,その人の「体験」として受け入れられるのであればそれは遊びの幅なんじゃないかな~と。いう風に考えてます。

 「その遊び方してなんか面白いの?」とか思ってしまうようだと,ゲームかプレイヤーのどちらかがちょっち怪しい可能性があります。


 解き方が一つしかないパズル,サイコロを振るしかないゲーム,最終的に毎回同じビルドになってしまう(同じカードをピックしてしまう)デッキビルド型ゲームなどは完全性の低さを感じさせますが,消耗品としてみた場合には別にええんちゃうと思います。なぜなら遊びなので。

 たとえば,類似のジャンルで見た場合,「Slay the Spire」は恐らく完全な強度のゲームを作ろうとめちゃくちゃ手入れしていますが,「One Step From Eden」はゲームが簡単に破壊されることを特に気にしていないように感じます。「OverDungeon」とかお話にならないですね。

評価体系に一貫性・妥当性がある

 プレイに対しての評価の話ですね。「ゲームシステムから導き出される最適なプレーを突き詰めたときに,最もよい評点が行われる」ゲームは評価体系に一貫性・妥当性があるとしています。

 評価が妥当であると考えられるゲームは,高評価を目指すことがそのままゲームの習熟に繋がるため,非常に遊びとして強度が高いと考えています。

 プロギアの嵐をぼくが非常に高く評価している点はここに一つあって,エブリエクステンドであること,攻めた稼ぎによってスコアが爆発的に伸びること,稼ぎが上手いと結果的にプレーが安定することから,「スコアを稼ぐ」と「クリアを目指す」が相互に作用しているのが良いんですよね。


 たとえば,システムの縛りプレーをゲーム側が推奨することで高評点を与えるようなゲームは,評価体系に不条理を感じさせ,あまり好きではありません。東方はそういう意味において,手癖で作られた評価点がめちゃくちゃ多く,萎えます(例:妖精大戦争の金メダル,弾幕アマノジャクのノーアイテムなど)。

 先般,シューティング技能検定は,シューティング技能は特に関係なく,秒間30連のコントローラを持っているか(用意できるか)でのみハイスコアがほぼ確定するという点において,評価に妥当性がありません。


 システムから導き出されるプレーの解答が一通りであっても,そこに至るまでの道程が無限にあるのであれば,それは結果的に同じ評点だったとしても,遊びの幅として受け入れられると僕は考えています。音ゲーのスコアとかわかりやすいかもしれないですね。大抵の音ゲーは1ノーツの価値は同じでありつつ,1小節の価値は異なる場合が多いので,結果が同じに見えても拾ってきた価値が違うとか結構ありえますからね。

リピート性がある

 これは,一つの結果に辿り着いた時に,「同じ結果を他の道筋で見てみたい」とか「違う結果を見てみたい」と思い,実際にそれを行うハードルの低さや,得られる体験や報酬の妥当性,みたいな感じですかね。単にめちゃくちゃ分岐があって,それを虱潰しに埋めて,埋まってよかったね,みたいなゲームはめちゃくちゃ嫌いですね。「Reventure」はそういう意味で最悪のゲームでした。

 「Detroit」は体験の大規模は類を見ないものですが,冗長性があまりにも強いためもう一回やろっかな~とはあまり思えない面倒くささでした。「Outer Wilds」も,謎解きの複雑さ,繰り返しを前提としたプレーにも関わらず,主人公がすぐに死ぬしその度に長い演出見せられるのでプレーが徐々にしんどくなったりしました。


 音ゲーやSTGなど,アーケードスタイルなゲームがこの点において一日の長があるのは事実ですが,RPGやノベルゲームなどの分野でも「何度も繰り返し遊んで新しい発見を行いたい」という事を行っている人がいるため,特定のジャンルには限らないと思います。

 ただ,僕は後述する「冗長性」をまあまあ嫌うので,そういうジャンルをリピートしたいなと思いにくいだけです。

人間性能の追及を行っていない

 ある種のゲームは,ゲームの習熟,熟達を行おうとした時に,人間性能の競い合いになる場合があります。それは何故そうなるのかというと,ゲームが不完全だからです(断言)。ゲームが遊びの可能性の集合体であるならば,単純に難しくしたり操作量を増やしたりめちゃくちゃな仮定や背理の繰り返しを行う必要はないはずなので。

 たとえば「ハイパーオリンピック(Track & Field)」なんかは凄く端的に人間性能だけを競っていてわかりやすいですよね。あれはあれでああいうゲームとしてオモロいとは思うのですが「これを一生遊び続けるか」といわれるとNoではないでしょうか。


 音ゲーやSTGなんかも,インフレの結果として人間性能を追求せざるを得なくなってしまうケースがしばしばあります。ゲームとして表現可能な手法をあらかた使い尽くしてしまったため,あとはもうスピードを変えたり数を増やしたりという方法でしか難易度を調節できなくなってしまっている事って結構ありませんか。とはいえたいていの場合は「そうしないと遊んでもらえなくなってしまった」とか「プレイヤーの最頻値が上手くなりすぎてしまった」とかが原因だったりするのでなかなか難しくてモニャモニャすることもあるのですが……

 ただ,そういったゲームは,ぶっちゃけぼくは嫌いではありません。あくまで「遊び」として考えたときに,その究極点が人間性能の追及だった場合,「自分にはどうやっても出来ない」と思いながら遊ばなくてはならないとしたら,とても悲しいじゃないですか,という話なので。そういう観点だと「CELESTE」は全編を通して(9面,BC面を含み)すごくギリギリのラインの調整を貫き通してて見事だと思いますが,ゴールデンベリーはマジで最悪でしたね。


 それに人間性能の追及は競技性を生む面もあります。ゲームが「遊ぶもの」から「見るもの」に変遷しつつある昨今,競技的な側面を生むゲームはそれはそれで需要があると思います。

踏み倒せる禁忌がある

 これも遊びを高めている要因の一つかなと僕は思ってます。ゲームルールはシステム上多くの操作制約が課せられることが多いのですが,プレイヤーの工夫によってそれを無視したり踏み倒すことによって本来想定していた以上の評点が出るような仕組みがあると「理論上可能」の先の世界が見え始めたり,「人間性能が必要な所をテクで誤魔化せる」部分が出てくるので面白いですよねっていう。


 たとえばアクションパズル「I.Q.」は1マスずつブロックを消していくルールですが,プレイヤーがちょっと特殊な操作をすることで1手で2マス消すことが出来,想定解を上回ることが出来るようになっています。

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 たぶんこれは意図して入れている隠し要素的なテクニックなのかな。正攻法の先にある裏ワザみたいな感じがあって面白いですよね。


 音ゲーなんかもなんか色々ありますよね。

youtube post: -vQ-gV4UInQ

 ドラマニのNATI奏法とか……

https://www.nicovideo.jp/watch/sm214103


 TATSUさんとか……

youtube post: 3hDRbLadSyI

 Cloud9とか・・・

bandicam 2021-02-24 01-36-24-627


 「ルール上想定されている操作と違う方法で入力」することが可能であるというのは,言ってしまえば「そういう操作を要求された時,違う方法で踏み倒してバッファを作ることが可能」であり,余裕を生み出すことが出来る可能性があるので,そういうズルっこい方法も認めてくれてるのは良いよね~,と思います。switch禁止びCSPはちょっとわかりませんけど。

 そういう観点において,「禁忌が存在しないこと」はゲームの幅を狭める恐れがあります。プレイヤーがゲームに対して完全な入力を保持できる場合,たとえばIIDXのSPとかは「全押しが出来る」ため,罰ゲームに徐々に近付いていくのは悲しいなあと思います。DPはかなり完全性を感じるのですが,ぼくがやってないし多分スタッフもあれあんまりやってないと思う

不条理がない(少ない)

 ここでいう不条理とは「予測のつかなさ」「思い通りにいかなさ」がゲーム体験に瑕疵を与えているケースだと思ってもらえれば良いです。入力から出力までディレイがある,操作から出力の間に何が起こっているのか想像しにくい,慣性を使っている,アナログなデバイスである,強いランダム性に依存しているなど,様々な事象によって人は不合理さを感じることがありますが,上記の要素が必ずしもゲームを面白くなくしていると断じれないのはご承知の通りかと思います。


 たとえば「リモートコントロールダンディ」は操作系が過剰に複雑ですが,操作系を習熟した時に見えてくる世界がめちゃくちゃ面白くできているので,操作に慣れるという点も含めて遊びとして秀逸に出来ています。

 一方で「Octodad」「I am Bread」「Getting over it」といったゲームは最初から最後まで「思った通りにキャラが動かない」という前提で作られています(もちろん,それを乗り越えて操作できるようになった人もいるようですが,僕はあれらをそういう目で見ていません)。


 強いランダム性が必ずしもつまらなさ(面白さ)を生むというわけでもありません。先般でいうと「Enter the Gungeon」や「Binding of Isaac」などは,ランダム性によって展開されるゲームの振れ幅があまりにも大きすぎる(あるいは小さすぎる)ことから,ゲームシステムの根幹がゲーム展開に寄与していないという風に見てとれます。

 最近は「Monster Train」をずっと遊んでいましたが,これは強いランダム性(と,それを選び取るプレイヤーの行為に対して)を非常に優れたレベルでまとめ上げていて,千変万化する事象の複雑性から勝ち筋を見出す面白さが練られています。


 入力から出力にディレイがあって面白いケースだと,極端な例で言うとパチンコなんかそうじゃないでしょうか。ほとんどの時間は虚無で,一発4円の玉を穴に放り込んでるだけなのですが,うっかり赤色とか点灯してしまったらそっからの1分は世界で最も濃密な1分間になりえます。

 ぼくはそういう観点においてパチンコという遊びを非常に評価していますが,惜しむらくは自腹を切って現金を投入しないと面白さがわからないところですね。無料で遊んだり他人の金で遊んだりした場合に絶対に得られない体験というのは凄いと思います。単純なギャンブルって人の金でやって増えても嬉しいと思うんですけど,パチンコとかパチスロって何かちょっと違うんですよね。

一人プレイで完結している(ぼくの場合)

 これは凄い単純な話で,「他人がいないと遊べないゲームってその時点で遊びとしてイマイチじゃね?」っていう,完全な僕の所感です。一生対戦してくれる人がいるなら別ですが,ぼくはそういう友達もいなければ,そういうゲームを遊びこみたいと思ったこともないので……


 一人用の遊びでも,他人がいなければ成立しえない場合は強度があいまいになる恐れがあります。ここで言う比較とは,単なる結果ではなく,体験のすり合わせをしたり,1人用のゲームを同時(あるいは交互)に遊び評点を競うなどしないとその遊びが成立しない場合,ぐらいのニュアンスで大丈夫です。


 もちろん,対戦のフィールドに出ることによってゲームの完全性が証明されると言う派閥の人もいると思います。それは個々人の信念でしかないので,ぼくとは宗派が違いますねというだけでしかありません。

理論上の極限への到達が非常に困難か,不可能に見える

 これもしごく単純で「行きつくところまで行きついてしまったらもうやることなくなっちゃう」って事ですね。カンストとか満点とか完全クリアとかやったらもう終わりなのかなっていう。「不可能である」って最初書いてたんですけど,目に見えて不可能だったら不可能で萎えちゃうんで「不可能に見える」ぐらいだと良いですかね。

 ただ「行きつくところまで行きつく」までの過程を究めるのが面白いゲームとかもあるのでこの辺も難しいですよね。「もうやることなくなったな」って時に「もう一回やってもいいかも」って思えるならその人にとっては極限に向かうのが面白いゲームだったんじゃないかなと思います。


 とはいえ,TASさんやオートプレイに漸近することがプレイヤーの宿命なのかというと決してそういうわけではないんですよね。たとえば陸上選手がF-1と走る速さを競うこととか絶対ないわけで。競う地平が違う場合もあるし,それこそ禅道か覇道かみたいな話になったりするので難しい。

単調な作業を要求されない

 ぼくはRPG作るのは好きなんですけど,RPG遊ぶのはあんまり得意じゃなくて,なんかRPGに限らず,成長要素のあるゲームって稼ぎとかがどうしても単調な繰り返しになる部分が多いじゃないですか。あれを面白いと思えないんですよね。現在の地点から目標の地点まで行くのにこの行為をN回やる必要がある,とか考えた時に,じゃあもう答えわかってるんだからそこまでスキップさせてくれよ,って思うことなくないですか。徒労がイヤなんですね。もちろん過程に意味がある場合は別です。

 これはRPGのレベル上げとかにも限らず,どこか一小節だけが難しい音ゲーの譜面とか,面構成スカスカのSTGとか,パターンが通った瞬間一生同じことを繰り返すアクションゲームとかあらゆるものに当てはまります。


 「Slay the Spire」は大変優れたゲームなのですが,序盤が基本的に同じことの繰り返しで,かといってその序盤をカットしたら別の場所が繰り返しになるだけなので難しいジレンマを感じました。

 これはシレンとかでの低層ループとかとも全く同じですかね。低層ループを防ぐために,例えば最初から「保存のツボとおにぎりセット」とか「カタナと鉄甲の盾セット」とか選べたとして,今度は別の場所がループポイントになるだけみたいな。

 このへん塩梅が難しいのが,繰り返しを前提としたゲームの場合,序盤の単調さがあるから後半の緊張感に意味が出てしまっているケースがあることなんですよね。STGで1面ばっかり何回もループして遊ぶのは稼ぎをした時に一番リスクが低いからだし,シレンとかも低層なら無茶なプレーをして死んでもやり直しの手間が小さいからだし,TAやスコアタで捨てゲーするのも単調さの部分でプレーの意味を失ってしまったからなので。


 そんな感じで,後半でリスキーな選択肢を選ぶことに前半部の積み重ねが一切の意味を持っていないかというとそうではないのですが,だからといって単調な繰り返しを必ずしも肯定は出来ないので難しい所だよなぁと思います。

 単調な繰り返しや稼ぎ,リタマラみたいなのってぼくはない方が良いと思うのですが,完全になくしてしまうとすべてが無意味になってしまうので,何か常に良い落としどころが欲しいですよね。その観点で言うと,音ゲーはおおよそ2分,長くても10分に全てが詰め込まれているのですごいですね。


想定解が,理論上への極限への到達方法である

 これは,ゲームを究めようとした時に「作者が想定していない方法で究めてしまった」らめちゃくちゃイヤだなっていう奴です。


 たとえばFuriというアクションゲームでは,スピードランナーは以下のような「怪しい動き」をしています。これはゲーム中のほとんどのシステムをガン無視した最適解であり,そういう風になってるのがダサいよねという話です。 

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 これは何がイヤなのかというと,ゲームを遊びこんでいくうちに,「作者はこのゲームに思い入れが何もないんだな」というのを痛感させられる所です。


 自分が作っているゲームを自分が作っている範囲で理解しているのであれば,それを究めようとした時に何がどうなっているのか,完全ではなくともメカニズムが成立しているはずで,ここまで大きな過誤は生まれないはずなので。

 まあ昔から洋ゲーってのはそういうところが多いですね。作ってる側が何作ってんのかよくわかってねぇし遊ぶ側も大してよくわかってないからCoolとか圧倒的に好評とか言ってるんですわ。東方Projectとかいうゲームのゲーム部分をほめる奴がいるわけですわ。


 評価が発生するゲームに関しては,ゲームシステムから連想される最も最適な行動をとった時にベストな評価が出ることが好ましく,それらがシステムとしてチェーンしてなかったら「なんかそれっぽいものをただ並べただけなんやね……」って感想が出るよね,という話です。

 とりあえず「ゲームの遊びの強度」について思いついた奴をズラッと列挙したのですが,こんな感じでどうでしょうか!? 少しぐらいは普段僕がいい加減に使っている言葉の意味がご理解いただけたでしょうか。

 ほかにも僕が普段使ってる言葉で「よく意味がわかんない」とか「どういうニュアンスで捉えていいのかわからない」とかあったら遠慮なく聞いてもらえれば~! ではまた!(2021/02/24 23時ごろ追記)

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