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 今日はメンタルの調子が良かったため,メンタルが悪くなっている原因の可能性を探りつつPC環境を冬向けに組みなおしたりなどしました。途中でホームセンターに買い物に行ってDIY(Do It Yourself)の気持ちを出したのですが,材料費が足りなくてケチった結果,ゴミが出来上がったのでそのうち捨てます。PC環境はよくなったし今日はなかなか小康状態を保って一日を過ごせました。ただ何もしてないといえばしてないんですけどね。もしかしたら外に近いほうの壁際がめっちゃ寒かった可能性ある。


・ゲームは誰のものなのか?

 僕は長いこと,ゲームはプレイヤーのものだと思ってました。僕らの世代にとって,ゲームは「プレイヤーの手によって完成するもの」でしたし,ゲームってそれ以外になりようがなくないですか? と,それは今もそう思ってるんですけど。

 今日,セール中に買ったストライカーズ1945IIとジャッジメントシルバーソード(長いんで以下ファンコミュニティにならって銀剣にさせて)ってゲームを1日中やってたんですけど。すげー面白くて。どっちも昔のSTGですね。

 STGとか音ゲーとかってプレイのハードルが低いので(とりあえずゲームの前に着席したら,余計なこと抜きでゲームが始まるし,プレイヤーの操作如何に問わず勝手に進むため)開始に費やすコストも小さく,めちゃくちゃメンタル弱ってるときでもとりあえず遊べるんですよね。ほんでこういう状態のときって,始めるのは大変でも継続することはできるのでずーっと1945IIと銀剣やってたんですけど。最初は「昔ちょっと好きだったゲームだし,時間つぶしくらいになればいいか」って程度のノリで始めたんですが,純粋にバッチバチに面白くてたまげましたね。それと同時に,この面白さって現代に継承できてないよなーっていう残念感もあったりとか。


 スルメゲーって言葉があるじゃないですか。僕あれ,嫌いなんですけど。理由としては

・面白くなるまで遊んだらどんなゲームでも面白い

・面白くなるまでがつまらん言い訳にしか聞こえない

 って感じなんですが。でもじゃあ,そのゲームが面白くなるまでのコストってどこまでなん? って思います。たとえば,slay the spireの遊びはマニアックですが,多くの人がそれにプレイ時間を費やしてますし。ゲーセンだったら1クレ10分,何なら最初の1分で面白がらせられなかったら終わりですよね。

 話は戻って,究極的にゲームって「面白いと思って遊んでいる人にとっては面白くなる」ものなんですよね。あとは面白がらせ方の違いとか,ちゃんと面白がらせてくれるかとか,そこらへんなんですけど。だからこそプレイヤーが遊んだときにはじめてゲームは面白くなって完成する,というのが僕のずっとの考え方だったんですけど。

 でも,きょう,旧世代の堅牢な遊びを持ったゲームを遊んだ時に,これってメジャーから置いて行かれちゃってるよなって考えまして。遊んでる俺は間違いなくめちゃくちゃ面白いし,1日どころか何日でも連続して遊べるような強固さを持ってる。けど,今このゲームがメジャーシーンに出てきて戦えることってあるかなって。実際にSteamとかで売られてるわけですけど,多くの人にとっては興味を持たれないゲームだよなと。ノスタルジーで語られるにしてもそんなに古い遊びじゃないですよ(遊び自体は時代を超えてほとんど変わっていないので)。


 さいきん,うっすらと僕の頭にまとわりついているのが,ゲームを遊ぶことそのものがゲームオタクのものになっているんじゃないかという懸念なんですよね。多くのゲームに複雑な仕組みやルールや仕掛けがあるけど,プレイヤーはそれらについてあんまり深く考える必要がない,あるいは考えたところで大勢に影響はないんじゃないか,youtubeやまとめサイト,企業系攻略wikiなんかに飛散した情報の中から信頼性が高いものを適当に集めて「それっぽい」感じに遊んでるゲームが増えたんじゃないかという。パターンっぽいパターンが用意してあるとか。安地っぽい安地が見えるとか。システムがぐちゃぐちゃで機能してないけど,とりあえずゲームみたいな挙動はするとか。遊びとしての強度は低いけど「遊んでる気持ち」「ゲームを見てる気持ち」になれるゲームが増えたのではないか,ということを考えています。プレイヤー自身が観客になってるみたいなね。ゲームはアトラクション的な。

 ようするに,ゲームを遊んでいることよりもゲームっぽいものを遊んでいることのほうが今や重要になってしまったのではとか考えています。ゲームの消費は,プレイヤーの他に観客がつくものがだいぶ増えました。そういう時代にあたって,ゲームっぽいものは見てる人も「ゲームやってるなぁ~」ってわかりますからね。ここが一番のパラダイムシフトだったと思います。


 だけどそれだけだとやっぱりなんだかちょっと合点がいかなくて,たとえば先にあげたストライカーズ1945IIや,時代をかっさらっていったスペースインベーダーや雷電なんかも,攻略しようとするとしっかり難しいゲームなんですけど,でも売れてた当時,別に人はALLを求めていませんでした。雷電に出てくるめちゃくちゃグニャグニャ曲がって敵をなぎ倒すレーザーは昼休みのサラリーマンの暇つぶしにちょうどいいからリーマンレーザーなんて呼ばれてたとか。僕は世代じゃなかったのでほんまかいなって思いますけど。

 音ゲーとかわかりやすいんじゃないかな。僕らが小中学生の頃はブーム真っただ中で,口うるさいママも「DDRならやっていいわよ~」なんて言ってる時代でした。でもそういうゲームの多くは,極まった歴史だけが語り継がれていって,別にうまくもなんともない人がブームの消費的にテキトーに遊んで,ヘェ~最先端のゲームはイケてんねェなんて感じで消費されちゃっただけに終わったのかな~とか。


 僕はゲームを遊ぶことによって人生の多くの瞬間が救われていた人間なので,ゲームは遊ぶことありきであって欲しくって,それさえ守られていればべつにどんな時代になっていこうが受け入れられるつもりで生きてましたが,さて,じゃあ,どうかな。今はゲームの歴史の中でも,久々に大勢の観客が存在するブームの真っ只中と言えます。そんな中で,ゲームが見る人のためのものに特化していくような気持ちを味わいつつ,そもそも本当にそんな変化は起こっているのか,僕が見ている幻覚ではないのか,見られるためのゲームが見られる方向にねじまがっていくことが実在した場合,僕はどれだけ受け入れればいいのか……


 一生かけて遊んでもたぶん飽きないであろう完成されたゲーム,理想的なゲームが僕の中にはいくつか存在するのですが,しかしそれらは,遊びとして完成されていればするほど,ただ見るだけの人にはなんの面白さも伝わらないということを考えると,めちゃくちゃ悲しくないですか。

 

 eスポーツという言葉がもてはやされるに際して,そんなこととかを考える1年でもありました。スポーツって僕のなかでは興業に分類されているので,であればきっと,見る人が実際にプレーしてる選手と同じくらい楽しめるゲームの時代が……ただしそのゲームをやりこんでなくても楽しめる,という前提で来るのかなぁとか思います。さいきんテレビやインターネットで「ただゲーム遊んでるだけ」の様子,何ならゲームを遊んですらいない,ゲームの話するだけの様子とか結構見るようになったなあとか思って。

 「うまい人のプレーをうまい人同士が腕組みして見守ってうなる大会」ってやっぱりどこまでもマニアックになっちゃうんですよね,僕はKACを見ていて過去に数度「なぜ俺はこの大会のこの瞬間,これに関わる場所に立つことができなかったんだ? 遊ぶ側は無理でもこれを提供する側に立てなかったのか?」って思ったことがありますけど,でもそれは熱狂的なファンだからこその感情だと思っていて。

 やはりソフトウェアありきだとそういう曖昧な立ち位置でモチャモチャしちゃうことがあると思うんですよね。ルールだけがあれば遊ぶことが可能なエンタメだった場合,ある程度の過誤はあれど,いくらでも,だれにでもプレーの幅を広げることができるんですが,ゲームはそうはいかない。カプコンなんかは大会のためのゲーム(スト5のこと)作っててスゲーなって思いますけど。逆に言うと任天堂くらい売れてたら大会はファンサになるのかなとか。見られて消費することに金銭的な価値が発生するような時代が早く来るといいですね。僕が思い描く理想のゲームは好きな人が好きなだけゲームにお金を積めるゲームだからさ……(ソシャゲのガチャは好きでもないのにひかされてるのでノーカン)



 はい! というわけで今日は記事を全体公開にしてみましたけどもね! 明日起きて「アッこりゃよくねえな~」って思ったらこっそり課金ページに変更するかもね,そういう日もあります,人生はいろいろ試していきましょう

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モスー

 ぼくのゲームは遊ぶためのゲームであることはいつまでも変わらんと思います