【改稿版】閉鎖病棟体験その2 (Pixiv Fanbox)
Published:
2022-10-20 14:48:34
Edited:
2022-11-25 06:22:01
Imported:
2023-05
Content
個室を出てすぐ、麻乃を乗せた車イスは病棟の奥へ移動していく。
自分の意思とは別に入口とは正反対のほうに向かっていく車椅子。
「——ッ」
局部を捉えている抑制帯を煩わしく感じ、太ももが内股気味に動いてしまう。だが、その程度で車イスの抑制帯が緩むはずがない。
新井さんはそれだけ用意周到に各所の抑制帯をキツく締め上げていた。
麻乃がどれだけ病棟の奥に行きたくないと思っても、車イスに身をあずけるしかない今は、何一つ拒むことは許されない。
これは、麻乃が拘束衣の袖に両手を通したときから決められていたことだ。
「これからしばらく移動するけれど、他の患者さんに迷惑を掛けないように、お利口にしているのよ?」
「ン……っ」
お利口にするもなにも、拘束されている麻乃はお利口にするしかないのだが、新井さんは麻乃の頭をあやすように撫でて、一直線に続く廊下を進んでいく。
流れ動く麻乃の視界には、今のところ患者さんの姿はなく、新井さんと同じナース服を着た看護師さんだけが映る。
すれ違う看護師さんたちは、新井さんと同じ三十路ほどのスレンダーな背格好の女性ばかりで、麻乃と目を合わせるとニコっと微笑み返してくれていた。
「……ッ」
しかし、それが逆にいたたまれない気持ちを麻乃に植え付けてくる。
白い生足を晒したまま、拘束衣によって無力にされた姿を晒して、一方的にどこかへ連れていかれるところを見られるのが恥ずかしくてたまらないのだ。
それで麻乃は、看護師さんと目を合わせるたびに何度も視線を反らしてしまう。
「ふふ、川嶋さんのような重症患者の対応にはみんな慣れているから、恥ずかしがらなくていいのよ? みんなあなたの病気が治るように力を尽くしてくれるから、安心しなさい」
「んむ……ッ」
新井さんから耳うちされるが、それは本当の患者さんへ向けられるような言葉だった。
麻乃は研修で重症患者の体験をしているだけであり、本当の入院患者ではない。
なのに、本当の患者さんのように扱われ始めている。
そのせいで、さらにいたたまれない気持ちが溢れ出してきた。
だが、今の麻乃は拘束されていて何もできない。
研修という立場の中で患者さんがどういう治療を受けることになるのか知ることしかできない。
新井さんに車イスを押され続け、廊下をしばらく進み、突き当りを二回ほど右に曲がったところで病棟の様相が変わった。
窓の外には鉄格子のようなものが張り巡らされており、天井の照明は透明のプラスティックのカバーで保護され、物々しい雰囲気が伝わってくる。
正面にあるエレベーターのような大きな鋼鉄の扉には、警棒やスタンガンなどで武装した警備員の男性が待機しており、どこかの研究所の入口みたいだと麻乃は思った。
ここが病院なのか疑いたくなるが、ここは閉鎖病棟。
通常の病院と違って、セキュリティーもかなり厳格に管理されているみたいだ。
「――――」
新井さんが無言で首に掛けているネームプレートを警備員に見せるとそれを無言で確認した警備員が扉のロックを手動で解除する。
プシュゥッと空気が抜ける音が鳴りながら、鋼鉄の扉が開いた。
「ん……?」
中は三畳ほどの個室になっており、内装から察するにエレベーターらしい。
新井さんは警備員と一切言葉を交わすことなく、麻乃が乗っている車イスをUターンさせて、背面のままバックしながらエレベーターに乗り込む。
エレベーターの中には階層を表すようなメーターはなく、階層を指定するスイッチもない。
「んぅ?」
何か見落としがないか、麻乃はエレベーターの中の様子をなんども見回してみるが、やはり、どこにも操作するための機能は見つからない。
しかし、エレベーターの扉は自動で閉まり、少し揺れると身体が浮かぶような感覚が麻乃を襲ってくる。
そのとき、なんとなく天井の一部が動いた気がして、麻乃は視線を上に向けた。その隅には当たり前のように監視カメラが設置されていた。
どうやら、このカメラの先にある管理室からエレベーターを遠隔操作しているみたいだ。
しかも、階層を移動できるであろうエレベーターに乗る際は武装した警備員の許可が必要になる。
研修前の説明で、ここに入院している患者さんの中には実際に罪を犯して捕まり、精神鑑定を受けたのち収容されながら治療を受けている人もいると話を聞かされたが、こんなにも管理を厳重にする必要があるのだろうか。今の麻乃みたいに常時拘束されていれば、逃げる手段なんて何一つ残されていないように思える。
そのことを新井さんに質問したかったが、口を塞がれているためそうすることもできない。
エレベーターが止まり、浮遊感が消えると扉が開く。
エレベーターを降りるときにも警備員とすれ違うが、新井さんはその際にもネームプレートを確認してもらっていた。
無言でセキュリティを通り抜け、麻乃が乗った車イスを前へ進めていく。
ここが何階か麻乃にはわからないが、一階と比較する部分があるとすれば廊下に窓がないことだろう。
天井に一定間隔で設置されたスポットライトのみが長い廊下を照らしている。
直線に続く長い廊下には一切扉は隣接していない。
何のための長い廊下なのか麻乃にはさっぱりわからないが、これも防犯のための対策なのかもしれない。
「んむ……?」
しばらく進んだあたりで廊下の奥から車イスを押しながら看護師さんがこちらへ向かってくるのが見えた。
遠目からで細かいところまで見えないが、車イスに誰かが乗っている。
騒がずに大人しくしているのよ。と新井さんは麻乃に耳うちをして左側の通路に寄るように車イスを進めていく。
「ン……ッ」
麻乃が拘束衣を身につけている姿を患者さんに見られるのは初めてだ。
逆に言えば、麻乃がここに入院している患者さんを見るのも初めてだ。
だが、麻乃は病気でもなんでもない健常者であり、研修のために患者さんに扮しているだけである。
だから、少しでも患者さんに対して、自分がまともな姿に見えるように麻乃は身なりを正そうと気を引き締めた。
せめて、目が合ったら会釈をできるようにと思ったのだ。
「――ッ!?」
しかし、対角線上に近づいてきた車イスに乗っている患者さんは麻乃に対して表情を一つ変えることなく、ただ一心に前を向いていた。
開けっ放しの口から「ハァ、ハァ」と息を漏らし、麻乃と同じ拘束衣を身につけながら、膨らんだバストを支えるように両手を前に組み、胸を上下に大きく動かして呼吸をしている。
抑制帯で車イスに固定されているため、麻乃しかり、自らの意志で立ち上がることはできない。
ここまでなら、麻乃にもまだ理解できた。
だが、麻乃とは決定的に違う部分がある。
彼女の頭には分厚くて真っ白な革の全頭マスクが被せられており、さらに頭を締めつけるように茶色いベルトが幾重にも巻き付けられ、顔面が拘束されている。
拘束はそれだけにとどまらず、首には、骨折などの際に関節を固定するためのギプスのような革製のネックコルセットが装着されており、麻乃とすれ違う瞬間も真っすぐに前を向いたまま頭を固定されていた。
あれでは他人にアイコンタクトを送ることも、自分の意志を伝えることもままならないのではないか。
彼女に施されている拘束はどうみても異常でしかなかった。
なのに、その車イスを押している看護師さんは、こちらをみると当たり前のようにニコっと微笑みかけて通り過ぎていく。
「————」
自分が一体何を見たのか。
理解できなくて、頭が混乱する。
麻乃が見たものが患者さんなのだとして、あれが医療行為だとはとても思えない。
明らかにどうかしている。
麻乃はとんでもない場所に来てしまったのではないだろうか。
「……ッ」
警鐘を鳴らすようにうるさいほど鳴り響く心臓の鼓動。
この感覚の名前は一体なんと言っただろう。
恐怖。不安。焦り。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って、麻乃の胸を締めつけてくる。
ふすぅー。ふすぅー。と呼吸が乱れて息が苦しい。
「――――」
兎に角、冷静になろう。
そう、ここは閉鎖病棟。
入院している患者さんは、精神的に病んでおり、それぞれが複雑な問題を抱えている。
麻乃が知らない特殊な病気などを患った患者さんもいるはずだ。社会を知らない麻乃の勝手な偏見で物事を判断するのは良くない。
冷静に。冷静にならなくちゃ。
「ん……っ」
強く脇腹を締めつけていた両手からゆっくりと力を抜いていく。
ふぅー、ふぅー。と乱れる呼吸に意識を向けて、自分を落ち着かせる。
身体を脱力させると抑制帯の締めつけが、麻乃を優しく抱擁してくれているような気がしてきた。
「さて、着いたわよ」
廊下の突き当りを左へ二回曲がって少し進んだところで車イスは停まった。
麻乃の目の前には、一般の病室の扉よりも堅牢な佇まいをしたスライド式の扉が立ちはだかっている。
病室のプレートには「00099」と番号が記入されており、名前などのプレートは一切なく、「研修中」とだけ書いてあった。
そのプレートの横にはインターホンのような電子版があり、新井さんがなにやら操作をするとカチャっと鍵の開く音が聞こえた。
扉のロックが解錠されたらしい。
ガラガラガラと音を立てて扉がスライドし、麻乃を乗せた車イスが室内へと押しこまれる。
「ん……」
室内は六畳ほどの真っ白い空間だった。壁一面は四角い形状の白いクッションが張り巡らされており、床はタイル式の白いカーペットが敷き詰められていた。
その中心にセミダブルのベッドが一つだけ設置されている。
しかし、ベッドには、普通の病室では見かけない装具が張り巡らされていた。
そう、車イスと同様に麻乃を拘束するための抑制帯が用意されているのだ。
「研修中はこの病室のベッドで過ごしてもらうことになるわ。さっそくだけれど、車イスからは降りてもらうわね」
「ん、ンっ」
新井さんは車イスにブレーキを掛けると麻乃を車イスに固定している各部位の抑制帯に手を掛けていく。
胸と肩。腹部と股。最後に足首の抑制帯を外していく。
固定されていた抑制帯の束縛感が消えるだけで、麻乃の身体に自由が戻ってきたような感覚がした。
自らの意志で麻乃は車イスから立ち上がり、背伸びをするよう足を延ばして、動ける解放感を堪能する。
拘束衣に上半身を拘束され、口にはシリコンのゴムを咥えているから、いつもどおりとはいかないが、車イスに座っている何倍もマシな解放感だった。
「さぁ、川嶋さん。ベッドの上へ寝転がってくれるかしら」
しかし、すぐに次の行動の指示をされる。
どうやら、拘束衣を着用したまま麻乃をベッドに固定するつもりらしい。
状況からしてわかってはいたが、またも身体を拘束されるのは気が引ける。
だが、先ほどみたいに駄々をこねて新井さんに迷惑をかけるわけにもいかない。
肩甲骨をぐるぐるとほぐしながら、麻乃は意を決してベッドに腰かけた。
「ん!?」
ベッドのシーツの柔らかさに麻乃は思わず困惑した。
雲の上に寝転がるようなふわふわした感覚。
お尻だけでなく身体全てをシーツに乗り上げ、全身を預けた途端ありえないくらいシーツの中へ不自由な身体が沈んでいく。
今まで経験してきたことのない最高級の質感が麻乃のお尻を受け止めてくれるのだ。
こんなベッドが寝室に用意されていたら、休日は決まって自堕落な生活を送ってしまいそうだ。
「足首から固定していくわね」
「ん……っ」
麻乃が仰向けに寝転がったのを確認し、新井さんは麻乃の両足を閉じるように揃えさせ、足首の位置を抑制帯と繋がっている革帯に合わせる。
二連に繋がったその革帯――ベージュ色をした革製の足枷――が片方ずつ麻乃の足首にフィットすると一番深いベルトの穴にピンが通された。
足枷と繋がる抑制帯はベッドの左右と下のほうへ伸びて固定されている。
そのため、足首に枷が嵌められただけでも、かなりの拘束感があり、ガッチリと足を掴まれている圧迫感が麻乃をベッドに磔にしてしまう。
「ング……」
足首に触れている革の帯は、肌を傷つけないような滑らかな質感でありながら、頑丈であり、強固。
自分の身体がベッドに繋がれていく過程に、おぞましさを感じて、新井さんに気づかれない程度に麻乃は足に力を入れてみる。
「——ッ」
しかし、少しばかりの抵抗では、抑制帯に動きを阻害されてしまい案の定びくともしない。
もう、麻乃の意志で足をベッドから降ろすことはできなくなっていた。
「膝のところと太ももも固定していくわね」
足首と同様に、膝の上、太ももにも幅広な革枷が装着され、麻乃の下半身が抑制帯でベッドに固定されていく。
「んっ」
上半身は拘束衣。
足首は革枷によって自由を抑制されているから、麻乃は手も足も出せずに、身体の自由が奪われていく過程に身をあずけることしかできない。
「……んぅ」
車イスに乗ったときも、抑制帯を経験しているが、ベッドの上での抑制帯というのは、また違った感覚だった。
麻乃の身体を優しく抱擁する柔らかいシーツに身をあずけているはずなのに、そこが麻乃を閉じ込めるための棺のように思えてくる。
まるで「ここがお前の墓場だぞ」とベッドに言われているみたいで、胸越しに下肢を見続けているのも嫌になってきた。
もう、どうにでもなれという気持ちで身体の力を抜き、ベッドに身をあずけることにする。
「ん、ン……ッ、んぐ……ッ」
薄く照りつく天井を見上げていると口の中に溜まった唾液が麻乃の喉の奥へ流れ込んできた。
車イスで移動しているときもそうだった。
何度も何度も唾液が口内に溜まり、溢れそうになったところで反射的に呑み込んでしまう。
頬に革のカバーが密着してるから、唾液に混じって汗もベタついており、ぐちゅぐちゅしていてほっぺのあたりは、かなり気持ち悪い。
先ほど廊下ですれ違った患者の頭を拘束している全頭マスクには驚いたが、冷静に考えてみれば、麻乃の顔にもベルトが這いまわっているではないか。
「ングぅ……ッ」
あの患者さんの全頭マスクと同じように麻乃の口の中を満たしているシリコンの塊がベルトに固定されているのなら、顔を振ったところで外れるはずもないし、両手を胸の下から動かせない麻乃にはどうすることもできない。
言葉を発して抗議することもできない麻乃は黙ったまま、口の中に溜まった唾液を呑み込むことを繰り返すだけ。
「……ッ」
いくら患者の受けている体験をするにしても、ここまで厳重に動きを抑制される研修は初めてだし、この状況が二泊三日も続くなんて想像もできない。
他では知ることのできない経験を積めるのは確かだが、一方的に医療行為を施されるだけで、研修をしているはずの自分は何もすることがないというのも違和感だらけで疲れてくる。
「もう少しで終わるからね」
——ギッ、ギギッ。
麻乃が物思いに耽っている間に新井さんは下肢の抑制帯をすべて装着し終えたらしい。
麻乃が両足に力を込めた途端。内股がベッドの外へ引っ張られる。
「ん……っ?」
そこで、足もとにいたはずの新井さんが上半身のほうへ身を寄せてきたために、不意に目と目が合う。
よほど麻乃のことが退屈そうに見えたのか、麻乃の頭をポンポンと撫でて、「うふふ」と微笑んでくれるから、麻乃もできるだけ笑顔で微笑み返す。
拘束衣を着用したときから、麻乃が恐怖を感じないように新井さんは気を遣ってくれているみたいだ。
しかしながら、拘束衣を着せられてから、胸の奥でドクドクしている感覚は、未だ腕の中で消えずに残っている。
ベッドに拘束されている今も胸の音は止んでくれない。
「腰の抑制帯も締めるわよ」
――ギュッ、ギュギュッ。
次はコルセットのような幅広の抑制帯が腰に巻きつけられていく。
それを呼吸が苦しくなるかどうかの適度な締めつけ度合いで新井さんは手際良く固定してしまう。
その動作は手慣れており、研修を受けている身の麻乃から見ても経験豊富な感じが伝わってくる。
抑制帯のベルトを締めるくらいなら、麻乃にもできそうだが、他人の身体の体格に合わせて、調整しながら装着する場合は手間がかかるに違いない。
それに、もしも麻乃が本当の患者さんだったら、こんなに穏やかではないのだろう。
病気を患った患者さんなら、いくら治療のためとはいえ身体を拘束されることを嫌がって、他人に暴力を振るったり、大声で叫んだり、抑制帯を受け入れずに抵抗したりするかもしれない。
あえて暴れてみてもいいのよ。と新井さんは麻乃へ話していたが、車イスから降りたとき、大人しく研修の過程を受け入れず、麻乃が本気で暴れたりしたら、新井さんはどうしていただろう。
麻乃のことを無理やり抑えつけて、ベッドに拘束していただろうか。
「あと少しだからね」
「……ッ、ん!?」
麻乃がそんなことを考えていることも知らずに新井さんはまたもニコっと微笑んできた。
それが、つい恥ずかしくて視線をそらしてしまう。
新井さんも含め、すべての看護師さんは麻乃へ同じように笑顔を向けてくれる。そういう規則があり、社交辞令かもしれないが、患者に対しての対応は見習う部分がある。
相手が笑顔なら、麻乃も笑顔は作れるが、相手が怒っていても、笑顔を向けられるだろうか。
たぶん、麻乃にはできない。
「ちょっと苦しくなるけれど、我慢してね」
新井さんは拘束衣の二の腕の側面に縫い付けられているベルトへ抑制帯を通し、ベッドの外側へ引き絞って、ベッドに固定していく。
「んぅ!?」
身体の内側に閉じるように腕が締めつけられていた拘束衣に。外側から引っ張られる力が加わったことで、余計に拘束衣の窮屈さが増した。
左右の肩に縫い付けられているベルトにも、頭の左右から伸びてきた抑制帯が繋がれて、身体が外側へ引き絞られていく。
「――んッ、んぅ!?」
ふかふかのベッドに身体がググっと沈み込む。
抑制帯に力が加わることで、下肢や腰に装着された抑制帯と反作用を引き起こし、それぞれがひしめき合ってベッドへ抑えつける圧力が麻乃にのしかかってきてるのだ。
「……んぐッ」
それらの抑制帯はベッドの底面から伸びており、抑制帯に拘束されている麻乃では、緩めることも、外すこともできない。
根本の留め具を外すか、抑制帯そのものを断ち切らない限り、麻乃がベッドの上から抜け出すことは不可能である。
つまり、他人からの施しがなければ、麻乃はずっと一人でここに拘束され続けることになるというこだ。
新井さんは各部位の抑制帯がしっかり留まっていることを確認し、麻乃の乱れた髪を指で梳かして、またも頭をポンポンと撫でてきた。
「これで川嶋さんも立派な患者さんになれたわね」
「んむうッ!? んぐうッ!?」
立派な患者さん。というワードに反射で首を振っていた。
どうして首を振ったのか。
声を上げたのか。
麻乃はいまいち理解してないが、胸の奥でドクドクと鳴り響いている嫌な感覚が強まっているのは理解できた。
「ふふ、これからしっかり時間を掛けて、病気を治療していきましょうね」
新井さんは本物の患者さんに対して発言するように、麻乃へそう告げると車イスを押しながら、ベッドから離れていく。
その方向は室内に唯一残されている出入口だ。
「んぐぅうッ!? ん、んむうぅ!?」
麻乃を置いて出ていこうとする新井さんを呼び止めようとするが、磔にされた身体はベッドの上でわずかに揺れるだけ。
動かせるのは首から上の頭のみだが、硬いシリコンに満たされた麻乃の口は、うめき声しか上げられない。
「お昼の時間になったら、様子を見に来るからね」
ガラガラとスライド式の扉が閉められる。
扉が閉まるとカチャッと音が響き、鍵がかかったみたいだった。
しかも、扉には外側のようなドアノブは見当たらず、他の壁同様に四角いクッションが張り巡らされているだけで内側から開けるための手段が撤廃されている。
その作りはどう考えても、麻乃がベッドに磔にされず、拘束衣を身につけていなかったとしても、こちらから扉を開けることは不可能なものだった。
あまりの厳重さに呆れて、頭をベッドに投げ出す。
「んぅ……っ」
突然の静寂に自分の現状を突きつけられていく。
ベッドの上に拘束されているから、一人になると麻乃は何もできない。
研修の始まりのときに「ベッドの上で寝ているだけ」と新井さんは言っていたが。まさか、本当だとは思っていなかった。
このままベッドの上で何もできないまま生活したところで得られるものはないのではないだろうか。
ベッドの上で拘束されたまま放置されるだけ。
正直、ただの虐待にしか思えない。
だが、このような医療体制が許されている病院であることは事実だった。
「んぐっ……っ」
それでも、こんな研修を受けてしまった数分前の自分を叩いてやりたい気持ちが麻乃の中で溢れてくる。
研修を受けるために書類へサインしたとはいえ、全ての始まりは麻乃が拘束衣の中へ袖を通した瞬間に決まってしまったのは明白だ。
あのとき、拘束衣の袖に手を通していなければ、麻乃がベッドの上に抑制帯で拘束されることもなかったかもしれない。
「んぅ……っ」
とは言っても、研修を受けなければ単位がもらえないのだから、結局こうなっていたのだろう。
麻乃が頭の中でいくら後悔しても、現状は何も変わらない。ならば、この先をどうやって過ごすのかそれだけを考えたほうが身のためだ。
「……ッ」
そうやって、何かと理由をつけて現状を正当化しようとするのだが、反芻思考はしばらく繰り返された。
数分後。
目を閉じていた麻乃の脳裏に浮かんだ結論は「何もせずに昼寝をする」という選択だった。
麻乃は厳重にベッドに磔にされ、抑制帯に拘束されているはずなのに、不思議と身体的に辛いところはない。
身体を受け止めているベッドのシーツはあったかふかふかであり、苦痛が続くような部分はどこにもないのだ。
「……っ」
麻乃が身体を動かさなければ、自分が拘束されていることも忘れてしまうほどに、穏やかな状態が漫然と続く。
このまま何もせずに穏やかに眠って過ごすのは体力を消費しない賢い選択であるのは間違いない。
しかし、どうせなら今しかできないことをやっておきたいという欲も麻乃の中に芽吹いていた。
本気で拘束から抜け出そうとしたら、どうなるのか試してみたいのだ。
「んぅッ、ん……っ! ンッ……ッ! んンッ!」
さっそく、手足に力をこめて麻乃は抑制帯の縛めに抗ってみる。
太ももの裏やふくらはぎがベッドのシーツに擦れて、ぞわぞわするが構わない。
動かせそうな場所は全部試してみる。
もしかしたら、どこか一か所でも拘束が緩むかもしれない。
「んふっ、ん……っ! んむッ! んぅっ……ッ、ん、ンッ!」
そうやって縛めに抵抗しているうちに、革枷を装着した下肢の各部位が温まってきた。
その感覚はがっしりと分厚い手に掴まれているような感覚で、それでいて麻乃の下肢を優しく抑えつけている。
「ん、ンッ~~~!」
拘束衣もそうだ。
絶対に離すまいと麻乃の肌に密着しているのに、身体を温かく抱擁している。
異質な感覚に囚われていくような気分で、麻乃は何度も何度も手足を動かしてそれらの拘束に抵抗し続けるが、一向に拘束は緩む気配がない。
「ッ~~! んぅうううッ、ンっ! んむッ、んふぅ……ッ、ン~~ッ!」
それどころか、動けば動くほど麻乃の身体はベッドに沈み込んでいき、四方八方から伸びる抑制帯が張っていく。
「んンッ!?」
横がダメなら縦の方向ならどうか。という感じで、膝を立てようとしたり、内股に足を閉じようとたり、色々試してみるけど、ベッドの左右から伸びている抑制帯に邪魔されて、すぐに元の位置へ戻されてしまう。
ベッドそのものの装飾品のように、同じ場所で同じ姿勢を崩さないように、強制的に一定の幅を維持したまま麻乃は抑制帯に股を開かされている。
それが嫌で何度も繰り返し、麻乃は抑制帯に抗う。
「――ッ! ンむううッ!?」
すると、股関節に当たっている拘束衣のベルトがお尻に食い込んできた。
お尻の穴の上が擦れてしまって、いずくなる。
だからといって両腕に力をこめたところで、拘束衣の締め付けを緩めることができるはずもなく、逆に力を加えたせいで、さらにベルトが食い込んでくるだけ。
鼠頸部のところにベルトが通してあるだけでも、嫌悪感があったのに、そこよりも深いところへさらに食いこんできて、不快感が募っていく。
「んぅ……っん、んむぅううッ! ――んふぅーッ、ん、ふぅーっ……ッ!」
次第に呼吸も乱れてきて、ふすーっ、ふすーっ、と大げさにお腹を膨らませて鼻息を荒げてしまっていた。
腹部のコルセットのような抑制帯と拘束衣の繊維が肺を締めつけて、さらに息が苦しくなってきたのだ。
それでも、麻乃は抵抗をやめない。
「んふっ、ん……っ! んむッ……ッ! んぐうッ!」
額に汗がにじむ。
ベッドの上で、身を揺することしかできていないのに、何キロメートルもランニングで走ったような疲れが麻乃を襲う。
「……っ、んむぅ……んぅぅ!?」
口の中の突起も相変わらず麻乃の口腔内を埋め尽くして邪魔くさい。
麻乃がどんなに強く噛みしめても、シリコンの突起は思っていたよりも弾力を秘めていて、かみちぎれる気配もない。
そのくせ、口の中は気持ち悪いくらいに唾液が分泌されて溢れんばかりに溜まってくる。
喉を鳴らすように唾液を呑み込まないと、頬を覆う革のカバーの裏に、ぐちゅり、と唾液が溢れてしまって非常に厭らしい。
「ンフッ……ッ、んぐぅう……っ!」
拘束に抗えば抗うほど、麻乃の身体から体力が奪われていく。
なのに、何も変わらない。
何一つ状況は改善しない
麻乃が起こしている行動は、何もかも無意味でしかない。
麻乃は完全に拘束されている。
「――ッ」
新井さんは、お昼の時間に様子を見に来る。と言っていた。
だが、室内には時計は見当たらず、今が何時なのかも、麻乃にはわからない。
この状態で放置され続けたら、正常な人でもおかしくなってしまうのではないだろうか。
いや、正常だからこそ、おかしくなるのかもしれない。
拘束に抗っていた麻乃の身体から、次第に力が抜けていき、ベッドに身をあずけるだけになる。
「んふぅ……っ、ん、んむぅ……んぅ、ん……ぅぅ」
ふすぅー、ふすぅー。と荒くなった呼吸を整える。
必死に拘束から抜け出そうとしてわかったことは、拘束に抗ったところで惨めな気持ちになるだけってこと。
なのに、麻乃はこの状態のまま二泊三日を過ごさなくてはならない。
こんな状態で放置され続けたとして、本当に患者さんの症状はよくなるのだろうか。
どう考えたってこんな環境で生活を続けたら、逆におかしくなってしまうに違いない。
新井さんの言っていたとおり、患者さんの気持ちを知ることができたけど、それはある意味閉鎖病棟という医療施設に対しての不信感が募っただけのような気がする。
こんな意味のわからない研修なんて、やっぱり受けなければよかったのだ。
一刻もはやく研修をやめて家に帰りたい。
「んッ……っ、ふぅッ……」
しかし、そう思ったところで現状は何も変わらない。
この部屋には麻乃しかいないのだ。
拘束衣を着せられて、抑制帯でベッドに磔にされた麻乃に、できることは何もない。
現状を受け入れて、ただ何も考えずに寝て過ごすことしかできなかった。
麻乃の二泊三日の研修は、まだ始まったばかり。
きっと、拘束衣を着せられてからまだ一時間も経過していないだろう。
統合失調症の患者として、拘束衣を着用したまま三日間入院することは書類にサインしたときに説明をうけた。
あのときは「研修だから」という考えでどこか軽い気持ちで承諾してしまったから、根掘り葉掘りと詳しい内容にまで目を通さずに、書類の内容も流し読むようにサインしてしまったから、詳しいことはわからない。
もし、これから三日間ベッドに拘束されたまま一人ぼっちで放置され続けるのだとしたら。
誰とも会話せず、暇をつぶすこともできず、ただジッとベッドの上で過ごすだけだとしたら。
食事も、トイレも、何もかも看護されて、ただそれらを受け入れることしかできない生活が続くのだとしたら。
麻乃が本当の患者としてこのままずっと入院し続けることになってしまったら。
――どうしよう。
「ングぅうううううううううううッ!」
ありえない空想が頭の中でぐるぐる回って、拘束された身体を無意味にバタつかせる。
「んふぅ、んむぅ、んぐぅう……っ!」
麻乃がいくら思考を巡らせても浮かんでくるイメージは最悪なものばかり。
「んぐぅ……ッ」
一回。
「……ッ、ンッ」
二回。
「ングッ……ん……ッ」
三回。
拘束に抗いながら、口の中に溜まってくる唾液を呑み込み。時間が経過していくのを確認する。
天井の照明は薄く光ながら、入室時と変わらず、麻乃を照らし続けている。
麻乃がいる病室は防音設備が整っているらしく、外部の物音は一切聞こえてこない。
ふすぅー。
ふぅー。
ふすー。
自分の呼吸音と、身じろぎするたびに聞こえる衣擦れの音だけが麻乃の鼓膜を刺激する。
逆を言えば、麻乃が活動しなければ、室内は物音がしない。
自分以外の存在が感じられない空間。
いわゆる孤独だけが麻乃を包み込んでいた。
――――――――――
――――――――
――――――
――――
――
「ん、ふぅ……ッ」
新井さんが病室を後にしてから、どれくらい時間がたったのだろうか。
物思いに周囲を見回すが、室内の様子は一切変化していない。
そりゃそうだ。麻乃はベッドの上から動いていないのだから。
「んふぅッ、んっ……んッ!」
麻乃は再び、手足に力をこめて拘束に抗いだした。
特に理由はない。
なんとなく、刺激が欲しくなった。
――ギギッ。
身体を動かすと、抑制帯の締めつけが強く感じられた。
いつまでも、変わらずに、麻乃を抱擁し続けている。
「ンッ……! んぅッ! んんッ……っ!」
それでも、跳ねるように身体に勢いをつけて、抗ってみる。
何度も、何度も、繰り返し暴れる。
「んぅ、んッ……んんッ、ぅぅ、んッ……んぁッ!」
拘束に抗ったところで無意味であることを思い出しながら、口の中のシリコンを力一杯噛み締める。
「ンフッ、んぅ……っ、ぅ、んんッ、んむぅ……んッ!」
それでも麻乃は、胸の前に抱えたままの両腕に力をこめて、拘束に抗った。
自分の腕を引きちぎるイメージで腕を抑えつけているベルトを壊すほどに力を込めて、もう一度。
「んむぅううううッッ!! ――っん、ンぐうううううッ!」
全力で力を籠めればこめるほど、顔がみるみる熱くなって、息が止まる。
歯茎の裏に密着するシリコンの塊を噛みしめて、それでも一点方向へ身体を引っ張り続けた。
「~~~~ッ!!!」
だが、意味はない。
衣擦れの音を響かせながら、麻乃の身体がシーツに沈んでいく。
何度も、何度も、繰り返したから、知っている。
何も変わらない。
変えられない。
麻乃にできることは何もない。
足掻けば足掻くほど、自分の身体を痛めつけていくだけ。
「ングッ、っ……んむぅっ! んぐぅうッ!!」
それでも、麻乃は抗うことをやめない。
ふすぅーッ、ふぅーっ、ふぅーっ、と息が乱れても、構わない。
麻乃にできることはこれしかないのだ。
拘束に抗って、足掻いて、暴れて、自分が無力であることをひたすらに味わい続ける。
今まで、一度もこんなことを麻乃は経験したことがなかった。
――拘束衣を着せられたとき。
――口枷を無理やり咥えさせられたとき。
あのとき胸を締めつけたドキドキが、今も麻乃の胸を締めつけている。
「んぐううううう!!!」
拘束に抗えば抗うほど、お腹の奥でジュクジュクとした熱が霧散していくように指先まで広がっていく。
抑制帯に囚われている各部位が、締めつけられ、抑えつけられるたびに、その勢いは増していく。
――不自由なのに。
――動けないのに。
――何一つ、行動できないのに。
拘束衣の抱擁が、窮屈さが、麻乃を掴んで離さない抑制帯の締めつけが、唯一の拠り所のように刺激を与えてくれる。
それがなぜだか、心地良い。
「んふぅッ! んむぅぅッ……っ!」
着々にゆっくりと身体を蝕んでいく感情の名前を知らないまま、麻乃は拘束に抗い続ける。
例えそれが無意味だとしても。
麻乃には、それしかできないのだから……。
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