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 手に触れる黒い膜の触感はラップのように薄くて軽かった。全身をコーティングする液状の潤滑剤のおかげで肌にへばりつく様子もなく、黒い膜は底なし沼の水面のようにズルズルとイズミの細く白い足を呑み込んでいく。危機感が漂う見かけとは裏腹に指先を一本ずつ包み込むほど繊細な作りに息をのむ。 「……っ」  泥に包まれたような潤いがイズミの両足を覆った。自分で身に着けたとはいえ、初めての感覚に戸惑いを隠せない。できるだけ深く考えることはせず、さきほどナガレに説明された通りに次の動作へ駒を進めるべくイズミは手を動かす。  下半身を包みこみあげる黒い膜を胸の前まで掲げて、体幹を包む込む冷たさに身を震わせながら黒い膜の淵にある双方の穴を掬いあげるように両腕を通してみた。  「うわぁ……変な感じ……っ」  泥の中に両腕を潜り込ませるようなゾワリと撫でてくるひんやりとした歪な触感が両腕を掠め、耐えがたい感触に背筋に緊張が走ってくる。その余韻に浸り、身動きできずに止まっていたイズミの背後で、白衣に身を包む黒い人影がイズミに残された白色の皮膚を黒い膜に封じこめてしまう。 ――ギチッ。 「あっ、キツッ……」  首から下の全身が黒い膜に閉じ込められ、突然の収縮に全身が引っ張られたみたいに肌が締めつけられる。そこへ黒い膜の触感が潤滑液のベールによってイズミの肌に密着し、沼の中に浸かっているような刺激に襲われる。そのころにはイズミの背中にあるはずの黒い膜の繋ぎ目は消えていた。スーツの特殊な機能の一つのようだ。脱ぐときはどうずるのだろう。。 「どうですか? 着心地はいかがでしょう?」  白衣の女性ことナガレは全身を包み込む刺激に身を強張らせているイズミの肩に両手を添えながらスーツに問題が生じていないか確かめつつ問いかける。 「えーっ、と……なんていうか、そのぉ……すごく、恥ずかしいです」  イズミとナガレしか居ないこの白い部屋の一面には鏡が貼りつけられていた。今は正面に鏡が対峙しており、イズミの身体が白いキャンパスの中で真っ黒く点在している光景があまりにも現実離れして見えていた。  だからだろう。紅く染まっていくほっぺたが嫌で、両手で隠そうとする。だが、動かした両腕がミチミチと音を鳴らし、全身の黒い膜が伸びて張りを作ると背筋でヌルリと潤滑液が這いまわる。 「ひッ」  幽霊に背筋をなぞられたかのような感触に思わず顎がこわばったが、横にいるナガレの含み笑いを見て自分がもっと恥ずかしい様を晒していることにイズミは気づく。さらにほっぺたが紅くなり、黒い膜越しに両腕を抱え込んで身を縮めてしまう。本当に恥ずかしいのだ。 「痛む場所があれば教えてください」  黒一色に首から下を包み上げる黒い膜にイズミは視線を落とす。黒い膜で覆われた身体は上腕や太ももに胸や腰など、細かな部位ごとのラインを黒のコントラストで妙に強調されていたが局所的な痛みはなかった。着用時に自動でサイズ調節されるとのことだったが本当らしい。 「大丈夫、です……それよりもコレ……」  成長期を終えた二つの乳房が動くたびにぷるぷると震える。こんなところを男の人に見せてしまったらお嫁には行けなくなる。よくよく考えてみれば肌に密着するスーツということはスーツ越しにイズミの身体をそのまま表に現わしているわけである。素肌で見るよりも一層卑猥にみえるその姿にイズミは不気味ささえ感じる。こんなスーツを一体何のために使うのか。イズミには想像がつかない。 「私も着ています、お揃いですよ?」 「わかってますけど……」  白衣の下に着こむ黒いスーツをイズミに見せるナガレの冗談めいた動きにイズミは内心ため息を吐く。どうしてこんな場所にきてしまったのか。今すぐにでも帰りたい気持ちでイズミの頭の中はいっぱいだった。数日前、友人の誘いに軽くうなずいてしまった少し前の自分に戻りたくて仕方がない。 「スーツも無事に着れましたし、行きましょうか」 「はい」  黒い膜に包まれた両手を見ながら悔やむイズミだったが、なによりも怒りの矛先は当日になって突如「ごめーん、私いけなくなったわー」と電話をしてきた友人ことミナトに向けられていた。  ミナトが来ないなら自分もキャンセルしよう。と考えたイズミだったのだが、タイミング悪く待ち合わせ場所に訪れたナガレに捕まり、嬉しそうに迎え入れてくれるナガレの流暢なトークに断る隙など一つもなく、二つ返事で了承してしまったのだ。他人に流されやすいというか。イズミにとっては悪い癖なのだが、友人たちからすれば扱いやすい性格であった。 「別の部屋へ移動しますね。さっそくテストしてみましょう」 「……お、おねがいします!」 「ふふ、そんなに張り詰めなくてもいいですよ。イズミさんはじっとしているだけでいいのですから」 「スーツのテストなのに何もしなくていいんですか?」 「えぇ、イズミさんにやっていただきたいことは、ほとんどありません。あくまでもスーツのテストですから」 「わ、わかりました……」 「では、ついてきてください」  ナガレの案内で白い室内から隣の部屋へ移動する。先ほどいた部屋と似た作りの部屋が広がっていたが一つだけ違うものが白い部屋の中心に黒々しい異質感を放って設置されていた。 「あの、これは……?」  天蓋付きのベッドのようにそれはみえた。けれど、ふてぶてしいにもほどがある。外角に見えるステンレスか鋼鉄かわからない骨組みがむき出しのまま、台の上とその上に位置する天蓋部に四角い黒い膜が貼り伸ばされていた。その膜には見覚えがあった。イズミが身に着けているスーツと似ている。 「実験用の装置です。そうですね、バキュームベッドといえばわかりやすいでしょうか。イズミさんにはその台の上に寝転んでいただくことになります」 「えっと、どんな装置なんですか?」 「ふふ、それは実際に体験していただいたほうが早いかと」 「……っ」  バキュームベッドという聞きなれない言葉にイズミは無意識に両腕を抱いて装置をそっとのぞき込む。それとは対照的に慣れた手つきで装置の傍にあったリモコンを手に取った瞬間に見えたナガレの不適な笑みにイズミの背筋に悪寒がはしる。 「あくまでもこれはスーツのテストです。イズミさんはこちらの言うとおりに動いていただければとても助かるのですが」  ナガレから繰り返し伝えられる「あくまでもスーツ」という文面にイズミはどことなく違和感を覚える。アルバイトの身分である自分は試験の結果を知るための道具でしかないのは事実だ。説明くらいはしてほしいと思うのはイズミのエゴかもしれない。社会のことについて疎いイズミは仕事とはそういうものなのだろうと認識し、口の中に溜まった唾を飲み込んでから頷いた。 「台の上に寝転べばいいんですよね」 「はい、ベッドに寝るように仰向けで楽な姿勢をとってください」  ナガレの指示通りにイズミは動く。台の縁には通気口のような網目が沢山あった。黒い膜は台の中心に人一人が寝られるように縦長に敷いてあった。今までの人生で一度も見たこともない光景にイズミの足が少しだけすくむ。  ナガレに視線を移すとイズミの準備が終えるのを清く正しい姿勢で待っていた。目が合うと頬を緩め軽くうなづいてくれる。それだけで少しの勇気が出た。 「ん……っ」    動くたびにお尻や胸をきつく締めつけてくるスーツをよそに、まずは台の上に乗っかってみる。黒い膜の上は柔らかく、低反発枕を触っているような感覚に似ていた。この黒い膜は何の素材でできているのか本当にわからない。スーツを着る前にナガレさんに聞いてみたが、「企業秘密です」の一点張りで詳しいことは聞けなかった。  ただ、身体を痛めるような作りではないことは安心できる。この上に寝るだけならとても楽な仕事だとイズミは思った。 ――ギチッ、ギュッ。  身体を包むスーツが黒い膜に触れて擦れると不思議な音がする。『触れるな』と、まるで警戒音を鳴らしているようにもそれは聞こえた。外角にある四点の鉄の柱にも居心地の悪さを感じつつ、未知のマッサージを受ける感覚でイズミは仰向けになった。 「うわ……」  仰向けになると背中を預ける黒い膜よりも一回り大きい黒い膜が目の前に強い圧迫感を作り上げていた。イズミの身体を簡単に覆い隠すほど大きいそれに危機感を覚える。四隅にある鋼鉄の枠が黒い膜を貼り伸ばしている形容しがたいその姿は、今にも落ちてきそうで。視界を埋め尽くす存在感に呼吸が速くなり、心臓が波打つ。 「っ」  寝転ぶ黒い膜の周囲にある通気口のような網目。天蓋にある黒い膜。バキュームベッドという単語の繋がり。それらが意味するものがなんなのか。イズミにだって少しは理解できた。これからどんな実験が始まるのか。それを想像することをイズミはためらっていたが、なんともいえない状況に好奇心が芽生えてきていた。 「準備できましたか」 「は、はい」 「では、こちらもつけておきましょう」 「……あ」 『連絡用のイヤホンです。こちらから伝えることがあれば、お知らせしますので、じっとしていてくださいね』  耳の中に差し込まれたイヤホンはイズミの耳を完全に塞いでいた。近頃流行りのノイズキャンセラーイヤホンと同じだ。外の音は完全に遮断され、聞こえるのは自分が発する体内部の音とイヤホンから聞こえるナガレの声だけになった。 『では、テストを開始します』  ナガレが手元でリモコンのようなものを操作すると黒い膜の天蓋が下にいるイズミに迫ってくる。 「……っ」  天井がゆっくりと降下してくる圧迫感にイズミは息をのんだ。想像していたとおりの展開に胸がざわつく。 「あッ……」  迫り続ける黒い膜が視界全体を黒く染める。指先に力が入り、瞼を閉じる。思わず指先に触れる黒い膜を握ってしまうけれど、先ほどまで聞こえていた擦れる音は聞こえず、スーツに包まれた指先は泥の中で空を掴むような歪な肌ざわりが伝わってくるだけだった。 『口を開けて咥えてください』 「んッ、んぁ……っ」  イヤホンからナガレの指示が聞こえると同時に口元に突起のようなものが当たり、突起だけがぐいぐい押し付けられるため、イズミは自然にそれを口に咥えた。舌を抑えつけて入り込んだソレは柔らかくもちもちとした弾力をしていて、噛み切ることができないくらい丈夫なつくりだった。口は開けたまま閉じられないが、内部は筒状になっているらしく、呼吸はできる。   『吸引を開始します』 ――シィーーーーーーーーーーーッ。  イズミには聞こえないが、空気の抜ける音が室内に木霊する。ナガレはその様子を観察する。これまでの実験でも何十回とこの光景を見ている。人が黒い膜の中へ閉じ込められる瞬間は、とても興味深いものであった。 「――ッ」  イズミを挟み込む黒い膜の間から空気が抜け、二つの乳房はつぶれることなく形を維持し、女性特有のくびれを残した胴体が地面から浮かび上がるように黒い膜の上にくっきりと現れる。そこから伸びる手足の筋肉の膨らみや関節の形にさえも黒い膜は完全に密着し、イズミという個体の形状をあらわにした。 「ンッ、ンンッ!?」  全身を圧迫する締めつけにイズミは思わず身体に力をこめるが、身体は膜に磔にされたままピクリともしない。その場でわずかに震えるだけで元の位置からずれることはなかった。 『イズミさん、試しに脱出してみてください』  ナガレの声がイヤホンから直接鼓膜に響く。明らかに動くことができない状態だというのに指示を出したナガレに違和感を覚えるが言われた通りに試してみる。 「んぁッ……あぅ」  手足に力を籠める。腰や胸、腹筋に力を入れて動かそうとしても、その場から動くことはできなかった。指先の一つ一つまでが何十人もの人にのしかかられているような圧迫感に襲われており、深く呼吸をすることさえはばかれるほどだった。それでも、イズミはバキュームベッドからの脱出を図る。 「ん、ンフッ、ん、んむぅ、んッ、あッ、んんっ!」 「ふふふ」  無意味に身体を動かし、抵抗するさまを見てナガレは満足げに微笑む。イズミがバキュームベッドから抜け出すことは不可能なことだとわかっているのだ。  イズミが閉じ込められたバキュームベッドの中身はほぼ真空状態になっている。そこへ大気による気圧が加わり、黒い膜越しに約10トンの重みがイズミの身体を常に圧迫している。たとえどれほど筋力に自信を持っている人物でも一度でも中に入ってしまえば抜け出す方法は存在しない。ましてや普通の女の子でしかないイズミに脱出する手段など何一つないだろう。 「んむぅッ、ん、ング、ぐぅ、ふぅー、っ、んんッ」  何も知らないイズミはバキュームベッドによる完全拘束の中から脱出しようと未だに頑張っていた。何度やっても微動だにせず、まったく動けないというのに身体は熱を発している。身体のエネルギーはしっかりと消費され燃え続けているらしい。  だが、イズミの姿勢は変わることはなく、身体は黒い膜に張りつけられ、完全に固定されたまま台の上から動くことはかなわない。 「んふッ、ふぅッ!」  それでもイズミは諦めずに動いた。身体をくねらせたり、起き上がろうとしたり関節を曲げようと力をこめたり、試行錯誤して身体を動かす。自分が如何なる状況に閉じ込められてしまったのかを確かめるように動き、次第に艶めかしさを声に宿して、じわじわと籠る熱をかえりみず抵抗する。 「はぁ……ッ!」 ――ギチチッ。  黒い膜がイズミの動きに連動し、音を鳴らす。密着した膜だけが僅かに伸びては縮み、摩擦が繰り返されるが、黒い膜が中身の抵抗に負けて破ける気配はどこにもない。のっぺりとした人の形をした黒い物体が四角い枠の中で無様に蠢くだけ。未だに諦めずに動き続けるその姿にナガレの興味が溢れてくる。 「これは、実験のし甲斐がありそうですね」  ナガレは口に手をあてて、ほころぶ口元を隠しながら、熱いまなざしを目の前のソレに向ける。その視線は実験材料をたしなめる研究者の瞳だった。 「んーーーーっ!!」  それはバキュームベッドが起動してから数分か数十分かわからないが、イズミはとうとう根を上げた。黒い膜による完全な拘束の中でイズミは酸素を求めて呼吸をする。身体中が熱を発していて熱い。スーツの中がどんなことになっているのかわからないくらい肌に纏わりつく汗の感覚がスーツと交わってぐちゃぐちゃだった。 「はぁ……、はぁ……、はぁ……」  だというのに、全身を包み込むスーツの感触が、自分を拘束する黒い膜の圧迫が、自分の肌と一体になってしまったかのような感覚を抱く。熱を帯びた身体がとても心地いい。想像をはるかに超えた状況に神経が過敏に反応しているみたいだった。同時にこの状態から自分の力で抜け出すことは不可能だと理解した。まるで自分が漫画やアニメの世界の囚われのお姫様になってしまったかのような気分になる。 『どうですか、楽しいですか』  動きの止まったイズミのイヤホンにナガレの声が響いてくる。一部始終のすべてをナガレに見られていたのだ。実験の最中だということを忘れるほどにイズミはバキュームベッドの感触を堪能してしまっていた。 『楽しければ右手を動かしてみてください』  これを楽しいと表現していいのかイズミは迷ってしまう。でも、熱を帯びた身体。何かをやり遂げたかのような達成感が全身に染みわたっていくような感じは心地よくてもう少し味わってみたいと思うほど甘美なものだった。 ――ギュッ。  右手に力を入れると僅かな軋みを上げて、動いたような気がした。 「……っ!」  その微かな抵抗に、黒い膜がイズミの全身を惜しみなく締めつけてくる。実に恐ろしい拘束。テストが始まったばかりだと、イズミは思い出す。この先のテストがどんなものになるのか。思案してみるが、具体的な答えは浮かばない。底知れない期待だけが不安と入り混じって高まっている。 『それはよかったです。では、最初のステップですが……』 「……あぅ? ふぅ!?」  ナガレの言葉が一瞬途切れると、呼吸口に何かが取り付けられた。それは一メートルほどの長さを持つホースだった。黒い膜と同じ素材で作られているそれは瞬く間にバキュームベッドの膜と一体化し、つなぎ目が消えると、呼吸するための軌道が狭くなり、肺が大きく動いてイズミの呼吸が少しだけ乱れた。 『まずはスーツの生命維持機能のテストになります』  スーツの生命維持。その言葉を聞いてイズミは最初にスーツについてナガレから説明されたことを思い出す。現在イズミが着用しているスーツには生命維持機能というものが備わっていて、それは人間が如何なる状況に陥ってもスーツが人体の機能を補助し、生命が持続できる環境を常に整え続けるというものだった。  どのような仕組みでスーツが生命維持をするのかは企業秘密で教えられないとのことだったが、イズミが実験のためにこのような状況にまで発展しているのはスーツの生命維持機能を実験するためなのだろう。そのためにバキュームベッドの中へイズミを閉じ込める必要があったのかは不明だが、生命維持のテストとはいったいどんなものなのかをイズミはこれからその身をもって体験することになる。 『これから、呼吸口へリブレスバッグを装着します。イズミさんはいつも通り呼吸をしてください』  リブレスバッグという聞きなれない単語にイズミは少しだけ不安になる。でも、いつも通りに呼吸をするだけならイズミにもできる。そんな甘い考えを抱きながらリブレスバッグの装着を待っているとそれはやってきた。 「――ッ!? ンッ、んん!?」  自由に吸えていた空気が突然止まる。驚いて息を吐きだしてもう一度空気を吸い上げるが、吐いた呼吸よりも少ない量しか空気が吸えず、肺が締めつけられる。  それもそのはずだった。イズミが外との繋がりを唯一持っているホースの先には15センチ平方メートルほどのラグビーボールのような形状の黒い袋が取り付けられていた。  ホースとは逆の先端部位には小指ほどの細長い呼吸口が取り付けてあり、黒い膜と同じ材質で作られたリブレスバッグはイズミが呼吸を吸うたびに平たく潰れてしまい、力強く息を吸ってしまうと空気の流れを止めてしまうのだ。 『焦らずにゆっくり呼吸をしてください。スーツの機能が正常に動いている限りどんなに苦しくても窒息することはありませんので、安心して呼吸をしてください』 「ンフゥーーッ、ん、フゥーーーッ、ムッ、ウゥーーーッ!」  ナガレは簡単に言うが、イズミはそれどころではなかった。突然訪れた苦しさに身体が無意識に動こうとバキュームベッドの中で暴れる。だが、何もできない。 ――ギチッギチ。  その動きが黒い膜の中のイズミをさらに締めつける。 「ンフッ、ん、フゥーーーッ」  とにかく新鮮な空気を吸いたい一心でイズミは意識を呼吸にだけに集中する。ナガレが言っていた通りに、ゆっくり呼吸をすればいいのだ。バキュームベッドの拘束が肺の動きを阻害してくるけれど、それでもイズミは全身の筋肉を利用して呼吸を少しずつ整えていく。 『そうです、上手ですよ。その調子です』  イヤホンからナガレの声が聞こえてくる。どうやら上手に呼吸できているらしい。突然の息苦しさがから解放され、呼吸に集中したままイズミはすこしだけ安心する。 『それでは、まずは一時間ほど続けてください。私は少し離れますが、異常があれば装置は外れます』 「ンフゥっ!?」  ナガレから放たれた言葉にイズミは動揺し、呼吸がまた乱れる。 『先ほども申し上げた通り、あくまでもスーツのテストですので、イズミさんは何もしなくていいのです。そのままゆっくりと呼吸だけしていてください。“呼吸”です。簡単ですよね?』 「――――」  プツンッ、とイヤホンから通信が途切れた音がイズミの耳に聞こえたと思えば、無音になった。もう自分の身体が発する音しか聞こえない。本当にこのまま一時間も何もせずに呼吸だけしていろというのだろうか。 「ン、フゥーーッ、フゥーーッ、フゥーーー、ンッ」  聞こえてくるのは繰り返す呼吸音だけ、全身の締めつけに抵抗しながら肺を動かしてゆっくりと正確に呼吸に意識だけを向ける。  暫くの間そうしていると身体がリラックスしていくのがわかった。呼吸にだけ集中するという行為を今までしてこなかったイズミには新しい発見でもあったが、それはリブレスバッグの特性の序の口に過ぎなかった。 「ンフゥーーッ、ん、フゥーーーッ」  意識を呼吸に集中し、全身を使って肺を活用する。そうしなければイズミはたちまちパニックを引き起こし、バキュームベッドの中でもだえ苦しむことになる。  いまさらながらにナガレがイズミをバキュームベッドに閉じ込めた理由を理解する。スーツの実験をするために、生命維持の機能を図るためには危険に身を投じるしか方法はない。  人は無意識に生存本能が働き、スーツの生命維持機能が働くよりも先に何かしらの抵抗を起こしてしまうものだ。それならば人が人としての行為が行えない状況に陥っていればスーツの生命維持機能が十分に働いているのかどうか判断する基準にまでもっていくことができるのではないか。  つまり、現在イズミが意識的に呼吸をしているということはスーツの実験としては前段階でしかない。意識的に呼吸さえもできなくなってきた瞬間がスーツの本当の実験が始まるのではないだろうか。なんていう恐ろしいことを本当にするとは思えないイズミであった。 「ンゴッ」  そんなことに意識が向いてしまう間も、気を抜くとなぜか呼吸が止まってしまっていた。バキュームベッドの中で弛緩する筋肉が肺の動きを最低限の物へ変えてしまうことが原因だとイズミは思っていた。だが、それは時間が経過していくにつれ理由が明らかになる事象であった。 「ンムっ!?」  リブレスバッグが装着されてから数分たったころだろうか。深く、ゆっくりと呼吸をしていたはずなのに、肺はそれを許さずに短く、速く呼吸をしてしまう。意識して呼吸しているはずなのに、勝手に短い呼吸をする自分の身体に違和感が溢れる。  だがそれは、当然の結果だった。  リブレスバックの中に残るのは一度体内へ取り込んだ空気だ。体内から吐き出された空気は一定の酸素量を体内へ保存したあと外へ吐き出される。  それが何度も繰り返され、次第に薄まっていく酸素濃度に対し、肺は新鮮な空気を求めて活発に動きを強めていく。その結果、肺の動きは速まり、吐き出す二酸化炭素の量は増え、吸い込む動作が速くなる。  つまり、イズミの心拍数は長距離走を常に走り続けているような状態まで上昇し続けていたのだ。  そんな状態だというのに呼吸するたびに酸素は薄まっていく。  呼吸が速まれば速まるほどリブレスバッグの特性がイズミの呼吸を阻害する仕組みになっているのだ。 「ムゥッ!?」  勢いよく空気を吸い込んでしまうたびに、リブレスバッグはつぶれ、空気の軌道をふさぐ。 「ンフゥーーっ!」  吸いきれないもどかしさに、急いで息を吐きだし、膨れたリブレスバッグから、再び空気を吸い上げる。   「ングゥッ……っ!?」  しかし、次に吸い込む空気は、何回目に吐き出したのかもわからない二酸化炭素に塗れた空気であり、新鮮さはさらに失われている。 「ンフゥーッ」  それでも、身体は酸素を求めて呼吸を行う。 「ンムぅーーーっ!」  一回一回の呼吸をするたびに肺がじわじわと締めつけられていく。  明らかにまずい状況に、バキュームベッドから抜け出そうと手足を動かし始める。 ――ギギッ。  だけど、ピクリともしない。動けない。逃げ場なんてどこにもない。  まさか、本当に呼吸ができない状態にまで追い込むつもりなのだろうか。  そのことを考えると全身から血の気が引いていくのが嫌でもわかった。 「――ッ」  もう一度、バキュームベッドから抜け出せないか手足を試しに動かした。  でも、動かない。こんな拘束を施されてしまっては自由など存在しない。  脳裏に浮かぶあり得ない場面が浮かんでは消える。  そんなことを想像してはいけない。  わかっているのに、薄まっていく酸素が焦燥感を引き連れてイズミの脳内に明瞭なイメージを作り上げていく。  もしも、このまま放置され続けたら自分はどうなってしまうのか。  その答えが思考を埋めつぶしていく。 「ングウウウウウウウウッ!!!」  次の瞬間には不安という底知れない感情がとぐろを巻いて喉から飛び出していた。  異常があれば装置は外れます。とナガレは言っていた。だから、イズミは薄い酸素を頼りに身体を暴れさせてバキュームベッドから抜け出すために無我夢中で暴れだした。  それが絶対にやってはいけないことだと理性では分かっていたのに恐怖に不安をあふれさせたイズミの本能は耐えきれなかった。 「ングッ――」  ただの呼吸さえも苦しくなっていたところへ酸素を弄ぶように浪費した落とし前がやってくる。  吐き出しすぎた空気を求め、新しい空気を吸い込もうとするが、潰れたリブレスバッグがそれを許さない。  リブレスバッグの中に残るのは空気だけではない。  少しずつ蓄積する湿気が内部で纏わりつき、次第に水滴へと変わっていく。  それらが、つぶれたリブレスバッグの中で、わずかな空気の出入りさえも塞いでしまうのだ。 「ふぁふえへッ! ふぁぇあ!!」  吐くこともままならないというのに、イズミは精いっぱいの声を出した。  このままでは本当にマズイ。  今すぐに出してほしい。  もっと新鮮な空気が吸いたい。  動きたい。自由になりたい。  ここから出して。  早くしないと、ダメ。  息ができない。  苦しい。  動けない。  出して、出して、出して。   「ンァアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!」  次の瞬間にはただそれだけを追い求めて、叫んでいた。  肺が焼けるように痛い。息ができない。空気が吸えない。  指先の一つ一つの筋肉が張り裂けるほどに暴れだす。  なのに、動けない。何もできない。  逃げられない。誰も助けてくれない。  苦しいのに、空気がないのに。  嫌、嫌、嫌だ。  こんなのヤダ。  早く出して、出して、出してえ。 「~~~~っ!!」  イズミの視界は暗闇しかなく、助けを求める手段も、完全拘束の中から抜け出す手段もない。  黒い人型の塊がバキュームベッドの中でピクピクと動いているだけのその姿は第三者から見てみればどうということはない。ただのお遊びに見えるだろう。  だが、よく見ればわかる。  二つの乳房の下で、心臓が必死に脈動し、黒い膜に浮かび上がった筋肉は、痙攣を繰り返し、土地狂ったように波打っている。バキュームベッドという拘束が、中身の人間の生存本能すべてを蔑ろにし、生きる手段を実行しようと足掻き、藻掻き続けているその様を、残酷にも黒い膜へ磔にしていた。  口から伸びたホースの先にあるリブレスバッグは、袋という機能をすでに失い、平たくつぶれたまま点在し続けるだけの無駄な部品になり果てている。  このまま空気が吸えない状態が続けば、中にいる人間は息絶え死ぬだろう。だが、これは実験である。 「ンフゥウーーーっ!?」  一瞬何が起きたのか、イズミには理解できなかった。意識が暗闇に差し掛かる寸前に肺の中に新鮮な空気が入り込んだのだ。  意識が一瞬で明快なものへすり替わっていく。  スーツの生命維持機能が正常に働いたのだ。  助かった。そう思った刹那だ。 「ングッ!?」  再びやってくる肺の締めつけに、全身がこわばった。  先ほど経験したばかりのあの感覚が脳内に蘇る。  もう、あんなに苦しいことは経験したくない。  気が付けば、身体はまた繰り返し、バキュームベッドから抜け出そうと躍起になっていた。  でも、微動だにしない。イズミは未だに囚われの身のまま動けないままだった。 「ひあッ……ひや、ァッ……」  異常があれば装置は外れます。とナガレは言っていた。つまり、それはスーツの生命維持が繰り返し行われ続けるまでは絶対に装置からは解放されることはないということだ。  その現実はイズミのメンタルを砕くのには他愛のないものだった。  こんな場所にやってきてしまった自分に後悔が圧し掛かるが、すでにイズミの呼吸は限界だった。 「ングッ――!?」    リブレスバッグは潰れたまま、膨らまない。それが意味するものはすでに知っている。  バキュームベッドの中でイズミの身体が暴れだした。  意識など関係なく、生存本能だけが動かす身体は実に醜いものだった。  しかし、生きている限り、イズミの身体は抵抗することをやめない。 「ンフゥーーーッ!?」  そして、再び酸素が供給される。  暗闇がきて、光が訪れて、また暗闇がやってくる。その繰り返し。  自分がどこにいるのか、何をしているのかもわからなくなっていく。  脳に刻み込まれていく苦しさが、あいまいになって、意識が白く染まる。  そして、また暗闇の中で目覚め、絶望だけが広がった世界で一人で助けを求めて叫び続けた。  その様子を恍惚に染まった瞳で観察し続ける存在が、すぐそばにいることも知らずに……。 ――――――――――――――――   「――ッ」    目が覚めると、イズミは白いベッドの上で寝転んでいた。自分の身体を思わず見回してみると此処に来た時と同じ、学校の制服を身に着けている。異常なほどの全身のだるさが肩や背筋に伝わってくるけれど、自分が何をしていたのかいまいち思い出せない。なんだかとても苦しいことを経験していたような気がする。 「お目覚めになりましたね。イズミさんお疲れさまでした」  顔をあげると白衣に身を包むナガレがにこりと微笑んでいた。室内にある時計はすでに夕刻をさしており、窓から見える外は茜色に染まっていた。ナガレと待ち合わせしたのは日中の正午だった。なんのアルバルトをやっていたのか具体的なことは思い出せないが、休憩中にねてしまったことだけは何となく思い出せた。 「あ、ごめんなさい、その、なんか疲れたみたいで」 「じっとしているだけ、というのも疲れるものです」  寛容な態度でナガレは微笑むと、「こちらを渡しておきます」とイズミへ封筒を手渡してきた。つかみ取った瞬間に指先から伝わる感触にはかなりの厚みがあり、若干の重さがある。それは中身を確認しなくてもわかるほどに多かった。 「え、こんなにたくさん?」 「今回のお仕事の報酬です。イズミさんには頑張っていただいたので」 「は、はぁ……いいんでしょうか。こんなに受け取って」 「えぇ、受け取ってください。イズミさんはそれだけのことをしてくださいました。次にいっしゃるときはぜひ、ミナトさんも一緒に」 「ありがとうございます! ミナトにも伝えておきます!」  ナガレの様子からして、アルバイト中はイズミに不手際などはなかったらしいし、次回の約束もできたということは、それなりに役に立てたということなのだろうと勝手に解釈したイズミはナガレに見送られ、最寄りの駅に向かって歩いていた。  正直なところ自分がどんなアルバイトをしていたのかあいまいで、全然覚えていないのだけど、楽しかった感覚だけがなぜか残っているのは確かだった。  当初、アルバイトを紹介してきたミナトもイズミが現在感じている不思議な感覚と似たようなことを言っていたけれど、実際に経験してみるとあれは本当だったということをイズミは理解する。  するとスマホにメッセージが届いた。 「あ、ミナトからだ」 『アルバイト終わった? 一緒に行けなくて本当にごめんッ! でさ、よかったらこれからご飯でもいこうよ!』 「ほんと、自由気まますぎなんだから」  メッセージを読み、次回にアルバイトへいくときはミナトも絶対に連れて行こうとイズミは胸の内で決意する。どうせやるのなら二人で一緒にアルバイトをするほうが楽しいだろう。今度行ったときは内容を忘れないようにしっかりしなくちゃいけない。という思考をめぐらしながら、ミナトとの待ち合わせ場所へイズミはむかっていった。 END

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