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 メジロライアンは、強い。  その鍛え抜かれた体の生み出す走りは、向かい風を抉じ開け、大地を踏み荒らすほどパワー溢れるものだ。  心もそうだ。彼女は折れない。傷つかないという訳ではない。何度迷っても揺らいでも、最後の最後まで立ち続け、困難へと歩んでいく。そんな眩いばかりの魂の強さを、メジロライアンは持っている。  だが、生まれつきその両方が備わっていたわけではない。  肉体は日々の鍛錬で培ったものだ。確かに、才能も溢れんばかりに蓄えてはいるが、それだけで走っていけるほど中央のターフは甘くない。走り、追い抜き、勝利する。そのために、血の滲むような努力を、ライアンは積み重ねてきたのだ。  そして、心も。  ライアンは、実に繊細だ。その短くなびく鹿毛といい、意志の強そうなキリッとした瞳といい、見る者に闊達な印象を与えるが、実際のところは自分にあまり自信のない、少しのことで負い目を感じてしまうような、そんな少女である。  時に、その繊細さは弱さとなり、彼女の歩みを鈍いものにした。  例えば、名門メジロの生まれという事実。  その事実だけで、彼女は二種類の負い目を抱えた。  メジロという看板を最初から持っている、恵まれた環境への負い目。  そんな環境に身を置いているにもかかわらず、看板に報いるような鋼の信念を持ち合わせていないことへの負い目。  それらが足に絡み、捕らえ、悩ませた。弱い自分を何度も責めた。  それでも、彼女はその度に立ち上がった。  弱音も、不安も、後悔も、罪悪感も、全てを鍛錬に変え、筋肉へ変えてきた。  その果てに、彼女は数多のG1レースを制し、ついにURAファイナルズ初代勝者に輝いたのだ。  今や彼女は、メジロの看板を鍛えた背に悠々と乗せられるほどに、成長していた。巷では彼女を『メジロを創る者』と呼ぶ声もある。  メジロライアンは、強い。  彼女は知っているから。信じているから。  彼の眼差しを。  彼女が特に大切にしているものが、二つある。  一つは、正しい努力。熱意を理論で包み、執念の籠った汗を流す。今の彼女を形作る、理想の筋肉の原料だ。  もう一つが、その努力を認めてくれる他者。鍛錬は、突き詰めれば自身の肉体との対話であり、極論を言えば、身一つあれば事足りる。  しかし、認めてくれる人、支えてくれる人、励ましたり、発破をかけてくれる人がいれば、パフォーマンスは更に上がる。筋肉は一人分の心臓があれば強くなるが、ウマ娘は独りでは強くなれないのだ。    ライアンはこの事実に気づいている。だから、正しい努力以上に、それを認めてくれる他者を大事にする。  同じメジロの生まれであり、ずっと自分の憧れとして前を走ってくれたメジロマックイーン。  時に同室の友人として、時にレースで鎬を削るライバルとして、様々な形で力をくれたアイネスフウジン。  そして何より。  いつだって寄り添ってくれて、肯定してくれて、叱咤してくれて、ライアンの正しい努力を、正しい努力に至るまでの膨大なガムシャラな努力を、ずっと見守っていてくれた人。  トレーナー。  彼を、彼女は大事にする。  無名の頃の、粗の目立つトレーニングで足掻き続ける彼女を信じてくれた彼。  有馬記念を制した時、疲労と歓喜でねじ切れそうな体を抱き締めてくれた彼。  URAの玉座に輝いてからも、変わらず自分を支えると言ってくれた彼。  そんな彼を、ライアンは大切に想っている。  そんな彼に。  彼の眼差しに。  恋を、している。    四月。  冬の背中は遠いが、まだ見えなくなったわけではない。桜の彩りに薄い冷気が絡む季節。  ライアンは久々の休日を、トレーナーと過ごしていた。  場所は彼の部屋。数々のG1レースを制したウマ娘の指導者にしては、中々にこじんまりとした部屋だったが、ライアンはこの空間に胸を躍らせていた。  ここを訪れるのが初めてだったからかもしれない。  URAファイナルズで優勝してから、まだ日が浅い。  あの身もだえするような感動は徐々に抜けていき、代わりに快挙の実感が籠ってきていた。  感動が光と炎とするなら、実感は湯だ。肚に、胸に、心に溜まって、奥の方から温めてくれる。そして、また走り出すための潤いをくれる。  だからここ最近のライアンは、何をせずとも幸せだった。寝ても覚めても、走っていても筋肉を鍛えていても、頭の片隅にこんこんと甘い蜜が溢れ、胸で蕩けていくような、そんな状態だった。  なのでトレーナーから、遅めの優勝祝いの申し出があった時は、多幸感で破裂してしまうんじゃないかと思った。  はわわわ、と狼狽えるライアンに、彼は希望を尋ねてきた。高めのスイーツバイキングでもよし、筋肉に嬉しい高タンパク料理店でもよし、財布の許す限りどこにでも連れていくと、彼は言った。  だから、ライアンは応えた。    貴方の部屋に行きたい。    トレーナーは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに首を縦に振った。  だから、ライアンはこうして、ここにいる。  想い人の部屋で、想い人と向かい合っている。他に誰もいない空間。マックイーンも、ドーベルも、アイネスも。  あの女も。  ライアンはいつもより多くの空気を、鼻から吸った。トレーナーにバレないよう、ゆっくりと。  そこかしこから、彼の匂いがする。  ウマ娘は鼻が良い。だからこそ、長い間彼が寝泊まりしているであろうこの部屋の、隅々まで染みついている多種多様な匂いが、全て分かった。  これは運動した後の汗。  これは緊張した時の汗。  これは悲しい時に流した涙。  これは嬉しい時に流した涙。  これはいつもの唾液。  これは昂ぶった時の唾液。  これは尿。  これは──。  その全ての匂いに、自分の匂いが絡んでいくのが分かる。  トレーナーの部屋に、ライアンが覆いかぶさって、しみ込んでいく。    ライアンはゆっくりと、唾をのみ込んだ。ぺろりと、唇を舌で湿らせる。    嬉しいことでもあったか。  トレーナーの言葉に、ライアンはようやく自分がにやついていることに気付いた。  慌てて唇を真一文字に結ぶが、しかしすぐに綻んでしまう。無理もない。今の自分はこの世で最も幸せなのだから。そんなことを思う。 「えへへ、すいません」  頬を掻きながら謝る顔も笑っている。ともすれば、指導者を相手に随分舐めた態度だが、しかしトレーナーは怒らない。根が穏やかなのだ。  それに加えて、今日の彼はいつにも増して上機嫌である。きっと、ライアンと同じようにURAファイナルズを制したことが、この上なく嬉しいのだろう。輪をかけて締まりのない顔をしている。青筋一本浮かべる筋力も残ってないほど、弛緩しきった笑みである。 「でも、トレーナーさんもニヨニヨしてるじゃないですか。何か嬉しいことでもあったんですか?」  そう指摘すると、彼は慌てたように真面目な顔を作ったが、間を置かず元の間抜け面に戻った。  お前と一緒に勝てて、浮かれてるんだ。  そんなことを、彼は言った。やや、照れたような笑みを浮かべて。  ライアンはふにゃりと笑った。胸の中にポッと、柔らかな光が灯ったようだった。どうにも、トレーナーの笑顔を見ると、そうなってしまう。  この感覚が、ライアンは好きだった。とても。 「あたしも浮かれてます。トレーナーさんと一緒に勝てて、凄く……すっごく嬉しいですっ!」  百パーセントの本心から出た言葉だったので、思った以上に熱が籠る。その圧にトレーナーはややたじろいだが、それでも笑っていた。    そう言ってもらえて、嬉しい。  これからも、二人三脚で頑張っていこう。  もう、その言葉だけでライアンは、頭からつま先まで幸福感でいっぱいになった。  二人三脚。なんて、いい響きだろう。  その言葉を、他ならぬトレーナーから言われることが、どれほど嬉しいか。  何故なら、その言葉は示しているからだ。彼とライアンのこれまでの関係性を。これからの関係性を。  その関係性こそ、ライアンにとって至上の喜びだった。  つまり、専属契約。  彼女の通うトレセン学園において、優秀なトレーナーというのは、ほとんどの場合チームを請け負っている。  理由は簡単。優秀なトレーナーの元には、指導を希望するウマ娘が集う。トレーナー自身も、一人のウマ娘より複数のウマ娘を担当した方が、箔が着く。需要と供給が噛み合い、そうしてチームが生まれるのだ。そうして出来たチームの中で切磋琢磨すれば、一人でトレーニングするより効果的というおまけつきである。  にもかかわらず、メジロライアンとトレーナーは、専属契約を結び続けている。  最初は「他のメジロの子達も担当してはどうか」という話も出ていたが、彼は断った。  本人曰く、無類の不器用なのだそうだ。  一人と頭を突き合わせて頑張ることはできても、複数人を要領よく見て指導するには力不足。  いつかできるようになりたいが、そのためにも暫くは精進が必要。  何より、今はメジロライアンというウマ娘がどこまで行けるか、その物語を傍で見ていたい。  運の悪いことに自分には目が二つしかないので、ライアンを見ながら、ライアン以外の子を同時に見ることはできない。  そんな分かるような分からないような理屈をこねこね、とにもかくにもトレーナーは、ライアンただ一人の担当で居続ける選択をした。  ドーベルやマックイーンと同じチームで競えないことが残念でもあり。  しかしそれ以上に、彼と二人きりで栄光に向かっていけることが嬉しくもあり。  URAファイナルズを共に制覇したトレーナーと、今まで通り専属契約を結び続けられる奇跡を、ライアンは心の底から享受していた。  はむ、とケーキを食べる。トレーナーが優勝祝いにと、買ってきてくれたものだ。雪みたいに真っ白なショートケーキ。生クリームの穏やかな甘さが、しっかりとしたミルクの味わいと共に舌を転がり、とても美味だ。すごく優しい甘さ。  キスもこんな味がするんだろうかと、ライアンは思う。  きっと好きな人とする口づけは、手に落しても首に落しても、それこそ唇に落したって、蕩けるように甘いのだろう。  そんなことを、思う。  だから、トレーナーとのキスだって。 (したいな。キス)  彼の唇に、視線が吸われる。少しかさついた、リップクリームとは全く縁のないような、男の唇。  胸の中に、甘い炎が灯る。  とても熱い、欲。 (ああ、まずい。落ち着かないと。)  ゆっくり呼吸をして、欲動を冷ます。プツリと、彼の唇から視線を切る。  ライアンはウマ娘だ。その気になれば、皿の上のケーキを食べるよりも簡単に、欲を遂げることができる。何故なら彼女たちは、一人の例外もなく、ヒトより強い。その膂力にものを言わせた事件が、それなりの数起こるほどには。  実際、ライアン自身そうした衝動に駆られたこともある。  だけど、それは駄目だ。  トレーナーを力で組み伏せるような真似をする訳にはいかない。それは彼と歩んできた三年間への冒涜だ。育んできた親愛に唾を吐く行為。  同じように、メジロの権力を使うつもりもない。  彼がメジロの家に入り、ゆくゆくは家族の一員になってくれればいいとは思う。しかし、彼と結ばれるのはメジロ家ではなく、ライアン個人であるべきだ。ならば、家の力で横っ面を叩いて言うことを聞かせるような真似は、するべきではない。  そんなことをしなくたって。 「トレーナーさんは」  自分と同じくケーキを食べる彼に、意を決して、ライアンは語りかけた。  心臓がドキドキする。  白い前髪を指で弄んでしまう。  くるくる、くるくる。落ち着きなく、自信なさげに、絡めて。 「いつまであたしと、歩んでくれますか?」  俺はずっと、ライアンと走るよ。  特に迷うことなく、彼は言った。真っ直ぐ、こちらの目を見て言ってくれた。  それが確認できただけで、十分だった。ライアンは前髪から指を離し、ふわりと笑った。  今日はここまで、言質が取れればいい。  ライアンはいつか、彼にプロポーズをするつもりでいる。  それが、一人のアスリートとして活躍している最中になるのか。それとも全てが終わり、引退した後になるのか。そこまでは、分からない。  正直、不安もある。  自分がウマ娘であり、彼は人間であるから。  その気になれば、人など簡単に縊り殺せるのが彼女たちだ。そんな彼女たちの暮らす人間社会に、目に見えないまでも、口に出されないまでも、ウマ娘に対する半透明の恐怖心が、滲んでいないかと言われれば嘘になる。  いくらウマ娘が容姿に優れる種族とはいえ、身内にウマ娘がいないようなただの人間と、婚姻関係を結べる娘は少ない。  ウマ娘では、ヒトのメスに敵わない。  そして、トレーナーはいわゆるただの人間だった。人とウマ娘の混血ではない。だから自分ではなく、人間のメスに惹かれることだって、まあ、なきにしもあらずだ。そう、ライアンは思いもする。  だが、彼はずっと一緒に歩んでくれると言った。    それは本心だ。ウマ娘の五感は、細かい機微だって見逃さない。彼の虹彩の動き、息遣いの湿度、体臭の変化を吟味すれば、嘘をついていないことなんてすぐ分かる。  だから、大丈夫だ。  きっと、否、絶対。トレーナーは自分の傍で歩んでくれる。一緒に笑って、泣いて、汗をかいて、生きてくれる。  絶対、自分のプロポーズを受け入れてくれる。  ライアンには、その確信があった。  少なくとも、今の彼なら他の女なんて眼中にないはずだ。  あの卑しいメスなんて。  そうして、安堵が胸に染みて、残りのケーキを食べようとした時だった。  そういえば、ライアンは。  トレーナーが、言った。  どこか、おずおずとした口調だった。  彼の纏う空気が変わっている。トレーナーが緊張している時の汗の香りがする。  どうしたんだろう、と思う。  ライアンは、恋愛に興味があるんだよな。  そんな言葉に、どくん、と心臓が跳ねた。  確かに、恋愛には興味がある。少女漫画に出てくるような恋愛。運命の人と支え合い、共に困難を乗り越え、最後に結ばれるそんな恋愛。  自分とトレーナーがこれから織りなしていくだろう、恋の形。  だけど、どうして彼はそんなことを聞くのだろう。 (もしかして、あたしに告白してくれるのかな)  もしそうなら、嬉しくて気絶してしまう。これから味わうであろう数多の挫折、悲しみを、一瞬で埋め立ててお釣りが来るぐらいの喜びだ。 (いや、でもでも! あたしまだ学生だし……だ、だけど高等部だからあんま問題ないかな? レースの収入もあるから、トレーナーさん相手に金銭的な負担を強いることもないし。何より、あたしが一番トレーナーさんの隣にいたんだから……告白だって、全然あり得る……よね?)  どうしよう、告白されたら。どんな風に答えよう。綺麗に微笑んで、余裕たっぷりに頷きたいな。でも、感極まって泣いちゃうのが目に見えてるしな。  それで、あたしが告白を受け入れたら、トレーナーはどうするのかな。  キス、してくれるのかな。  あるいは、もっと。    それ以上のことを、ここで──。  少し、はしたないことを考えてしまう。  いけないいけないと、ライアンは深呼吸をする。濃厚なトレーナーの匂いが肺に沈んで、思わず腹の底がカッと熱を持ちそうになるが、我慢する。  精一杯余裕のある微笑みを浮かべて、問う。 「確かに、興味津々ですけど。それが、どうしました? 何か、あたしにしてほしいことでも、あるんですか?」  トレーナーは少し迷ったような顔を浮かべ、頬をやや赤く染めた。  ライアンは確信した。この恥じらい方は、十中八九告白だ。そうに決まっている。  ああ、可愛いな。いつだったか、トレーナーは恋愛経験に乏しいって言ってたし、きっとこれが生まれて初めての告白なんだろうな。あたしは彼の初めての恋人になるんだろうな。 (でも、まずはキスだよね)  甘く濁りはじめた思考から、そんな想いが一つ。反射的に、唇を舐めた。クリームの甘さで、しっとりとする。  そして、ライアンはウマ耳をひくひくさせた。彼の言葉を待った。その口から紡がれる愛の告白を、一瞬たりとも聞き逃さないように。彼の喉を、口を、唇を舐めて迫り上がった声を、そのまま自分の耳で、鼓膜で、脳髄で飲み込んでしまうかのように。  そして。  相談があるんだ。 「何のですか?」  好きな人がいる。 (あたしのことだ)  どうすれば、恋仲になれるんだろう。 「そんなの、正面から告白すればいいんです。きっと、上手くいきますよ」 (だから早く、してください)  そうか。そうだよな。ありがとう。  ライアンのおかげで、勇気が湧いた。 「良いんですよ。あたしも、トレーナーさんのこと大好きですから」 (焦らさないでください)  そう言って貰えると、トレーナー冥利に尽きる。  よし、腹は決まった。  今度会った時、告白しようと思う。 「え? いや、今でも良いじゃないですか」  何言ってんだよ。 「……え?」  今ここに、桐生院トレーナーはいないだろ。  カチャンと、金属音が冷たく響く。床には一掬いのケーキが転がった。あんなに甘かった白いクリームが、今は汚らしい泥のようだ。  乳臭い汚物の隣に、銀色の破片が横たわる。スプーンの頭だ。  ライアンの指が、無意識のうちに捩じ切っていた。  まるでスプーンとあの女を、重ね合わせたみたいに。    桐生院葵。  トレーナーの同期だという彼女は、頻繁に彼を連れ回していた。カラオケに公園。何の権利があってか、トレーナーの休日を食い潰している女。この前は、ハッピーミークと行くための下見だとか何とか抜かして、温泉にまで行ったらしい。  あの女が、ライアンは嫌いだった。優秀だとは思う。ハッピーミークとの絆を見る限り、誠実なトレーナーでもあるのだろう。実家も裕福で、容姿も優れている。  だが、臭い。  トレーナーに話しかけている時、あの女は臭い。体臭が変質する。さかりのついた猿でもここまではしたない匂いは垂れないだろう。そう思うほど、ドロドロとメスの匂いを発する。  温泉旅館から戻ってきたトレーナーには、あの女の匂いがいつもより深く染み付いていた。手を握ったのだろう。のぼせたふりをして、肩に頭でも乗せたのだろう。浅ましい。いやらしい。汚れている。汚された。  彼の唇からメスの匂いまではしなかったのが、唯一の救いだった。そうじゃなければ、あんな人間。あんな、想い人と同じ位置にあるヒト耳を、見せびらかすような髪型の女なんて。すぐにでも、この手で。  その女に、トレーナーは恋をしているという。 (ふざけるな)  ライアンはそれでも、笑顔を浮かべた。唇で弧を描き、ニッコリと。そうしなければ、声にならない声が、凶暴な獣性が、歯の隙間から漏れてしまいそうだった。  穏やかな笑みを浮かべたまま、ライアンは静かにスプーンを拾い、ポケットに仕舞う。そして、身を浅く乗り出す。 「トレーナーさんは、桐生院トレーナーのことが好きなんですか?」  トレーナーは赤くなった頬をぽりぽり掻いて、こくりと頷く。今すぐにでも組み伏せたい欲求を抑え、ライアンは続ける。 「桐生院トレーナーと、恋人になって、結婚して、赤ちゃん作りたいんですか?」  トレーナーが首まで赤くなる。一体、何を想像したんだろう。ウブすぎる。そんなだから、あんな女にたぶらかされるんだ。弱い弱いヒトのメスに、食べられそうになるんだ。 (あたしはずっと我慢してきたのに。これからもしばらくは我慢するつもりだったのに)  渡さない。  この人はあたしのものだ。 「それって、契約違反ですよね」  トレーナーが目をパチクリさせている。どうやら、まだ理解が追いついていないようだ。ライアンは出来るだけ優しい声で、子供に言い聞かせる母親のような口調で、ゆっくり言った。 「トレーナーさんは、あたしと一緒に走ってくれると言いました。それって、惚れた腫れたの片手間に走ってくれるってことじゃないですよね。余所見しながら、適当に心ここに在らずみたいな感じで、隣をとろとろ歩くってことじゃないですよね」  トレーナーは驚いた顔で、違うと答える。違わない。今貴方が言ったのはそういうことだ。そうがなり立てたくなる衝動を抑え、ライアンは優しく笑う。   「トレーナーさん、言ってましたよね。自分は不器用だって。不器用な人が、恋と仕事を両立できますか? 桐生院トレーナーを見ながら、あたしを見れますか? 見れませんよね? だって貴方は不器用なんだから。運の悪いことに、貴方の目は二つしかないんだから。貴方が言ったことです。あたし、覚えてますよ?」  そんな不器用なところも好き。 (だから渡さない) 「あたし、まだまだ走りますよ? そのために、まだまだ鍛えますよ? 命を削って、魂を燃やして、自分を追い込みますよ? 担当ウマ娘がそこまでしてるのに、その横でトレーナーさんは色恋にかまけるんですか? これって裏切りですよね? 契約違反ですよね?」  笑う。笑って優しい声で言葉を紡ぐ。その間、視線は逸らさない。自分の虹彩から、トレーナーが逃げることを許さない。  ケーキの皿を横に退け、更に乗り出す。トレーナーの顔が近い。彼が少し後ろに下がろうとしたので、机の上に置かれたゴツゴツした手を握る。自身より大きい掌に、ほんの少し力を込める。痛みはない程度に、弱く。でも、振り解けるとは思えない程度に、ねちっこく。  親指でスリスリと彼の手の甲を撫でながら、囁く。 「勿論、トレーナーさんはそんなことしませんよね? トレーナーさんは優しいですもんね? あたしを裏切って、悲しませて、二度と走れないぐらい傷つけるなんて、しませんよね?」  トレーナーはゆっくり、頷いた。怯えてはいるが、嘘ではない。こんな状況になっても、まだ自分のことを大切に思ってくれてることが分かり、嬉しくなる。 (ああ、まずいなぁ。……腹筋の奥が、イライラしてきた)  体が熱を持ち始めるのを感じる。全身の筋肉が、血管が、神経が、むらむらと滾る。  いっそ、ここで貪ってしまおうか。ケーキだけじゃ、全然足りないのだし。  ライアンはゆっくりと、トレーナーの顔に唇を近付けて。思わずギュッと瞼を閉じた彼を、吐息で撫でて。  舌を、彼の目にねじ込んだ。  瞼をこじ開け、中にある眼球をドロリとねぶる。ヒュッ、と彼の喉から笛のような音が出て、それがとても嗜虐心を煽ったので、唾液の粘度が増す。  数秒間そうやって、ゆっくりと離す。まるでディープキスでもした後のように、唾液の糸が橋をかける。  舌先に乗った涙を、こくんと嚥下する。  案の定、ケーキよりも甘かった。 「ちゃんと見ててくださいね。あたしの努力」  トレーナーはコクコクと頷く。それを見て、ようやくライアンは笑みに明るいものを混ぜた。 (今回はこれで我慢しよう。あたしたちには、時間がたっぷりあるんだし)  そして、トプトプと絶え間なく涙を流す彼の目元に、再び舌を伸ばした。

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