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「対岸まで頼む」  それだけを告げて、大柄な獣人の男は渡し舟の座席にどっかりと腰を下ろした。  ぎらぎらと太陽が照り付ける頃合いである。白波の湖は静かに凪いでいて、水面は薄く張った雲間から覗く青空を透かしている。漕ぎ出すには少々汗の滲む日和だが、悪くはない。私は桟橋と舟とを繋ぎ止めていたもやい綱を解いて舟を出す。 「おさむらい様でごぜえますか」  返答はなく、男はじっと押し黙ったまま水面を見つめていた。深く被られた菅笠から僅かに覗く横顔は虎のそれである。  夏の夜半のような深い紺の着物の襟元から、黄金の毛並みと黒の縞模様とがふっくらと覗いている。体格の伺いづらい着物の上からでも分かるほどに厚い胸板と、筋肉の蓄えられた端整な四肢、両腕に抱えるようにして持つ無骨な鞘の打刀。まさしくもののふと呼ぶにふさわしい、凛々しい伊達男の虎獣人。  出で立ちの簡素さから、公の旅程でなく私的な用向きであるだろうことは想像がつく。白波湖の対岸には小さな街があるが、目的地はそこだろうか。老いた父母にでも顔を見せに行くのか、或いは恩人の墓前参りだろうか。そういえば、盆が近い。  無論、詮索は無礼なことであるだろう。渡し守は渡された賃金の分の仕事をすればよく、ゆえに私は黙したまま舟を漕ぐ。しかし、こうして人々の往来を渡す単調な職務において、無言の詮索ばかりが楽しみであるのだから、私の思案も致し方ないことである。  虎の侍様もさして話し上手な方ではないのか、互いの間に会話はない。ただ押し黙ったまま雲間を裂いて飛ぶ雁の軌跡を追い、或いは雁が鳥影を落とす白波湖の澄んだ水底を眺め、はたまた湖のせせらぎに耳を澄ましているようだった。  目尻の傷跡が眩しい強面の彼だが、白波湖の淡い風景に心地よさを感じているのだろう、その横顔は穏やかに見える。街の喧騒からひと時離れ、湖の上でひとり静かに流れる時を過ごすのは「おつ」なものだと、思っているに違いない。  一つけちをつけるのであれば、今日はぎらぎらと照りつける太陽の光がめっぽう強い。熱を遮るもののない湖の上では、いかに冷たい湖水に囲まれていようとも暑いものは暑いのである。  私のような舟守は、落水への対策と暑さへの対策を兼ねて褌一丁でいることが多い。ゆえに毛並みや衣類の中に熱が籠ることは少ないのだが、ご客人においてはそうもいかないことがある。農夫たちなどならばさしたる体面もないので手早く裸になって暑さをしのげるのだが、お侍様というのはとにかく体面を重視する生き物だから、むやみに裸を晒すことは許されない。彼らにもまた、上流の階級たる誇りのようなものがあるらしかった。 「……っ、ふう」  虎の御仁もまた、例に漏れず侍然とした男であるらしい。陽が天頂を周り、急激に暑さが増していく中でも着物の襟をはだけることすらしない。汗がぽたぽたと顎先から滴り落ち、渇きからか乾いた吐息を漏らしつつじっと押し黙って耐える姿は、凛々しくもあるが今にもゆで上がってしまいそうでもあり、なんとも危なっかしい。  万が一にも舟の上で倒れられては大変困る。私は一旦舟を止め、舟のへりから水中へと垂らしておいた一本の綱を引き上げる。綱の先には、湖水で冷やされた瓢箪がひとつ結ばれていた。 「旦那、こいつをお飲み下せえ」  半ば意識が朦朧としてきていたのだろう、くたりと頭を下げていた虎の御仁は、私の声にゆっくりと顔をあげた。 「これは……?」 「白波の湖水で冷やした薬水でごぜえます。脳の茹りによく効きますゆえ、どうぞぐいっと」 「……かたじけない」  なおも体面から施しを断られたらどうしようか、と思っていたが、流石に虎も現状の危うさを理解したらしく、存外に素直だった。両の手で瓢箪を受け取るや否や、栓を引き抜いて齧りつくようにごくごくと薬水を喉に放りこんでいく。余程乾いていたのだろう、少しばかり無礼な例えだが、まるで腹を空かせた乳飲み子が母の乳房を舐るような勢いで、彼は一息もつくことなく瓢箪の中身を飲み干した。その体躯に相応しい、豪快な飲みっぷりである。 「入用でしたら、もう一杯ご用意いたしやしょうか」 「頂こう」  食い気味の返答を受け、もう一本の綱を手繰り寄せて瓢箪を引き上げ、虎に渡す。  多少渇きが癒えたためか、二杯目を酌む速度は先程より遥かに緩慢だった。薬葉から染み出した爽やかな味わいを愉しんでいるのか、まるで酒でも嗜むかのようにゆっくりと喉を鳴らしている。 「美味い」 「白波の岸辺に生える生薬の葉を漬け込んであります。身体の熱を取り、体の中のけがれを濯ぐ効能がありますゆえ、お疲れも取れましょう」 「気が利くな」 「お褒め頂き光栄にございやす」  うやうやしく頭を下げ、空になった瓢箪を預かる。  かくして僅かに互いに流れる空気が緩まったところで、私は一つの提案をすることにした。 「お侍様。白波湖の湖上はいっとう暑くなります。立派な召物ゆえ心苦しくはありますが、御脱ぎになってはいかがでしょう」 「……む、しかし」  虎の御仁にとって、その誘いは酷く魅力的なものであるだろう。  先程から褌一丁の私の出で立ちに向けられる隠しきれない羨望の眼差しが、それを裏付けていた。  さりとて、ならばそうしようとすぐにうなずくことが出来ないのが侍というものである。意地と誇りと体面とは、彼らにとってなによりも尊ぶべき厄介事であるのだから。 「まだ対岸に着くまでに半分以上はあります。太陽の日差しはどんどん強くなりましょう。熱を籠らせていては本当に倒れてしまいますぜ」 「……むう」 「どうせ湖の上なぞ誰も見ておりません。岸に着くまでに着直せばよいでしょう」 「…………そう、だな」  私の熱烈な説得を受け、やや渋りながらも虎の御仁は脱衣を決意したようである。彼が立ち上がるのに合わせて重心を取り、舟が揺れないように細心の注意を払う。客人を水に突き落としたとなれば、舟守の名折れであるからだ。 「なるべく片方の足に重心を掛けないように願いやす。均衡を取るよう心掛けはしやすが、お侍様の壮健な肉体の重みには勝てませんで」 「あ、ああ」  舟の上の浮遊感の中で立つというのは、慣れていない者にとっては結構な試練であるらしい。生まれたての小鹿のように恐る恐る立つ屈強な男の姿は、何とも言えない愛らしさがあった。  帯を解き、上衣を脱ぎ捨てる。虎獣人特有の金地に黒縞の毛並みと、腹周りの乳白色の毛並み。汗ばんでしっとりとしたそれらの毛並みは厚く、陽光に照らされて眩く輝いていた。まるで岩肌のように蓄えられた胸筋と、六つに割れた逞しい腹筋。重い刀を支えるにふさわしい、美しく整った肉体がそこにあった。  そのまま虎獣人は足袋と脚絆を脱ぎ、股引の前紐に手を掛け、するりと勢いよく下した。  やはり目を引くのは巨木のように太ましい両脚の付け根の間、男の宝刀を覆い隠す白い六尺褌と、その膨らみである。長年履き古されただろう白褌は若干灰みがかっており、目を凝らせば前袋のあたりに僅かな黄ばみが見える。布地の擦り減りによって薄くなっているのか、はたまたその逞しさに相応しい巨根の持ち主であるのか、前袋の中に窮屈そうに押し込められた虎の男の逸物の形はくっきりと浮かび上がっていた。  なんともまあ、目の保養である。しかしあまりにまじまじと見つめていると怪訝に思われてしまうので、目の裏に焼き付けつつも私は再び舟を出すことにした。  それから半刻ほどが経つ。  ようやく湖の半ばほどまで来たか、という辺りで、私はもう一度舟を止めた。 「時に旦那、対岸へはお急ぎでしょうか」 「……む? いや、取り立てて急いではいないが」 「であれば、少し行水をするのはいかがでございやしょう。あちらに都合よく、止まり木になりそうな小島がございやす」  湖の丁度中央のあたりにある、島というのもおこがましくなるような小さな陸地。慣れない渡し舟で万が一にも酔った客人が現れたとき、少しの休息を取るために舟守たちはこの島を愛用していた。  虎の御仁が酔っているようには見えないが、それでも今日の暑さは一段と厳しい。裸であっても虎獣人のように毛深い獣人達にとっては苦しい気候だろうと案じての事――というのが、表向きの理由である。 「しかし、良いのか。舟を繋ぎ止める場所はないように思うが」 「おいらが舟を留めておきますから。たまには童心に帰って水浴びというのもオツな物でしょう」 「……かたじけない。実は、体の芯が燃えるように暑くて仕方なかったのだ」  舟を漕ぎ、小島へと寄せる。虎の御仁は褌一丁のままざぶんと水の中へと降り、風呂に漬かるようにして肩まで沈み込んだ。  ほう、と緩い吐息が虎の御仁から漏れる。湖水が火照った身体に冷たくて心地よいのだろう、今までの強面からは想像できないほどにとろんと緩まった面立ち。一時、侍という俗世の立場から離れ、一人の獣として裸のまま水に浸かり、あらゆるしがらみを忘れる幸福な瞬間が、彼に訪れているように見えた。 「――。……長く浸かっていては、お前に申し訳が立たないな。すまない、今上がる」  語気にはやや名残惜しそうな気配を残しながらも、行動は素早かった。  五分程度の行水ののち、虎の御仁はざぶざぶと水を掻き分けて陸地へと上がる。全身がぐっしょりと濡れそぼり、水滴が滴り落ちている。毛並みの内側の骨身がくっきりと浮かび上がって、えもいわれぬ煽情的な色気を醸し出していた。  中々に良い光景だ、と目を細める。陸地に座り込んだ虎の褌は水に濡れてぴっちりと局部に張り付き、布地が擦り減って薄くなっているせいか、布地の内側に押し込められた太ましい陰茎と「愉しみ」を理解しているらしい赤黒い亀頭とは、もうほとんど色合いが透けていた。 「島に舟を寄せますんで、しっかり水を振り払ってから乗って下せえ。舟の中に水が溜まったらコトですんで」 「ああ、分かっている」 「ちゃんと褌も絞って下せえ」 「む、そ、そうか」  一人だけ涼んだことに多少の罪悪感があるのか、虎の御仁は私に言われるがままだった。私の視線に僅かに気恥ずかしそうにしながら褌の紐を解き、一糸まとわぬ裸になる。ぎらつく陽光を浴びて輝く金色の肢体の、なんと凛々しく美しいことか。  褌を絞って水を滴り落とし、それから全身を震わせて被毛にしみ込んだ水気を取る。獣人ならば誰でも本能的に行う行為だが、生物的強者たる虎獣人の大男が身体をぶるぶると震わせるさまは大気すらも揺らぐようで、思わず気圧されるような力強さを秘めていた。  しかし、その威厳と迫力に満ちた震身よりも目を引くのは、股座の茂みから覗く、体の震えに合わせてぶらんぶらんと悠然に揺れる虎の御仁の太竿、そしてふわふわとした毛並みに包まれた、熟れ切って柔らかな睾丸の膨らみであるだろう。  色を覚えた娘らは勿論、男でさえも思わず目をやり、そして敬服するほどのご立派様だ。腹周りの毛並みの色合いに似た乳白色の茎は太刀の柄ほどはあろうかという長さと太さを誇り、心身の安穏に合わせるかのように緩み切ってだるんと垂れ下がっている。  そして、皮の剥けきり、堂々と白日に晒されている亀頭の力強さよ。未だに水の雫の滴り落ちる赤黒い肉の槍先は、幾人もの女を啼かせてきたのだろう、存在そのものが自信に満ち溢れているようである。その深みのある面影から察するに、肉体的全盛期をとうに通り越した年代であることは想像に難くないのだが、男性自身は今なお盛んなようである。 「こら、見世物ではないぞ」  私の畏敬と情欲の混じった視線を目ざとく察知したのか、苦笑の混じった諫めが飛ぶ。これほどの逸品を持つ者なのだから、それらしき色目には散々晒されてきたのだろう、反応もどこか手練れている。 「これは無礼を。余りに……立派でしたもので」 「よく言われるとも。さあ、舟を出してくれ」  そそくさと褌を締め直したのち、虎の御仁は岸辺に寄せていた舟に再び足を踏み入れた。  光陰矢の如し――まさしくその通りだと名残惜しく。  僅かに湿った褌の中に押し込まれ終わった大太刀の面影を瞼に焼き付けながら、私は再び舟を出し、湖を掻き分けた。 ◇  それからややあって。  遠方に見えていた対岸が少しずつ近づいてくる頃、虎の御仁はおもむろに口を開いた。 「舟守よ。少し、急げぬか」 「おや、お急ぎでごぜえましたか」  舟の舳先に立っていた私が、後方の座席をくるりと振り返ると、褌一丁の虎の御仁が軽く咳払いをした。語気には些かの憔悴が滲み、陽が差している為伺いづらいが、どことなく顔が紅潮し、所在なさげに目を泳がせているようである。 「急ぎ。そういう、訳ではないのだが。少し速度が落ちているように思えたのだ」 「この辺りは水深が深いので、ちょいと慎重に漕がないと危ないんでさ」 「……そうか。ならば、よい」  恐らく、暑いだけではない汗を頬から滴らせながら、虎の御仁はぐうと唸った。どうやらまだしばらくの内は、自身の身を苛んでいる事象について自白するつもりはないらしい。  彼が何ゆえ急ぐ様にと願ったのか、私にはよく分かっていた。というか、そうなるように仕向けたのである。  時刻にして二刻ほどまえ、暑気払いにと私が虎の御仁に手渡した瓢箪の中身が薬水であるのは事実であり、また暑気に効くというのも事実である。加えてもう一つの効能として、体の澱を取り、外へ出そうと働きかける作用がある。  つまるところ、薬水の成分が効果を発揮するにつれ、体外へと排出されるもの――つまり、小便を溜めようとする体の中の働きが強くなっていく。平たく言えば、非常に強烈な放尿欲求が突然の内に訪れるのである。  ましてや瓢箪二本分の量ともなれば、その欲求の強さは筆舌に尽くしがたい。私も一度試したことがあるが、出しても出してもまるで止まらず、暫らく厠に籠る羽目になった。  本の十数分前までは影も形もなかったはずの尿意が、一瞬気を緩めた隙に異様な速度で高まっていく。ちょうど今の瞬間に、その作用が現れたのだろう。ゆえに用を足せる対岸の陸地へと急いでほしいと告げた、という訳である。  無論私はそのことを知っている。だがあえて、彼には告げないことにした。  屈強な男が避けられぬ原初的で幼稚な欲求に耐え偲び、苦しんでいるさまに酷く興奮するという私の性癖が、あえて何も察せず告げずであったほうが面白いと囁いているのであった。  彼が陸地につくまで堪えられるかは、当人の根性に寄るだろう。亀の歩みほどとなった舟が陸地にたどり着くまでに、もう一刻以上はかかる。今まで同じような悪戯を仕掛けてきた偉丈夫のうち、半分以上は堪えることが出来なかったと記憶しているが、はて彼はどうだろうか。 「……ん、ふう」  私は黙ったまま、尿意を誘うようにわざと少しばかり派手な水音を立てつつ舟を漕ぎ続ける。時折水飛沫の跳ねる音に紛れて、後ろの御仁のうめきとも呼吸ともつかぬ音が聞こえ、思わず微笑んでしまいそうになる。  時折、気取られないように後ろを眺めれば、筋肉の鎧を纏った凛々しい偉丈夫がきゅっと内腿を擦り合わせ、もじもじと膝を揺らしている様子が映る。こちらの視線に勘付けるほどの余裕も既にないらしく、何とか気を紛らわせようと水面の輝きに目をやっているようだが、既に気を紛らわせるだけでどうにかなるほどの尿意ではない筈だ。  彼の、汗の滴り落ち、僅かに憔悴の滲み始めた面立ちの中では、尿意を言い出すか否かの葛藤が渦巻いているように見えた。言い出さなければどうしようもないことは道理として分かっているだろうが、それでもなお言い出せないのは当然のことである。  小便がしたい――などと臆面もなく告げられるのは、それこそ齢いくつの童子ぐらいのものだ。大人の男、しかも脇に刀を差す身分の者が小便をしたいなどと申し出れば、影で堪えの利かない幼子だと莫迦にされるか白い目で見られるか。 「舟守、よ。やはり少し、速度を上げてくれないか」  間接的にしか乞うことの出来ない男の健気さたるや!   唸りの滲み、焦りが前面に出始めた虎の男の言葉に、私はあえて鈍感な面を装ったまま振り返る。 「はて、どうされやしたか。どこかお具合でも悪いので?」 「……いや、平気、だが」  平気にはとんと見えない。顔からは脂汗が滴り落ち、目は泳ぎ、僅かに前屈みになったままそわそわと身体を揺らしている。さりげなく両の手は褌の上に添えられ、拳の平で鈴口を抑え込んでいるようである。股の間に垂れる尻尾はぱたぱたと落ち着きなく舟底を叩いていた。  吐き付ける息は熱く荒く、もはやだれがどう見ても小便を堪えているようにしか見えないというのに、彼はなけなしの意地を張り続けているようだった。彼とてもう、陸地まで尿意を留めておけるとは思っていないだろうに、難儀なことだ。  このまま彼が果てるのをゆっくりと見届けても構わないが、せっかく掌上で侍らせているのだから、もう少し悪戯がしたいという欲求があった。己の舟上という、極めて優位な立地ゆえに、いささか強気になっていたことは否めない。 「――おっと、失敬!」  ぐらり、と舟を揺らす。まるで水の流れに舟を取られたかのように、極めて自然に。  ほんのわずかな振動である。ゆえに、平時ならばさしたる支障はなく、ほんの僅かに肝が冷えて終わるぐらいだ。  しかし、彼にとっては、力強く牙を剥く、予想外の一撃となる。 「……ッ! あ、く、はあ……っ」  堅牢な筋肉の蓄えられた腹の下、既にぱつんぱつんに膨らみ切った膀胱の中の水面が、突如の衝撃によってたぷんと揺れる。  辛うじて氾濫を防いでいた括約筋という名の弁が、衝撃によってほんの一瞬、僅かに緩む。  ――じゅっ、しゅうっ……。    彼の唯一身に着ける褌の、灰みがかった薄布に一点、滲みが生まれるのを確かに見る。  咄嗟に両の手で握り込んだが、僅かに遅い。僅かな熱気を孕んだ小便の染みが、白紙に落とされた墨の雫のように、確かな鮮明さを帯びてささやかに広がっていく。 「……ッ、あ、がっ……ふーっ、ふーっ……!」  呻く。身を捩り、欠伸をかみ殺すかのような不毛な耐久が彼の内側で広げられていた。  いや、行われているのは葛藤だろうか? どちらにせよ、ことの終末はもう間もなくであるだろう。私は漕ぎ手を止め、いかなる結末を迎えるのかを今か今かと待ち望む。その光景を瞼の裏に焼き付けるために。 「――ッ!」  ぱつん、と張りつめていた糸がはじけ飛ぶ。  ここが船上であるということを忘れたように、彼は舟底を蹴り飛び起きるようにして立ち上がった。  畢竟、重心の崩れた舟は地鳴りのようにぐらぐらと揺れるが、彼はもはやその迷惑を意に留める余裕すらない。外れぬ錠を引き千切ろうともがく囚人のように、ぴっちりと締め直された褌の怒張の縁に乱雑に指が突っ込まれ、半ば引き千切るような勢いで褌の前袋をずらし、砲身を舟の外へ向けて露出させる。  我慢に我慢を重ねて縮こまった陰茎は、先程見たときよりも憔悴しきって縮こまっていた。委縮しきった肉の筒の先端、強い力で押し込められて僅かに青ざめた亀頭が、ひくん、と震え――  ――じょぼ、じょぼぼぼぼぼぼぼぼっ……!  突端から噴出した黄金色の小便が、大きな放物線を描いて湖の張りつめた水面へと突き刺さっていく。  水を穿つ小気味よい音が、瞬く間に豪快な放水音へと変遷する。凪いだ水面に広がる無作為な波紋と、冷たい湖の空気の中に交じる小便の濃い臭気。 「……はーっ、はー……ああ……はああっ……」  数分ぶりの呼吸を許されたかのように、虎の御仁は大きく、熱い息を絶え間なく漏らした。  仁王のように悠然と立ち、両の手をしっかりと太ましい雄竿に添え、一切のしがらみなく小便を放つその出で立ちのなんと凛々しく微笑ましいことか。込み上げる快感に恍惚の表情を浮かべ、間近でそれを眺める視線があることにも気付かない。私はこれでもかと瞳を広げ、その一部始終を目に焼き付けようと躍起になる。  放尿は続く。膀胱が少しずつ萎んでいくにつれ、蒼白だった顔面に血の気が通っていく。縮こまっていた雄竿がふっくらと厚みを帯びていく。放尿の勢いに引きずられ、肉筒の先端はなおもひくひくと蠕動を繰り返していた。  一瞬の雲間を抜け、太陽が再び顔を出す。なおも勢いよく放たれ続ける放物線が白日に晒され、青々と広がる湖の中に輝く黄金色を混ぜ込んでいく。  目の前の虎男から漂う解放と快感の熱気、飛沫の爆ぜる水音の涼やかさに満ちた一部始終。極めて強い興奮をもたらすその強烈な光景を、私はじっと押し黙ったまま目に焼き付けていた。 ◇ 「世話になった、色々と」  一幕を経て、舟は岸辺へと辿り着く。  舳先に綱を結ぶ。桟橋に渡ると、渡し賃に加え、「世話」代という名目の口封じの合わさったやや多めの銭を手渡される。  平静を取り戻した虎の御仁の顔は、まるで何事も無かったかのように研ぎ澄まされていた。あの舟上での出来事は、暗黙の了解として黙されたまま掻き消えていく――ということになるのだろう。まあ、私はしっかと眼の裏に刻み付けたのだが。 「おさむらい様、道中お気をつけて」 「うむ。お前も息災でな」  さして絆が芽生えるでもない。二、三言をぽつりと交わし、虎の御仁は船着き場より立ち去っていく。その後姿をしばし見送ったのち、私は舟の整備をするべく桟橋へと踵を返す。  いやしかし、それにしても煽情的な光景だった。ここ暫らくは、夜更けの友には困らないだろうという確証がある。  というか、あの光景を思い返すだけで、私の褌の下が僅かに熱を帯び始めるようだった。客が来ないのであれば、どこか適当な所で記憶の味見とでも洒落込もうと思うのだが―― 「そこな旦那! ちょいと対岸まで舟を出しちゃくれんかい」  威勢のいい声が掛かり、振り返る。  町民かあるいは肉体労働の男か。今にもはちきれそうな簡素な着物に身を包んだ、腹周りの立派な茶熊の大男が立っている。 「あいさ、喜んで。乗ってくんな」  私は内心でほくそ笑む。珍しく、今日は入れ食いだ。  折り返しの労働のあとに待っているだろう二つの好物を待ち遠しく思いながら、私は舟の綱を再び解き放った。

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