ドラクエ見てきた! (Pixiv Fanbox)
Content
※ネタバレを含みます
ドラゴンクエスト ユア・ストーリーと、テレビ千鳥と、レゴムービーの
文章を書くのが下手なオタクもいる。それが窓。なんとなく読んでね。
こんにちは。
窓です。
ドラクエを1作もプレイしたことがない人間がドラクエの映画を見てきた日記を書きました。
ドラクエを1作もプレイしたことがない人間なので、原作と比べてどうとかの話はほとんど無いです。
代わりに「もしかしてこれがやりたかったのでは?!」という、原作ともドラクエ映画とも
関係ない話があったりします。
見てきた映画はこれ↓
映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』公式サイト
https://dq-movie.com
まえがき
感想を絵や漫画にすると、絵だから、漫画だからということで、
内容を読解出来てなくても読めた気になってしまう人に
意図せず読まれて意図しない形で理解されてしまう可能性が文章よりも高いので、
なんとなく長めの文章になっていますが内容はそんなにないです。形だけ長いだけです。
ただの日記なので。
よろしくね。
無料記事だけど、作家の金銭支援サイトでもあるFANBOXに置いておくことで、
窓に最低限の好意を持っている人が読む割合も増えて無用なトラブル遭遇率も減ると思うので、
今回のドラクエ映画感想との相性もいいかなと思ってここに書きます。
ほんぶん
本文は
・映画を見る前まで
・映画を見た
・ドラクエ5のあらすじを読んだ
の3ブロックに分かれています。
映画を見る前まで
さて、窓はドラクエを1作もプレイしたことがないオタクです。
特に理由は無いです。
プレイする機会がなかっただけで、ドラクエは好きとか嫌い以前の、
漠然と「ドラクエっていうもの」という印象と、少しの知識しか持ってませんでした。
あと、ゼルダの伝説もファイナルファンタジーもやったことないので、知識はごっちゃになってるかも。
『一列になって歩く』とか『死んだら棺桶に入る。教会に行ったら復活できる』とか『メラゾーマではない』とか
『鳥山明のデザインすげぇ~~~~』とか『冒険の書は消える』とか『民家の壺を割る』とか。
作品自体よりも、パロディやドラクエを前提にした世界観の漫画やアニメやコントで
「そういうシステムなのか~」とジワジワとディティールだけ知っていく
みたいな人生を送って来ました。
勇者ヨシヒコ シリーズもほとんど見たことがないです。
前提が共有できてないので、何がギャグで何がそうでないのかわからなかったからです。
「毒沼の模様の床を踏むと継続ダメージ」みたいな描写は「なるほど!これは本編のパロディだな!」
と、オタクの勘でパロディか否かを判断するような楽しみ方をしていました。
そして今回映画のモチーフになったドラクエ5
これに関して持っていた知識は
『紫のターバンとマントのキャラ、ドラクエの主人公?らしい』『嫁を選ぶイベントがある』
『ビアンカとフローラ、名前は知ってるけど姿とかはわかんない』
という程度で、それもシリーズのどのナンバリングかとか全然考えたことがなくて、
映画を見る前のプロモーションやTwitterに流れてくる情報で「あ~これ5なんだ~!」
という風に、バラバラの知識が漠然と輪郭を持ったような感じでした。
映画を見に行く前日に、テレビ千鳥で
千鳥大悟が人生で初めてドラクエをやる。5の名場面をプレイする。
という内容をやっていて
テレビ千鳥
佐藤健の映画を勝手に宣伝するんじゃ! #TVer #テレビ千鳥
https://tver.jp/episode/61303831
(大悟の人生初ドラクエプレイ実況回は8月13日(火) 01:35 配信終了)
そこで初めてパパスの存在を知りました。パパス。
それ以外に増えた知識は『主人公、王家の子…?!』『嫁選びイベントめちゃくちゃ泣けるやんけ!』
くらいでした。
いや、実際嫁選びイベントは大悟と一緒に泣いた。
この時、脳内の隣の座席に既に大悟は座っていた。
映画を見た
映画を見ました。
先に「ここが良かった!」という感想のパートです。
音楽も映像も最高級!
ドラクエを迂回し続けてきた窓は、そのせいで特濃直球ドラクエ成分をあびると
気恥ずかしくてむず痒くなってしまうのだが、
息子が生まれてからは
「え?!息子?!まじかよ!さらに世代を繋げるのか!すごい!しかもこれ絶対勇者じゃん!自分が勇者だと思ったら子が勇者だったとかアツ~~!!!親、子、息子三世代の宿命アツ~~~!!!あ!!!石化!!!石化だ!!!キャッキャ 息子~~~!!!!!うおお全員集合の最終決戦だ!!!アッセンブル!!!!!あ~~!!ボスの『自分の身は滅んでも夢を成就させる』展開好き~~!!!!!」
って感じでファーストドラクエ体験を大いに楽しんで、終盤はもう引き込まれてて
「うおおお救え!!!世界を!!!」ってなってました!
隣の席の大悟もめちゃくちゃ泣いてた。
それに、「ゲームの中で体験した人生だって、本当に人生の一部じゃん。」っていうテーマ!好き!
境目の不確かさを暴いていけ!現実とバーチャルの!!!
「気恥ずかしくてむず痒くなってしまう」というのは
ちょっと次のパートにも関係します。
さて、良かったポイント以外に気になったところを話すパート
ずっと気になったのは「なんかズレててむず痒い」って感覚。
映像も音楽もいいのに、ディティールはいいのに、なんか、
組み合わせ方これで合ってる?この演出であってる??という感覚。
あの有名な、窓でも聞いたことがあるドラクエの曲が旅立ちのシーンで流れて最高潮に達した時
画面に映るのは魔物に襲撃されたボロボロの街だし。
これは窓的には「このむず痒さ、この『なんかズレてる気がする』感、単に窓がドラクエやったこと無いから、パロディを延々と真面目な雰囲気で見せられ続けてるような感覚がくすぐったいだけなのか?」
と解釈して、それなりに受け流しつつ、
「それとも、本当にズレてるのか…?」
という疑問はなかなか拭えずに見続けていた。
そして、あのオチ。
オチに関しては次のブロックでくわしく書きます。
ここからは『事実』ではなく『解釈』、つまり窓の想像と空想の話です。
実際の制作現場や、インタビューとかで発表されている制作者の意図がどうだったかより、
「どういう物を作りたかったか」を想像するのが好きで、このブロックの以降の文章は
窓の、そういう空想です。
スライムについて
スライムって、なんか、こんなかんじだったっけ…?ホンモノのスライムじゃないのか??
と感じる絶妙な造形のスライム。え?なんか、さんざんいろんなコラボとか
3D化とかで正解の形出しまくってるのに、これは・・・??
という雰囲気の絶妙スライム。
名探偵ピカチュウ以降、
「相棒マスコットキャラはちょっとブサイクのほうがいいんじゃない?ほら、『不完全の美』って感じでさぁ」
という風潮があるのでは?という圧力があるのでは?というなんだかわからない
幻影のようなもの、見えるんですよね、もちろん窓の空想ですが。
かわいいほうが良いに決まってんだろうが!しわくちゃライアン・レイノルズピカチュウ、かわいいやろが!!!
オチの話
世界の外側(現実)の存在について
『近未来のドラクエVRの体験会』という設定、悪くはない!
係員がコスプレしてる感じとか、ゲームショー的な作り込み感じてむしろ好き!
ただ、ただ…この映画全体を貫いている「なんかズレてる」が本領を発揮しすぎて、
頭を抱えてしまった。
隣の千鳥大悟はポカーンとしてた。隣の隣のノブもポカーンとしてた。
「あ~!レゴムービーがやりたかったんだな!」という評判を先にTwitterで見かけてたので、
オチについてはなんとなく想像して挑んでました。
(というか、実際映画を見るとは思ってなかったのでネタバレ対策を全然してなかった。)
(どちらも好きなところがある映画なので「ドラクエ映画よりレゴムービーを見ろ!」というのはちょっと違うので、ここではレゴムービーの配信リンクとかは貼りません。アマプラで検索して。)
VRでゲームの世界に没入!という設定はむしろレディプレイヤーワンがヴィジョンとして
存在してたのかもしれない。多分してた。
レゴムービーの最高だった点は、最初から「レゴがレゴとして可動し、レゴとしての機能しかない」という
描写がたっぷりあったこと。現実のレゴのようにちょっと成形時の継ぎ目の凹凸が残っていたり、
ミニフィグはミニフィグの可動域しか持たなかったこと。
それから、現実は現実(実写)だったこと。
レゴムービーとちょっと事情が違ったこと、それは
既に「3DCGキャラだけど現実の人間として見ること」という前提が共有されてしまっていること。
3DCGアニメが既にたくさんある時代になってしまったので、
明らかに現実の人間とは違う生き物のように見えてもそれは
「この世界ではこれが”現実”の人間の姿」として見る。そういう前提が共有されてしまった世界
なんですよ。この2019年は。
これが例えばトイ・ストーリーより前だったなら
「3DCGの人間が出ているということはこれはデジタル空間なのだな?!」という前提で
世界観の説明が(本来の意図とは違っていても)出来てしまっていたのだが、
今、この2019年に3DCGキャラクター、しかもかなり豪華な作りの映像を出されたら
「画面の中の世界の現実」を信じることに迷いがない。ないのだ。
これはたぶん、良いことで、実際、絵柄がバラバラなソシャゲもVRCもVチューバーのコラボも
スッと受け入れる土壌づくりにもたぶん寄与していることなのだ。
それはそれとして、この「画面の中の現実」を信じていたら、いきなり「いや、現実は画面の外にあるでしょ」
と言われる。これ、前フリがないとびっくりしちゃうんだよな~~
度々レゴムービーと比較してしまって申し訳ないが、レゴムービーは本当にここがうまかった。
序盤にミニフィグの主人公がある種の幻覚を見る。そこには既に「現実(実写)」が登場しているのだ!
このシーンでは、単なるサイケデリックなフラッシュバックの中に「意味不明な情報」を表現する
材料の1つとして実写の映像が混じっているだけ
とも取れるような映像になっているのだが、
実はそれが「我々(レゴ)の世界より上位の時空の存在がいて」という話に繋がってくる!
この仕掛けに窓は痺れてしまった。
なぜなら『時空・次元を越境して影響を与える者』という存在が大好きな
サイエンス・フィクションのオタクだからだ。
『フラットランド 多次元の冒険』のあらすじを読んだだけで脳内物質の
分泌がピークになってしまって積んでいるオタクだからだ。
この話はまた長くなるしアニメ版ゴジラの話に飛躍するので割愛するが、
とにかくレゴムービーはここがうまかった。
ドラクエ映画にも良いところはあるので比較してどっちが優れているという話ではないのだが、
ドラクエではこの「現実」の存在の使い所、使い方が絶妙にズレていて、
まず前フリが無い。
いや、無いことはない、実際ちゃんと作ってある。
まず第一に映画開始直後、ゲーム風(これがちゃんとドラクエ5風なのかの判断が窓には出来ない。なぜならやったことがないので)の
メッセージウィンドウが出る。そして幼少期の旅のシーンはゲームのプレイ画面だ。
それに、ちょくちょく「”今回”はそういう事になってるんだよ…」みたいな台詞もある。
魔女からもらった秘薬でシステムに干渉するシーンさえある!
だけど、だけどなんだろう、
もともこもない事を言うと、窓はこの映画に「現実」の登場を望んでいなかったんだろうな。
そのせいで、いくつかの前フリを見て見ぬ振りをしてしまっていたことは、ごめん。
というか、VRオチであることには概ね予想がついていたので、「たのむ!現実よ!出てこないでくれ!」と
こっそり願っていた。それは、ごめん。
しかし、これが前フリとしてキチンと機能していたかどうか、それはもう少し書いておきたい。
まず最初のメッセージウィンドウとプレイ画面のシーン、
後から考えれば前フリなんだけど、終わったしばらく経つまで全然前フリだったと気づかなかった。
あれは世界観紹介パートなので、例えば
スターウォーズの冒頭で漆黒の宇宙を黄色い文字列が飛んでいるシーンを
「この文字列が宇宙をさまよっているのか」と捉えたらそれはもうそういうパロディギャグだし
世界観紹介パートが水墨画風、巻物風、コミック風になった映画に対していちいち
「そうか!”これはフィクションですよ”ってことか!」って捉えないように、構えないように
映画を見るクセを付けてきたので、
これは前フリとして作られたのか自体ちょっとわからない。
前フリとして作られたならちょっと機能不全だし、
前フリの意図が無い、単なる原作既プレイ者へのサービスだとしても
本編の展開に絡むノイズになっちゃってない?
と感じたのだった。
残りの「”今回は”」のセリフや、自己暗示システムへの干渉、
あれは明らかに前フリとしての意図がある。
だからこれを無視したことはごめん。
ただ、ただね、自己暗示システムへの干渉、あれに関しては
「え、じゃぁフローラは”現実”の存在を知ってるの?!知ってないけどシステムによる影響を嗅ぎつけたの?!自我を持ってシステムに干渉したのか?!それもはや情報生命体では?!第四の壁破壊能力者か?!実はラスボス?!別のプレイヤー?!別のウィルス?!?!」
ってなってしまうのでこれもノイズにカウントしていいですか?!
そしてなによりも”現実”の存在を受け入れにくくしたのが
『”現実”も3DCG』だったこと。
悪くはない!それ自体が悪いわけじゃない!
ただ、この映画でやりたいことがレゴムービーだったとするならば、
やっぱり現実を3DCGにしてしまうと、抜け落ちてしまうものがあまりにも多い…
ゲームキャラそっくりの顔の”現実”の人間。いや、それ自体は悪いわけじゃない。
ただ、この作品のテーマを表現するならば、やっぱり
「ゲームの中の人生」と「現実の人生」を別世界として描いたほうが
この映画に『現実』が存在する意味があったと思うのでした。
うーん、ゲームの中の主人公と現実の主人公をそっくりに描いたことで
「ゲームも現実と地続きな人生の一部」ということを表現したかった。とも捉えられるかも…?
それと、このオチ、テーマと微妙に噛み合ってなくて、
テーマは「ゲームで体験した人生だって、人生の一部じゃん!」なのに
悪を倒して世界を救う事にめちゃくちゃ気持ちがノッてる最終決戦直後に
ラスボスとして『現実(を突きつけてくる寒い説教するやつ)』が出てきちゃうと
「うおおおお世界を守るために『現実』を倒す!!!」ってなっちゃうでしょ。
しかもチラ見えしていた前フリに対して
「たのむ!現実とか出てこないでくれ!この世界を楽しませてくれ!」
って願っちゃってたので。
実際、『現実突きつけウイルス』がゲーム世界を壊す演出があるせいで、
『世界を守る』戦いは継続してるのに、構造が『対立』ではなくなってしまってるんですわ。
現実突きつけウイルスの主張は『現実だけが現実』で、(この件に関してはスピルバーグに「目を覚ませ!!!現実もオアシスもニューロンの発火パターンが見せた幻覚だろうが!!!そこに境目なんてありゃしねえんだよ!うまい飯だって食えるようにするのがサイエンスだろうが!!!」と言いたいけどここでは言わない。)
主人公が勝ち取るものは『ゲームも本当に人生の一部』という自分の人生への肯定感なので、
現実は敵ではないはずなんだけど、現実が敵に見えちゃうので
ウィルスを倒したら「よっしゃ!現実は消え去った!ドラクエの世界で生きられるぞ!」みたいな
気持ちになっちゃってて、大オチで「さぁ!君の現実のストーリーの続きをやってね!」って言われると
「え???敵だった、あの薄ら寒い時代遅れな説教をぶってた『現実(実際にはウイルス)』と戦い続ける人生がはじまんの???未来永劫時の狭間で戦い続けエンド????」
ってなっちゃうんだよな~~~
現実が人生の土台として続くことは前提で、ゲームを「非現実」と捉えるか「現実の一部と認める」か
という話をしたかったと思うんだけど、
綺麗すぎる映像と音楽のせいで、ドラクエ世界が現実より魅力的に見えてしまうと、
もう頭の中で価値の逆転は完了してて、「映画の中の世界の現実」をずっと感じていたい。
となってしまうのだった。
特に最近、個人的な事情としてVR技術や、バーチャル世界に生きているというテイの
バーチャルユーチュバーとかにふれる機会が増えたことで、
「じゃぁ”現実”ってなんだろう?”現実”の人間だって場所や役割によって人格を緩やかに切り分けたり共有したりして暮らしてるんだし、それってそもそも人間がバーチャルな存在と言えるのでは?」
みたいな考えの強度が増してきているので、
「現実は現実。でしょ?」みたいに言われると反射的に
「はぁ~~~~???なにを持って現実は現実って言ってるんですか~~???お前が見えている”現実”とやらが実在(未定義)するってどうやって証明するんですかぁ~~~???全部広義バーチャルだよバーチャル!!!」
というモードに入ってしまう。
ただ、これはドラクエ映画の客としては想定されていない反応だと思うので、言い過ぎだと思。ごめんね。
「ゲームで過ごした人生だって、ちゃんと人生の一部になってるんだ!」
というメッセージ自体はいいと思うんですよ。うん。窓もそう思う。
ただ、
その直前の
「なに熱くなっちゃってんの?たかがゲームでしょ?」
と
大オチの
「さ!ゲームの時間は終わり!あなたはあなたの現実をやっていってね!」
というあれ、あれはさ~~~~~
100%悪手とは言わないけど、やっぱり、これもこの映画にずっとある
「なんかズレてるな~」
という違和感が100%発揮されてて、
「あ~~~やっぱズレてたか~~~~」
ってなっちゃうやつでした。
この大オチを見ちゃうと、中盤までずっとあった
「このむず痒さ、この『なんかズレてる気がする』感、単に窓がドラクエやったこと無いから、パロディを真面目な雰囲気で見せられ続けてるような感覚がくすぐったいだけなのか?それとも、本当にズレてるのか…?」という疑問が
「本当に全部ズレてた」という確信に変わってしまって、
序盤まで逆上って全体の評価が下がってしまうので
勘弁してくれ~~!!
と思った。
こういうオチになったのは
「今30年前のゲームを映画化って、普通にストーリーなぞってもしょうがないでしょ!今やる意味を与えなきゃ!」
ってプレッシャーをめちゃくちゃにかけられた結果
こういうオチを付けざるを得なかったのかも…とも想像するんだけど、
まぁ、その、ゲーム内で「これってゲームの中じゃん!」って知ってしまう展開、
よくある展開なので、上手く使えば良いものになるんだけど、
この映画だとやっぱり出しどころがズレてて、
ゲームしてたらいきなり親にテレビのコンセント抜かれて
(窓家はゲーム機のたぐいがなかったのでゲーム機のコンセントではなく
テレビのコンセントを抜く事が娯楽強制中断の象徴だった。)
現実に不意に引き戻される。
という経験の追体験でしか無いので…。
本当に、上手く使えば良いものになるんだよ~~~
これで「ゲームの中でゲームって気づく展開、全部クソ」みたいな風潮になるのだけは
困る~~!!
というか他のズレた演出も全部、ただズレてるだけで、よく使えば良いものばかりで
『世界のシステムそのものに干渉してくるウィルス』や
『実はずっと主人公と旅をともにしてきたアンチウィルスソフト』も、その他諸々も
それ自体は使い古されてるなりに悪くないアイディアなんだけど、やっぱり
「これはドラクエ映画で使われた手法なのでクソ」みたいになったらと
思うと怖くて震えている。
超有名作品を2時間にするということで制作に関わった人も、直接関わらなかった人も、
なかなか厳しかったであろう制約の中作られたものだということは
なんとなく伝わってくるので、なんというか、
良いところはとても良かったです!
実際、ドラクエ部分は初めてドラクエに触れるにはかなり良い出来栄えだった!
ビアンカかわいかったし!
ドラクエ5のあらすじを読んだ
帰りの電車の中で、ドラクエ5のちょっと詳細なあらすじを読みました。
窓が「うおおおドラクエってすげぇ~~!!!」って思った展開や演出は
ほとんど原作の部分だったことが分かった。
ドラクエ、すごい。