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「わ……私ですか? アイドルプログラム」 「まあ、いいじゃない。楽しんでくれば」 「はい……」 私は落胆した。教師プログラムが良かったなあ。この歳でアイドル体験とか……あとで報告書まとめないといけないことを考えると憂鬱だった。後々自分を客観視した文章を書かされるとわかっていてアイドルごっこに興じるのは難しい気がする。 今この社で開発中の睡眠学習装置。寝ている間に特定の夢を見させることで、安全かつ手軽に様々な「体験」を得ることができるすごい装置……になるはずの機械だ。来週からその試験を始めることになり、複数の体験プログラムがチームメンバーに割り振られることになった。色々な人の記憶を基に作られた学習プログラムは、教師やパティシエなどの職業系から、お祭りとか災害とかのイベント体験、ダンスや武道の型を繰り返す直球の学習系まで、多岐にわたる。私に割り振られたのは職業もの、アイドルプログラムだった。つまり来週から私は自分がアイドルになったかのように振る舞い続けるのだ……一か月も。 (あー最悪) アイドルに憧れたことが人生で一度もなかったといえば嘘にはなる。けどそれは、男子小学生がスーパーヒーローに憧れるような程度のもので……マジなものではない。私は自分が携わった教師プログラムの出来を確かめたかったのが、関係ない人の方が効果のほどを確認するのにいいだろう、ということで各自関係ないプログラムが割り振られることになった。 職業型プログラムの辛いところは、体感時間が長いこと。一か月。私はこれから一か月もの間、夢の中でアイドルになる……。自分がフリフリの衣装を身にまとい、ステージの上であざとく振る舞っている姿を想像すると死にたくなってくる。あー……もう。 土日の間、久々に全身をよく手入れした。毛を剃り、スキンケアして、美容室に行き髪を整え、脚にマッサージ。現実で何しようが夢の中にはそうそう持ち込めないとわかってはいても、ぼっさぼさのみっともない姿のまま、さあアイドルになってくださいというのもキツイ。心構えの問題だ。 月曜、私は装置の中に横たわった。これからいよいよ私は……アイドルになる。装置とプログラムに問題なければ、体感時間は一か月。現実では八時間ほどか。サポートに回された人たちが気楽そうで羨ましい。向こうは向こうで寝てるだけの私たちが楽だと思っていそうだけど。 「それじゃあ、機械動かしましたんで、寝てください。おやすみー」 強制的に寝させる機能はないので、寝るのはセルフだ。社内、それもものものしい機械の棺桶に閉じ込められた状態で早々寝つけるわけもなく、私は夢の中に入るまで一時間以上かかってしまった。次からはなんかアロマとか……あった方がいい……かも……。 目を覚ますと、私は見知らぬ簡素な部屋の中に寝ていた。睡眠学習装置のベッドじゃない。柔らかい普通のベッド、蓋もされていない。部屋はベッド以外に何もなく、何となく感覚がふわふわしていた。枕横のスマホが鳴り、私はマネージャーから呼び出された。事務室に来いと。 (まね……マネージャー?) のろのろと部屋から出ながら、上手く働かない頭の中で、私は自分が何者だったかを思い出した。ああそうだ、私はアイドルだった。 部屋の外は長い廊下で、窓もない。ゾクッとする閉塞感に襲われながら、私は事務室のドアを叩いた。この建物というか空間に来たのは初めてだと思うのだけれど、不思議とどのドアが何の部屋なのかぼんやり把握できている。 事務室には同じアイドルグループの仲間が三人並んで立っていた。どの子も可愛い。挨拶を交わしてから、なんで皆高校生ぐらいなのに、自分だけ二十半ばなのだろうと思った。 マネージャーは次のライブに向けて新曲の練習を始めるよう告げた。私たちはまた終わりのない廊下に出て、同じ扉が永遠に並んでいる中から、迷うことなくレッスンルームに移動した。私は高校生三人に混ざって、可愛らしい振付といかにもなアップテンポの歌を練習した。特に指示とかはなかったけれど、不思議とどう踊ればいいかわかっていたし、歌詞も覚えていた。でも上手く踊れるかは別問題で、出来るようになるまでかなり練習を積まなくてはならなかった。ライブは三日後だから、それまでに覚えなくちゃ。 今日の練習が終わり、また廊下に出る。仲間の三人は永久に続く廊下の中から、各自自分の部屋の扉に消えていった。そういえばこの建物、外に出るところがないっていうか……全部世界が完結しているの、思えば不自然な気がする。楽でいいけどさ。本番のライブ会場も確か、ここの廊下にあるはずだ。気になって本番会場の扉を開け、中をこっそり覗くと、その先には既に熱狂した私たちのファンで埋まったライブ会場が見えた。すごい熱気。頑張らなくちゃ。 扉を閉じて自分の部屋に戻る。ベッドしかない無機質な空間。私はそのまま横になった。丸一日踊り続けたのに体はまったく疲れていない。何も食べていないしトイレにも行ってない。ああそういえばこの空間、トイレもお風呂もないんだった。なんでだっけ……ああそうだ、これ夢だもん。アイドルごっこをするための……あぁ。 私は自分が本当に何者だったのかを、ようやく自覚できた。藤原芽衣二十六歳、職業エンジニア。何でアイドルしてるのかって……これ夢の機械だったんだ。 気づいてしまうと、これが中々地獄だった。衣装合わせの時、高校生三人に混じって彼女らと同じフリフリの可愛い衣装に身を包み、歌い踊り、そしてこれからステージに立ってアイドルとして振る舞うのだと思うと、かなり心が締め付けられた。こんなん拷問じゃん……。でも体は止まらない。私は疲れない体で三日間踊り続け、嫌でも振付を覚えさせられた。疲れないのはいいね。生理現象も存在しないから、かなり特訓効率がいい。やっぱもう少し有意義なプログラムがよかった。 ライブの日、私たち四人は会場の扉を開けて飛び出した。 「やっほ~、みんなー。こんにちはーっ!」 廊下が本番会場のステージに直結なのってどうなのと一瞬思ったけれど、まあいいか。私が制作に関わった教師プログラムも学校以外は作らなかったし。それも半分は誤魔化しで、実際移動できる教室の数はごくわずかだった……と思う。今はアイドルの自分に体も精神も乗っ取られているので、あまり現実のことに頭を割けない。 可愛らしく自己紹介をして、私たちは踊りだした。高校生三人に混じってこの衣装この振付はやはり相当にきつかった。お客さんたちは終始熱狂し続けるだけで誰一人疑問視する者はいないが、私は恥ずかしすぎて死にそうだった。逃げ出したいけど、体は踊り続けるし、媚びた仕草をやらされるわ得意気にファンサは飛ばすわ、いたたまれなくて泣きそうだった。 ライブ自体は大成功。ていうかまあ失敗ルートは多分存在しないのだけれど……。締めの挨拶をして手を振りながら、私たちは扉に戻った。永久に続く廊下に戻った瞬間、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返り、熱も感じず音もしなくなった。扉のすぐ向こうにあのライブ会場があるのにねえ。 マネージャーさんに労われてから、私たちはまた自室に戻った。他の三人がどうしてるのか気になって扉を叩いてみたけれど反応なし。扉も開かない。多分作ってないな。 それからはずっと、私は夢から覚めることなくちょいとホラー染みた空間の中でアイドルをやらされ続けた。握手会、ラジオ、バラエティ番組、ネット配信。様々な活動が用意されていて、まあ正直言うと楽しくなかったと言えば嘘ではある。プログラムの意識補正もありずっとこの夢を続けていると、本当に自分が人気アイドルかのように思えてくる。楽しい。でもネット配信はキツかった。私と他三人の姿、顔がそのまま映し出されている。水も弾きそうな若い肌の可愛い子三人と、普通に二十半ばの自分が混じってあざとい仕草と高い声でアイドルごっこに興じている姿を見せつけられると、流石に目が醒めそうなほどのショックだった。……他の三人、いらなくない? ソロアイドルでいいんじゃ? でもこの子たちは可愛いんだよねー。夢のNPCなので当然容姿性格ともに抜群で、話しているだけで癒されることもある。消すには勿体ない。……事務所のスタッフとかがいいかな……? 終わったら改善案に書いとこう。 そんな生活を一か月も続けていれば、自然と所作があざとくぶりっ子染みてくる。声も気づけばかなり高くなっているし、多くの人たちが自分に夢中になっていることがさも自然で当然のことのように思えてきてしまい、時折フッと我に返っては布団に丸まって死にたくなる時間があった。それでもまあ、そこ織り込んでも総合的にはうん、正直……楽しい。まさか自分がアイドルやれる日が来るなんて思ってもみなかった。でもそれは結局、自分には無理だから、不相応だからと言い訳して真の欲望に蓋をし続けていたに過ぎなかったのかもしれない。可愛くありたい、そしてそれをチヤホヤされたい。自分にこんなみっともない煩悩がずっと隠されていたなんて。でもうん……女ならきっと皆そうなんじゃない? 男もかも。 目が覚めると、私は困惑した。生々しい世界の感覚がよみがえる。私は機械の棺桶みたいな中に横たわっていた。あれえ? ライブは……? ファンが待ってるのに……。 そして一人で顔を真っ赤に染めてしまった。いないよ! 私のファンなんて! 全部夢の……職業体験プログラムだよ! 喪失感と安心感。相反する二つの感情を抱きながら、蓋が開くと私は照れ笑いを浮かべながら起き上がった。あー……いい夢だったでいいのかな? 実験室も同僚たちも久しぶりに感じる。一か月……のはずなのに、実際には寝てから一日経ってないことに驚く。あうー、マジかぁ。 「藤原さん、大丈夫ですか? 帰れます?」 「うんっ、大丈夫っ、ありがとっ」 一瞬の沈黙のあと、私はリンゴのように赤くなった顔を両手で覆い隠しながら、その場にうずくまった。 「まあ……楽しめたようで良かったですね!」 「ごめん……やめて……すみません」 懸命に声を低く低くしようと努力しながら、私は職場を辞めようか真剣に悩まなければならなかった。 翌日。報告書をまとめる傍ら、一人ずつ学習結果のチェックが行われた。夢の中で学んだことを現実でどこまで使えるかどうかなんだけど……私は戦慄した。えっ、それって……私の場合は……? カラオケ機器を用意し、私はアイドルソングの完コピができているかどうかを、同僚たちが真剣な眼差しで見つめている中テストされた。しかも録画もされている中で。……嘘でしょ? 真っ赤になりながらも、薄れゆく夢の記憶を頼りに、私は歌い踊った。ついうっかりいつものようにファンサも飛ばしてしまった時には、中断して崩れ落ちた。するとまた最初からやり直されるのだ。もう無理殺して限界。 散々笑い者になりながらも、ようやく解放された私は、自分の醜態を誤魔化すかのように、急ぎ改善案を書きなぐった。全部このクソプログラムのせいだ。うぇーん。そして定着率を図るために、今後も間をおいて継続的にやらされることを思い出し、私をアイドルプログラムに配した人間を心底恨んだ。 後日。テストの結果は全体的にあまり芳しくなかった。起きたら夢の内容を急速に忘れる問題は解決できたという話だったはずだけど、一週間でほぼ全員抜けきってしまう結果に終わった。学習の冠は外して夢体験に路線変更でもよくないかと私は思ったが、それは私がアイドルという当たりプログラム(異議あり)に回されたからであって、永遠に空手の型を練習させ続けられた人とかにするとそういうわけにはいかないらしい。 脳への刺激強度をずっと高めての再テストが行われることになった。危険じゃないかという声も多くあったものの、やはり実際にやらないとその危険のほどもわからないということで再テストは承認された。この装置で上手く夢を見せられるのは「概ね同じ社会を生きた人間の脳」だけであり、動物実験は行えないのだ。同じ人間でも外国育ち等だと夢がプログラム通りにはいかないケースが多いことも確認されている。 最長一か月のアイドルプログラムを耐えた(?)ことが評価され、私も第二テスト要因に選ばれてしまった。嫌だなあ。今回はちょっとリスクもあるのに。でも手当がつくことになったので、私は断らなかった。それに内心、またアイドルになってみたいなあと思う気持ちも、正直ゼロではなかった。同じプログラムはないとわかっているけど。 私に振り当てられたのはメイドプログラムだった。えぇー、じゃあ働くのか……夢の中でも……。前回体験者に話を聞きに行ったが、もうあまり覚えていないということで参考にならなかった。ただ、そこまで苦ではなかった気がする、とも。 観念して機械の棺桶に入り、私は再び夢の世界に旅立った。今度はアイドルではなく、メイドの訓練生として。 目が覚めると、見知らぬお屋敷の一室に転がっていた。私は急いで身を起こし、メイド服に着替えた。ロングスカートのクラシカルなメイド服は品を感じた。背筋を伸ばして廊下に出ると、ちゃんと突き当りに壁があった。部屋ごとに扉が違う……いや、お屋敷の間取りがちゃんと設定されている。不思議と前回の記憶が蘇り、私は感心した。メイドプログラムは出来がいいのかな。自分が何をすべきなのかも何となくわかっている。私はいそいそと駆け出し、キッチンでご主人様の朝食を作り出した。体は放っておけば勝手に動いて自動的に進行していく。初めて訪れたキッチンのはずなのに、どこに何があるのか私はぼんやりと把握できていた。現実より遥かに手際よく料理を作り上げると、テーブルにこれまた綺麗に配膳できた。私がこんな上手く家事ができるなんて……。これ寝てるだけでモノにできたら、本当に便利だな。 ご主人様がやってきたので、私はスカートの裾を軽くつまんでお辞儀し、朝の挨拶をした。彼の年齢は二十そこそこ……といった雰囲気。私はこの人にお仕えするために存在しているんだ、頑張らなくちゃ、という強い意識が湧いて出る。そして洗脳されているかのようでちょっと怖くなる。 食べ終えた後の片付け、ご主人様の支度、かなりバタバタと忙しない朝だった。メイド一人だと結構大変だな。このお屋敷、私しかいないのかな? 「いってらっしゃいませ、ご主人様」 彼を玄関で見送ったあと、ようやくムービーシーンかのようだった自動進行が終わった。ちょっとお屋敷探検してみようかな。どこまで作ってあるんだろう。そして歩く自分の所作が、いかにもメイドらしいものになっていることに気づく。メイドプログラムは、練習なしで自動インストールみたいな形式で進むようだ。スカートの前に両手を重ねてしずしずと歩く自分がなんだかおかしかった。 (あっ、お洗濯しなくちゃ) そしてこなさなければならない家事が多くあることに気づき、私は屋敷の探検を中断し、駆けだした。ていうか探検しなくっても、何となくどこに何があってどうなっているのかがわかる気がする。人の気配がないお屋敷を駆けずり回りながら、私は一人ですべての家事をこなさなければならなかった。でも体が疲れることはないため、あまり苦痛は感じない。ずーっと働き詰めなのに疲れないなんて変な感じだ。 廊下を彩る名前もわからない高そうな飾りの手入れをしながら、自分がこういうものの清掃をこなせることがコントのように面白かった。自分で何なのかわからないのに、どこをどんな手順で、何を使って磨けばよいのか全て体は把握しているらしく、止まることなくスムーズにこなしていく。そのギャップが可笑しかった。 気づけば夕方になり、ご主人様が帰宅した。する前に何故か、お帰りになるとわかったので、玄関で待機してお出迎えした。 「おかえりなさいませ、ご主人様」 しっかりと腰を曲げてお辞儀しながら定番のセリフを放ち、私は仕えるべきマスターの鞄と服を預かった。彼の脱いだ靴をそろえ、夕飯をいつ召し上がるか尋ねる。顔も名前も知らないはずの男にこうして仕えていることが無性に嬉しくて、もっと彼のために働きたい、働いていたいと思ってしまう。彼から苦労を労われるような言葉があると、ものすごくうれしくて胸がキュンキュンした。三日もすると、私は身も心もすっかり彼のモノと化していた。自分が本当は彼のメイドではなくこれは夢であることを思い出すと、落ち込んでしまうほどだった。そんな……ご主人様のメイドである私が彼とお別れしなければならないなんて。ずっと彼のためにこの身を捧げていたいのに……。そして時折、あまりに影響が強すぎないかと不安になる。自分自身は何も食べず、トイレにもいかず四六時中彼のために働き続けている。そんな異常な献身を当然だと感じてしまう自分が少し怖い。 自分が自分の意志で動いているのか、それともロボットのようにプログラムで動かされているのかも曖昧に感じる。夢の中で自分の意識というものが完全には覚醒していない中、自分が自分の意志でしているはずの立ち振る舞いが全てメイドらしい所作として表出しているのが不安だった。私は本当に私なのかな。アイドルの時には思わなかったことだ。 半月もメイドをしていると、徐々に私の動作に変化が現れた。胸の前で両手を組んで、上目遣いでご主人様を見つめる。たまに彼が私の長く伸びた髪に触れたり頭を撫でたりすると恐ろしく承認が満たされた。廊下ですれ違うとスカートの裾を持ってお辞儀すべきところを、ニコッと笑いかけたり、たまにあざとい媚びたポーズで微笑みかけてみたり……。こういうの、どこかでやったなあ。どこだっけ……。あっ、アイドルプログラムだ。これ。 忘れたはずの夢の記憶が、夢を見ている間にだけ蘇る経験があった。これもそれと似たようなものなのだろうか。アイドルがちょろっと今の私に混ざりこんできているみたいだ。これは重大な欠陥であり興味深い現象だと言える。 家事を合間を縫って、私はちょっと踊ってみた。すると驚くべきことに、忘れたはずの歌と踊りをほぼ完璧に再現することができたのだ。 (おお……) これはすごい。忘れたわけじゃなかったんだ。じゃあ強度を上げる必要なかったかも。いやでも現実で思い出せないならダメか。現実……現実? 私はもうすぐ自分がご主人様の下を離れなければならないことに気づき、酷く悲しくなった。メイド失格だ、私……。私はご主人様のメイドなのに、おそばにいることができないなんて。 最後の夜、私は涙目でご主人様にお休みなさいませ、と告げた。もう会えないんだ。もう私は彼のメイドでなくなってしまうんだ……。そう思うと無性に辛くて、中々寝付けなかった。 鉄の棺桶で目覚めた瞬間、全てが馬鹿らしくてスッと気分が冷めた。なんで私はあんな……ただのNPCにあそこまで恋焦がれていたんだろう。わからない……。 蓋が開けられたので起き上がり、床に立って私はスタッフたちから質問を受けた。気分はどうか、自己紹介できるか、痛みは……。 私は両脚をピタリと閉じて背筋をまっすぐ伸ばしたまま、淡々と質問に答えた。誰も私の異変に気づかなかった。自分自身でさえ。 一か月ぶりの帰宅。本当は一日も経ってないけど。私は手際よくパッパッと夕飯を作り上げ、我ながら驚いた。これは……学習成功なんだろうか。すごい。明日のテスト楽しみ。家事だから、アイドルの完コピと違って恥ずかしくないもんね。私は自分の所作全てが依然と異なっていることに、翌朝を迎えてもなお気づけなかった。まだ記憶も鮮明なうえ一か月も過ごしたせいで、すっかり私にとっての普通になってしまったのだろう。 出社後、私は「いつものように」深くお辞儀して挨拶し、相手を驚かせてしまった。 「藤原さん大丈夫? まだメイド?」 「えっ? ……あっ、いえ、大丈夫です、ご心配をおかけして申し訳あり……ま、せん?」 スカートの上に両手を重ねてお辞儀したまま、私は自分がおかしいことにようやく気付いた。これじゃまるでメイド……夢の中みたいに。 家事テストは概ね完璧だった。問題はそれ以外も完璧だったことだ。私の動作全てがメイドらしい振る舞いに置き換わっていて、砕けた口調で接していた同期相手にも敬語かつ大げさな動きで対応してしまう。誰かに命令を受ければ、 「かしこまりました、土田様」 とお辞儀して従う。私はこの一連の動きに反抗できなかった。癖になってしまったのではない。自然とこうなるのでもない。体が勝手に動いてしまうのだ。嫌でも従ってしまう。常に背筋を伸ばして、誰彼構わず様呼び。恥ずかしいのとパニックなのとで、耳まで真っ赤だった。 私だけではなく、昨日テストを行った人全員に似たような症状が出たらしい。やっぱり脳への刺激を強め過ぎたのだ。 「あのう……私、どうなるのでしょうか?」 私は背筋を伸ばし、スカートの前で両手を重ねたまま質問した。今すぐどうにかする方法はないから、自然に抜ける……忘れるのを待つしかない、という返事に私は落胆した。嘘ぉ……。それまぜずっと、こんな痛いキャラのままなの? 会社で……それだけじゃない、自宅でも……通勤中も。 しかし社内には悪戯好きがいたもので、翌日には私の机上にメイド服がドンと置いてあった。誰が置いたかわからないその服を見た瞬間、私の脳内シナプスが煌めく感覚があった。体が勝手にそれを手に取り、更衣室へ向かって歩き出す。 (あーっ、待って待って待って! 誰か! 誰か私を止めて!) 自分が何をしようとしているのかはわかる。しかし歩みを止められないし、周りも誰も助けてくれない。自分の手足なのに言うことをきかない……いや、自分の脳が汚染されていて、誤った指令を出し続けているのだ。私は一秒も抗うことができないまま、全身をメイド服に着替えてしまった。それも、夢で着ていたまともなクラシカルメイドではない。いかにもコスプレ感のある、フリルやリボン満載のミニスカ衣装だった。真っ白なニーハイソックスに肘まで覆う白手袋、ホワイトプリムも装着したメイドコスプレイヤーに変身し、私はその姿で部屋に戻ってしまった。 「ぷっ……あ、あははは」「マジかよ」「はい俺の勝ち~、昼奢りな」 恥辱の視線と嘲笑を受けながらも、私はその場から逃げ出すこともできず、手袋一つ脱ぐこともできなかった。メイド服とそれ以外があれば、私は絶対にメイド服を優先してしまう脳汚染を受けたらしく、どうしても自分の意志では脱げないどころか、脱ごうとすることすらできない。 「うわっ、どうしたの藤原さん、それ」 「おはようございます、土田様。これは私の制服……で……す」 短いスカートの裾をつまみながら私は挨拶し、あんまりな仕打ちに顔を赤らめながら、メイドらしい振る舞いを強制され続けた。 汚染は思ったより長く続き、私はミニスカメイド姿のまま勤務することを余儀なくされた。当然ながら目立つし噂は千里を行くし、関係ない部署の人たちも見に来て嘲り笑う。腸が煮えくり返る思いだったが、私は従順なメイドとして上品に振る舞い続けることしかできない。屈辱だった。可愛いと言ってくれる人もいるけど、なんのフォローにもならない。 質が悪いことに、帰る際には誰かに脱がしてもらわないといけない。自分では脱げないからだ。誰かの命令待ち。最初は気の毒に思ってちゃんと協力してくれても、日数が経過し、私がメイド姿でメイドらしく振る舞うことが日常風景と化していくにつれ、悪戯も増えてきた。誰も「脱げ」と言ってくれない日。私はミニスカメイド姿で帰宅するか、会社に寝泊まりするかの二択を迫られた。逆に「着替えるな」とか「そのまま帰れ」と命令される日。 「かしこまりました、黒田様」 (んあああああっ! ふざけるなふざけるなふざけるなあーっ!) 私は「何アレ」「うっわ」「やば~」などの声を背に、メイドのまま強制的に往来を歩かされ、電車に乗り、見世物にされることを余儀なくされた。 (んん~っ、やめてぇ、見ないでよーっ!) スマホで撮られる音がするたび、私は何もかも捨てて引きこもりたくなる誘惑にかられた。でもそしたらコレ治らないし……。今の会社を辞めることはできない相談だった。 リアル一か月でようやくメイド洗脳が解けてきた時、悲劇だか喜劇だかは起きた。社内の廊下で私は記憶から消えつつあった人とすれ違った。間違いない、あの顔は――。 「……ご主人様っ!?」 叫んだ瞬間、慌てて口を……閉じれなかった。私の体は慌ててメイドの基本姿勢をとり、お辞儀して彼が通るのを待ち構えた。当然、彼は困惑しながら私を見て 「あ……『あの』藤原さん?」 と気まずそうに尋ねた。 (あーっ!) すっかり社内の有名人だった私は、やはり他の部署にも……ていうかこの人は? 間違いない、夢の中で仕えたあの人の顔だ。体型も……本人としか思えない。どうして現実に!? 「はい、ご主人様のメイド、藤原です」 私はここ最近抜けてきていた、スカートの裾をつまんで挨拶する所作をやらされた。あぐぐ……なんでぇ。 「あー……いや、なんか本当にすみません、……僕はモデルやっただけですけど」 彼は別部署の人間で、メイドプログラム担当の人に頼まれてNPC出演したらしい。名を咲村と名乗った。彼の話を受けながら、私の心臓はすごい勢いで脈動し、全身が燃えるように熱かった。彼に仕えたい、世話をしなければ、私は彼の、咲村様もメイド――そういう感情が怒涛のように押し寄せ、私はパニック状態だった。これが全部汚染由来の偽の感情だと頭ではわかっていても、現実に脳内に溢れている思いを抑えきることは不可能だった。 「咲村様、何か御用はございませんか?」 必死に堪えようとしながらもそれだけひねり出し、私は嬉しさと申し訳なさの板挟みになりながら、彼の返答を待った。 「うー、うーん、できれば普通にしてもらいたいかな……じゃ、俺はこれで」 「かしこまりました、ご主人様」 私はそう呟いて彼の背を見送った。胸の高鳴りが止まらない。誰かに彼の住所を聞かないと。早速今日からメイドとして働かなければ。彼のために。……いやっ待って待ってストーカーじゃん私! でも私は彼のメイドなんだから、今日から彼の帰宅を家でお待ちしなければ……あー! それからというもの、彼のことが頭から一向に離れなかった。もっと彼のことを知りたい。一緒にいたい。暮らしたい――。それが単に汚染がぶり返しているだけなのか、今やそうじゃない由来も混じっているのか、今の私にはまるで判断がつかなかった。

Comments

いちだ

ロボじゃないメイドもいいですね。 お風呂とかトイレとかどうするのか気になります。

opq

コメントありがとうございます。振る舞いをメイドらしくされているだけなので、その辺は普通にしていると思います。