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私はリンゴの経過をまとめ終わった。コーティングから一年、中のリンゴはその状態を寸分変えることなく保存されている。あらゆる成分が一年前そのままだ。取り出せば食べることができるだろう。全く不思議な感じだった。透視検査用の装置から出てきたリンゴは灰色一色で、その質感は石そのものだというのに。指先で触れてみても、ツルツルした石材の肌触りしか感じない。ひんやりと冷たく、とても固い。およそ生のイメージから遠くかけ離れた、この化石のような表皮の下で、リンゴは尚も生き続けている。一年間、外部から一切の栄養等の補給がなくとも。マウスたちも既に半年間、一歩も動くことのない彫刻と化しているのに、身体は至って健康、何の異常もみられない。まるで時間が止まっているかのよう。化石剤の開発は終盤を迎えようとしていた。狙っている用途は主に二つで、一つは食物。長期保存と簡便な運搬。化石剤でコーティングされた食物はバットで殴っても壊れないほど頑丈になる。しかも、その衝撃は中の食物を決して脅かすことはない。その上、化石剤が中に染みることもない。よって味にも健康にも影響は出ない。まさに夢の技術なのだ。二つ目の用途は生物の保存。化石剤は生きた動植物をコーティングすることも可能だ。そして、その動物たちは中であらゆる健康を維持したまま生き続ける。外部から餌や水、日光等を与えなくとも、そのままの姿を保存できるのだ。絶滅の危機にあるような、希少な動植物のサンプルを未来へ残すことができる。だが、二つ目の用途はまだ実用化の目途が立たない。解決しなくてはならない課題が残されているからだ。 同僚たちに挨拶して、私はラボから帰宅した。赤紫に染まった空のどこかで、カラスたちが鳴いている。まるで仲間が明日殺されることに対して抗議しているかのようだった。 (へーきへーき。上手くいくから……多分) 先生たちの案が功を奏せば、カラスは生きて石の衣から取り出せる。はずだ。 午前にコーティングされたカラスは、まるで彫刻のようであった。これが彫刻ならば、ミケランジェロも兜を脱ぐに違いない。毛並みの一本一本までもが克明に表現された石のカラスは、えもしれぬ躍動感と生命力に満ち満ちている。まあ、本当に生きているんだけど。 「上手くいく?」 「さあ?」 私と同僚は力なく肩をすくめた。半々ってとこだ。 ランチを食べた後、午後に溶解実験が始まった。化石剤コーティングは専用の溶剤につけることで綺麗に溶ける。勿論、味と健康への影響はない。食物の場合は大体問題ないのだけど、動物の場合はひと手間必要だった。健康状態を損なわないよう、動物を完璧に保存するためには、石化剤の量を増さなければならない。つまりコーティングを厚くしなければ中の動物が死んでしまうのだ。ただ、この石化剤には量を増やすと加速度的に強度が増す性質があり、これが非常に厄介だった。溶剤が意味をなさず、取り出せないのである。強力な工業用カッター等で破壊するのは簡単だけど、当然中の動物も一緒に切らざるを得ない。それでは意味がない。今日の実験は、その対策が上手くいったかどうかを試すものだ。 石化カラスを溶液に浸し、少しずつ温度を上昇させた。上手くいけば60℃ぐらいで溶けるはず。みんなが数字に着目していた。40……50……60……! だが、カラスは石になったまま動かない。固まった化石剤は、一向に溶ける気配を見せなかった。 「どうします?」 「もう少し上げてみろ」 70。80。90。100。ぐつぐつと煮えたぎっているが、カラスは石のままだ。さらに温度を上げると、110℃でようやく灰色のコーティングが溶け始め、カラスの黒い毛並みが露わになった。凍結されていた時間も取り戻し、バタバタと猛烈にもがき始めたが、あっという間に煮えてしまった。 「よし。いけそうだな」 先生は満足げに呟き、後始末するよう私たちに指示して、実験室から出ていった。いや、まあ、確かに溶解には成功したけど……。この様子じゃ、まだまだ動物たちが犠牲になりそうだ。ラボにはカチコチに石化したまま、二度と動き出さないであろう猫もいる。今は彫刻のように取り扱われていて、棚の上に飾られている。可哀想に。まあ本人に意識はないだろうから、それが救いと言えば救いかな。 その夜、私は一人で残業させられた。月の美しい、澄んだ夜だった。だが私の心は荒んでいた。突然育休で消えた先輩のしわ寄せが私にも及んできたからだ。正直なところ、腹が立たないと言えば嘘になる。何もこんな時に育休とかとらなくってもいいじゃんねえ。 作業を終え、戸締りして帰ろうとしたその時、猫がいないことに気がついた。いない、というよりは無くなっている、と表現した方が正確か。石化した猫の彫刻が、棚の上から姿を消していた。独りでに逃げ出すはずはない。あの猫の時間は止まっているのだから。じゃあ誰かが……ひょっとして泥棒!? 急に心細くなり、心臓がバクバクしてきた。確かに、彫刻としてうっぱらえば、相当な値打物に仕立てられるかもしれない。世界一精巧な彫刻と言っても過言ではないからだ。だけど……実験室にはずっと私がいたし、誰も来なかったはず。ラボの人が勝手に持ち帰るはずもないし……。誰かが場所を変えたのだろう。そうに違いない。 一応、窓やエントランスを簡単に調べてみたけど、外部から誰かが入ったような形跡はなかった。倉庫にでも仕舞ったんだろうか。でももう遅い時間だし、探すのも面倒だったので、私は実験室に戻った。帰ろう。明日誰かに聞けばいい。 ブラインドを下ろすと、月明かりが途切れ、実験室は世界と隔離された。その瞬間、後方でゴトッと、鈍い音が鳴った。何か重い物が倒れた音だった。 (ひっ!?) 不意打ちに私は縮みあがった。泥棒……。いやまさか。振り返ってみても、実験室には私以外に誰一人いない。恐る恐る、音の鳴った方へ近づいた。人影はない。何かが動いた気配もない。化石溶剤のプールが静かに佇んでいるだけだった。 (まさか……この中に……?) 私はプールの蓋を開け、中を確かめてみた。灰色の液体が僅かに波打っている。近くで振動があったことの証だ。棚から何か落ちたのだろうか。周りをよく見てみると、プールの影となっているところに、灰色の尻尾とかわいいお尻が垣間見えた。猫だ。猫の彫刻。床に転がっている。あれだ。あれに違いない。 (っはぁ~、よかったぁ~) 全ての問題が解決したので、気が緩んでしまったのだろう。猫の彫刻を元の場所へ戻そうと一歩踏み出した瞬間、プールの側壁に引っ掛かり、つんのめった。私はあっさりと化石溶剤の海に顔面からダイブしてしまった。灰色の水しぶきが飛び散り、私は受け身もとれぬまま、プールの底で体を打った。やや粘性のある溶剤がいくらか衝撃を和らげてくれたが、結構な痛みだった。 「うぇ……」 すぐに立ち上がったが、あちこちに化石溶剤が飛び散り、大変な惨状になっていた。もう大分夜遅いのに、これからこれを掃除するの……? 最悪。全身溶剤まみれだし。服は全部お釈迦だ。プールから出て床に降りる際、全身にまとわりつく化石溶剤がネトネトと糸を引きながら、私の動作を阻害した。ズシンと重いし、全身が強ばって、中々思うように動けない。 (とにかく、体洗わなくっちゃ……) 鉛のように重くなった足を必死に持ち上げ、肩で息をしながら流し台へ向かって歩を進めた。しかし灰色に染まった服が、私の腰や関節に張り付くようにまとわりつく上、段々硬くなってくるので、私は決断した。 (えーい、もう脱いじゃえ) どうせ私以外誰もいないし。さっきから鬱陶しくてかなわない。私は下着以外の服を全て脱ぎすてた。ゴトッと重量感のある音を発して、私の服は床に落ちた。これで動きやすくなった。 洗面台で蛇口をひねると、急流が私の手を洗った。だが、灰色に染まった手は一向にその姿を変えない。水が濡らした私の手は、まるで彫刻のような石の質感を醸し出し始めた。 (あれっ? これって……) ただの泥みたいだった化石溶剤が、今や冷えた石のように変わっている。間違いない。これはコーティングした時の反応だ。 (えっ? えっ!? ちょっ、嘘っ、まず……) 私はぺたぺたと全身をまさぐった。化石コーティングは、一点の塗り忘れもなく、しっかりと全身に塗った時に始まる。プールはたいした深さもないし、服を着ていたし、浸かっていたのもほんの僅かだったし、まさか全身余すところなく塗られた状態になっていたとは思わなかった。 (……や、やばいよ、ちょっと……) 心臓が脈打つ。これから現実とは思えないような事態が私を襲うのだということを理解した瞬間、全身に鳥肌が立った。このまま反応が進めば、私はカチコチに固まって「保存」されてしまう。しかも、動物を生きて取り出す技術はまだ確立できてない……! 急いで体を洗った。蛇口を全開まで捻り、腕や足を激流にさらした。しかし、洗い流せるのは「枝」の部分だけで、私の全身を覆った化石溶剤は水を弾き、艶々と鈍く輝いた。 (よ、溶剤を……) 完全に固まる前なら、溶剤で溶かせるはず。急いで準備しようと、私は倉庫へ向かった。しかし無人の廊下を駆け抜ける間に、化石剤は無慈悲に硬度を増し始めた。 (うっ……あぁ……っ。そんな……) 身体が硬く強ばり、全身が重くなり、走れなくなった。それでも、私は必死に歩いた。いやだ……このまま、下着姿で石になんてなりたくない。死力を尽くして何とか倉庫の前までたどり着いたが、もう体力の限界だった。その上、足も筋肉で持ち上げられる重量を超してしまったらしく、動かすことができなくなった。 (そんな……) 倉庫は目の前なのに。ドアの直前で立ち尽くしながら、私は絶望した。スマホもない。連絡もとりようがない。とれても手遅れだけど……。 両腕も次第に重くなり、だらんと体の横に垂れ下がった。ああ……もうダメ。このまま私の時間は永遠に止まってしまうの? まさかこんなことになるだなんて。どうして……。気がつけば顔もすっかり固まってしまい、私は指一本動かすことができなくなってしまった。もはや呻き声も出せない。瞬きさえできない。私の時間が止まっていく。じきにこの意識もなくなるのだろう。そう思うと、悪寒が走った。私が……ただの石像になってしまうのだという事実に。意識のない石化した人間と、本物の石像の、一体何が違うだろうか。 皮膚の一片たりとも動かせなくなって既に体感二十分は過ぎている。髪の毛先でさえ、僅かな振動に揺れることはなくなった。これまでの実験からすると、絶対にもうコーティング完了のはず。なのに私は生きている。いや生きるのは当然だけど……。私の意識は途切れることなく、ずっと鮮明なままだった。音も聞こえる。灰色に染まったはずの私の両目も、変わらず世界を捉え続けている。ラボの誰もが、「保存」された動物は意識もなくなるもんだとばかり考えていたのに。ひょっとして、ひょっとすると……。 (「保存」されても……意識は……なくならないの!?) 衝撃的な新事実だった。同時に、私はいたく消沈した。心の奥底で、期待していたのだ。数か月後ぐらいに、無事に動物を取り出せるようになって、私は助かる……。目が覚めれば助かっているのではないかと。しかし現実は私に地獄の苦しみを強いてきた。いつか取り出してもらえるその日まで、私は指一本動かすことも、視線を変えることもできないこの極限の拘束状態のままひたすらに耐え続けなければならないということだ。 (いやっ……そんなっ……。無理! そんなのイヤ! 誰か、誰か助けてー!) 私の胸中の叫び声は、誰にも届かなかった。 「えー、何でこんなことになっちゃったんですかー?」 「知らねーよ、本人に聞けよ」 「もしもーし。聞こえるー?」 「馬鹿、意識あるわけねーじゃん」 翌日、無事同僚に発見された私は、体のいい見世物になった。ひとまず生きているのは間違いないという安心感からだろう、みんなが「なぜ私が化石剤を被ったのか」を面白おかしく考察し、笑い合っていた。それが私にはとんでもなく悔しかった。 「実は露出趣味だったとか~」 (ち、違う! 事故! 事故だったの!) 現実的な案は既に出尽くしたので、次第に奇説珍説にシフトしていった。自分を実験台にして自爆した、酔っぱらって落っこちた、実は露出症だった、ドMだった、石化フェチだった……。 私の心は猛り狂った。人を勝手に変態に仕立て上げないで! しかも本人の目の前で堂々と! みんな私に意識がないと思い込んでいるので、全く情け容赦のないセクハラも受けた。胸を堂々とまさぐり、写真を撮り、股間を叩き、スタイルがどうの胸がどうの、下着のセンスがどうのこうの……。私はそれらに対して、抗議の声を上げることができない。嫌がっているという意志表示さえままならない。私はただ黙って突っ立っていることしかできなかった。 (さ、触らないでよ! そっちこそ変態でしょ!) 下着姿で石化してしまったのだって、したくてそうしたわけじゃない。なのにみんな、私が自分の意志で下着姿の石像になったという結論を好んだ。話のネタとしてはそれが一番面白いからだろう。羞恥と屈辱で頭の血管がはちきれそうだった。……「保存」されてなければ。身動きが一切とれない上、半裸で晒し者になって泣きたくなるほど辛いのに、私の意志と五感は常に鮮明だった。半永久的に健康状態を維持するのが化石剤の効果だけど、どうやら精神もしっかり保たれてしまうらしかった。心に暗雲が立ち込める。私は発狂することさえ許されず、元に戻してもらえるまでずっと苦しまなければならないということだから……。 今取り出そうとすると、煮えて大火傷をさせてしまう、という理由で、私は彫像となったまま放置された。 (うう……やっぱり……) こうなってしまっては、一刻も早く開発が完成するのを祈るよりない。しかし私は、心から素直にみんなを応援などできなかった。猫と同様、石像みたいに実験室に設置された私は、毎日ずーっとラボの全員に、惨めな石化姿、下着姿を晒される羽目になったからだ。男性陣のいやらしい視線とニヤついた顔が気持ち悪い。でも私は目を閉じることができない。女性陣も惨めな敗者に、或いは自分よりヒエラルキーが低い女に向ける眼差しで私を見つめてくる。その表情からはハッキリと、哀れみと嘲笑とが感じられた。 (見ないでっ、そんな目で見ないでっ) 実験室を彩る彫像となった私は、惨めで苦しい日々に耐え続けなければならなかった。いっそのこと、みんな私を無視して、空気みたいに扱ってくれれば、この恥ずかしさも少しは和らぐのに。 その願いが天に通じたのか、次第に意味ありげな視線を私に投げかける人は減少した。石化してしばらくは、私に挨拶したり、昼休みに体をコンコン叩きながら話しかけてくる人がいたりしたのだけど、誰も私に言葉をかけなくなった。……きっと私が何の反応も示さないからだろう。冷静に考えたら石像に話しかけるなんて空しいだけだし。 さらに日が経つと、私を人間の女として扱う人がいなくなった。つまり、本当に何の興味も示さなくなった。無遠慮に胸を掴んでくることも、性欲のたぎった笑みを浮かべて私を見ることもなくなった。そうなってくると、私も次第に人としての羞恥心を刺激されなくなってきて、ひとまず穏やかな心で突っ立っていられるようになった。しかし、ある時期を境に不安が増大していった。目の前の同僚たちが、私に関心を払わなさすぎる。いくらなんでも。同僚が一か月以上も石化しているというのに、誰も心配じゃないの? 早く元に戻してあげようって、思わないわけ!? やることもないので、自問自答する日々。化石剤は生物を保存するための技術。だから私の安全は保証されている。そして中の人は意識がない。それがみんなの共通認識だからだ。 (でも、だからって……少しは……) まさか、私のこと忘れてるなんてことは、ないよね? 私に代わって、後輩が一人残業している月夜のことだった。私の隣に飾られていた筈の、石化した猫が突然動き出したのだ。 (えっ!? ……何で!? 自然に溶けたの!?) わけがわからない。化石剤が独りでに溶けるだなんて。それとも、私が見ていないところで溶剤が完成したのだろうか。見たい。聞きたい。一体何が起こっているのか……。だけど、首も視線も動かせないため、気配と音しかわからない。後輩は……まだ気づいてないみたい。 猫が視界の中央に入ってくれた時、私はますます驚いた。猫は灰色のままだったのだ。 (えぇっ……! 溶けて、ない!?) 嘘だ。コーティング完了した化石剤で固まっていたのに、どうして動けるの? ありえない、絶対ありえない……。私も動こうと試みたものの、そもそも神経に指令を出すことができなかった。私の時間は凍結されたままだ。マウスでもカラスでもヤモリでも見られなかった現象。少なくとも私がいた頃にはなかった……。 (なんで……どうして、あの子だけ……) 不可思議な現象は続く。猫が物陰に入ると、突如ピタッと静止し、動かなくなったのだ。 (……あれっ?) 私と同様、ただの彫刻のように固まっている。さっきまで歩き回っていたのに。 (一体……何がどうなってるの……) 回数を重ねるうちに、段々わかってきた。推測だけど、月の光が関係あるらしい。あの猫はブラインドから漏れる月光を浴びている間だけ、動けるようになるのだ。だから物陰に入ると停止してしまう。そしてどうやら、声を出すことはできないみたい。だから動き回っていることに中々気がつかないんだ。そういえば私が石化しちゃった夜も、あの猫が変なところに移動してたっけ……。 (月の光……月の光を浴びれば、動けるようになるのね……) 原理はわからない。けど、安全な溶解を実現するのに役立ちそう。何とかしてこのことを伝えないと……。夜に誰かが残る度、私は心の中で訴えた。 (先輩! 先輩! 月です! 私に月の光を浴びせてください! 月がキーなんです!) しかし、いくら脳内で叫んでも栓無きことだった。先輩は私にこれっぽっちも興味を示さない。私という存在は、すっかり実験室の風景の中に溶け込んでしまっているんだ……。それに猫も、ラボの人間を警戒しているのか嫌っているのか、隠密行動をとるため、誰も月光の威力に気づいてくれなかった。 (うぅ……っ。私も、私にも、月の光が当たれば……っ!) 私は、私をここへ設置した先輩を恨んだ。丁度棚の陰に隠れるこの位置では、窓から差し込む月の光が届かないのだ。猫には当たるのに。 猫が月の光を浴びて動き出す度に、私は嫉妬で狂いそうになった。ずるい。ずるいよ……。あなたばっかり。私だって、あともう少し右に置かれていれば……。ほんの一歩分……。しかし、私の体はカチコチに固められていて、陰から抜け出すことはできない。誰かが私を動かしてくれないと……。 (誰か……誰か、私を動かして!) 育休で消えていた先輩が復帰すると、私を見て驚いた。 「えー、ちょっと、うっそー」 馬鹿にしたような顔で、ペタペタと私の身体を撫でまわす。怒りと安心が同時にこみ上げてくる。そもそも、あなたが育休なんかとらなければ、私があの日残業することもなかったのに。そうすれば、石になんてなることはなかった。でも同時に、久々に人間として扱ってもらえたことへの嬉しさもあり、こそばゆい気持ちだった。私が真のインテリアと化してから何週間も過ぎている。上から目線は不快だけど、構ってもらえると安心しちゃう。私は忘れられてなんかなかった、って……。 ところが翌日、クレームがついた。後ろに私がいると気が散るというのだ。復帰した先輩は私の目の前。確かに、信じられないほど精巧な石像が真後ろに鎮座していたら落ち着かないかもしれない。 「じゃあ、場所変えます?」 (!? やった!) 話し合いの結果、私を他の場所へ移すことに決定した。私は心の中で躍り上がって喜んだ。陰から出られる。月の光を浴びられる。そうすれば、動けるようになる。溶解の研究も大きく前進する……! 「それじゃいくぞー、せーのっ」 やや前方に傾けながら、同僚たちが数人がかりで私を持ち上げた。仕方ないとはいえ、容赦なく脚や腰、胸などにガッツリと腕を回されるのが腹立たしい。その上、私の胸やお尻を触っているということに、男共が何一つ特別な反応を示さなかったのがさらに悔しかった。まるで机でも動かしているかのように淡々としていた。私を台車の上に載せると、男共はフーッと大きく息を吐き、口々に「きっつー」「重かったー」などと愚痴をこぼした。意識がないと思って……。 ガラガラと大きな音を立てて、台車が発進した。 (ひぃっ……) 揺れる。ガタガタと。私の両足はひっきりなしに接地面積を変えた。 (た、た、た、倒れ……) 押してる人も倒れそうだと思ったのか、少しスピードを落とした。少しはマシになったものの、私は生きた心地がしなかった。床に勢いよく倒れて、折れたりでもしたら……。いや、化石剤はちょっとやそっとの衝撃には耐えるようにできてる、大丈夫……。でも理屈と感情は違う。筋肉の筋一本自由にできない今の私は、受け身をとることも許されないのだ。たとえ死ななくても、痛みはすごいことになるかもしれない。 (お願いっ……大事に運んで……) 台車は実験室から廊下へ出た。 (あ、あれ……? どこへいくの?) てっきり実験室内での移動だと思っていたので、ビックリした。私を載せた台車は騒音を立てながら廊下を進んでいく。実験室が遠ざかっていく。人の気配、喧噪から離れていく。 (ね、ねえ……。大丈夫? どこに連れていくつもりなの?) 不安が渦巻く。ひょっとしたら、また月の光が届かない場所に設置されるんじゃ……。 やがて台車が止まった。ドアを開ける音の後、台車が90度回転して、私は部屋の中に運び込まれた。 (うそっ……。ここ、倉庫じゃない!) 不安は絶望に代わった。窓のない、薄暗い倉庫。あの日私が入れなかった倉庫……。月の光は絶対に入りっこない。 (やだ、やめて! ココはダメ! 動けない!) 倉庫の奥、埃を被った器具が無造作に収められた棚の手前に、私は下ろされた。みんなが互いを労いながら引き返していく。 (待って! 私生きてるの! 意識があるの! 月よ! 月の光があれば動けるの! 窓がないとダメなの!) こんなところに放置されたんじゃ、もう月の光を浴びることは不可能だ。私は取り出されるまで永遠に動けないってことになる。こんな、誰もいない、薄暗い倉庫の隅っこで……。 (やだ……そんなの……。待って、みんな待ってよ、いかないで、お願い……!) 私の絶叫は石の衣を破ることなく、空しく消えた。明かりが落ち、ドアが閉じ、倉庫内は真っ暗になった。動くものはなにもない。 (あっ……あっ、ああぁっ……!) 心の中で私は泣いた。まさかこんなことになるだなんて。これだったらいっそのこと、月光で動けるようになるだなんて知りたくなかった。希望なんかなければ、絶望に突き落とされる苦しみを味わうこともなかったのに……。 私は昨日までの自分が恵まれていたことを悟った。実験室ではみんなが働いているのを眺めることができたから、あれでも割と暇をつぶせていたのだという事実に、失ってから気がついた。倉庫は昼間でも暗く、誰もいない。何も起こらず、何も変わらない。それでも、化石剤の状態維持のせいで、意識を眠らせることも、発狂することも叶わず、いつまでもクリアな意識を保たされる。地獄だった。たまに誰かが入ってくるものの、私に注意をむけることはない。段々時間の感覚も失われていき、今が昼なのか夜なのかもわからなくなった。倉庫は掃除もされないので、身体はいつの間にか埃を被った。不幸は重なるもので、月日が経つにつれて、段ボール箱が私の目の前に積み上げられていく。とうとう、私の視界は段ボール箱のアップで埋め尽くされた。向こうからも私の姿は見えないだろう。倉庫に誰かが入ってきても、もう私はその視界の端に入ることさえない……。 日々疑念が増大してゆく。みんな私のこと覚えているだろうか。安全に取り出す技術は出来ないんじゃないだろうか。実は確立しているのに、みんな私のことを忘れているせいで、放置されているんじゃないか……。 頭の埃と、目の前の段ボール箱は、私に何も答えてはくれない。

Comments

festo

帰る方法があるが,結局帰れない絶望的なエンディング。 とてもおもしろく見ました.

opq

コメントありがとうございます。満足して頂けたようでなによりです。

sengen

特定の条件を満たすと状態変化から解放されたり軽減される設定好きです。 架空技術の話でしたが、鍵が「月の光を浴びること」というのが神秘的でいいですね。 僅かだけ動ける事に縋って悪戦苦闘するかと思いましたが一度も動けないままでしたね。

opq

感想ありがとうございます。月光で石化が解けるのはドラえもんのネタですが、好きな設定なのでよく使います。

sengen

魔界大冒険ですね。あれを見た時はまだ子供でしたが本当に恐ろしかったですね。