人形の花嫁 (Pixiv Fanbox)
Published:
2018-12-19 17:03:13
Edited:
2019-12-26 12:29:29
Imported:
2023-05
Content
今月もカツカツだった。とてもじゃないけど趣味や贅沢に回す余分はない。これから三十半ばまで奨学金を返し続けなければならないのかと思うと気が滅入る。調子に乗って院進などするんじゃなかった。既に食費も相当切り詰めているのに、ちょっと油断すると足が出そうになる。辛い。親が学費を出してくれた友人たちは社会人になってもライブにいったりしているのに。今じゃ私だけ除け者だ。大学時代が懐かしい。またライブに遠征したい。せめて奨学金さえなければ工面できるのに。
そんな鬱屈とした生活の最中、私はネットで興味深い記事を見つけた。高齢の人形職人が息子の嫁を探しているという話だ。そしてその息子というのが、なんと人間ではなく人形なのだ。お爺さん曰く、人生最高傑作であるので、ぜひ結婚させてやりたいのだとか……。いくら呼びかけても嫁の来手がなかったので、とうとう謝礼を用意するに至った。その額なんと三千万円。それがちょっとした話題になり、ニュースになったのだ。世の中には道楽でポンとそんな額を出せる人もいるのかと思うと恨めしい。もしも私に三千万もあれば、奨学金を全部返せる。ライブにも行ける。今まで我慢してたものも全部買える……。
ベッドに転がり、ありもしない三千万円の使い道を夢想していると、喉から手が出始めた。欲しい。いいなあ。あったらいいなあ、三千万。どうすれば手に入るんだろう。宝くじ……いや。
私は起き上がり、パソコンの画面に向かい合った。この人の人形と結婚すれば、手に入る。いやでも、いいのかな。金目当てで。第一、人形と結婚だなんて、変になったと嘲笑されるかも。とはいえ本当に夫婦になるわけじゃないよね。老い先短いおじいちゃんのごっこ遊びに付き合うだけだ。うーん……。
下旬。私は無残な給与明細と、一向に増えない貯金に背中を押され、例の記事に申し込んでみた。タダで三千万円もらえて、忌々しい奨学金返済から解放されるんなら、ごっこ遊びぐらい屁でもない。
幾人かのライバルを退け、私は選ばれた。返事が来た時には数か月経っていて、すっかり忘れていたので面食らってしまった。とはいえ、こっちから申し込んだのだから断るわけにもいかない。
会いに行くと、頑固そうだけど人の好さそうなお爺さんに迎えられた。身寄りもなく、ただひたすらに人形作りに精を出してきたらしい。その人生最高傑作が、私のお相手だ。「彼」はまるで宝石かなにかのように、ガラスケースに収められていた。スラッとした長身で、足が長く、引き締まった体をしている。細マッチョというのだろうか。タキシードを着ているのに、何故だかそれが伝わってきた。人形なのに、服の下には骨と筋肉があると思わせてくる。つまり、人間と見紛うぐらいに、凄まじい出来栄えだった。顔はやや彫が深く、キリリと引き締まった唇、鋭くも優し気な瞳、ほどよい鼻、ウェーブのかかった黒い髪が特徴。人間ならばハリウッドスターにでもなれたであろう美形男子。カッコいい。流石は最高傑作。正直言って、遊びとはいえ人形と結婚なんて馬鹿馬鹿しいと思っていたし、抵抗があったのだけど、幾分それらが緩和された。
その後お爺さんは、この人形にかけた情熱とこだわりについて、数時間にわたって語った。適当に相槌を打ちながら、私は老人の長話が終わるのを待った。その間、私の夫になる人形――遼太郎は眉一つ動かさず、静かに佇んでいた。そんなことは当たり前なのに、それが不思議に思われるほど、生気に満ちた人形だった。長話の最中、チラチラと「彼」を見ていると、気に入ってくれたと思われたのか、お爺さんは「あとは若い二人で……」などと言って席を外した。いや、二人でって言われても……。
お爺さんが戻ってくるまで、私はガラスケースの周囲をウロウロして、彼を観察した。横顔、背中、どれもが破綻なく完璧に仕上げられている。執念さえ感じさせる。しっかし、いくら出来が良くっても、所詮は人形。動きもしないし喋りもしない。結婚……結婚かあ。はぁ。人形と。まあいいや。三千万円だし。この子が私の奨学金を全額返済してくれるのだと思うと、ちょっとぐらいは真面目に相手してあげようかという気になる。私は少し屈んで目線を合わせ、彼に挨拶した。
「小百合です。よろしくねー。遼太郎さん」
彼は一切答えず、ケースの中で静かに微笑み続けていた。
後日、「結婚式」が執り行われた。私は本物のウェディングドレスを着せられ、バージンロードを歩かされた。よもやここまでやるとは……。人生初のウェディングドレスが人形相手というのが何とも情けない。当然家族や友人は一切呼ばなかったし、お爺さんも独り身なのでこぢんまりとしたものではあったが、ネットメディアがちょろっと取材に来たので、死ぬほど恥ずかしかった。何より、お爺さんの目の前で「金のためです」等とは口が裂けても言えないので、人形が気に入ったので結婚した……と答えなければならないのが辛かった。顔と名前は出さないという条件で取材を受けたけど、どこまで守ってくれるやら。身バレしたら死ねるな……。
私が恥ずかしかったのは人形と結婚することだけではない。この純白のドレス。お爺さんが用意したもので、フリルとリボンがやたらと多い、少女趣味な代物。綺麗っちゃあ綺麗だし、デザインそのものは可愛いと思う。でも正直言ってリアルの成人女性がマジに着るようなものには思えなかった。二次元のキャラや着せ替え人形なら映えたろうけど。うーん、ひょっとしたら人形との結婚ということであえてのデザインなのかなぁ。私には完っ全なお金目当てという負い目があるので、文句を言える立場じゃないから黙って着たけど。
牧師さんの前に立つと、右隣に新郎がいないのが私の羞恥を加速させた。いるっちゃいるのだが、一本足の小さな机にタキシードの人形が置かれているだけで、私の腰ぐらいの高さなので、まるっきり存在感がない。痛い女みたいで恥ずかしかった。実際そうだけど……。
「チカイマスカ?」
「はい」
さっさと茶番を終わらせたかったので、私は溜めずに即答し続けた。予め机に置いてあった、小さな小さな指輪をピンセットで掴み、恐る恐る彼の左手薬指に嵌めた。高価な人形を壊してしまいわないか、これが今日の結婚式で一番緊張する作業だった。作業。ムードも何もないな。そして私は人間用の指輪を自分で自分の薬指に嵌めた。独り相撲感が半端ない。アホらし……。誓いのキスをする段になると、牧師さんがそっと左手に新郎人形を乗っけて、私の顔の高さまで持ち上げた。
(うわー、人形とキスなんて……)
少ないとはいえ人がいる。そんな中ウェディングドレスを着て人形とキスするのは想像以上にキツかった。私は顔を赤らめながら、そっと唇を人形の口元に軽くくっつけた。イケメンとはいえ所詮は人形。固く冷たい。そして私の唇は彼の顔全体を覆ってしまえるほどのサイズ差がある。というか、こんなすごい出来の人形なのに、私のリップで顔を汚しちゃっていいのかな……。適当にキスを切り上げ、私は彼を受け取った。まばらな拍手の最中、一際大きな拍手をして涙を流すお爺さんを見ると、良いことしたのかなと思えて、少し気持ちが軽くなった。
取材の撮影から解放された後、両手に彼を乗っけたまま、式場となっていた古い作業部屋から出ると、手筈通り作品部屋に移動した。お爺さんは式場から出た後はこの部屋に行くよう言っていたのだ。ドアを閉め、"夫"を机に置くと、一気に全身の緊張が抜けた。
「はぁ~っ。終わったぁ~っ」
私も腰を下ろしたいけど……椅子はないのかな。それにこの少女趣味なウェディングドレスもさっさと脱ぎたい。動きづらいし。周囲はお爺さんがこれまでに作ってきた人形たちが大量に並べられている。出来がいいのも相まって、少し怖いかも。こうして比較してみると、彼……遼太郎は本当に飛びぬけたクオリティであることが素人の私にもわかる。そんなわけで、改めて彼をジックリ見ようと机の方へ顔を向けると、彼がいなかった。
(あ、あれ?)
確かにここに置いたはずなのに……? どうしよう、失くしたとかなったらコトだよ。
ドレスを持ち上げ、床に注意しつつ、部屋の中をウロウロすること五分ほど。以前はこの部屋になかった、場違いなドールハウスの中に彼を見つけた。ファンシーさを何一つ感じさせない、現代日本の一軒家といった趣のドールハウス。内装や家具も現実にありそうな感じ……。まるで本物の家をそのまま縮めてしまったみたいだった。そのリビングのソファーに、なぜか彼は腰掛けていた。そんなところに置いた覚えはないのに。何でだろう。まだお爺さんも部屋に来ていないのに……。え、え、何これ。怖いんだけど。
その時、えもいわれぬ違和感に襲われた。何だろう。何か……変。キョロキョロしていると、ドールハウスの彼と目線が合った。……おかしい。屈んでないのに、彼と目線が合うのはおかしい。私はずっと床に立っているのに。視線を落とすと、床がゆっくりと近づいている様子がハッキリと見て取れた。
(えっ!? えっ……何これ!?)
わけがわからなかった。床が近づいてくるなんて!? いや違う。床が……広がってる!?
顔を上げると、もうドールハウスの彼と目線が合わないことに気がついた。爪先立ちでもしないと無理そうだ。
(こ、これって……)
両手で机の端を掴んだ。段々机が大きくなっていく。机だけじゃない。上を見ると、天井が次第に遠ざかっている。周りを見れば、部屋全てがドンドン大きくなっているのにようやく気がついた。
(なっ……何なの!?)
「だ、誰かっ……!」
叫びながら部屋を出ようとした瞬間、声が出なくなってしまった。そればかりか、両脚が動かない。
「……ッ!?」
(ど、どうして……どうなっちゃったの!? 何が起こっているの!?)
両手をドレスの中に入れ、必死に脚を撫でた。硬い。まるで人形の脚みたいに。
(ひっ)
なんなのコレ。硬くて動かなくて……まるで人形みたいに……病気……いや……。
改めて巨大化しつつある部屋を見渡すと、ようやく私は何が起こっているのかを理解できた。
(わっ私縮んで……人形になってるの!?)
信じられない。ありえない。嘘だ。夢……夢じゃないの!? 頬っぺたをつねってみると、いやつねろうとすると、つねれなかった。私の顔も強ばり、固まりかけていたのだ。
(しゃ、喋れなくなったのは……顔も固まったから……?)
もう私は机上のドールハウスすら見られないぐらい縮んでいる。声が出ないので助けも呼べない。足が動かないので逃げることもできない。
(ど、どうしよう。どうすれば……)
現実とは思えない出来事に、私はパニックに陥った。何らの手段も思い浮かばず、私は粛々と人形化していった。もう五十センチも怪しい。腰も動かせなくなった瞬間、体が私の意志とは無関係に動き始めた。固まったはずの両脚がゆっくりと閉じていき、背筋をピンと伸ばして前を向かされ、両腕も自由を奪われた。胸の前で手を組まされ、そのままカチンコチンに固まってしまった。
(そんなっ……何なのコレ!?)
白い絹の手袋に包まれた私の両手はツルッツルで、光沢を放っていた。ドレスも一緒に縮み、固まっているらしい。最後に表情筋も支配され、優し気な笑みを無理やり作られた。恐怖で泣き叫びたいところなのに。さらに、謎の現象は血管まで操れるらしく、私の顔は頬を染めた。勿論私が照れているわけでもなんでもない。独りでに、体が勝手にそうさせたのだ。
両手を汲み、頬を染めて、ウットリと前を見つめる私。やめてよっ、まるで嬉しがっているみたいじゃない!
全身にいくら力を込めても、私の体が二度と動き出すことはなかった。パキッ、パキリと乾いた発砲音を鳴らせつつ人形化が進行し、私はとうとうカチンコチンに固まってしまった。指一本ピクリとも動かせない。サイズも縮み切り、僅か三十センチほどの花嫁の人形と化してしまった。
(あっ、あぁっ。そんな……)
いくら助けを呼ぼうとしても無駄だった。小さなうめき声一つ絞り出せない。筋肉は筋一つ動かず、血管一本たりとも収縮しない。いや、今の私に筋肉や血管があるのかわからないけど……。
(嘘でしょ……? 何で、どうして、何で……?)
人間が人形になるなんてありえない。こんなこと起こりっこない。でも私は現に人形になってしまった……。
(まさか……人形と結婚、した、から……?)
聞いたことないよそんなの。でも人形と結婚した人なんて今までいなかったろうからわからなかったとか……。いやいや、物理的にありえないって! 夢でしょ!? 何か……ドッキリとか……。
部屋のドアが開いた。誰か来たらしい。私は首を動かせず、視線すら一点に固定されているので顔が見れない。でもチャンスだ。
(た、助けてください! 私、何かいきなり人形になっちゃって……信じられないけどホントなんです……!)
いくら脳内で叫んでも届きっこないことに、すぐ気づいた。でもそれ以外しようがない。誰だかわからないけど、気がついてくれないかなぁ……。お願い、助けて……。
ゴツゴツとした手が私を拾い上げた。
(ひゃぁっ!?)
突如数メートルも地面から急上昇したことで、肝が冷え、気分が悪くなった。実際には一メートルぐらいだろうけど、今の私には数倍に感じられた。
(あっ……お爺さん)
人形職人のお爺さんなら、もしかして……? いや常識的に考えて無理かな……。私の体に心臓が残っていたらドキドキしていただろう。お爺さんは私をドールハウスのリビングにそっと置いた。
(あぁっ……ダメ! 違うんです! 私は人形じゃないんです! 私です! 明庭小百合です! この部屋で待っていたら、突然人形になっちゃったんです! お願い信じてー!)
「んん~。遼太郎。べっぴんさんを嫁にもらえてよかったのう」
(……へっ!?)
お爺さんは満足げに何度も頷いた。私は全てを察した。
(き……聞いてません、こんなの! 元に戻してくださーいッ!)
抗議の雄たけびを上げたかったが、私はウットリとした表情で前を見つめ続けることしかできなかった。やだっ、やめてよ、こんな表情!
(け、結婚するとは言いましたけど、人形になるなんて聞いてません! 詐欺! 詐欺でしょ! ねえ!)
私の心の叫びなど意にも介さず、お爺さんは数枚写真を撮った後、私を放置して部屋から出ていった。
(ああっ……そんな! ねえ! 待って! 待てっての! こんのクソジジイー!)
誰も居なくなった部屋の中で、私は泣いた。心の中で涙を流した。酷い……酷いよ。私はどうなっちゃうの? これから一生、このドールハウスで花嫁の人形として飾られ続けるだけの人生?
考えるだけで吐きそう。とても耐えられない。その時、目の前を誰かが横切った。
(えっ……だ、誰!?)
お爺さんはさっき出て行ったのに。この部屋にはもう人は誰も……。人?
(ま、まさか……)
誰かが私の肩に手を回し、横に振り向かせた。彼が……人形の遼太郎が動いていた。
(ええぇぇーっ!?)
何で動けるの? 人形じゃないの? もしかして、私みたいに人形にされた人間……とか?
遼太郎は突然首を横に振った。
(あ……人形なの?)
彼は首を縦に振った。ん? 会話が成立してる?
(わ、私の考えてることわかるの?)
彼は首を縦に振った。声は出せないのかな? ……またイエスだ。
(だ、だったら私を助けて! 元に戻すようお爺さんに言って!)
彼は首を横に振った。そんな……ノーってこと?
(な、何で!? 助けてよ! 私……私は、その、あなたの……)
認めるのはかなり抵抗があった。でもしょうがない。
(つ、妻なんでしょ!? 結婚したのよね、私たち!?)
彼は首を縦に振った。
(じゃあ、お願い聞いてよ! 助けてよ!)
返事はノー。……ひ、酷い。大体、あなたは動けるのに私は動いちゃダメってどういうこと!? 同じ、その……人形、なのに……。こんな奴と結婚するんじゃなかった。
それが相手に伝わったのか、彼は私に近づいてきた。
(ひゃっ、な、何!?)
目の前に立った彼は、かなり背が高かった。人間なら百九十センチぐらい……? おなじスケールになったことで、顔のイケメンさがより現実味のあるものとして私に迫った。このサイズから見ても粗や違和感がない、非常に緻密な造形。カッコいいな……。
(いやっ……人形相手に何考えてるの!? 人形なんだから顔がいいのなんて当たり前で……)
突然、コツンという固い音と共に、唇同士がぶつかった。誓いのキスとは違う、正真正銘唇同士のキスだった。
(んなっ……!?)
「いきなり何すんの! 人形のくせに……あれ」
体が動く。声も出せる。ひょっとして元に戻してくれるの? 私は希望に満ちた眼差しを彼に向けたが、彼は肩をすくめた。どうもそうではないらしい。サイズは変わらないし、肌も光沢を放つ人形状態のままだ。でも、動けるなら何とかなる。
「ありがと! 大好き!」
私はいそいそとドールハウスから飛び出した。その瞬間、体が固まり、一切身動きがとれなくなってしまった。
(んなっ……!?)
声も出せない。さっきと同じだ。ちょ、ちょっと……。助けてくれたんじゃないの?
彼が私をドールハウスの中に引っ張りこむと、再び動けるようになった。
「……こ、ここから出ちゃダメ、ってこと?」
彼はウンウンと頷いた。そんな……。一瞬期待したのに……。
「ふ、ふざけないでよ! 何でそんなルールに従わなくっちゃいけないの!」
私は猛抗議を続けたが、彼はやれやれ、これだから女は……とでも言いたげなモーションを披露し、私をますます怒らせた。
そうこうしていると、次第に体の動きが鈍くなってきた。まるで私の時間だけがスローモーションに設定されてしまったかのようだった。
「あ……く……何……で……」
体に力を入れてもゆっくりとしか……次第にほとんど動かせなくなり、私の体は静止した。まるでゼンマイ仕掛けの玩具が、ゼンマイ切れを起こしたみたいに。
(何……何なの。ドールハウスからは出てないのに……)
彼が再度私にキスすると、私の時間が動き出した。私はルールを理解した。
「……あなたとキスしたらしばらく動ける、ってこと……?」
彼は腕を組み、満足げに頷いた。
それから、予想だにしなかった最悪の夫婦ごっこが始まった。普段の私はドールハウスの中でフィギュアのように固まり、動きたい時は「夫」たる人形に対して「キスしてください」とねだらなければならないのだ。人形相手にそんなお伺いを立てなければならないことが、とてつもなく惨めで悔しかった。
部屋にお爺さんが入ってくると、私はすぐ「夫」にお願いした。
(あっ……りょ、遼太郎……さん! 早く! キスして! お願い!)
恥を忍んでキスをねだり、私は束の間の自由を得た。
「も、もういいでしょ!? 私を元に戻してください!」
お爺さんに向かって叫んだ。それでもお爺さんはニコニコと笑うだけだった。
「ちょっと! ねえ! 冗談じゃないですよ!」
ドールハウスから出れば動けなくなってしまうので、逃げることは不可能。となれば、私はひたすらお爺さんにお願いするしかなかった。
部屋の整理をするお爺さんの背中に向かって叫び続けたが、暖簾に腕押しだった。声は聞こえているはずなのに、露骨に無視しやがって……。拉致監禁だよ、これ。わかってるの!?
でも、万一逃げ出せた、或いは誰かに連絡をとれたとして、どう説明すればいいのだろう。人形と結婚したら人形になってしまいました、って? 誰が信じるの、って話だ。私の見た目は完全に人形の出で立ちで、「縮んだ人間」ではなくなってしまっている。よくできたロボットか何かだと思われてお終いかな。第一、動くには夫のキスが必要で……。
そうこうしているうちに、また体の動きが鈍くなってきたので、私はドレスの裾を持ち上げながら、急いで夫の側に移動した。服装もフリルとリボン満載のウェディングドレスのまま、あの日から変わっていない。この格好がまた私の羞恥を倍増させた。いつまで着てればいいのコレ。私はずーっと「花嫁の人形」でいなさいって!?
ソファーの夫に近づくと、彼はおもむろに立ち上がり、私を優し気な眼差しで見つめてきた。イケメンでも騙されないんだから。お爺さんと一緒に私を嵌めて、ここに閉じ込めている張本人のくせに。私はジッと夫の顔を見上げた。身長差があるので、向こうが少し合わせてくれないとキスできない。こっちは足とヒールが一体化していて、背伸びできない。
「ねえ……はや……く……」
ゼンマイの切れかけた人形のように、私の時間がまた止まっていく。わかってるんでしょ。意地悪してないで、早くキスしてよ!
ほとんど止まりかけたころ、ようやく前かがみになり、私にキスしてくれた。固い人形同士のキスはコツンと乾いた音が響くだけで、何も感じない。それでも、私は束の間の自由を延長できる。
改めてお爺さんに抗議を飛ばしても、彼は
「熱いねえ。んっふっふ……」
と笑うだけだった。冗談じゃない。好きでキスしてるわけじゃない!
「違います! そうしないと動けないから……!」
「はいはい。わかっとるわかっとる」
お爺さんはそそくさと部屋を後にした。わかってない。何にもわかってない……。私は部屋の奥に突っ立っている夫を睨みつけた。最近わかってきたことが一つ。キスしたら動けるルールは、どうもお爺さんではなく、この人形が独自に設定したらしいこと。だから、お爺さんは毎日遼太郎と熱烈にキスを繰り返す私を見て、すっかり人形夫婦でいることを気に入ったのだと勘違いしているらしいのだ。彼の中では、私の抗議はすべて照れ隠しということになっている。
「もー! あんたのせいでー!」
私はリビングの家具を夫に手当たり次第に投げつけた。夫は身をかがめながら、早々に二階へ避難した。あとを追いかけようとしたが、次第に動きが鈍くなってきて、私はまたキスをねだらなくてはならなくなった。
「あっ……うぅ……」
勝ち誇った表情を浮かべながら下りてくる夫が心底憎らしい。コイツにまた「キスして」と言わなくてはならないということがたまらなく私のプライドを傷つける。
「ね……え……ちょ」
しかし、物を投げられたことに腹を立てた……かどうか定かではないが、彼はキスしてくれず、私の手足を弄ってポージングを始めた。まるで子供が着せ替え人形で遊ぶみたいに。人形に人形みたいな扱いをされることが、さらに私を惨めな気持ちにさせた。
少し首を傾け、両手をほっぺたに添えるポーズをとらされた。やだもう……こんな格好……。しかしその後、急に顔を近づけてきたので、
(あっ、キスしてくれるの?)
と一瞬思った。しかし、表情を弄るだけで、キスはしてくれなかった。だらしなくニヤケながら笑う、デレデレな表情を作らされた挙句、私はそのまま全身が固まってしまった。
(ああっ、そんな……)
悔しい。こんな恥ずかしい格好で固定されてしまったことも、キスを期待してしまったことも。まるで私があんたに惚れちゃってるみたいじゃない……!
案の定、しばらくたってお爺さんが来ると、また私を見てニヤニヤと笑った。心底幸せそうな表情で固まっている花嫁の人形は、さぞかし和む光景だったことだろう……。
一か月経つと、いよいよ私も現実を直視しなければならなくなってきた。私はこのまま一生、このドールハウスの中で、花嫁姿の人形として生きていかなければならないのだ……という事実に。そんなの嫌……。でもどうしようもなかった。お爺さんは独り身で、来客もサッパリ。仮に誰か訪ねてきても、夫が他人の前で動くことを許してくれなければそれまでだ。
私はもうお爺さんへの抗議もまばらになり、鬱屈とした毎日を過ごした。だがある日突然、この生活は終わりを告げることになった。お爺さんが亡くなったのだ。
最近お爺さん見ないな……と思ったら、警察が家の中に入ってきて、ようやく事態を知れた。玄関前で倒れ、息を引き取っていたらしい。じゃあ、もう夫婦ごっこは終わり? 一瞬、目の前が明るく輝いて見えたが、お爺さんが亡くなっても、私は依然として人形のままであることに気づくと、すぐに不安が渦巻いた。アニメや漫画と違って、犯人が倒れたら元通り……というわけにはいかなかったみたい。私は……私は一体どうなるんだろう。私がここで人形になっていることを知っているのは、多分お爺さん一人だけだったはず。まさか……まさか、一生人形のまま?
目の前の警官たちに助けを求めたかったが、体が動かない。
(ねえ。キスして。ねえってば)
夫も忠実に人形を演じ続け、ピクリとも動かない。お爺さんはもういないんだから、そんなルール守らなくってもいいのに……。
というか、この家どうなるんだろう。身寄りがないって言ってたけど、まさか全部処分されちゃうんじゃ……。じゃ、じゃあ私も? まさかゴミとして処分されちゃうの!?
脳内に、ゴミ収集車の中で押しつぶされる自分の姿がよぎった。体が芯からスッと冷めた。人間だったら嫌な汗がどっと流れ出ていたはずだ。そんな死に方嫌だ。誰か助けて。私は人間だよ。この部屋の人形たちと一緒くたに心中なんて絶対イヤ……。
(ね、ねえ! キスして! そしたら、事情説明して、わた……あなたと私は捨てられないようにするから! ねえ!)
それでも夫は頑なに、人前で動くことを拒んだ。自分も死ぬかもしれないっていうのに……。何考えてんの。ていうか、私を巻き添えにするのは本当にやめて。夫なんでしょ? 私一応、えーと……あなたの妻なのに!?
警官が撤収してからしばらく。その日の夜。夫はようやく私にキスしてくれた。その後、私に向かって、ドールハウスから出るようジェスチャーした。
「え? 出ていいの?」
彼が首を縦に振ったので、私は恐る恐る外へ出た。すると驚くべきことに、体が固まらなかったのだ。
「あっ……う、うぅ……っ」
私は嬉しくて、泣き出してしまった。やっと……ようやく、自由になれたんだ……。体は人形のままだけど。
次の瞬間、周囲が小さくなりつつあることに気がついた。
(あっ……これは……)
私は急いで床に飛び降りた。すぐに体が大きくなる。私の肌は次第に生気を取り戻し、懐かしい産毛や血管が戻ってきた。三分もしないうちに、私は元の大きさに戻った。人間に戻れたらしい。
「あ……あ……」
感極まって、私は両手を挙げて万歳した。
「ありがとー! 大好き!」
部屋を出ようとすると、脚が動かなくなった。
「えっ……ちょ……」
後ろを振り向くと、彼が首を横に振っているのが見えた。え、何……解放してくれたんじゃないの?
彼が部屋の奥を指さしているので、仕方なくそっちに向かおうとすると、脚が元通りになった。どうやら、まだ「夫」の支配下にあるらしい。
誘導に従い、引き出しからお爺さんの遺言書を取り出すと、私に全部相続させる旨が記されていた。
「えっ? あ、あー……私に引き継ぎ処理しろってこと? そのために戻したの?」
彼は満足げに頷いた。
一応は人間に戻れたものの、逃げようとしたり、ドサクサに紛れて夫を処分しようとしたりするとまた人形に戻されてしまうので、渋々ながら従うしかなかった。七面倒な相続の手続きと、お爺さんの家の処分に三か月かかった。夫と「マイホーム」以外の人形とドールハウスを売り、捨て、寄付し、全てを処分した。老朽化した家を取り壊し、土地を売り飛ばし、ついでに奨学金を完済し、全てが一段落ついた頃にはもうヘトヘトだった。懐かしの我が家も、大きなドールハウスが鎮座して、かなり手狭になった。捨てようとすると人形にされるし、もう呪いだこれは。仕事も首になっていたし、踏んだり蹴ったりだ。奨学金を返済できたことだけが唯一の救いかな……。
その日の夜、私はまた人形にされてしまった。夫は朗らかに笑いながら、私をドールハウスに引きずり込んだ。その時、私の中で何かが切れた。
「あーーもう! 何なのあなた! 面倒なことはぜーんぶ私に押し付けて! あなたはいいよね、そうやってずーっとソファーでゴロゴロゴロゴロしてればいいんだから! 少しはあなたも働きなさいよ! クソニート! ニート人形!」
彼は困ったなーとでも言いたげに肩をすくめた。その後の「俺は人形なんだからしょうがないじゃん?」という風の、実に腹の立つジェスチャーが私の怒りに火をつけた。一発ぶん殴ってやる。
束の間の鬼ごっこの後、私は再びゼンマイ切れ状態になった。あー……懐かしいこの感覚。体が鈍くなっていく。
「もう……いい……でしょ……こ……れ……」
久々に完全な人形になってしまった後、私は心の中で思った。コイツが私の代わりに人間になって、面倒な手続き全部やってくれればよかったのに。その間私はここでゴロゴロしてさ……。そしたらまあ……これから面倒みてやっても悪くはなかったのに。
ゼンマイと同時に体力も切れたので、私はそれからすぐ寝落ちした。
次の日、目覚めると、体が動かなかった。この感覚、久しぶりだなぁ……。ていうか、あいつは本当にこれからどうするつもりなの。両方人形じゃやってけないってわかってるのかな……。わかるわけないか。所詮人形だし……。
意識がハッキリすると、すぐ部屋の中に見知らぬ男がいることに気づいた。
(えっ……だ、誰……!? ど、泥棒!?)
私はパニックになった。ど、どうしよう。動けないし……。
(は、早く! キスして……じゃなかった、元に戻して!)
謎の男が屈んで、ドールハウスを覗き込んだ。その大きな顔に、私は見覚えがあった。
(えっ、嘘でしょ。あなた……遼太郎なの!?)
信じられない光景だった。あいつが、あの人形が、人間サイズになって私を覗き込んでいるなんて。いや、「人間」になっている。顔に血管が、皴が、本物の毛が。
(どういうこと? どうして……)
「昨日、思ってたよね。俺が君の代わりに人間になってくれればいいのに、って」
(えっ……)
そ、そんなこと思ってたっけ? そういや寝落ちする前にぼんやりとそんなことを……って、まさかそれが理由!?
彼はウンウンと頷き、朗らかに笑った。その笑顔はほんのりと色気があり、思わずドキッとするような眩しい笑顔だった。イケメンではあったけど、ここまで……とは……。人間になった遼太郎は、本当にハリウッドスターもかくやという長身の美男子だった。
「目が覚めたよ。これからは俺が働いて、君を支えてみせるから」
(あ……そう、なんだ……)
そりゃよかった。あっ、ちょっと待って。これってもしかして、この超絶イケメンが本当に私の「夫」になるってこと……?
「ふふっ、俺は元から君の夫だよ」
やっ……やったー! 神様ありがとう! そりゃあんな辛い目に耐えたんだもん、これぐらいのご褒美あっていいよね!
「じゃ、行ってくるよ」
(あっ、ちょっと待って!)
「?」
(私を元に戻してよ!)
「それは無理」
(えっ、何で!?)
「『人間』は俺の方になったから」
んん? 言っている意味がよくわからない。私を元に戻してくれれば、それで両方人間になるんじゃないの?
「交代を望んだでしょ? 俺が人間ってことになったんだ。君は完全に人形になったんだよ」
(はぁ?)
胸がバクバクしてきた。もしかして……。私と彼で、本当に「人形」と「人間」を取りかえっこしたってこと? つまり私は今、「人形になった人間」じゃなくて、正真正銘の人形ってこと?
「そういうこと」
(そっ……そんな! 嫌! 元に戻してよ!)
「だから、『元に戻す』ことはできないんだよ。君は本物の人形になったんだから」
じょ、冗談じゃない。そんなことなら、コイツに今まで通りの穀潰しでいてもらった方がマシだ。
(こっ……交代! チェンジ!)
「『人間』の方が願わないとダメなんだよね」
(えっ、あっ、そんな)
「それじゃ、行ってきます」
(ああぁっ、待って! ちょっと!)
彼はいそいそと出かけていった。後には、完全な人形と化した私が一人残された。もう元に戻れないの? あいつが交代を望まない限り……。い、イヤ! 私、そんなこと望んでない! 人形になんかなりたくないよーっ!
「おーっ、いい家じゃん」
「だろ?」
「お前もいよいよ大スターの仲間入りって感じだな」
「いえいえ、まだまだ若輩者で」
「結婚はしないのか? こんだけ広いなら……」
「アハハ、俺にはもう妻がいますんで」
「お、これか。すげー。確かにすごい出来だな、コイツは」
「そりゃ勿論。俺の嫁ですからね」
「で? 人間の方は?」
「だーかーらー、彼女ですって」
「お前はそういう所が残念だよな。あんまり人形なんかに入れ込むなよ。キモイから」