ラーク (Pixiv Fanbox)
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川の水音がうるさくて眠ろうにも眠りにくい夜だった。かたや同室の同僚はスヤスヤと穏やかな寝息を立てる。そんな彼を尻目に、起こさないようにそっと廊下に出た。
大浴場はこの時間でもやっている。軽く体を温めて睡眠を誘導するのはいい。だから彼は入浴セットを傍らに進む。湯は離れにあって、いくらか歩かなければいけなかった。
旅館はいくつもの懐かしい匂いで満ちている。その内で一つだけ、彼の気を引く香りがあった。そのせいでまっすぐ温泉に行かないで、何なのか確かめることにした。
その先にあったのは自動販売機が照明代わりの喫煙所だった。誰かが、少なくとも社内の一人が火タバコを吹かしていた。息を吸うと先端が光を増して顔を照らす。浴衣を着た女性だった。
最終日の挨拶だけに来るような、タバコを吸いがちな年齢層の上司陣に女性は居ない。それに若い顔付きからして新入社員のようだった。
「……こんばんは」
タバコを吸うのに集中していたのか、それとも暗がりで気づかなかったのか彼女は驚いて顔を上げる。それだけで彼は声をかけるべきではなかったと気付いた。
「すみません」
彼女は吸い殻入れに火の着いたタバコを投げようとした。まだ長さは残っている。
「ああ! 消さないで。最近高いんでしょ」
「……それは、ありがとうございます」
「えっと……ごめん、名前いい? 覚えられなくて」
「高松です」
「あー……あ、高松さん」
昼の姿を思い出すことができた。そもそも彼は研修で指導をしていた。人の名前と顔を一致させるのは彼の際だった苦手分野だった。
全くと言えるほど想起できなかったのは雰囲気が全く違ったからだ。今の彼女からは人当たりの良さが消えて、トゲトゲしい眼光を構えている。
「ラーク……確かヒバリだっけ」
テーブルの紙箱は白地に赤色で”LARK”と描かれている。彼が懐かしいと思ったのは当然で、ラークのマイルド9は父が吸っていた銘柄だ。まるきり同じ物を彼女が吸っている。
「はい。竹田主任も吸われますか」
「いいや、僕は――」
裸火を使う喫煙は社会人になってから辞めた。代わりにアイコスなら持っていた。
「アイコスなんだ」
タバコも持っていないのに喫煙所に居られるはずもない。彼はアイコスとそのカートリッジをテーブルに置いた。マールボロのトロピカルフレーバーだ。
だけど吸おうとして充電切れだった。吸った記憶が思い出せないほど、間が開いていた。彼女はそんな無様な彼の手元を見つめる。
「それ一本分けてもらえるかな」
バツが悪く感じて、彼女に頼ってしまった。
「え? あ、いいです、けど……」
彼女は箱を開いてタバコをつまみ出すと半ば無意識的に箱でフィルターの方から叩いて渡す。タバコをもらい受けた彼はどうしようもできなかった。
「すみません。ライターもですよね」
彼女はライターを出す。オイルライターだった。フリントを削って火花を飛ばすと、油を蹴り起こして火が立つ。
火にタバコを潜らせて軽く吸うと着火する。そして吸い込んで、彼は涙目になって咽せた。久し振りの生の煙は喉を抉って、その後で淡い苦味と甘味を残す。
「ごめん、ラーク、好きじゃなくてさ」
「すみません」
「いや、違くて……」
父が吸う銘柄だから嫌いだった。味は、そこまで嫌いになれなかった。そんなことを言うつもりは彼に無かった。
「色々とあって、まあ……察してくれると」
「――私も嫌いです。ただ辞められなくて」
ニコチンだけなら選択肢はいくらでもある。味だって、全く同じとは言わずとも近しいものならいくらでも手に入る。
「やだね。タバコって」
「でも、タバコってそういうものだと思います」
彼女が話すと鼻から煙が零れる。肺まで煙を入れている証左だ。
「今時珍しいよね。旅館まるごと貸し切って研修を兼ねた社内旅行なんて」
「喫煙所があって助かりました」
「同室の子に気付かれない?」
「臭いではバレてるでしょうけど、今の子はわざわざ言いませんよ。っていうかタバコの臭いって認識してるのかも怪しいと思います」
「それは……良い時代だね」
彼女が笑い声を漏らした。
「でも意外だな。高松さんみたいな子が。僕は大学からだけど、そっちは?」
「あー、あー……秘密でいいですか」
「やめとく。コンプラコンプラ」
「察しの通りなら、私が先に違反してると思います」
「僕がキリストなら石投げてたかな」
「キリストは石投げてないです」
「あれ、そんなこと言ってなかったっけ」
無駄話を交わしている間に大浴場が閉まる時間が迫っている。だから彼は吸いきると足早に喫煙所を出ようとした。
「タバコありがとう。今度返すよ、箱にして」
「いえいえ、構いませんよ、主任」
「それは悪いよ」
好意を押し付けて立ち去ろうとしたが、結局足止めされた。
「……なら、今度はそのアイコス吸わせてください」
「これ? 分かったけど……いいのかい?」
「お願いします」
会社には喫煙所がないから起こりえないことだと彼は悟った。それでも、充電はしておかなければならないと思った。
「じゃあ、今度こそ、また……といっても明日は帰るだけだけど」
「はい。お疲れ様です。私も戻ってお相手してきます……あ、それと、主任」
再び止められた。彼は彼女に向き直る。
「加熱式タバコなら客室でも吸えたと思いますよ」
「あれ? それって」
つまり、そもそも彼が喫煙所に留まる理由はそもそもなかった。作ったのは彼女の方だった。