雀荘オーナーのスズメハーピー(マスター・スレーブ) (Pixiv Fanbox)
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頭痛の中で幸雄は目を覚ました。気だるさの中でもがいて体を起こす。
二階のバックヤード、四畳半ほどが彼の生活区画だった。風呂とトイレは別で、バルコニーの外階段から三階に入る必要がある。
コップ一杯の水を飲んで彼はバルコニーに出ると、両手を突いて体を何度も上下させる。ワンセット終わらせると、いやに頑丈な物干し竿に指をかけて体を持ち上げるなり脚を上げるなど筋肉に負荷を掛ける。
ただ、それなりに鍛えてはいても、年齢を感じざるをえなかった。長らくジムは訪れていないが、プッシュアップで限界が来る回数から扱える重量は落ちている。
一汗吹いたらシャワーを浴びて身の回りの家事をする。ミサがそんなことを出来るはずもなく、溜まった洗い物は全て幸雄の仕事だ。
ただ三階の一般清掃からは解放された。鷹丸がそれをするようになったからだ。
身支度を終えてカフェの開業準備に取り掛かる。昨夜のうちにユキが在庫を確認して発注は済ませてある。
先ずは自分の朝食だった。トーストしたイングリッシュマフィンにポーチドエッグとスモークサーモンを乗せて、シーザーサラダドレッシングをかける。本当ならオランデーズソースを使うところだが、朝から自分用に面倒なことできなかった。
食べ終えたらコーヒーを飲みつつ、夜の閉店の後に行われた清掃の仕上げをする。ビールサーバーは毎晩、簡易分解して洗浄されていた。ユキは隅々まで片付けていて、彼の領分は多くない。
「おはようございます」
「いらっしゃいませ」
鷹丸がやってきた。いつものようにモーニングを頼んで、カウンター席に座る。
「最近よく来てますね。夏休みで暇だろって、ミサに呼ばれてます?」
「まあ、そんな感じです」
「ほどほどに休んでください」
トーストとソーセージ、ミニサラダとスクランブルエッグ。鷹丸は基本的に同じものを頼む。コーヒーはその日のオススメだ。
新たに客がやってくる。ベルを鳴らしたのはビキニ姿の少女だった。頭にある一対の角と、腰と尻の間から伸びる磨いた黒曜石のような尻尾からしてサキュバスらしい。
彼女は他に空いている席があるのに彼の隣に座る。鷹丸はなんとなく、その幼げな顔に見覚えがあった。彼女のほんのりピンクの髪色を黒色に変えたならユキに似ていた。
「ビール頂戴」
彼女の要求に幸雄はなにも答えずビールをグラスに注ぐ。昼間に酒を出すことはないはずだった。
「で、お前は? なに?」
「僕ですか?」
唐突に鷹丸は頬を打たれた。何をされたのか分からず、反応できなかった。
「質問してるのはこっちなんだけどー。他に誰かいる?」
「先に名乗るのが礼儀では?」
口答えはやめなかった。それが祟って彼は天地をひっくり返され、床に引き倒された。華奢な腕に彼では抗いようのない力があった。
「ヒトオス風情が――」
カウンターを乗り越えて人影が飛び出した。それは幸雄ではなく、ユキだった。
彼女はさっきまで幸雄が着ていた服を身に着けている。もちろんサイズは合っていない。
鷹丸の上から彼女が退かされる。ただ、体を打ったせいでどことなく浮遊感があり、彼はすぐに起き上がれなかった。
牙を剥いたユキは右手にナイフを持っていた。
「何しに来やがった! ニーナ!」
怒声が響く。ユキは彼女の首筋に刃を当てた。しかし、ニーナと呼ばれた彼女はヘラヘラと笑っている。
「どっちが主か、忘れちゃったかなあ」
怒気に反比例して、あっさりとユキはニーナを解放した。その体は震えて、相反する筋力がせめぎ合っていた。
「はーあ。めんどくさ。レジ開けて」
ニーナはユキから包丁を受け取り、鷹丸に当てる。
「まだ死にたかないよね? 動くな」
目を見て言われる。彼女の目は深い赤色をしていた。声が頭に反響する。
その間にユキはレジを開けて金を出した。それを受け取ろうと、ニーナは鷹丸から離れた。
動くなと言われても、彼は動くことができた。体勢を立て直して懐に飛び込んだ。それはニーナの予想外だった。
「なんで――」
タックルをして彼女を突き飛ばす。カウンターと彼に挟まれてよろめき、ナイフを落とした。それを彼は拾い上げて、勢いそのままに逃げだす。
鷹丸は身の程を理解していて、三階で眠っているだろうミサに助けを呼ぼうとした。サキュバスに人間が力負けするのは身を以て思い知った。
「待てコラ!」
ニーナは追い掛けようとした。彼は手に持ったままのナイフを振りかぶって投げる。
彼としては脅かすつもりでしかなかった。護身術では隙を作るのに有効な方法である。
だが投擲は鷹丸が最も得意とする動作だった。切っ先で命中するよう回転数を調整したのも無意識のことだった。そして包丁も研ぎ澄まされたもので、先の鋭いシェフナイフだ。
命中したのは露出している右脇腹だった。その位置には肝臓があることを彼は即座に理解した。
「いっ……ぎゃっ!」
腹に深々と突き刺さったそれを彼女は現実として受け止められていない。鷹丸も自分の行いを信じられなかった。
物音でやっと起きたミサも入ってくる。彼女もニーナとは顔見知りらしく事態を把握した。
自由に動けるようになったユキはくずおれたニーナに飛び掛かり、失われそうな意識を繋ぎ止めるため側頭部に裸拳を打ちつける。体重の乗った一発は額を切って流血部を増やした。
「主従を解除しろ!」
ユキは包丁を掴んでまくし立てた。
「いたい! いたい! なんで! なんでぇ!!」
話の通じないニーナにユキはずりずりと刃を動かして体幹方向に傷を広げることで答えた。泡混じりの絶叫が響く。
「やめろ! 抜くな!」
鷹丸まで叫んだ。肝臓には平均的に毎分二リットル近い血液が流れ込む。肝臓に損傷が生じると一分で意識を失い、五分も経てば致死的になる。
刃を抜けば切断された血管が解放され、血液が噴き出す。だから腹に刺さった刃物は抜いてはいけない。
「死ぬか、ボクを解放するか選べ」
すっかり怖じ気づいた目で見上げて、ニーナはコクコクと頷いた。鷹丸には分からなかったがユキの取引は成功したらしい。結局、ためらいなく包丁が引かれた。
裂け目は血にまみれて隠れた。肝血流の七割を占める門脈は定常流で、傷口から噴出する血液は拍動性はない。
ニーナは静かになった。顔面蒼白になり、引きつった息を何回か繰り返して止まる。あとはただ重力に従って床に赤黒い体液が広がる。
「大丈夫」
ミサは語りかける。鷹丸は何をすべきか分かっている。だけど体が追い付かない。
「止血しないと――」
「助けたんだよ。幸雄を助けたんだ。正当防衛さ。後はアタシらが何とかするから」
ミサが代わりに動いた。傷に布巾を当てて踏みつけることで圧迫止血をする。
「助けるのか。殺したのはボクだから――」
「アタシも殺したいけど、ここでは死なせない」
ハッとしたユキが救急車を呼ぶ。どこにあったのか生理食塩水のバッグと翼付静注針が持ち出される。急激に喪われた体循環を補填するのが目的だった。
ユキはかなり高度な救命措置の心得があるようだった。輸液を行い、止血鉗子を傷口に差して、大出血の原因になっている門脈の閉塞を試みる。手探りのはずなのに一回で成功した。
救急隊が到着すると担架に乗せられ、ユキが付き添いで救急病院に向かう。指先に挟んだ血中酸素飽和度測定器は数値を示さなかった。
そして血塗れの惨状はミサと鷹丸に残された。
「ユキと幸雄は夫婦じゃなくて、同一人物ってわけ。ユキとしての姿は呪いみたいなもので、ニーナが原因」
「それで……あんなこと」
鷹丸が今さっき見たユキは人が変わったようだった。人間だったところをサキュバスに塗り替えられて、幸雄は多くを失ったとミサは言う。
「他にも色々とやらかしてきたから、やっと報いを受けたかなって具合だけど」
「でも、そんな、命まで」
「やりすぎかもね。とりあえず掃除してやろう」
ミサは鷹丸にゴム手袋をするように言う。いきなり洗剤を使うと変性凝固して落ちにくくなるから、まずはぬるま湯で丁寧に洗い流す。目に見える赤褐色がなくなってから塩素系漂白剤を振りかける。
建材が痛むことなど気にしてられなかった。丁寧に擦って証拠を隠滅する。塩素によってDNAは破壊され、しばらく鋭敏なルミノール反応もかく乱できる。
しかし抗原抗体反応を使った検査キットはごまかせない。血がそこまで飛び散らず、硬質なところに垂れたのは幸いだった。最後に丁寧に拭き取って後処理を完了した。
ミサも後始末をしていた。オールステンレスの包丁は圧力鍋で煮込まれ、監視カメラのメモリーカードは電子レンジでマイクロ波を照射される。
「包丁を持ったまま転んだって証言するから。黙っててもいい」
搬送先の病院で事件性が疑われたようで警察が訪れる。ただ人外種絡みの事件ということで、彼らもやる気がある様子は見せなかった。
「ご苦労様でした。またなにかあれば」
それどころか救護にあたったとして労いの言葉をかけて、一通りだけ見た警察が帰っていく。だんまりを決め込んだ彼としては拍子抜けした。
「あとは本人かな。死人に口なしになるといいけど」
ドアが閉まってからミサは口走る。鷹丸は何も返せなかった。
「魔物として人間に頼るなんて癪だろうから何も言わないか。安心しなよ。そんなにビクついてもしょうがない」
「そう、そうですかね」
「アイツはそれだけの事をやってきたのさ。歳は……鷹丸とあまり変わらないね。筋金入りさ」
その日、ユキは帰ってこなかった。臨時休業として、ミサは来る客を片端から追い返す。
鷹丸も家に帰れなかった。ソファで眠れるまで、ミサも一緒だった。