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 遠野涼士郎(とおのりょうしろう)は、丙智香(ひのえともか)という少女について詳しく知らない。


 涼士郎と智香は一年の時からクラスメイトであるが、一度も言葉を交わした経験がない。

 二人とも協調性に乏しく大人しい性格のため、何の理由もなく異性に話しかける勇気がなかったからだ。


 智香はクラスでは物静かな少女で、基本的に一人で居ることが多い。虐められているわけではないが、どちらかといえば周囲に馴染まず孤立している。立場的には涼士郎と近い存在だ。


 そんな彼女が見せた、もうひとつの一面。放課後の図書室で自慰に耽る姿は、涼士郎にとてつもない衝撃を与えた。

 今までは地味めで感情表現に乏しい女の子だと思っていた。道端でひっそりと咲いている名前も分からない可憐な花。丙智香という少女は、そういうイメージだったはずだ。

 あんな大胆な行為をする印象など微塵もなかったはずなのに。一度でも目撃してしまうと、彼女に向ける目線が180度変わってしまう。


 なぜ彼女は公共の場でオナニーをしていたのか。

 彼女は普段何を考えているのか。


 一度気になってしまうと、そのことで頭がいっぱいになってしまう。

 授業中も彼女の席に視線がいってしまい、勉強に身が入らない。

 彼女を見るとあの光景がフラッシュバックし、股間を硬くしてしまう。


 そんな悶々とした状況が続き、耐えられなくなった涼士郎はついに行動に出た。


 それは涼士郎が智香の自慰を目撃した一週間後の出来事。

 彼は彼女宛てに手紙を書き、彼女の下駄箱に入れることにした。

 時代錯誤も甚だしい行為である。

 しかし会話すらままならない関係ではこれが一番効果的だろう。

 手紙の内容は非常に簡潔だ。


『この前、放課後の図書室で丙さんがやっていた行為について聞きたいことがあります。今日の放課後、校舎裏で待っています』


 あの場の当事者にだけ伝わるような、匂わせるだけ匂わせて意図が読めない文章である。

 神経が図太い人なら、気にも留めず手紙をスルーするかもしれない。

 しかし、彼女ならば来るであろうという確信が涼士郎にはあった。

 それは明確な根拠があるものではない。ほとんど勘に近いだろう。

 それでも涼士郎には、これが上手くいく気がしたのだ。


 そして運命の日。

 意味深な手紙を受け取ったはずの彼女は、表面上いつもと変化がなかった。

 元々感情を表に出すタイプの娘ではないので、周囲に言いふらすことはないだろう。

 手紙に送り主の名前は書いてないので涼士郎だとは気づかれないだろうが、それでもバレないか授業中もずっとハラハラしていた。


 そして放課後、涼士郎は彼女が来るのを信じて校舎裏で待った。一秒が一分に感じられるジリジリとした時間が過ぎていく。

 普通、あんな怪しい手紙を送られても来ないだろう。しかし彼女はきっと来る。あの秘密が他人に知られることを嫌がるはずだから。


 待つこと十数分。


「え……遠野くん……?」


 彼の思惑通りに智香は来た。

 意外な人物が居たからか、彼女の表情は驚愕で染まっていた。状況が飲み込めず落ち着かない雰囲気で、真剣な面持ちの涼士郎の前に立つ。


「遠野くんが、あの手紙を送ったの……?」


 物静かな彼女との、初めての会話。

 できればこんな形で初会話をしたくなかった。それは彼の本心だった。


「……そうだよ。丙さんの下駄箱に手紙を入れたのは俺だ」


 努めて感情を落ち着かせて、涼士郎はもったいぶらずに答える。彼女を怖がらせてはダメだ。できるだけ穏便に、かつ友好的に話を進めなければならない。


「手紙に書いてあった、図書室でのことって、その……」


 顔を赤らめ目を伏せながら言い淀む智香に、涼士郎は淡々とした声音で事実を述べた。


「俺、この前図書室で丙さんがオナニーしていたのを見ちゃったんだ」

「あぁ……」


 涼士郎は言いながら、携帯の画面に行為の写真を映して見せた。

 手紙の文言である程度覚悟していたのか、智香の声に驚きはなかった。けれども彼女の顔には絶望とも諦観とも判別できない感情が張り付いていた。


 同級生に自分の恥ずかしい行為を見られてしまった。普通なら死にたくなるほどの羞恥心だろう。

 下手したら、彼女は明日から学校に来なくなってしまうかもしれない。しかしそれでは涼士郎が困る。自分のせいで智香が不登校の引きこもりになっても責任は取れないのだから。

 だから涼士郎は、攻撃的な口調にならないよう気遣って言葉を作る。


「……俺は別に丙さんのことを責めてるわけじゃないんだ。ただ、なんで図書室であんなことをしていたか気になっただけで。もちろんこのことは誰にも言ってないし、この写真もすぐに消すよ」


 彼女の目の前で画像を削除し、少女の警戒心を解く。涼士郎だっていたずらに智香を傷つけたいわけじゃない。男としてもちろん下心はあるものの、できることなら脅迫などせずに仲良くなりたかったのだ。


「もし丙さんが良ければ、俺が相談に乗るよ。俺なんかが力になれるかは分からないけど、一人で悩むよりはずっと良いはず」

「…………」


 それが涼士郎にできる、精一杯の言葉だった。下手に言葉を重ねまくしたてれば、彼女は尻込みしてしまうかもしれない。だから少女の意思を待つ。涼士郎の思いが伝わると信じて。

 困惑か、それとも言葉を選んでいるのか。

 数十秒の沈黙の後、智香はおもむろに口を開く。


「……遠野くんに悪意がないのは分かった。図書室でのアレは完全に私が悪いから、咎められても何も言えない。最低でも一週間誰にも言わなかったのは本当だから、遠野くんのことを信じるよ」


 彼女はためらいつつも縋るように言葉を紡ぐ。どちらにしろ、智香には涼士郎を信じる以外に選択肢はない。もし彼の気分を害したら、前言を撤回して周囲に言いふらされるかもしれないのだ。従ってこの場は言葉の上だけでも涼士郎に賛同する。

 智香の本心は正直自暴自棄に近かった。元々他人に自慰を見られた時点で詰んでるのだ。それだけ危険な行為をしているという自覚は本人も持っていたが、それを上回るほどの衝動が彼女にはあったのだ。

 少女は羞恥心で死にそうになりながらも、どうにかこうにか事の経緯を話し始める。


「私が図書室であんなことをしたのは、ちょっとした好奇心で……」

「好奇心……?」

「そう。公共の場でエッチなことをすると気持ちいいのかなーって……」


 彼女の話は、涼士郎にとって意外すぎるものだった。

 彼の中では、智香は性的な行為から最も遠い存在という印象だったからだ。

 もちろん、涼士郎は智香のことをほとんど知らない。彼が知ってるのは、教室で静かに授業を受けている姿だけである。

 清楚で物静かな少女。それらのイメージとエッチに興味のある彼女とが結びつかなかったのだ。


「それで放課後の誰も居ない図書室で?」

「本当はヤっちゃいけないことだと分かっているんだけど、そう思えば思うほどやってみたい欲求が上回っちゃって……」


 なるほど、彼女は筋金入りのようだ。

 決して口には出さないが、智香はドが付くほどの変態らしい。

 涼士郎としても、そういった性癖には理解があるので同意しておく。


「分かるよ、丙さん。背徳的なことって余計にやりたくなるよね」

「そうなの。その気になったら我慢できなくなっちゃって……」


 どうやら、智香は性に対して奔放らしい。大して仲良くない異性の前で性癖について語るなんて、かなりの度胸である。

 彼女と話してみて好感触を掴んだ涼士郎は、隠していた下心をそれとなく表に出してみる。


「……もし丙さんが良ければなんだけど、丙さんの欲求を俺にサポートさせてくれないかな?」

「え……?」


 突然の申し出に、流石の智香も当惑する。当たり前だ。異性にいきなりこんなことを言われたら、誰だってそうなるだろう。

 しかしここが攻め時だ。涼士郎は逸る気持ちを抑えて、彼女のことを思って話を進める。


「丙さんは欲求を我慢できないタイプのようだからね。今後もそういう気分になったら、いけないと分かっていても結局やっちゃうと思う。そうなった時に、今回の俺みたいに誰かに見つかったら困るでしょう? 皆俺みたいに内緒にするとは限らないわけだし」

「そう、そうだね……」


 智香は涼士郎の話におずおずと頷く。彼女も涼士郎の言い分に納得しているのか、良い兆候だ。

 涼士郎は流れるような調子で核心を告げた。


「丙さんがそういうことをしたくなった時に、俺ができる限り協力するよ。クラスメイトに協力者が居たほうが、丙さんの学校生活は円滑に進むと思う」

「…………」


 智香は沈黙しているが、決して反応は悪くない。今は内心で逡巡しているのだろう。欲求のために異性を迎え入れるかどうか迷っているようだ。

 だが涼士郎には彼女の答えが分かっていた。ここまでの流れで、智香の性癖は理解した。

 自分の性的欲求に異性を加える。普通は断る理由が、彼女にはとてつもなく魅力に映るはずだ。


「……別に付き合うわけじゃないよね?」

「恋人になるわけじゃないよ。ギブアンドテイクというか、俺が丙さんの助けになりたいだけだから」


 恋人同士でもないのに関係を持つほうが不純ではあるが、彼女はどうやら付き合うことに気後れしているらしい。

 結果としては似たようなものでも、彼女が気になるなら言い回しは考えよう。あくまで智香の意志で決めることが重要なのだ。


「俺と丙さんは、ただのクラスメイトで協力関係だ。丙さんが欲求不満を解消したい時の手伝いをするだけ。それで良いかな?」

「……うん。それならまぁ」


 渋々といった表情で智香は賛成した。例え不安が残っていようとも、彼女の同意を得ることができたのは大きい。涼士郎の予想が正しければ、彼女には図書室での件が可愛く見えるほどの欲求が眠っているはずなのだから。


「それじゃあ、これからはよろしくね、丙さん」

「……うん、よろしく」


 こうして出来た、欲望渦巻くふしだらな協力関係。

 涼士郎は今までの学校生活で初めて、期待のようなものを胸に抱いていた。


「それで、ね。遠野くんが良ければなんだけど……」


 智香との行為を妄想する涼士郎に、彼女は申し訳無さそうに懇願する。


「これからちょっと、付き合ってくれないかな……?」


 涼士郎は見誤っていた。

 彼の想定以上に彼女は性欲旺盛のようだった。

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