ハイド細胞 第一章 「分裂」 第二話 (Pixiv Fanbox)
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奇妙な出来事から始まったその日。茂音はまた、いつものようにスケッチブックに鉛筆で絵を描いていた。だが、夢で見たような綺麗な絵は、到底かけそうにない。
「ただの夢、だよね……」
「どうしたんだよモネ、いつもより変な顔して」
隆哉も、いつものように絵を描く茂音に話しかけてくる。
「えーと……変な夢を見たんだ」茂音は、夢の中で、憧れの女子大生……高井戸が描くような美しい絵を描けていたことを話した。その時に自分の目線が高くなっていたことは、伏せておいた。
「……それのどこが変なんだよ、お前だってちゃんとした絵がかきたいんじゃないの?」
「いや、その絵がすごくくっきり見えてさ、これまでにこんなことなくて」
「ふーん……昨日あの後、なんかあったとか?あのお姉さんの家に、忍び込んで間近で絵を見たとかさ」
「そんなことしてない!でもトラックが……」
茂音が事故の話をしかけた時、不意に隆哉が机に顔をグイッと近づけた。
「な、なに?」
「お前、何だよこの絵」
「え?」
茂音が自分の手元を見ると、ヒマワリのデッサンができていた。その隣にある、少し前まで描いていた落書きのような何かとは比べ物にならないほどの出来だ。しかし、茂音の視線を引き寄せたのは、別のものだった。
茂音の手が、長く、大きくなっている。
まるで大人のものだ。しかもその肌のきめ細やかさは、昨日の女子大生を思いださせるような、女性のものだった。
「すっげーじゃんモネ!いつの間に……モネ?」
「え、あっ、な、なんでも……」
すかさず、サッと手を机の下に隠す。足の太さよりも大きい手は、すぐに元に戻った。
「あ、あの……」茂音の後ろから、幽霊のように消え入りそうな女の子の声が聞こえ、茂音はビクッとした。それは、もう一人のクラスメイト、光流(ひかる)だった。茂音よりも小さい彼女は、存在感が薄く、登校時に教室に入ったのに誰にも気づかれないほどだ。
「えーと……綺麗な、絵ですね……」
「え、う、うん?」何を言ってるのかすら聞き取りづらく、思わず聞き返してしまう。それだけでも驚いてしまったらしく、光流は小さな悲鳴を上げて、急ぎ足で出て行ってしまった。
「あなたの絵が綺麗だって言ってるのよ、モネ」こちらもいつの間にか居た瑠衣が、光流のフォローをする。「あの子、あなたが絵を描いてる間ずっと見てるのよ?」
「え、そうなんだ……」
「それにしても……ここだけホントに上手ね」瑠衣は感心しているようだ。「何があったのよ」
「あ、えーと……絵がうまい人がいて、絵のこと、教えてくれるって、家に来てもいいって言われたんだ……」
しかし、このヒマワリの絵は、教わらずに自分が描いたものだ。いや、自分というより、大きくなった手の持ち主、自分ではない誰かが描いたもの。
「やったじゃん!モネ、あのお姉さんのこと好きなんだろ?じゃんじゃん行っちゃえよ!」
「ふーん、じゃあ私が教える必要はなさそうね?」瑠衣は、少し寂しそうな顔をする。
「そ、そうだね……」茂音は、瑠衣の微妙な表情に気づくことはなかった。
茂音は、自分の中に他の誰かがいるような違和感を覚えつつ、結局下手に戻ってしまった絵を描き続けるのだった。
—
学校からの帰り道。意識したわけでもないのに、茂音は高井戸の家へと向かっていた。
「ボクの体、どうしちゃったんだろう……」自分の手のひらを見ながら、ゆっくりと歩いていく。「昨日あったこと、やっぱりあのとき……」
ブオオオンッ!と配送用のトラックが通り過ぎていく。茂音はそれを見て、タンク車の中身を全身に浴びて気絶したときのことを思い出していた。
「あのトラックが運んでたもの、なんだったんだろう?でも、トラックの運転手さんはいなくなっちゃったし、どうしよう……」
そのうち、茂音は高井戸の家を囲むブロック塀にたどり着いた。そして、無意識にその穴から中をのぞいてしまう。そこには高井戸の姿はなく、庭にポツンとキャンバスが置かれていた。
「……のぞかなくても、中に入れば……うぐぅっ!?」
突然、ドクンッ!!と茂音の全身に衝撃が走った。心拍数が飛び上がり、全身が熱くなっていく。
「ま、またおかしく……!うぁっ!」
茂音の両脚が、メキッと音を立てて伸びた。しかも、どんどん長くなって、戻る気配がない。
「や、やだ……うぅっ!」
ズボンがギチッと音を立てると、そこから急激に圧迫感を感じる。茂音の脚は長くなるだけでなく、太くなり始めていた。
「た、助けてっ……」茂音はよたよたと、ワラにもすがるような思いで高井戸の家の門へと歩みだす。その足の動きで、ズボンがビリビリと破けていく。
幸いにも門は開いていて、庭への通路をさえぎるものはなかった。
「あうぅっ!!」
さらに足は長く、太くなり、ズボンは割けてしまった。その中からは、これも女性のようなスラッとした足が出てきた。だが、身体が変わっていく強烈な感覚に圧倒されている茂音には、それに構っている余裕がない。
「だ、誰か……あぁっ!!」
今度は、グキグキと背骨が伸びていく。胸囲も胴囲も大きくなり、着ていた服のボタンを両側から引っ張っていく。
庭に誰もいないどころか、開け放ってある扉にも人影は見えない。茂音は縁側に倒れこむように腰を下ろす。ハァハァと荒い息を立てながら、変化した自分の脚に目を落とす。
「ぼ、ボクが、ボクじゃなくなっちゃう……!」
その視界を遮るように、胸がミチミチと盛り上がり始めたところで、ついに茂音は耐え切れなくなり、意識を手放してしまった。
—
その数分後、そこには長身爆乳の女性が目を閉じて座っていた。その長髪は腰にも届く長さで、完全にサイズの合わない服……というより、ただの布切れを身にまとった彼女のいたるところから、きめ細やかな肌がのぞいている。
「へくちっ!!」
彼女は、くしゃみとともに目覚めた。その目は切れ長で、瞳は赤い。周りを吟味するように眺めまわした後、彼女は……
「あ、あぁっ……ふ、服を着ないとぉっ!!」
慌てふためいて家の中に飛び込んだ。バルンバルンとおっぱいやらおしりやらを揺らして、クローゼットを探し回る。そして、目に飛び込んできた下着とシャツ、デニムパンツを急いで手に取った。
「き、気持ち悪いくらいサイズがぴったりね、これ……」
彼女は、すこし不思議に思いつつも、なんとか身を隠せるものを見つけられたことに安堵した。
「……あのー?」
「ひぃっ!?」
彼女の後ろから、突然別の女性の声がした。それは、茂音の憧れの女子大生、高井戸にほかならなかった。
「あ、高井戸さんね……」
「え、どうして私の名前を?」
「あ……いや、なんででしょうね……ほんとに……」
彼女にとっては高井戸は初対面だが、名前はすぐに思い浮かんだ。
「私とは別の私が……?」
「あの?」
高井戸は突然現れた不審者に眉をひそめている。
「まあ、いいです。あなたのお名前は?」
「私は、もね……」不意に口をついて出た名前。だが、彼女は潜在的に、その名前を使わない方が身のためと感じた。「ま、茉菜(まな)です」
「茉菜さんですか……少し、私の知ってる子と名前が似ていますね。彼のお姉さんですか?」
高井戸の何気ない言葉に、茉菜の胸が強く突かれる。それと同時に強い頭痛がしはじめた。
「あ、あたしは一体……!?男の子!?」茉菜の意識の中に、変わる前の意識、つまり茂音の記憶がどっと流れる。「何なのこの記憶は……!」
「ど、どうしたんですか!?」
高井戸の大声で、茉菜は気を取り直す。
「い、いえ……あの、高井戸さんの絵が、綺麗だと思いまして、つい入ってきてしまって……」
「え、えぇ?それなら、少し、見ていきますか……?」
自分を知らないはずの高井戸は、茂音と接するのと同じ物腰の柔らかさを見せる。それに少し安心感を覚えつつ、茉菜はうなづいた。
「あの、差支えなければ、で……」
「大丈夫ですよ」
見たことがないはずの絵は、流れ込んできた記憶の中にあるものばかりだった。その絵画に、茉菜は茂音と同じ憧れを感じる。
「茉菜さん、そこまで興味を持ってくれるなんて……絵を描くことに興味はないですか?」
「え?」
「それに、今でも少しは描けるんじゃないですか?ちょっと見せてもらえませんか?」
「い、いいけど……」記憶の中には、茂音の落書きしか思い浮かばない。だが、一旦鉛筆を取ると、不思議とスラスラと絵ができあがっていく。
「え、すごい……」そう言ったのは、茉菜ではなく高井戸の方だった。
「私も……い、いえ、そんなこと、ないですよ」茉菜も、自分の手から生まれ出た絵に驚いていた。
「私の方が勉強することありそうです!私に教えてもらえませんか!?」高井戸は深々と頭を下げた。
「そ、そんな……」
「お茶もお菓子もお出ししますから!」
キラキラと輝く高井戸の瞳に押し負け、茉菜はしぶしぶうなづいた。
「(茂音っていう子には悪いけど……)」もう一人いるらしい自分に、少し罪悪感を感じる茉菜。茂音は高井戸に憧れを持っているのに、なぜかうまく描ける絵のおかげで高井戸が自分に憧れを持ってしまったのだ。
「あ、長い間引き止めてしまって申し訳ないです」
「いえ、あ……」茉菜は、家の中に脱ぎ捨てたままになっている茂音の服のことを思い出した。「お手洗い、お借りしてもいいでしょうか?」
「どうぞ」高井戸が指さした先は、幸いにも茉菜が服を着替えた場所と同じ方向だった。
茉菜はそそくさとビリビリに破けた服を回収し、用もないトイレまで足を運んだ。そして、用を足すふりをして一旦便座に座り、水を流して高井戸のもとに戻った。
玄関先まで高井戸に連れられ、そこで会釈する。
「では、これで」
茉菜はその場を立ち去ろうとするが、茂音の姿で入ってきたおかげで履く靴がない。庭先に落ちているだろう茂音の靴は、今の体のサイズでは入るわけもない。
「あれ、靴がないみたいですけど」高井戸もそれに気づいたのか、茉菜に尋ねた。
「え、えーと……ここに来る途中で壊れてしまって……それでお助けいただけないかとお庭をのぞいたら、絵が気になったんです!」
「あ、そういうことですか!これとか、入りますか?」
高井戸から差し出された靴は、これもぴったりのものだった。
「す、すみません……すぐにお返ししますので」
「いえ、いいですよ。絵のこと教えていただく授業料です!」
「そういうことなら……では、また」
「お気をつけて!あ、茂音くんにもよろしくお伝えください」
茉菜は門から出る。だが、その時、それまでで一番大きな違和感に襲われた。茂音と自分の関係は、一言もしゃべっていないはずだ。それを問いただそうとして後ろを振り返ると、いつの間にか玄関の扉も門も固く閉ざされていた。
「ま、まあ、茂音が私の弟とか、喋ったかもしれないわよね……?」
茉菜は違和感を振り切って歩き始めた。そして、無意識に、茂音の家にたどり着いた。
「あ、今のあたしの恰好じゃ、茂音の家には入れてもらえない……?どうすればいいの……?」
途方に暮れる茉菜。小学生の男子が帰るはずの家に、長身の女性が帰っても、誰も門戸を開けようとはしないだろう。
「(おねえさん、誰?)」
突然、声がした。
「ひぃっ!?」茉菜は急な出来事に悲鳴を上げてしまう。だが、周りには誰もいない。
「(お、驚かないでよっ!ボクの方が頭おかしくなりそうなのに!)」
その声は落ち着いて聞いてみれば、それは記憶にある声、茂音のものだ。茉菜の中にいる茂音が、語り掛けているらしい。
「(どうしてこんな状態なのか、聞かせてよ)」
「そんなの、あたしだって……きゃんっ!?」
八方塞がりになった茉菜の身体に、ドクンッ!!と衝撃が走った。