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故・岡田眞澄氏いわく「愛はバイアグラを超える」そうだ。

幼心に、シルデナフィルの高速承認や大々的な広報活動から、男根崇拝の顕れめいた熱気を感じたのをよく覚えている。「勃たない男は男じゃない」と。それに並行して、「産まない女は女じゃない」というような、澱んだ空気が醸成されていた記憶も残っている。テレビから「うまずめさん」なんて単語が聞こえてくる時代だった。当時の小室哲哉の予言的な歌詞を思い出す。彼の歌詞には時折、集合的無意識にアクセスしているんじゃないかと、ドキッとするフレーズがある。


”men and women それはhuman の苦難

難なくと生きてきた街角の無難”


私は第二次性徴期が薄ぼんやりと過ぎた個体だ。声変わりもゆるやかに、体毛も光に透けるほど薄く、現在のハイコントラストな髭面からは想像もつかないほど、線ももっとずっと細かった。恥じらいのほうが勝るため実行はしないが、当時の画像をアップロードしてお見せしたいくらいだ。リビドー、いわゆる性欲もそこまで強烈なものはなく、どこかのBL漫画のような、性自認に悩むティーンエイジャー像を期待していた方には申し訳ない、学生時代はのほほんと「中性的」の概念を文字通り、身体全体で謳歌していた。


そんな私にもとうとう性腺発達がやってきて、柔らかいものに触れたいという欲求が充満するのを体感した。だがそれと同時に、この欲求は、私が原初から抱いていた「2000年生きたい」とか「フツーになりたい」とか、そういった渇望とは、まったく異なる類であるとも感じた。こんな煩わしさに他の人は何年も苛まれてきたのか、さぞや辛かったことだろうと思うほどに。


性風俗産業に身を投じるようになって最初に苦労したのは、まさにその欲望のレヴ、もっと言ってしまえばイグニッションの制御であった。今でも、苦労こそないが葛藤は常にある。特別な好意のない他人に、それがあると錯覚させられる、最も手っ取り早くそして有効な証が、勃起なのだ。ああ、せっかく車に例えて表現していたのに、この2文字で台無しになってしまった。だがもう少し続けてみる。「私はお客様が大好き!」と自らを騙して、いや自己暗示をかけてギアを切り替えられる器用な人もいるが、私は残念ながら自分に嘘がつけない。生理的に受け付けない相手には、即座に拒否反応を示してしまう。さながら、本音をガソリンのごとく撒き散らしながら走り去る燃費の悪い外車である。良く言えば素直だが、だからこそ麻薬で感覚を鈍麻させる、などという選択をしてしまったのだろう。もうだいぶ前の話だが、弱さゆえの愚かな選択のひとつだ。


話が逸れてしまった。現在はもういい歳だし、というよりこれは場数をこなして慣れたとするほうが正しいかもしれないが、理性をもってある程度のオン/オフは自在に操ることができる。その技術、いや処世術を習得する過程で、バイアグラの扱われ方の変遷を、それこそ肌で感じてきた。


私が長年世話になった店舗は教育が厳しく、「顧客にバイアグラの服用を悟られてはならぬ」という暗黙の決まりがあった。もっとも、明文化はしないが可愛がられたかったらそうなさい、というレベルの話だが。要は気遣いの世界である。ひととおりの流れが済んだあと、盛大に口をゆすいだら「あなたとのオーラルは不快だった」というサインになってしまうし、あまりにも入念にシャワーを浴びたら汚染処理のような印象を与えてしまう。言葉遣いはもちろん、そういった言外の仕草を大切にする環境では、「バイアグラの服用はドーピング」、そして同じように「素面で勃つのが正義」、そう見做されていた。


禁止されない必要悪、せつないダブルスタンダード。それが当時より前ならラッシュ(亜硝酸エステル類)であり、現在ならタンパク同化ステロイドといったところか。


薬学に明るくなくとも、バイアグラに催淫作用がないというのはすでに周知のことであると思うが、現在は性交渉における価値観の過渡期なのだろう。男のプライドと円滑なセッションの両天秤に苛まれている人によく出くわす。私からすれば、実に取るに足らないというか、「ギンギンがいいなら飲めばいいし、別にそれが第一優先でないならイチャイチャでいいじゃない」という模範解答に帰結してしまう。しかし、ゲイの性交渉というのはそう単純に片付けられるものではなく、女役側も女役側で、入念な浣腸のうえ、下痢止めを服用して腸の蠕動運動を抑制している場合がある。要するに「こっちも準備万端・やる気満々」というわけだ。以前からずっと同性の性交渉はごっこ遊びであると豪語して憚らない私の論拠のひとつはここにある。「勃つべし・入れるべし・備えるべし」というセオリーが先行してしまっている。肛門性交を否定したいわけではない。そこに宿る不自然さを、あまりにも無視しすぎではないか?という問いを、カオスの水面に一滴垂らしてみたいだけだ。不自然さを意図的に無視し続けた結果、その存在自体を忘れてしまっているかのようだ。私にはその様相こそが、ごっこ遊びよりもグロテスクに思えてならない。


価値観のキメラと化してしまった性交渉におけるバイアグラの服用は、もはやエチケットのような位置付けになっているようにさえ感じる。私がバイアグラを服用する目的はおもに撮影時の見映えを考慮してのものだが、あの成分の影響下では、達するまでの時間が長くなってしまうし、精液の排出量も鈍る。ほんとうに、痛し痒しなのだ。だがそれは「仕事としてやっている」という裏保証があるからギリギリ正当性を保てているようなもので、本音を言ってしまえば、あんな、頭痛がして鼻も詰まり口が渇いて視界までチカチカする苦い錠剤を、たかだか1、2時間のセックスのために飲み下したくなどない。「この人としてみたい」と思える人となら、なにかを仕込む必要などないからだ。


それは、ゲイの性交渉に限らず、ヘテロセクシャルのそれでも同じことが言えるのではないだろうか。女性用バイアグラなどという代物が登場し始めて久しいが、クリトリスへの血流を増やして、それが実際の感度にどれほどの影響があるのかは、心身共に男性である私が与かり知るところではない。例えば、特定の考え方をする女性は、生理周期やPMSのコントロールではなく、性交時の快感と避妊を目的として低用量ピルを服用している。身を守るためでなく、自身を粗末に扱うために。私は先述のグロテスクさを、彼女たちの思考過程にも見出してしまう。


どんなセクシャリティにも共通して言えることだが、粘膜の直接接触を伴う関係は、軽視できない意味を持つ。そこに、一体、見栄やプライドなどを持ち込む余地はあるのだろうか。いちおう先進国とされている我が国で、梅毒を始めとするSTDの感染率が増加している事実は、厳然とそこにある。恥を重んじるという国民性が真実ならば、恥じるべきは、セックスの質ではなくこの数字である。


無防備な姿を見せても、不安にならない。


そんなふうに思い合える人との営みを、大切にしたいものである。

だって「愛はバイアグラを超える」のだから。



Shine on you.

Comments

h.

大切にしなきゃいけないものを、改めて感じさせられました…