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 満月前になると、過去の出来事をよく思い出す。

 思い出すというか、自分の意思とは関係なくプレイバック再生されてしまう、と表現したほうが適切かもしれない。こういう生業で生きていると、時折こうして、脳の誤作動が起こる。さっき蘇った記憶は、一昨年の冬ごろに一度だけ肌を合わせた男とのピロートークだ。なぜかその時期はお盛んというか、自らの技術に自信を失い、周囲に蔓延るマスキュリズムへ迎合せねばと不安に駆られていた時期で、不自由な思考回路に陥っていたのかもしれない。真っ黒ではないがグレーな歴史である。相手は、まあ、ゲイの理想型を模した似姿のような、どこぞの飲み屋で画像片手に自慢話でもすれば五、六分程度は座を支配できるような見てくれだったのだが、正直、いっときの空しさが埋められるのであれば誰でもよかったから、相手のヴィジュアル由来の昂りというのは、まったくなかった。マッチングアプリで募集をかけたら応答がきたので会った、ただそれだけの話である。内容は笑ってしまうほど散々で、まあ、ゲイタウンを根城にしている男にありがちな「相手でマスターベーションをするセックス」しか知らない類といったところか。エクスタシーはおろか安心感すら抱けぬまま、またつまらぬ者に身体を許してしまった......と後悔しつつ、やおら始まった独白に耳を傾けていたわけだが、彼の持論がなかなか興味深かったので紹介しておく。

 「ボス猿みたいに、俺より男らしい人には攻められたいが、そうでない者には攻めに回りたい」

 要するに、「俺はお前より上・お前は俺より下」と。ほう、これはこれは。また拗らせた男性性をひけらかしちゃって。私は生まれたままの姿で、失笑を堪えながら相槌を打つのがやっとであった。なんなら、ちょっとした腹筋運動すらできていたかもしれない。この人はテクでもトークでも意表を突く笑いをくれる。やはり、笑いは唯一の救いだ。だって、行動も論理もちぐはぐなのに、私は最後までこの人の独演に付き合えたのだから。

 まず、そもそも、きょうび、霊長類の研究分野において「ボス猿」という言葉は死語に等しく、彼の主張したいメイン箇所であろう最も偉いオス猿は「第1位オス」や「アルファオス」と表現されている。そして、オスは育った群れの中に骨を埋めることはなく、約3年の周期で別の群れへと移動を繰り返す。すべてのオスがアルファオスになったりそれを目指すわけではなく、順位は変動こそすれ、基本的には実力順というよりむしろ年功序列方式だ。ポイントは、同じ群れを維持しながら一生を過ごし、多数のオスと交尾をするのは、メス猿。つまり、彼の論理で話を進めていくと、彼自身のとっている行動は、悲しいかな、限りなく「メス的」である、ということになってしまうわけだ。残念でした。

 なにもわざわざ、猿の社会構造などを持ち出さなくとも、「強きには屈し、弱きには大きく出る」という姿勢を、なんの疑問も抱くことなくしたり顔で喧伝できてしまう時点で、誤解を恐れぬ表現をあえて使うことを女性読者各位にはご容赦いただきたいが、私からすれば「女々しいオカマ野郎」としか思えず、セックスをするためだけに特化させた家具配置のアパートで、「自らがいかに男らしいか論」を意気揚々と、格下であると認定したはずの私に説くさまは、なんとも哀れ(だって、その理論の正当性を担保させるのなら、自分より格上の男を説き伏せるべきでしょう?)というか、日本のゲイ文化の轍を創ってくださった先人たちには申し訳ないが、現行のゲイ文化と実社会の価値観、双方の致命的な乖離を実感せざるを得なかった。

 単純な疑問である: この人たちはあと何年、こんなことをやり続けるのだろうか?

 私などは早々に、この文化に踊らされるLのプレイヤー(player)からドロップアウトして、清濁がギリギリの秩序で拮抗することを願うRのプレイヤー(prayer)に移行したわけだけれども、この人たちは自己矛盾に疲れることがない。あるいは、そのように見えるだけで、うすうす勘付きながらも今更抜け出せないのか。その煮え切らなさが、ときどき羨ましくさえ思える。例を挙げだせばキリがないが、膚に瑞々しさを求めながら日焼けをし光老化を促し続ける、「オネエっぽく思われたくない」という恐れからくる不自然に強調された粗野な言動、「大切な人といつまでも一緒に」などと夢見る夢子節を嘯きながら健康寿命を縮める悪習慣(肥満・喫煙・飲酒、あるいは違法薬物使用)を改善しない、性的に求められたいがためにタンパク同化ステロイドを用いた結果、勃起不全や女性化乳房を併発し、それをカバーしようと勃起薬や抗ホルモン剤に頼り、さらに内臓を傷めるなど。私に言わせれば「あなたたち、一体何がしたいの?」という世界である。

 逆張りというか、それに抗うかのごとくサブカルチャーや高尚とされる文化に身を投じる者も散見されるが、これもまた私に言わせれば「あなたそれ、本当にやりたくてやってる?」的な印象である。実際、「純粋に好きで楽しい」という動機で粛々と打ち込んでいる方と比較してしまうと、その浅はかさたるや、覆うべくもない。

 もう言葉を選ぶのは止めよう。明らかに、病んでいる。

 これらの症例からも分かるように、「素直にゲイを楽しんでいるゲイ」は、もはや希少種となってしまった。ちなみに私は、捻くれてはいるが、病んではいない。屈折している自分のことが好きで、それを楽しんでいるからだ。十年くらい前ならまだ、ゲイバーやクラブに一人や二人そういうのがいて、悪い顔をしながらゲラゲラと美味しくお酒を酌み交わせたものだけれど。まあ、そりゃあ、私もあまりそういう場に出なくなるわけだよなあ。社会勉強としてたまに顔を出したりはするが、心躍る瞬間は、あんまりない。かといって、そういった要素をその場に求めることも、自らがその界隈でエンターテイン側に回ろうという気も、もはや湧いてこない。居合わせた座の役割として生贄的に道化を引き受けることはあっても、死にゆくものを無理やり延命させて年金が入る期間をちまちまと引き延ばしたところで、私に何のメリットがあるというのか。

 私はドクターキリコであって、ブラックジャックじゃない。ほんとうは、黙っていても守られ可愛がられるピノコになりたかったけれどね(笑)。運命は変えられても、運命そのものから抜け出すことはできないのだ。

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