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 なにもすることがないとき(いや、本来はタスク山盛りなのだが)、横になり、端末片手にInstagramのフィードを流し見している。怠惰の極みであるが、「お前、こういうの好きなんだろう?」と言わんばかりの小憎たらしいアルゴリズムの動向を探るという名目は一応、ある。私の場合は漏れなく、美容や芸能関連の投稿が流されてくる。日本の場合は特定の人物をエピソードを交えて紹介する内容、北米やユーロ圏の海外からは惚れた腫れた、美容整形などのゴシップが目立つ。賢明なみなさまのことだから、加賀の下世話さがこの時点でお分かりいただけるだろうが、私は1週間前に施術を受けたペニスへのピアッシングの鈍痛に耐えながら、ひとつ、気づきを得た。

 男と女で、比較のされ方が違う。

 男女に優劣をつけるなどという不毛な作業は怪しいなまぐさ活動家にでも丸投げするとして、ことソーシャルメディアにおいての男女の比べられ方について感じたことを記してみようと思う。男性になされる比較は流動的というか、もはや比較として成立していないのではないかと思えるような投稿が多い。例えば、そうだな、ハリウッド縛りでいこう。とある男性俳優の20代の頃の画像(ご丁寧にフォトショップや画像処理AIで修整までかけて!私はこの手口が大嫌いだ)と、近年または直近のレッドカーペットでの画像を並べて"Then and Now(当時と現在)” とする。そしてキャプションには"L'uomo è come il vino..(人間はワインのよう……)” と書かれ、コメント欄は炎の絵文字(性的に魅力的である、の意)で埋め尽くされる。もちろん角度や光源といった撮影条件はバラバラ。演技派より、端正な顔立ちや肉体派の俳優が引き合いに出されている印象だ。”L’uomo è come il vino..” に続くのは、”i vini invecchiando migliorano(熟成するほど味が出る).” 。要するに、「男は経年劣化しない」と言いたいわけだ。

 対して、女性になされる比較はどうだろう。これまたハリウッド縛りでいくと、今度は”Before and After” やら”XXage to XXage”やら、見てくれの変化や年齢を露骨に強調した投稿が目立つ。あるいは、人種的・外見的特徴が似ている者同士を、正方形の領域を目一杯使ってこれでもかと並べ立てる。それはまるで、「これに気づいた私、すごいでしょう?」とでも言いたげな。ワインをサングリアにしちゃいけないのか?女のワインは常に同じ味でなければならないのか?私がもし女として生まれてこういう扱いを受けたら、違和感を覚えることだろう。

 余談だが、私は絵の間違い探しが上手い。テトリス並に上手い。難しいと云われるサイゼリヤの間違い探しも、楽勝である。そういった性質も相まってなのか、男女問わず容姿の変化にはすぐに気づくほうで、誰かを前にして、美容整形を受けているかどうかなど、正直、一発で見抜ける。とはいえそんなの、秘すれば花。なんでも指摘すりゃいいってもんでもあるまい。というのが私の信条。中島みゆきじゃないけれども「西には西だけの正しさがあるという」、その業界にはそこでやっていくための基準があるのだ。それはそれは、明確にあるのだ。ショービズの世界は女性への基準が多く、そしてそれに課されるハードルも高く厳しい。男性の場合はある程度の基準を満たしていれば、あとはどこが抜きん出ているか・どれを個性とするかという世界の話になってくるが、女性はなかなかそうはいかない。人種・体型・バックグラウンドは基本のキ。そこへさらに、美人でいくならこういう美人、面白さで勝負するならこういうユーモアで、演技派でいくならこういう路線で……と、さながら「予測不能な女」を恐れ、封じ込めようとせんばかりに。

 私は「シスヘテロ男性とゲイ男性は別の生物」と主張して憚らないタイプの人間だ。だって「ノンケ専」や「食われノンケ」・「ヘホ」なんて分類があるくらいなんだもの。「男」という曖昧な生き物を隔てる要因がなければ、そんな価値観だって生まれぬはず。私は至って普通な(?)、身体は男・心も男・ムラッとくるのも男・恋愛感情を抱くのはゲイの男、というごくごくプレーンな。妙なマスキュリズムや女性嫌悪にも毒されずに生き長らえてこられた個体なのだけれども、そうでない者が私に向ける視線がいつも好意的であるとは限らない。いや、どちらかといえば疎ましく思われた経験のほうが多い。たまーにちらほらいる、ゲイの中でも浮いちゃうゲイ。それが私だ。先人たちが血の滲む思いで紡いできた「ゲイはこうあるべき」という教科書を燃やし、前例のない選択ばかりする。水商売経験も、AV出演も、エスコート勤務も、美容整形も、身体改造も、薬物依存経験も、睡眠障害も、後ろ暗い家庭環境も、ひとつも隠そうともしない。かといってそれらを誇りもしない。それどころか「なーにがプライドパレードだよ露出狂の百鬼夜行じゃねーか」と啖呵まで切る始末。

 私は、「どんな姿でどんな人を愛するか」という神聖で大切な領域を、やすやすと他人と共有したり、まして定義など、されたくない。ただ、それだけなのだ。

 私は、素材だけで勝負しすぎなのだと思う。そしてそれはおそらく、葡萄じゃない。私のお酒で酔いたい人は、そうとう奇特な人だと思う。でも、私のお酒じゃないとダメだという人もいることを、私は知っている。

 あなたがもしワインに飽きたら、試してみてね。

Comments

kkkko

加賀コラムおもしろいです〜〜。良質なコンテンツの提供に御礼申し上げます🙏