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ティーンエイジャーのころの私は暗く、見知らぬ悲しみや怒りに心を支配されていました。大人になった今ではそのわけが手に取るように理解でき、そのころの自分に「大丈夫だよ」なんて声をかけたいくらいには、優しい気持ちを取り戻しましたが、それは、当時やりたくてもできなかったことが自分の意思でできるようになり、自らの血肉になっていくのを実感するようになったからだと思います。それはすなわち、自分自身を丁寧に扱うということ。

たとえば私の家族は、人間の容姿の美醜に関して厳しい価値観を持っていました。メディアから流れてくる芸能人に辛辣な言葉を言い放つ家族や、「内孫が可愛く生まれてよかった」と祖父母が目を細めながら言うのを幼心に覚えていますし、母親はいつも念入りに化粧をし頭から爪先まで飾り立て、外出の日にはなんの式典だろうかと思うほどの華美な服を私に着せて連れ歩きました。私は所謂ててなし子なのですが「新しいお父さん候補」はたくさん、ほんとうにたくさん見てきました。この世に継父マイスターなる資格がもし存在したならば、私はほぼ満点で合格することでしょう。継父エピソードで強く印象に残っているのは、折り合いの悪かったひとりに殴られて救急搬送されたときで、命に別状はなかったのですが、後遺症で右側の眉骨が歪み、右目が一重まぶたになり、右乳頭に瘢痕ができました。私は初めて経験する人間からの暴力の痛みと驚きで、それらの現実よりも「生きてるーよかったー」という感覚が大部分を占めていたのですが、周囲の反応は笑ってしまうほどに変わっていきました。まあ、そうですよね。いま考えて、というかこうして文字に起こしてみるとかなり強烈なものがありますもんね。いま自覚しました。「可愛かったのに」「ガチャ目になった」「乳首が片方だけ大きい」。私に向けられた言葉は、すべて容姿に関することでした。別のときにはフライパンを顎に当てられて、唇が裂けて前歯が折れたのですが、聞こえてくるのはやはり「くちびるオバケ」「ガチャ歯」などで、かつて私を褒めそやし天竺まで持ち上げていた人たちの掌を返すような態度に、私は深い悲しみを覚え、やがてそれは、容姿の美醜に対するコンプレックスへと変質していきました。

「フツーに戻りたい」。はじめの願いはそれだけでした。子どもの言いだす「フツー」などたかが知れていますが、突如奪われ与えられた別の新たな「フツー」が、私にはとても居心地が悪かったのです。ちょうど私が小学校高学年から中学生のころは、美容医療が流行し始めていたときでした。いわゆるプチ整形とかいうやつですね。選択的に採用されたであろう出演者が美容整形の手術を受け、その変化を比較する番組が大手美容クリニックの提供によって放送されていた時代。「顔を変える」という処世術が、実生活にまで染み込んできた過渡期です。情報だけならインターネットからいくらでも手に入りました。まぶたを糸で縫えば線が入る。縫ってもダメなら切り貼りできる。額や眉の骨は皮膚を剥がして削ったり足したりできる。歯も本物に近い素材で再現できる。「元に戻れる。」その頃の私にとって美容医療は、もはや救済に近い選択肢となっていました。家族に手術を受けたい旨を伝えたところ、「親からもらった身体に傷をつけるなんて言語道断」と一笑に付されただけで、家族たちの捉え方と私の思いとの温度差に、静かに絶望しました。自分たちで傷つけて、壊したのに。なんとも皮肉な話です。私の提案に抵抗を示したのはきっと、認めてしまうことになると感じたからでしょう。「種を選んでまで生んだ子を、私は虐待した」と。予期した通り母親は激昂し、その波紋の影響を受けた継父からの暴力はやがて、パワーによるものから性的なものへと変わっていきました。遺伝子の近い人間と露骨な性というのは非常に相性が悪く、パワーで痛みを感じるよりも、個人的にはつらく厳しいものがありました。「ぶっさいくな顔で舐めやがって」などと、母親が見ている前で継父のペニスをフェラチオしながらそういった言葉を聞くたびに「フツーに戻りたい」という願いは、どこか遠くに霞んでいくようで、悲しみを帯びた容姿の美へ対するコンプレックスには、さらに、怒りや復讐心に似た思いが練り込まれていくのでした。

私が援助交際に手を染めるのに抵抗が少なかったことは、前述のエピソードでお分かりいただけると思いますが、15歳が本番までこなすとなると、援交ブーム下火の00年代でもかなりの額を稼ぐことができました。「求められるものを提供して対価を得る、それだけのこと」と、ひとつの側面だけに集中して、世間からどう思われるとか、性を売り物にするなんてとか、そういった深いレイヤーでものを考えることは、当時していなかったと思います。いや、やろうとすれどもできなかった。行動の最優先事項が「生存すること」に設定されてしまっているティーンエイジャーは、私たちが考えているよりも、ずっと多いと思います。可視化されると都合が悪い、オブジェクトとして認識されてしまう人々。彼らはそもそも、悲哀を湛えながら恥の体験を発表する気などないし、そして同じように、声を上げたところでなにも変わらないことを、それこそ嫌と言うほど分かっている。話の種になると踏むやいなや、明け透けに語ってしまう私のような人間が、いちばん賤しいのです。そんな私は、初めて自分の力で稼いだお金で、自分の顔を変えました。15歳の冬には目を、18歳には眉骨と唇を、歯もできるだけ自然な白さに。私はやっと、私の考えうる、できうる限りの「フツーに戻りたい」を実現させようと試みたのです。面白いことに、家族は私の整形に気づきながらも話題のひとつにもすることなく、見て見ぬふりをし続けるのです。それどころか、接し方が以前のような、きれいなものを穢すまい然とした柔らかい態度に変わっていきました。しかし私はもう、その柔らかさに優しさや愛を見出すことはありませんでした。顧客の態度も同様に一変しました。「垢抜けた」「可愛い」「化けた」。むなしい言葉だけが、心の虚を埋めるために手を出した麻薬で曖昧になった意識へこだまして、私はいつしか「フツーに戻りたい」という小さな願いを屈折させて「キレイになれば強くなれる」と履き違えるようになっていきました。

その屈折した美意識は、上京を境に一気に分散しました。早咲きも漏れなく狂うのです。不安と寂しさでどうにかなってしまいそうな夜、16歳の秋でしたね。自分の舌を剃刀で切り、スプリットタンという形にしました。「生まれ変わる」という体験は、擬似的であれ一度死を経なければなりません。もういまでこそ、これらの行為は自己表現というより限りなく自傷行為に近いものであったと言い切れます。私は少しずつしっかり死んでいた。しかし、脳の回路が繋がって自分の舌は1枚でなく2枚だと認識した脳の働きを感じたり、ボールペンを改造してちまちまと歪んだ星形のタトゥーを彫り、押し拡げた耳たぶから向こう側の景色を見るたび、どこか崇高な完璧さに、「生きている」という言葉に結びついた完璧さに、近づけるような気がしたのです。もはや私の美は、かつて渇望していた「フツー」とはかけ離れ、痛みというスリルを娯しむようになっていました。いま現在、私の顔にはさらにいくつかのメスや充填材が入り、顎以外はすべてチューンナップ済み。歯には2本セラミックを差し、タトゥーは「こんなところに入れてたっけ?」と再認識するほど(虐待や暴力による傷痕を隠す目的で入れたものもあるため、普段はまじまじと見ぬようにしているのです)の数になり、ピアスはかつて揶揄され続けた乳首に、耳はもちろん、性器にも開けています。

バカにされたパーツはすべて飾り立てて見せびらかしてやろう!それが世の中への、私からの復讐である!!私大好き!!!!(草間彌生風に)ということですね。美というものは、強さや完璧さとは別のものだと気づき、ほんとうの輝きを目指すのは、もう少し先の話。

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