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 前々回だかに、「終わりが分かっているものは最後までやり遂げないと気が済まない」と書いたが、今になって、まっことこれは人生のようじゃ……と果てしない気持ちになってしまった。高二病でいうところの「どうせ死んじゃうのに、どうして必死に頑張るんだろう」的な、無常感。私はともすれば、うっすら慢性的に高二病なのかもしれない。

 病的な要素など知ったこっちゃないが、17という数字は好きだ。素数であるし、私の本名の下の名の画数も17だ。私の専門はじつはタロットや占星術ではなく、姓名判断と人相なのだが、姓名判断において17は激しい主張や芸事への執念を示す数とされている。女人には強すぎると凶数とされている流派もあるくらい、頑固さや強い信念をもたらす数なのだ。まあ、どんな占術を通して自分を鑑ても「強い自我」の象意は共通しているから、己がどう思うかはさておき、それぞれの占術の理論体系としてはきちっとした法則めいたものがあるのだろう。

 私は、占術の違いと占断の優劣に相関はないと考えるタイプだ。要は、どんな占い方であっても、上手い人は上手いし、下手っぴは下手っぴ。「12ハウス牡羊座太陽がカルミネート山羊座海王星とスーパースクエア」なんて専門用語を並べ立てたところで、それがどういう意味を持つのか、噛み砕いて相手に説明できなければ、それはただ「占いに詳しい人」であって「占い師」ではない。自分の語彙を増やす鍛錬は接客業の基本のキだが、相手の認識にすこんとはまる話術は、小難しい言い回しだけでは賄えない。「12ハウス牡羊座太陽がカルミネート山羊座海王星とスーパースクエア」というのはなにを隠そう、占星術における私の出生図での配置であるが、私を納得させるのであれば、専門用語など一切使わず開口一番「大義のために生きる人ですね」と一言、言い放てば良い。それが予定調和的であれアドリヴ的であれ、二手三手先を見越して座を構築するのだ。占いとはそういうものであるべきだ。

 そして同じように、人間関係もそんなものではないのだろうか。場当たり的にやり過ごすだけのやりとりをはたして交流と呼べるのかは謎だが、相手の反応を予見することは、私にとって「思い遣り」と呼ばれる概念と使う回路が共通している。行き過ぎた思い遣りが、恩着せがましさや詮索に繋がるように、私はこの回路を悪用せぬよう、人よりも強く歯止めを効かせなければならない。それは終わりが分かっている、この生業のさだめ。

 ゆめうつつ、心ばかり。つづく

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