ネットミームパロディと異化効果のはなし。 (Pixiv Fanbox)
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脂の乗ったAIC制作で予算もスケジュールも潤沢にあったOVAと、出来にムラのあるライデンフィルム制作で準テレビシリーズ的なネトフリ版『BASTARD‼』を比べることがそもそもどうかと思うし、アニメーター個人の技量よりも、そういう座組しか組めなかった制作体制の方こそ問題なのではなかろうか。という話をしようかとも思ったのだが、色々角が立ちそうなのでやめておこう。
共感こそが人々の好感を集める。ことSNSにおいてはそれが顕著だ。
日々のつぶやきから大作映画まで、多数派の共感こそが正義とみなされもてはやされ、そのわかりやすさから、商業的なキャッチフレーズにも使われやすい。全米はすぐに泣く。
対して異化という言葉がある。見慣れたものを、見たことのないもののように表現する手法のことで、これによって思考の自動化を回避し、鑑賞者に物事を再認識させ自動化されない思考を促す目的で用いられる。もともとは文学的な技法だったが、ブレヒトによって演劇に持ち込まれ、以降、現在の映像表現にも広く用いられている。
メタファー表現とか第四の壁を無視して観客に語りかけてくる演者などがわかりやすいだろうか。
しかし本来、観客の没入感を妨げ、作品を批判的に鑑賞することを目的に用いられた異化効果だが、情報の消費速度とも相まって、その機能を十分に発揮できないことも多い。
特にアニメにおいては顕著で、例を挙げれば、詩的言語の亜流として生み出されたであろうガンダムのセリフ群や、月詠以降のシャフト作品は『富野節』『シャフト演出』などと名付けられ、そういうものとしてまるまる受け入れられてしまう。
むしろ、このネット社会においてはそれらの特徴的な演出は繰り返されるほど瞬く間に陳腐化し、ミームとなり、その本来の目的とは真逆の性格を有していく。
それを咎めることはできないし、観客に作品の見方を強いることなどできるはずもない、そんなことをしてしまえば、そも、作品をつくる意味など失われてしまう。
それに、どんなにいたちごっこになろうとも、優れた演出家は新たな表現を模索していくものだ。
その一方でミームはミームとして一般化、陳腐化されたことにより新たな異化の対象となる。わかりやすいのはパロディ、オマージュ、リスペクトなど、言い方は違えど、明確にもととなる表現をなぞって作られたもので、以前はそれらは本質的にハイコンテクストな表現で、フォロワーの嗜好にバイアスのかかったTwitterとの相性が良いのだと考えていたのだが、それに加えて異化の視点から補足すると、陳腐化された表現を引用し部分的に改変することで共感を得ながら異化効果をもたらし観客に批評的好奇心を促すのではないだろうかと考えるようになった。
何で突然こんなことを言い始めたのか。
Twitterでメタルギアパロがプチバズったからで、Vの叡智イラストアカウントのくせにパロディでいいねを稼いでしまったという謎の後ろめたさに、いたたまれなくなっってしまったのだ。
単に思い付いたから描いちゃったのではなく、表現上の理由があってあの絵を描いたことにしたい。歴史修正主義者はこうして生まれるのかもしれない。
さて、物のついでと言っては何だが、異化効果という概念を知ったおかげで、過去の作品に対する解像度が少しあがったという話をもう少ししたいと思う。
メタルギアをはじめとする小島作品には異化効果がわかりやすくふんだんに盛り込まれており、メタルギアソリッドのサイコマンティス戦や箱裏の無線番号などのメタフィクション演出がすぐに思い出される。プレイ当時はネタとして面白いと思いつつも、没入感を阻害する演出に対して違和感を感じていたのだが、今にして思えばそれこそが一つの目的だったのだと理解できる。
小島作品の優れている点は、ゲームにおいてプレイヤーは操作するキャラクターと一体化しやすいということを前提として物語を作っていることだと思う。
物語の登場人物と同一化してしまえば、その物語の展開を受動的に受け入れてしまいがちだ。そうなれば物語はゲーム進行にはさまる段取りとしか見なされなくなり、場当たり的なエモさやチルさといった雰囲気作りの装置になってしまう。
そこでメタ演出を挟み込むことで、これはゲームであることを強調し、物語の要素の一つにソリッド・スネーク・シミュレーションをはじめとした『誰かの代わり』『他者との同一化』を織り込むことで、逆説的にプレイヤーは主人公とは別の存在であることを意識させる。
プレイヤーはその体を操作することはできても、単純な選択肢を除いてその思考まで操作することはできない。スネークにジャックに、ビッグボスになることはできないのだ。
しかし、そのもどかしさがビッグボスになることのできないスネーク、スネークの役割を負わされたジャック(リキッドに乗っ取られるオセロットも含めるべきか)やビッグボスの影武者エイハブたちのもどかしさと共感し一体化と異化を同時に感じることとなる。
デスストでは国家/個人の分断と再接続を描き、コロナ禍以前に制作されたにもかかわらず、現状とリンクした強い共感を呼ぶ作品となっている。
しかし、メタルギアと異なり、登場人物に実在する俳優をキャスティングすることでプレイヤーとキャラクターの一体化を阻害している。特にその異化効果が強烈に発揮されるのは物語のクライマックス近くで挿入されるサムとアメリがビーチを駆けるムービーで、プレイヤーは何を見せられているんだという気持ちになる。
じゃあプレイヤーは完全に蚊帳の外に置かれているのかと言えばそれも違う。
物語全編に登場しつつもキャストの存在しない登場人物が一人いる。
そうBBだ。
サムが亡くした『子供の代わり』にルー(ルイーズ)と呼ばれ、母親であるスティルマザーの名前も語られず、物語の都合上仕方なくもあるが父親の存在は完全に無視されている。
プレイヤーが真に感情移入する対象はノーマン・リーダス演じるサムではなく、確固たる個性を持たないBBなのだ。泣くBBをあやしているときプレイヤーは自分自身をあやして機嫌を取っている。
こうした一体化と異化を塩梅よく織り交ぜることでプレイヤーは感情に共感しつつも物語を客観的に深く味わうこととなる。
さらに余談だがミームという単語を知ったのもメタルギアソリッド2サンズオブリバティだった。
文化の遺伝子がネタの集積になっていて、メタルギアもまたその一部となっているのは複雑な気持ちになるが。俺たちが後世に伝えたいのはこんなのことでいいのかしらね。
アニメの異化効果と言えば、ブレヒト好きを公言している押井監督の作品だが、リアルな『イノセンス』においてはバトーとトグサはネットミームの応酬で会話しているのかもしれない。
ぬるぽ