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獣化していろいろな活動をする事が一般的になっている世界で、活動するための検定に挑む少女の物語です。


企画・原作 叶恵るい

小説 うい様

挿絵 うい様



【本文】

どきどき、という表現を考えた人の気持ちが初めて分かった。自分の心音なんて今までほとんど聞いた事はなかったが、今うるさいくらいに響くそれは「どきどき」としか言い表せない音だ。そんな事を考えてしまうほどの緊張にさいなまれながら、とある女子高生が無機質な色の扉をくぐった。

「京香です。今日はよろしくお願いします」

部屋には数人の大人がおり、皆一様に京香に注目している。いわゆる面接試験というものに見えるが、その内容はいささか特殊だった。もっとも今彼女のいる世界にとっては当たり前のように行われているものだが。

「よろしくお願いします。それではまずこちらの薬を服用してください」

そう言って試験官が指し示したのは、トレイに入った薄茶色の錠剤だ。もちろん人体に害のあるものではなく、それは本来人間が持っているはずのない様々なスキルを付与してくれるという効能を持っていた。効き目はすぐに現れる。京香も自分の体が少し熱くなったような、それでいて息苦しくは無い独特な感覚を味わっていた。

「それではまず、耳からお願いします」

「はい…!」

失敗しないように慎重に、でも素早く。京香がぐっと顔に力を入れると、その艶やかな髪をかき分けて突起のようなものが浮き上がってきた。

(よし、もう少し…!)

それは力を入れれば入れるほど大きくなり、ある地点でぴょこんと三角形になった。丸まっていた先端が伸びると、それはさながら犬のような耳であると分かる。

京香が服用した薬とは、「獣化薬」と呼ばれるものだ。これを服用した人間は自在に身体の形を変え、現実に存在する動物になりきることが出来るというものである。動物の遺伝子を使用して造られたこの薬は、人間には無い鋭い嗅覚や並外れた力でさえ思うがままに与えてくれる。

しかし悪用を防ぐためにもそれを扱うには様々な試験をクリアする必要があり、京香は今まさにその検定に挑んでいるところなのだ。頭の上で愛らしくぴょこぴょこと動くそれは犬、それも警察犬としてよく使役されるジャーマンシェパードのものだった。

「…ありがとうございます。次は尾をお願いします」

その耳を見て手元の紙に何やら書き込みをした後、試験官は平坦な調子でそう命じた。

今度は尻尾のみを変化させろ、と言っているのだ。身体の一部だけを変えるには、「意識をその一部分にだけ集中させる」という言葉で言えば単純だが相当抽象的で高度なテクニックが求められる。無論獣化検定を受ける人々にとっては初歩的な芸当だが、それは決して易しいという意味ではないのだ。

 京香は返事をするとズボンを少しだけずり下げ、今度は臀部に力を入れた。

「ん、くっ…」

 ただ力めばいいという話でもない。全身を変化させるのであればここまで苦労することもないのだが、思わず耳に力が入り、マズルなどの指示外のものまで発現してしまいそうになる。力を入れていると必然的に呼吸が止まり、京香はさらにうるさくなる心臓の鼓動をありありと感じている。

(何とか耐えて…尻尾だけ、尻尾だけ…!)

 傍目から見れば、腰を落とし頬を染め力む京香の姿は恥じらうべきものだったかもしれない。しかし今はそんなことに構っている暇も余裕もないのだ。試験管もあくまで被験者を見る目で京香の様子を見守っている。すると口元の部分が僅かに震え、尻尾よりも先に盛り上がり始めた。犬特有のマズルが発現しようとしているのだ。

「あっ、駄目…!」

それに気付いた京香は咄嗟に顔の力を抜き、何とか変化を抑えることが出来た。しかしそれに伴い臀部の力も緩み、膨らみも元に戻ってしまう。

(落ち着いて…今度こそ!)

 幸い極端に長い時間をかけない限り、変化の様子は最後まで見守ってもらえる。京香が再び変化を始めると、今度は顔はそのまま尾てい骨のあたりだけを膨らませることが出来た。ずらしたズボンの少し上あたりに、小指ほどの突起を生やす。これをそのまま伸長させ、体毛まで再現出来れば合格だ。少しずつ、慎重すぎる程の時間をかけ、それが徐々に育っていく。

「ふ、うっ…!」

 あと少し、あと少しだ。ジャーマンシェパードの尻尾の長さになるまで、あと三センチ程であろう。こうした部分変化の練習だって、これまで何度もやったことがあるはずだ。ここで失格になるなんてあまりにも悔しい。京香の表情はまさに真剣そのもので、劣情を挟む余地などどこにもなかった。

そしてそこからたっぷり三分。

試験管が評価の為のペンを持った瞬間、ついに目標としている犬の尻尾が完成したのだった。

「出来ました!」


 表面には艶やかな体毛が生えそろい、長さも色も申し分ない。自分がなりたいと願う犬の姿を正確にイメージすることが出来ていたからこその結果だ。この日の為にジャーマンシェパードについて調べ、目を閉じていてもその姿を完璧に想像できる程の訓練を繰り返した成果が出た。運動能力があることを知らせるため、尻尾を左右に軽く振っておく。周辺の皮膚が伸縮する感覚には未だ慣れないが、これも訓練を続ければどうにでもなるだろう。

しっかり動くと分かりほっとした表情の京香に、試験管が結果を言い渡す。

「ありがとうございます。それでは、第一試験の結果を発表します」

(ちょっと時間はかかりすぎたけど…お願い!)

 祈るように目を閉じた京香の耳に入ったのは、待ち望んだその二文字だった。重々しい表情の試験管の口から、それに見合わぬ嬉しい結果が飛び出す。

「合格です。次の試験がございますので、ご準備をお願いします」

「やったあ!!!」

 思うだけにしておこうと思ったが、ついその喜びが声に出てしまった。生えたばかりの尻尾がぶんぶんと左右に触れ、意図せずもそのしなやかさをアピールしている。

(よし、次も頑張らなきゃ!)

第一試験をクリアした後、次に待ち構えるのは刺激耐性に関する第二試験だ。いつまでも喜んでいるわけにもいかず、京香は一呼吸おいて表情を引き締めた。


 案内された更衣室では、試験に使う専用の服に着替えることになる。人間がマッサージを受ける際に着用する施術服のようなもので、過度な露出はないがボディラインが透ける薄目の素材で出来ていた。これにもちゃんと理由があり、それは試験内で明かされることとなる。

(第二試験は刺激耐性チェック…何を試されるのか知ってはいるけど、実際に受けるのはまだ初めてなんだよね)

 試験中とはいえ、京香も年頃の女子高生だ。何となく手で身体のラインを隠しつつ、試験会場となる個室に入室した。そこで待っていた試験管は女性で、彼女が今回のテストで京香を刺激する係になるようだ。無機質な部屋の中央にはベッドが置かれ、受験者はそこに寝そべってマッサージを受けるという方式だった。

「これから刺激耐性のチェックを行います。衣服が破れてしまった場合は失格です」

 今京香が着用している衣服が薄く破れやすいのも、その判定を分かりやすく行うためである。例えば腕が変化し筋肉が膨張してしまうと、その圧力に耐え切れずこの衣服は簡単に破損してしまうだろう。いくら刺激を受けても人型を保つことが出来るか。先ほどの試験とは違い、これは「何があっても獣化しない」忍耐力を測るためのテストだった。

 再度獣化薬を服用した状態で、京香はベッドの上にうつ伏せで横たわった。間もなく施術者による按摩が開始され、最初は肩や腕が揉まれ始める。

(あ、ちょっと気持ちいい…)

 普段なら全身の力を抜いて存分にリラックスする所だが、獣化薬を飲んでいる今そんなことをすればすぐ変化が始まってしまう。実際に今も顔の中心や指先が疼き、少しずつ犬の姿に変わろうとしていた。

「くう…!」

 しかし幸いその二カ所は施術着に包まれていない。つまり変化しても服が破れることはなく、不合格判定を下されずに済むのだ。身体の疼きを分散するためやむなく二カ所はそのままに、尻尾の変化を抑えることにだけ意識を集中した。

(尻尾さえ出なければ大丈夫…!)

 他にも身体の節々に意識しなければならないポイントはあるが、京香の課題は尻尾だった。そこだけ変化させる試験の時と同じように息を潜め、与えられる刺激を意識の外にはじき出す。このマッサージ自体も変化を促進するツボを的確に刺激するよう考案されており、獣化薬を飲んだ状態で耐えるのは至難の業だった。獣化検定がポピュラーな存在になったのは確かだが、合格者が続出しているというわけでもない。その大きな要因こそこの第二試験であり、受験者の大半がこの刺激に耐えられず不合格となってしまっていた。

「あっ…!」

 しかし今、京香も彼らと同じ道を辿ろうとしていた。先ほど尻尾を生やしたあたりの骨が盛り上がり、つんと小さな突起が現れたのだ。まだ小指の先ほどの大きさなので服を突き破るには至らないが、このまま抑えられなければ不合格になること間違いなしである。

(だめ!)

 こうなると息を止めて何とか疼きをやり過ごし、時間を稼がなければならない。手が自由になるなら身体のどこかを抓って痛みで誤魔化すことも出来るが、試験中の余計な動作は厳禁だ。今試されているのはまさに純粋な忍耐力。普段から訓練で獲得するのは難しい、それでいて獣化する職業を営むには必須のスキルだ。

「ん、ぐっ…」

 獣化検定を受験する者の中で考えても、京香はまだ若い。未熟であるという自覚も十分にある。しかし人の役に立ちたいというある種幼い夢は、障壁を乗り越えるとまではいかずとも揺るがす程にまで青々と育っていた。その夢だけを頼りに歯を食いしばり、京香は何とか急場を脱することに成功したのである。

(よしっ…)

 だがここは検定一番とも言われる難所だ。京香が尻尾を抑えていることに気付いた施術師は、しなやかな手をその臀部に添えた。

「あっ…!?」

 いくらその場を凌いだとはいえ、そのあとすぐにそこを直接刺激されては敵わない。京香が焦った声を上げた数秒後、到底耐え切れぬほどの脱力感が全身を揺るがした。一度は収まりを見せた膨らみが再び盛り上がり、今にも服を裂いて飛び出しそうになっている。一度呼吸を緩めた京香がそれに耐えられるはずもなく、ついにその刺激は許容量を超えてしまった。

「ああっ!」

 額に玉のような汗を浮かべる京香の悲痛な声が響く。それと同時に突起は尻尾へと変貌し、勢いよく服を貫いた。バリッという乾いた音が空しく鼓膜を叩いた瞬間、京香は嫌でも現実を直視させられてしまうことになる。



「これにて試験は終了です。お疲れ様でした」

 マッサージの工程はまだ終わっていないが、服が破れた以上もうその先に進むことはない。誰に目にも明らかな不合格だったが、ため息をつく暇もない。促されるまま部屋を出た京香は、更衣室に入って初めてその苦みを噛み締めた。

「はぁあ…」

 深いため息をつくや否や、自分一人しかいない部屋に崩れ落ちる。一度は我慢できたのだ。最後に尻さえ触られなければ、何とか耐え抜くことが出来ただろう。しかし試験管も真剣だ。別に意地悪をしたわけではない、ということくらい分かっている。無惨にも大破した施術着から私服に着替え、京香は誰を責めるでもなくとぼとぼと帰宅の途につくのだった。


 こうして人が落ち込んでいる時に限って、空だけがむかつく程に綺麗だ。いやこれも自分の目を慰めようとして手向けてくれたプレゼントなのかもしれないが。無念を隠すわけでもなく、京香は友人の真利奈と共に学校から帰宅する途中だった。

「残念ながら今回は不合格で…だってさ!」

 結果は分かり切っていたが、獣化検定を行っている主催者からはご丁寧に後日メッセージまで届いたのだ。形式として当然の行動だということは分かっていても、二度も現実を突き詰められる憂き目に遭っては京香も浮かばれない。ぷくっと頬を膨らませ、更衣室に戻った時と同じ海より深いため息をついた。

「あとちょっとだったのに…いやほんと」

 せめてあと三分耐えられていれば、と埒も無いことを悔やんでしまう。あのマッサージを再現できる知り合いでもいなければ、事前に刺激耐性チェックの訓練を受けることも難しい。要は練習のしようがない科目なのだ。

「何が原因だったんだっけ?」

 真利奈も京香の熱意の程は承知している。落ち着かせる意図もありそう尋ねると、京香はしぶしぶ第二試験での出来事を語った。

「他のとこは結構自信あるんだけどなぁ…どうしても尻尾がぴょんって出ちゃうんだよね」

「あのマッサージすっごい気持ちよくて耐えられないって他の人も言ってたもんね」

 京香達のいるクラスの中にも、獣化検定に挑戦しようという気概のある生徒が何人かいる。しかしほとんどがやはり第二試験で不合格通知を受け取り、消沈する羽目になっているという話だ。

「あれどう練習すればいいのかわかんないんだよね。マッサージする役も必要だから一人じゃ出来ないし」

 専用の学習施設に通う受験者もいるとは言うが、学生の身分である京香がそこに時間とお金を費やすにも限界がある。部分変化の練習くらいは家でも出来るが、そもそも獣化薬自体がお安いものではないのだ。京香もアルバイト代とお小遣いを細々と使い、何とか練習用のものを確保しているという状態である。

「だったら私が手伝うよ!」

「え?」

 京香の努力する姿を見てきた真利奈は、胸を張ってこう言ってのけた。自分一人では練習できない科目のせいで合格できず諦めることになるなんて、京香からすれば理不尽なことだ。こういう時の為に自分がいるのだから、そもそも最初から頼ってくれたっていい。

「私がマッサージ役になってあげる。これまではあんま手助けとか出来なかったけどさ、今度は一緒に練習しよ!」

 真利奈は獣化検定を受ける予定はないので、あくまで善意で協力を申し出てくれたということになる。あまりにも明るく言うので、京香は一瞬ぱちぱちと目を丸くした。

「いいの?」

「もちろん!京香頑張ってるし、これで諦めるのは悔しいじゃんね」

 その一言をきっかけに、京香は意図せずも強力な助っ人を確保したことになる。早速その日のうちに予定を合わせ、京香はアルバイトがない日に彼女の助力の元第二試験対策の特訓を行うことになったのだった。


 そして迎えた練習日。真利奈は朝から張り切って自宅を出発し、京香の家に向かっていた。次の試験日は半年後の秋になるらしく、練習できる期間はそれなりにある。何とか第二試験を突破すれば、仮にその後に続く試験で不合格になったとしても第一・第二試験は一度だけ免除してくれるという仕組みらしい。

「お邪魔しまーす」

 靴を脱いで京香の母に挨拶すると、その陰から京香も顔を出した。真利奈が来るということで、簡単にお茶やお茶菓子を用意してくれたらしい。キッチンから漂ってくるいい匂いは、もうすぐ焼き上がるレモンケーキのものだ。

「いらっしゃい!待ってたよ」

「今日は京香のお勉強に付き合ってくれるんでしょう?わざわざありがとうねぇ」

 まだ何もしていないのに口々に礼を言われ、真利奈は照れくさそうに頭をかいた。京香はもとより、その母親までも穏やかで明るい性格らしい。

「いえいえ。一緒に頑張ろうね!」

「うん!」

 早速京香の自室に案内された真利奈は、ドアの向こうに広がっていた部屋の様子に目を丸くした。

「わお…!」

 壁という壁には警察のポスターや感謝状が貼られ、中にはひったくり犯を捕まえたなどという内容もある。さらにはボランティア活動の功績を讃えた賞状、犯罪防止をテーマとした作文コンテストで優勝した時の盾など彼女の経歴や努力を賞するものが所せましと並べられていた。

普通京香のような年代の女子高生といえば、アニメを見たり漫画を読んだりして余暇を過ごすものだ。しかし京香に備わった人一倍強い正義感が、彼女を普通を超えた模範的な生徒に育て上げたのだろう。無論学校の成績も優秀だがそれゆえ近寄りがたい雰囲気を纏っているわけでもなく、一見すればただの明るい女子高生といった様子である。

「すごいねこれ…」

 前から親しくしているとはいえ、家に呼ばれたのはまだ数回だ。それも親密ではないからという理由ではなく、京香自身が休日に家を空けることが多いからである。そのほとんどが校内外でのボランティア活動によるもので、今目にしているのはその結果や勲章、というわけだ。

「そりゃあね。でも逆に言えば、今私に出来ることってこれくらいしかないんだ」

 いくらこうして努力を重ねた所で、あくまで京香に出来る範囲の行動は限られている。凶悪犯から多くの人々を守ったり、麻薬の密輸を防いだり、そういった大それたことは夢のまた夢だ。

「でも、もし本当に警察犬になれたら…」

 女子高生には、いや人間には出来ないことだって可能になる。今迄ずっと「能力の限界」という壁に囲まれていた自分を解き放って、誰かの役に立ちたいという意思を原動力にもっと色んな形で貢献できるようになる。初めて獣化薬を飲み活躍する警察犬の映像を見た時から、京香の夢は変わらなかった。幼い子供がアイドルに憧れるように、京香もまたヒーローやヒロインに憧れているのだ。

「…うん、そうだよね。京香は変わらないなぁ」

 今思えば京香は小学生の頃から同じことを言っていた。その夢も目標も当時から変わらず、でも今は当時以上の熱量を以って実現しようとしている。その純粋な思いに応えるべく、真利奈も協力を惜しまないのだ。

「私も頑張って手伝うし、応援してるよ」

 京香が不合格になったという話を聞いてまず心に浮かんだのは、これで京香が夢を諦めることにならないかという心配だった。でも彼女の様子を見るに、その心配は杞憂に終わったようだ。何かを決意した頼もしい表情で頷く京香は、早速薬や服の用意を始めた。

 同じものは手に入らなかったものの、本来マッサージ店で使われている薄い素材の服はネットで探すとすぐ手に入った。今回はこれで代用することとして、薬も試験が終わってから少し余分に買っていたものを使う。ペットボトルの水で薬を飲み下し、ウォーミングアップも兼ねて伸びをした。

「部分変化は結構できるんだけどね」

 少し浅めに履いたジーンズのウエストから、ぴょこんと尻尾を生やしてみる。毛並みも動きも現実の犬と全く変わらないそれを、京香はふりふりと左右に動かしてみせた。

「可愛い~!」

 少し前までは、こうして人間の身体に耳や尻尾が生えるなどフィクションの中での出来事だった。獣化薬が普及した今でこそそれなりに見られる光景だったが、真利奈は目を輝かせながら京香の尻尾を触る。ふわふわとした毛が指先に触れて心地よい。

「問題は刺激耐性なので…」

 獣化薬の効果は一回変化すると切れてしまう。京香は改めてもう一錠薬を飲み、着替えを始めた。通信販売のダンボールから出したばかりの薄い服に着替え、ベッドに横たわる。

「これから全身の変化が始まるから、私が合図したら全身をマッサージしてね。前回は尻尾が出ちゃって失格になったから、そこを重点的にやってくれると嬉しいかも」

「おっけー!」

 しばらくすると京香の言う通り変化が始まり、耳やマズル、手足などが犬のそれに変わっていく。手足の肉球や耳先の毛など、細部まで完全に本来の犬を再現していた。こうして服に影響しない部位を先に変化させてから、本番の試験は開始となる。

「それじゃ、お願い!」

「よっしゃ!」

 京香の合図を聞き、真利奈が早速京香の身体をマッサージし始める。まだ慣れてはいないが、こうして手伝いをすることが決まってからコツを調べて少し練習もしてきた。本番さながらとは言えないものの、京香は試験の時と同じような類の気持ちよさを感じている。ほどなくして徐々に身体の力が抜け、さらなる形態変化が始まった。

「くう…やっぱお尻がきつい…」

「頑張れ京香!」

 そう言いつつもこれは訓練だ。真利奈は心を鬼にしながら手を京香の腰のあたりに寄せ、ぐいぐいと刺激していく。するとお尻に膨らみがあることに気付いた。既に尻尾が生え始めているのだ。京香は何とか耐えようとしているが、それは徐々に大きくなっていく。

「あ、そこだめ…いや続けて!」

「わかった!」

 ついやめてしまいたくなるが、それは京香の為にならない。意を決してマッサージを続けていく真利奈もまた真剣で、その顔にはうっすらと汗が浮かんでいた。

(せめてもうちょっと耐えなきゃ…!)

 マッサージにより血行が促進され、より変化が進みやすい状態になっている。真利奈の顔はこちらからは見えないが、きっと彼女も頑張ってくれているはずだ。腰のあたりにじんじんとした感覚があり、そろそろ限界が近いと叫んでいる。

 試験の残り時間と同じように設定したスマホから、あと一分であることを示す短いアラーム音が鳴った。これが本番ならあと一分で試験は終了。晴れて第二試験合格だ。

「く、うう…!!!」

 しかしこちらもそろそろ耐えられないかもしれない。尻尾の盛り上がりを完全に止めることは叶わず、服も既に破れそうだ。それでもせめて出来る限りタイムを伸ばそうと必死に息を止めたが、しばらくするととうとう本音が漏れた。

「もう限界!!!」

 ぶはっと息を吐いた瞬間、服が破れる音がする。

「うわっ!?」

見ると真利奈の手の間からは立派な尻尾が飛び出し、唯一纏っていたマッサージ用の服は無惨な姿になっていた。あまりの勢いに真利奈は目をぱちくりさせている。

「びっくりした…これだと失格なの?」

「うん…」

 溜息をつきながら起き上がってタイマーを確認すると、画面の中の時計は残り30秒を指していた。しかし限界だと思った時点から30秒は耐えたのだ。反省はしつつも、そこには素直な驚きがある。

「惜しかったねー!」

真利奈も悔しそうな顔を見せ、予備として何着か買っておいた服を出してくれる。時間はまだまだある。彼女も京香も、出来るようになるまで何度でも挑戦するつもりだ。

「よし、もう1回!」

「らじゃー!」

 こうして二人の特訓は続き、試験時間の10分を耐え切るべく何度もチャレンジを重ねるのだった。


 そして迎えた試験当日。あれからも真利奈はあまり日を置くことなく京香の家を訪れ、練習に協力してくれていた。その度必要になる獣化薬もアルバイトを詰めに詰めて何とか手に入れ、最低でも一週間に一度は練習日を設けていたことになる。

「よろしくお願いします!」

 これで二度目となる試験。部分変化については前程時間を要することもなくすんありクリアし、今は第二試験に臨むところだ。京香は更衣室で何度か深呼吸を行い、これまでの練習を振り返った。最初は残り30秒という惜しい所で失敗してしまったが、最終日には何とか10分耐え抜くことが出来たのだ。その時は真利奈も自分のことのように喜び、試験本番でも同じようにクリアできるよう二人で祈ったものだ。

「大丈夫、きっと出来る!」

 練習で出来ないことは本番でも出来ない。しかしその逆はあり得る。あとは自分のメンタルと戦うしかない。京香は敢えて声に出し自分にそう言い聞かせ、試験室に入った。

「第二試験は刺激耐性のチェックです」

 あの時と同じ文言を聞く京香は、当時以上に気を引き締めている。ただ意気込むのはいいが過度な緊張は身体にも良くない。自分なら出来るという自信を持って、でもそれが過信にならないように気を付けて。山ほどある留意点に気を配っていると、獣化薬を飲むよう指示された。

「はい!」

 用意された薬を飲み込み、最初の変化を行う。ベッドの上で身体が変化し、手足や耳が犬のそれになった。ある程度まで進んだところで、「按摩を開始します」という声が聞こえる。

「お願いします」

(今度こそ絶対、クリアするんだ…!)

 真利奈との練習の時、変化を抑えようとしてあまり力を入れ過ぎると逆に耐えられなくなってしまうと気付いた。力むにしても既に変化している手足を意識し、尻尾に関しては集中しすぎてはいけないのだ。按摩が始まってもなおそれを反芻し、力を入れないようにしておく。

(真利奈、頑張ってくれてたな…)

 最初は少しぎこちなかった彼女も、練習を重ねるについてスムーズにマッサージしてくれるようになっていた。こっそりコツでも調べてくれていたのか、本番のそれも彼女によるものとほとんど変わらない。おかげでいい意味で練習の時と変わらない気持ちで試験に臨める。全て終わったら彼女にお礼をしなければ。そんなことを考えているうちに時計は残り五分を示した。

「臀部の按摩に移ります」

 これからが難所だ。でも練習のおかげで変化をコントロールすることが出来るようにはなった。自信を持って、私なら大丈夫。ポジティブな言葉を重ねながら、ベッドに全体重を預ける。尻尾の膨らみは僅かにあるが、まだ服を破るには至っていない。身体にも心にも、前回よりは余裕を残している。練習の積み重ねが自信につながるとはまさにこのことだろう。あれだけ頑張ったんだから出来る、という心の支えは大きい。

「くう…」

 しかし鬼門はやはり鬼門だった。残り三分を切った頃、京香の額を汗が流れ始めた。按摩による刺激に逆らうのは難しく、あの時と同じように服の下で尻尾が生え始めているのだ。ただの膨らみだった箇所に骨と筋肉が生成され、服を押し上げているのが自分でも分かる。


(大丈夫、落ち着いて)

 もう限界かもしれないと早くも思った時、ここにいない真利奈の声が聞こえたような気がした。今頃試験を受けているであろう京香を思い、真利奈も自宅で試験が上手くいきますようにと祈っていたのだ。あれだけ真剣に練習している顔を見ているのだから、今度こそ突破すると信じている。京香の努力が報われるよう、ひいては夢が叶うよう、真利奈も切ない程に強く望んでいた。

(私は一人じゃないんだ…!)

 部屋には自分と試験官しかいなくとも、応援してくれている人はたくさんいる。ボランティア活動で掃除をした公園の管理人も、万引き犯を捕まえたコンビニの店長も、京香の夢を聞いて「ぜひ叶えてくれ」と言ってくれた。真利奈をはじめとする友人達も、家族も、京香の味方だ。京香はついに心を落ち着かせ、「だめかもしれない」という不安を打ち払った。今にも破れそうな服の中で、既に完成寸前だった尻尾の変化が一時的に止まる。

(やった!止められた!)

 そのままの状態を維持することに努め、時計の秒針が少しでも早く進むことを祈る。残り時間はあと30秒。初めての練習時はここで失敗してしまったが、京香にはまだ余力がある。最初のハードルを何とか突破し、後はこのまま耐えるだけだ。

(5…4…3…)

 頭の中でカウントダウンしながら、相変わらず意識は身体にある。服の耐久力もほとんど0に近い。あと一秒でも気を抜けば失格となる。お願いだからぎゅっと目を閉じ、時が過ぎるのをひたすら待ち続けた。

「試験終了です。お疲れ様でした」

 その声が聞こえた時、最初は意味するものが一瞬分からなかった。あまりにも集中していたので、試験官の声すら遠く感じたのだ。しかし服はまだ破れていない。ギチギチになってはいるがすんでの所で踏みとどまり、形を保っている。

「え」

「第二試験、合格です。おめでとうございます」

 ベッドの上で起き上がったままそれを聞き、ぽかんとしていた京香の顔に驚きと喜びが広がる。合格したのだ。練習を重ね、何度も失敗し、でも本番をついに乗り越えたのだ。思わず涙さえ出そうになったが、それは確固たる事実だった。

「やった…やったぁ!!!」

 憧れの警察犬になるにあたり、待ち構えている壁は何枚あるのかまだ知らない。それでも自分は確かにそのうちの一つを乗り越えた。心の声は自然と言葉となり、危うく涙さえ流してしまいそうだった。早くこのことを皆に報告したい。祝福されるよりも先に感謝を伝えたい。

「次に嗅覚の試験を行います。着替えの後、隣の部屋に移動してください」

 しかしまだ浮かれるわけにはいかない。試験官の指示を聞き、京香ははっと我に返った。試験はまだ終わらないのだ。警察犬に慣れる日はまだまだ遠いが、今はまず目の前にあるテストをクリアしなければならない。気を引き締めた彼女は更衣室に向かい、次の試験の用意を始めるのだった。


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