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※一部にグロテスク、残酷な描写が含まれます



どこまでも広がる暗黒の海。荒れ狂う大波。轟轟と逆巻く大風。

板切れに掴まる両手が、冷たく痺れて力が抜けていく感触。

極度の疲労と絶望の中、海中に墜ちていく体。

息苦しくて、呼吸をしようと大きく開けた口から海月のように溢れ出る泡。

それと入れ替わりに体内に大挙して押し寄せる塩辛い海水。

吐き気がするのに吐けなくて、涙が出るのに見えなくて、

ただ苦しくて、怖くて、力の入らない手足で藻掻き続けた。

深くて暗い海の底で死ぬのだ、と思ったのだ。


あれから何年が過ぎただろう。

私の心はあの日から、ずっと塩辛くて苦い、毒の水を湛えている。

あの日私を救ってくれた、月光のように美しいあの方の微笑みで溢れている。


ああ、

もうすぐ会えますね。



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どこまでも広がる暗黒の海。静かな海底に降り立つと、グズマはゆっくりと目を閉じる。

上の世界は色鮮やかで美しい。ただ、真昼の太陽はグズマには暑すぎる。

朝から夕方までの間、グズマは眠るために生まれ育った海底へと潜る。

ここは冷たく暗いが、眠るのには最適だ。

グズマを待ちかねていたように、友のグソクムシャが岩場から近づいてくる。

グソクムシャにしがみつくと、グゥとグズマは嬉しそうな声で帰宅を告げた。

再び目を閉じる。グズマは幼いころのことを回想していた。


父と母は知らない。

人魚は生まれるとすぐ、ペンギンのクレイシュのようにコロニー全体で育てられる。

幼いころ、周りには自分と同じくらいの年頃の人魚たちがいた。

彼らの目はグズマとは違い、暗い色をしていた。

はじめのころは一緒に遊んでいたような気もするが、よく覚えていない。

覚えているのは、痛い記憶から先だ。

子供たちは群れの中で一尾だけ目の色が違うグズマのことをからかった。

彼らの『遊び』はエスカレートし、グズマはいじめられるようになった。

髪をひっぱられる、仲間外れにされる、鰓を塞がれる、貝殻や石で体を切られる。

目の色が違うだけで、姿かたちはそう変わらない同族に傷つけられるようになった。

グズマはその不条理に嘆き悲しみ、孤立した。

しかし、状況はすぐに変わった。

グズマをいじめていた人魚たちは、『女王に殺された』のだ。


『女王』はこの海域に棲む人魚すべてを愛する概念。

そして彼女の『愛』は、人魚を傷つけるものを『見つける』と、誰であろうと『殺す』。

たとえそれが同族であっても、彼女の権能は例外なく発動する。

だから大人の人魚たちは争わない。

争いが無いからこそ、彼らの文明や知能はこれ以上発達しない。

愛という水槽の中でだけ、彼らは生を享受できるのだ。


グズマはそれ以来、恐ろしくなってコロニーを離れ、1人で生きる道を選んだ。

自分が傷つくことよりも、そのせいで仲間が死ぬことを怖れたからだ。

傷は成長し、繁殖期を迎えればやがて消えるだろう。

しかし、失った仲間の命は戻ることが無い。


グソクムシャの甲殻を枕にして、

グズマはもうほとんど消えかけた傷跡に指を這わせた。

あの日、網の中で藻掻いた時についた小さな傷。

ああ、あの時。

女王に見られていなくて、本当に良かった。



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太陽が空から消えていた。

グズマの肌の色にも似た青白い雲が空一面を覆い、

海も歩調を合わせたかのように沈んだ色で揺れていた。

朝の少し冷たい海に首までつかり、

いつものようにグズマと浅瀬で戯れていたハラのもとに、

顔なじみの村の漁師が桟橋を鳴らして駆け寄ってきた。


「おお、いたいた!

グズマもおはようさん」


「こら、グズマが驚くから大きな音を立てて近寄るなと前に言ったろう。

何か用かな」


「おお、そうだったそうだった。

でももうグズマも俺の顔くらい覚えただろ?

なあグズマ? 相変わらず別嬪さんだなあ」


褐色に焼けた軽薄そうな漁師の言葉に、

グズマはぷいと顔を背けてハラの腕にしがみついた。

村のニンゲンの顔は認識できるようになったが、

心を開いたわけではない。


「軽口はいいから用件を話さんか。

村で喧嘩でも起きたのか」


「ああいや、そうじゃあない。

さっき町のほうから電話があってな、

ほれあの、なんとか言う若い学者さんから」


「ククイ君か」


「ああそうだ、ククイククイ。

その学者さんから電話があってよ、

なんでも今すぐ見せたいものがあるからすぐ町の研究室まで来てほしいと」


「見せたいもの?」


「いやあそれが、そこまで言うと切れちまってよ。

まああの学者さんだから、人魚に関することだろうとは思うが」


「なるほどな。あいわかった、知らせてくれてありがとう」


「おうよ、それじゃあまたな、グズマ!

たまには俺とも遊ぼうぜ」


来た時と同じように軽薄な笑いを浮かべると、

漁師は常緑の木々に囲まれた村へと戻っていった。


「ふむ」


あの日以来ククイは頻繁に村を訪れるようになり、

熱心にグズマを研究、いや、観察しているようだった。

ただ、ククイの働く町の研究室へハラが行ったことはまだ一度も無い。

どんな所か純粋に興味があったのと、

今すぐ見せたいものというのが何なのか気になった。

場所はたしか、


「グズマ、そこで少し待っていろ」


ハラは桟橋に手をかけ海から上がると、

小屋のテーブルに置いてあったタオルで軽く手を拭い、

ベンチの上に放置していた頭陀袋の中を漁った。


「あった」


そこには初めてククイと会った時に手渡された名刺が、

よれよれになって底のほうに押し込まれていた。

太短い指でその紙切れをつまみ出し、皺を伸ばして書いてある文字を読む。

ククイの名前の右下に、小さな活字で住所が記されていた。

一度伺ってみるか。


「グズマ」


ハラはまだ遊び足りないという顔のグズマの頭を優しくなでると、

身振り手振りを交えて今日はこれから出かける、

明日は帰れないかもしれないから住処の深海で待っているように言った。


「わかったか?」


大意は伝わったようだが、時間の概念をジェスチャーで伝えるのは難しい。

グズマはいやいやをするように首を横に振り、牙をむいて唸った。


「ヤー、ッラ、ムゥ! グズマァ、ンッ! ザゥゲンマ、ギー!」


「そう怒るな。町で土産を買ってきてやるから」


我慢して待っていろよ、と言って、

ハラはバケツに汲んだ真水をかぶって体を拭き、

身支度を始めた。


結局ハラが服を着て桟橋を離れるまで、

ずっとグズマは不満げな声で鳴いていた。


「いい子にしているんだぞ」


砂浜から大きな声でそう告げると、

ハラは熱帯の木々が鬱蒼と茂った村の居住区を抜けて、

町へと続く未舗装の道を歩き始めた。

空気の匂いが海辺のそれからしっとりと濡れた緑に変わる。


「これは一雨来るかもしれんな」


空を仰ぐと、雲の色が鉛色に変わっていた。



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ハラの予感は的中し、

村を出てしばらくするとぽつぽつと雨粒が落ちてきた。

それは歩を進めるごとに数を増し、間もなく全身を濡らすほどになった。

道路の脇を見ると、

大きなシャワーツリーやナツメヤシの下で雨宿りをしている者もいる。

ハラは道中で見つけた雑貨屋で椰子の葉笠を買うと、

それを被って単調な平地に長く伸びた道を一人進んでいった。


雨脚は刻一刻と強くなり、

町に着く頃にはすでに大雨になっていた。

耳元をびゅうびゅうと吹き抜けていく風にハラは眉をひそめ、

村には無いレンガ造りのビルディングの迷路を歩き回った。

町には数えきれないほど来ているが、

やはりこの人工物特有の冷たい雰囲気にいつまでも慣れないでいる。


「ここか」


風に飛ばされそうな名刺を指で強く押さえつけ、

建物のプレートに刻印された番地と見比べる。

ハラは頷くと、輝きを失った真鍮のドアノブを回して中へ入った。


そこは雑居ビルのようで、

入口を入ってすぐ横に金属製の郵便受けがいくつも並んでいた。

その内のひとつに

『303 人魚研究室』と書かれている古びたラベルが貼られているのを確認し、

ハラは電気のついていない、薄暗いリノリウム廊下の先にある階段を上って行った。


足元に気をつけながら3階まで上ると、ハラは303号室を探した。

ひっそりと静まり返った廊下に雨で濡れた草履の湿った音が響く。

すぐに目的の部屋は見つかった。

303と書かれたドアの中央から少し上に、人魚研究室と書かれたプレートがかけられている。

ハラが拳で軽くノックをすると、ドアの向こうからはい、と女の声がした。


「失礼、人魚研究室はこちらでよろしいですかな。

ククイ殿から電話をいただきました、ハラと申しますが」


そうハラが告げると、ドアが開き中から少女が姿を現した。


「ククイ博士からいつもお話は伺っています、

お会いできて光栄ですわ、ハラ様」


リーリエと名乗るその少女は、

ハラにソファを勧めると手際よくコーヒーを淹れ、

ローテーブルに白いソーサーとカップを置いた。


「これはこれは、恐れ入ります。

失礼ですが、リーリエ殿はククイ殿とはどういうご関係で」


このデスクの上には乱雑に書類が積まれ、

床も壁紙も染みつき傷の目立つ、

狭く古ぼけた研究室には不似合いな少女だった。

見たところ年の頃は十代半ばといったところか。

浅い色の長い金髪に白磁のように透き通った肌、

萌黄色の瞳はこの辺りでは珍しい。

ククイの血縁者というわけでもなさそうだった。


「わたしはククイ博士の助手です。

と言っても人魚の研究は始めたばかりで、

助手見習いといったほうがいいかもしれません」


「助手ですか、お若いのにご立派だ」


「とんでもありません、

本当にここには縁故で加えてもらったようなもので、

なにも立派なことはありませんわ。

お恥ずかしい限りです」


褒められたのがよっぽど恥ずかしかったのか、

そう言えばと赤面したリーリエは無理矢理に話題を変えた。


「グズマちゃんのことはいつも博士からお話を伺っています。

すごく可愛らしいですね!」


「可愛らしいですかな」


可愛らしいと言えばリーリエのほうがよっぽど可愛らしいのだが、

ハラは少女の感性はそういうものかもしれないと思いありがとう、

と礼を言った。


「いつかわたしもグズマちゃんに会いに行きたいです。

あの、いいですか」


「ええ勿論。その時は仲良くしてやってください」


「ありがとうございます、是非!

ククイ博士が帰ってきたら早速お願いしてみます」


「そう言えばククイく……ククイ殿はどこかへお出かけかな。

今朝彼から電話がありましてな、

私に是非見せたいものがあるということで伺ったのですが」


見せたいものというのは可愛らしい助手さんのことだったのですかな、

とハラが冗談を言うと、リーリエの顔に影が差した。


「今朝、ですか?

本当に博士から?」


「ええ、私が直接電話に出たのではないのですが、

村の者はそう言っておりました。

違うのですか」


「わかりません、

見ての通りここは雑居ビルで、

複数の個人事務所や貸しデスクが入っているので、

電話は一階の管理室にしかないんです。

わたしは朝からずっとこの研究室にいましたから、

博士が一階で電話をかけたのかもしれませんが、

でも」


「でも?」


「『博士は今日から一週間、本島で開催される学会に行っている』んです。

留守にするのをわかっていて、お客様を呼ばれるでしょうか?

仮に呼ばれるとしてもその時は私に一言あると思いますし、

そのお見せしたいものというのも、私は知りません」


「……これはどういうことでしょうな」


「わかりません、博士がお電話の相手を間違われたのか、

日時を間違われたのか、それとも」


ククイ以外の人間が、ククイの名を騙って電話をかけたのか。


「でも、それっておかしくないですか」


「おかしいですな。

仮に電話の相手を間違ったとして、

ククイ殿はここにはいない。

相手は私で合っているが日時を間違ったというのも妙です。

彼は『すぐ来てくれ』と言っていたと」


「ではやはり博士以外の方が電話をかけたのでしょうか。

でも、その方はハラ様にこの研究室にすぐ来るように……

言われたのですよね」


理由がさっぱりわからない。


「ククイ殿と連絡を取る手段は……

ありませんか」


「はい、本島に行く旅客船に電話はありませんし、

本島のホテルの番号ならわかりますが、

船が本島に着くのは明日の朝……だったと思います。

それまでは連絡手段が無いと思います。

本当に申し訳ありません」


「いやいや、リーリエ殿が謝られることではありません。

それにしても、どうするか」


研究室の錆びついた窓を見ると、

まだ日没には早い時間だというのに、

外は夜のように暗く、雨風が大きな音を立てている。


「仕方ない、今日はこちらで宿をとって、

明日帰ることにします。

ククイ殿によろしくお伝えください」


「御足労いただいたのに本当に申し訳ありません。

明日にでも博士に電話してみますので、

お手数ですがお帰りになられる前にもう一度お立ち寄りいただけますか?」


「わかりました。では」


「はい、かなり雨が強いようですのでお気をつけて」


そう言って、リーリエが研究室のドアを開けようとした時だった。


「いやーっ、ひどい雨だぜ。

船がこれ以上は進めないからって途中で引き返しちゃってね、欠航だよ欠航。

リーリエ君、あつーいコーヒーを淹れてくれるかい……

あれ?」


「ククイ君」


「ハラさん、どうしてここに?」


「ワオオン!」


廊下側から勢いよく木製のドアが開く。

そこには全身をずぶ濡れにしたククイとイワンコが、研究室の前に立っていた。



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「電話? いえ、ぼくはかけていませんが」


大判の白いバスタオルで雨に濡れた髪と体とイワンコを拭き、

替えの白衣を羽織ってリーリエの淹れてくれた珈琲を飲むと、

ククイはハラの質問に答えた。

今朝は起きてすぐに港へ向かったので、

電話はかけていないし特に用事も無いという。


「やはりそうですか、ありがとうございます。

ところでそのイワンコは? ククイ君によく慣れていますな」


「ああ、こいつは僕の飼っているイワンコです。

一人暮らしなので一週間も家で留守番させるわけにもいかないし、

研究所でリーリエ君に面倒を見てもらうのも悪いんで、

一緒に連れていこうと思ったんですが……残念だったなーイワンコ。

旅行はまた今度だ」


そう言って抱き上げると、イワンコはククイの鼻を嬉しそうにぺろぺろと舐めた。


「あの、ククイ博士。ザオボー博士は一緒じゃなかったんですか?」


バスタオルとずぶ濡れの白衣をバスケットに入れた後、

おずおずとリーリエが尋ねる。

ああ、と思い出したようにククイはリーリエのほうを向いた。


「ザオボーは昨日の夜急に体調を崩したらしくて、

学会は欠席すると言っていたぜ。

……あれ」


ククイは顎に手をあてて苦い顔をした。


「ハラさん」


「何ですかな」


「その、村に電話をかけてきたのはククイと名乗る男だったんですね」


「そのようですな。

村人たちもククイ殿のことは知っていますし、

ククイと名乗った以上電話をかけてきたのは男なのでしょう」


「ぼくは今日から行く予定だった学会で、

この島の海域に棲む人魚について初めて発表する予定でした。

つまり、他の学者たちはまだこの島に人魚が生息していることも、

ハラさんの村に人魚がいることも知らないんです。

もちろんぼくがグズマ君のことを知ったように、

村の漁師が他で人魚のことを吹聴している可能性もありますが、

その場合もぼくとハラさんの繋がりまで知っているというのは……

どうにも妙です」


「同感ですな」


「つまり外部の人間の悪戯の可能性は低いわけです。

ですが、一人だけハラさんの村にグズマがいることを知り、

ぼくが今日から学会でこの島を留守にすることを知っている男がいる」


そこまで聞いてリーリエは血相を変えた。


「博士、まさか」


「そう、ぼくと同じくこの研究室で働いている、

ザオボーという男です。

ぼくはフィールドワークが中心で、

彼は標本の分析や世界各地の人魚伝説を研究する仕事が中心だったので、

専門分野は違うんですが、情報交換は頻繁に行っていました」


「それではそのザオボーという学者が、

ククイ殿の名を騙って電話をかけてきたと?

しかしどうしてそんなことをする必要があるのですかな。

人魚に会いたいのならククイ殿に同行するか、

普通にククイ殿の紹介と名乗っていただければ」


「違うんです。

リーリエ、悪いが1階まで行って電話を借りてくれ。

バンバドロライドを呼ぶ」


リーリエはわかりました、と慌てた様子で研究室を飛び出していった。


「ザオボーが研究しているのは人魚伝説の実証……

人魚を食らうことによる『不老不死』です。

急いで村に行きましょう、グズマ君が心配だ」


窓の外はどす黒い雨雲が渦巻き、大嵐になっていた。



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風が強い。雨が強い。

普段は極彩色に彩られているであろう海辺の小村は、

色を失いグレーから黒のグラデーションに沈んでいた。

天気が崩れたのは予想外だったな。

ぐっしょりと濡れた枯草色の髪を毛深く長い指でかきあげ、

村の入り口に位置する小高い丘の上でザオボーは眉をひそめた。

まあいい。

この雨なら村の人間もみんな外には出ないだろう。

計画を遂行するには逆に都合がいい。

目立たぬよう普段羽織っている白衣は研究室に置いてきた。

腕時計で時刻を確認し、ザオボーは逆風の中、浜へと向かった。


むせ返るような潮の匂いがたちこめるグレーの砂浜の奥で、

漆黒の海が獣の群れのようにひしめきあっている。

海の上に伸びる細い桟橋と、今にも風に飛ばされそうな簡素な小屋が見える。

ククイの言っていた通りだ。

桟橋はほぼ海に沈んでいたが、渡るのに問題はなさそうだ。

ザオボーの白いデッキシューズが、びしゃびしゃと水をかき分けて桟橋を進む。

小屋のそばまで来ると、小屋と反対側に広がる海を見た。

ザオボーの顔に歓喜の色が浮かぶ。

いた。

一面の黒に浮かび上がる白。

その表面で闇を退けるように光り輝く、ルビーの紅。

あれだ。

あれが、あれこそが、


「グズマ!!」


大声でそれの名を呼ぶ。

どこか不安げに海の上を揺蕩っていたそれは、

一度驚いたように顔を上げると、暗い海の中へと消えた。

何度も名前を呼ぶ。

するとそれはゆっくりと海中を移動し、桟橋のそばで浮上した。

明らかに警戒しているようだが、ここで失敗するわけにはいかない。


「大丈夫、私はハラさんの友達です!

ハラさん、私、友達!

ハラさん! 君の大切な、ハラさん!!」


ハラ、と言うたびにそれは興味を持ったように近づいてくる。

いいぞ、あと少しだ。


「ッラ、ズゥ、ゥモノ?」


「ハラさん!

そう、ハラさんから大切なことを君に伝えてくれと言われてね」


「ッラ……」


白い指が桟橋にかかる。

その瞬間をザオボーは見逃さなかった。


「捕まえたぁっ!!」


指に吸い付くような質感の手首を思い切り掴み、

力任せに引き上げる。

想像以上の重みに、ザオボーの興奮はさらに高まった。


「ガアアァァッ!」


突然の出来事にそれは悲鳴を上げ、

ついで鬼のような形相でザオボーを睨みつけた。

刹那、それの眼を中心にして空気がドロリと歪む。

溢れ出る紅色の奔流に、ザオボーは喜悦の笑みを浮かべた。


「なるほど、これが魔眼ですか。

いやあ美しいですね」


それが驚愕の表情で固まった隙をついて、

あらかじめ胸ポケットに忍ばせておいたペンシル型の麻酔薬を首に注射する。

憎々しげな顔で、それは呻き震えながら桟橋に倒れ込んだ。


「『魔眼除けの眼鏡(グラス)』、効果は覿面(てきめん)ですねえ」


そう言って、緑色の眼鏡をくいと指で持ち上げ、ザオボーは笑った。

計画は成功だ。

ただし、嵐とはいえここで解体作業をするのは難しそうだ。

村人に見つかると厄介なうえ、

この雨でククイやハラが引き返してこないとも限らない。

どこかいい場所は無いものかとあたり一面の海を見渡したザオボーの目が、

ある一点で止まった。

あそこがよさそうだ。

足元で動かなくなったそれを見る。

首にはぼろぼろの漁網と緑の釣り針をつけている。


「なんですかこれは。お洒落のつもりかな」


ふん、と鼻を鳴らして、

ザオボーはもっていた新品のナイフで網と釣り針を切り裂いた。


「くだらない」


網と釣り針を桟橋に投げ捨て、

桟橋に係留してあった小舟に人魚を蹴り落とす。

海は荒れているが、

元船乗りのザオボーは躊躇なく自身も小舟に乗り込み桟橋からロープを外した。

そう、この程度の荒波などたいしたものではない。

あの日の嵐に比べれば……


「ふふっ、はははっ」


暗い海の上を小舟は進む。

遠くで雷鳴の音が聴こえた。


ようやく悲願が叶うのだ。



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闇の中にまっすぐ伸びた未舗装の道を、

影絵のようなバンバドロが一頭駆けている。

その背で手綱を取るハラの後ろには、しがみつくようにククイが乗っていた。


「本当にすいません!

ぼくがもっと気をつけていれば、

グズマ君にはハラさんがいるから安心だと、

気を抜いていたんです!」


打ちつける風と雨を祓うように、ククイは声を張り上げた。


「ククイ君のせいではありません!

私が用心していれば」


「それこそ絶対に違います!

ハラさんのせいでも、ましてやグズマ君のせいでも無い!」


学会で発表してしまえば、

ザオボーも手が出せないだろうと思っていたんです、

とククイは苦々しい顔で言った。


「学会で発表すればその場所は人魚保護区になります、

そうすれば人魚を狙う密猟者や盗賊たちも簡単に手は出せないと思って、

でも、ぼくはまさか彼が、ザオボーが、そんなことをするはずは無いと」


「人を疑って生きるのは辛いことです。

不老不死の研究自体はとても意味のあることなのでしょう」


「メカニズムが解明されれば、

怪我や病で苦しんでいる人を助けることができるかもしれません。

ぼくは、彼がそうした崇高な意志のもとに学んでいるものだと思っていました。

いえ、そう思いたかった」


「そうですか、ならばまだザオボー殿を信じましょう!

彼が何か過ちを犯したと確証があるわけでもないのですからな」


「しかしザオボーが村に向かっているのは間違いない、

村に続く道はこれしかありません!

イワンコ、こっちで合ってるんだよな」


ククイが声をかけると、

白衣の胸元でイワンコが威勢よくワンと吠えた。

ザオボーの白衣をイワンコに嗅がせ、

その匂いを追って今は移動している。

嵐の中で細い糸を手繰るような追跡は、

ククイの心に暗い影を落とした。

念のため彼の住んでいるアパートや病院にも電話をかけたが、

そこにザオボーはいなかった。


「今は取り越し苦労だということを信じましょう!」


「はい!」


次第に道の両脇がサトウキビ畑から樹林に変わる。

村まであと少しだ。

ハラは自身を奮い立たせ、手綱を力の限り握った。



数十分後、村に着くと一目散に二人は村を抜け、浜の桟橋へと向かった。

黒く凶暴な波が轟音を立て、色の無い砂浜を貪っている。

浜に近い椰子の木にバンバドロを係留し、

はやる気持ちを押さえつけ、濡れた砂に足を取られながら先に進む。

ククイの胸元から飛び出したイワンコが、吠えたてながら桟橋へ走る。


「舟が無い、村の漁師が陸にあげてくれたのか?」


「ッ、ハラさん、あれは!」


波が打ちつける桟橋の杭に絡みついているそれを見て、

二人は言葉を失った。

それはグズマが肌身離さず身につけていた、

漁網と緑の釣り針だった。


「グズマ!!」


「イワンコ、この匂いを追えるか」


海から引き揚げたその網と釣り針を、

ククイは足元でぐるぐると不安げに回っているイワンコに嗅がせた。

イワンコは鼻を数度ひくつかせると、

桟橋の先に向かって走り出す。


「ワン、ワオン!」


イワンコが視線を向けたその先には、

大きく頭をもたげた崖が湾の端にそびえていた。


「ハラさん、あそこは」


「あの崖の下には海蝕洞があるのです。

まさか、グズマはあそこに」


「あそこへ行く方法は!」


「舟しかありません。

仲間に舟を借りてきます、ククイ殿。

ありがとうございました、あなたは村の酒場で待っていてください。

ここから先は……危険です」


「ぼくも行きます!」


「嵐の海は危ない。待っていてください」


「いやです!

元はと言えばぼくのせいです、

ぼくがグズマ君のことをあいつに話さなければ」


「それでもいつかはその男の耳に噂は届いたでしょう。

ククイ殿のせいではない」


「それでも行きます、行かせてください!

ぼくがザオボーを止めます、

これでも格闘技の経験もあるんです、

足手まといにはなりませんから!」


一歩も引かないククイに、

ハラは大きく息を吐いた。


「わかりました。

ここで言い争う時間も惜しい。

急ぎますぞ」


「はい!」


こうして、二人と一匹は嵐の中舟に乗り込んだ。

雷鳴が轟く。

時刻は、夜になろうとしていた。




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広いドーム状になった海蝕洞の中は闇に包まれていた。

ザオボーは用意していた松明に火をともし、

ひび割れた岩の隙間に突き立てた。

岩肌をオレンジ色の炎がぬらりと照らし出す。

びっしりと壁に張り付いていた小さな蟲が、

一斉に無数の足を蠢かせて逃げていった。


「さて、そろそろ起きてくれるといいんですけどね」


小舟から引きずり上げた人魚を洞窟の冷たい岩盤に転がすと、

ザオボーはロープでその白い両腕を頭の上で縛りつけ、

尾も動かせないように腰の遊泳鰭と共に緊縛した。

口はそのままにしておいた。

この人魚には大事な仕事がある。

高鳴る胸を抑えながら、

ザオボーはゆらめく松明に照らされた人魚をまじまじと見た。


人魚の肉を食らうと不老不死になるというのは誤りだ。

人魚の肉でもたらされるのは並外れた再生力とその副産物である老化抑制であり、

不死になることは無いし緩やかではあるが老いて死ぬ。

その様が昔の人間には不老不死に見えたのだろう。

人魚とて死ぬのだ。

エクリプス期に受けた傷は繁殖期になると回復・再生するが、

エクリプス期のうちに死んでしまえば生き返ることは無い。

死ぬ生き物の肉を食べて不死になることは無い。

ザオボーは不老不死になりたいなど思ったことも無い。

自分の願いはそんな些末なものでは無いのだ。


あの嵐の夜、乗っていた船が転覆し、死を覚悟したあの日。

自分の命を大海から救い出し、岸まで送り届けてくれた存在を、

ザオボーは一日たりとも忘れたことが無かった。

もう一度会いたい、一目でいいから、その姿を見たい。

だからこそ自分は船乗りを辞め、人魚の研究に日々を費やしてきたのだ。

ククイからこの村に人魚がいると聞いた時は、

それこそ心臓が止まるほどの喜びを感じた。

この海域に人魚がいる。

それはつまり、自分の研究が正しいことの証左なのだ。

計画は順調だ。

あとはこいつが目を覚ませば、私の長年の夢が叶うのだ。


「まだ起きないのか、このクソ人魚ッ」


なかなか目を覚まさないグズマに業を煮やし、

ザオボーは尖ったデッキシューズの先で人魚の頭を蹴り上げた。

硬いゼリーのような質感の髪がぶるんと揺れ、

岩肌に打ちつけられたこめかみから青い血が滲む。

その異質な青を見た途端、ぞくぞくとした快感がザオボーの背筋を撫でた。


「クソッ! クソッ! クソッ!」


何度も、何度も、何度も。

ザオボーは人魚の体を蹴りつける。

白い靴先が青く染まっていく。

喉元を蹴り上げた時、

ごぼりと苦しそうに嘔吐してグズマはうっすらと目を開けた。


「ガ……オエッ……ゴッ……」


「はあっ、はあっ、はあっ……

やっと目を覚ましたか」


朦朧としながらも自分が捕らわれたことを思い出し、

グズマは恥辱と憤怒に顔を染め、ザオボーを紅い炎の瞳で睨みつけた。

その顔を緑の眼鏡越しに見、

ザオボーは髭の生えた口元を愉悦で歪めた。


「効かないんですよォ、諦めが悪いですね。

それともそんなこともわからないほど知能が低いのかな?

まあ、南方の人魚としては貴重な『魔眼もち』ですが」


私にはお前の価値など関係ありません。

お前は目的を達成するための生贄に過ぎない。

お前を解体することで、私は、


「私は願いを叶えるのです」


「ガアッ! ガウッ! ザアアアアアアッ!!」


ザオボーはナイフを握りしめ、

その切っ先をグズマの白い胸に当てた。

芋虫のように身をよじるグズマのなめらかな肌に、

銀色に輝く鋭い刃がめり込む。

グズマの恐怖心を煽るように、

数センチの傷を作っては刃先を当てる場所を変え、

ザオボーはグズマの体に傷をつけていった。


「アーッ!! ガッ!! ッラ!! ジィガル!! アーーッ!!」


「怖いでしょう? 痛いでしょう?

ほら、もっと泣きなさい! 叫びなさい!

救いを求めるのです!! さあ!!」


白い人魚の体が青い粘液でまだらに染まっていく様を見て、

確かにこれはザンサイアン(青い人魚)だとザオボーは嬉しくなった。

しかしまだだ、まだ足りない。

首を落とすわけにはいかない。心臓を切っても殺してしまう。

腕を切れば拘束が解け、返り討ちにあうかもしれない。

ならば、どこを狙う?

人魚の全身を舐めまわすように見ていたザオボーは、

あるパーツを見て目を輝かせた。

ここだ。ここがいい。


「さあ、もっといい声で歌っておくれ」


人魚姫。

グズマの長い尾を掴むと、

ザオボーはその先端で大きくV字状に広がる尾びれの根元にナイフをあてた。


グズマの恐怖は限界に達していた。

助けて。助けて。名前が呼べたなら、

ちゃんとニンゲンの言葉で彼の名前を呼べたなら、

愛する人は助けに来てくれただろうか。

今だけでいい、この一瞬だけ、

あの人の名前を。

名前を叫ばせて。


「ハァラアァァァァァァ!!」


グズマが心の底から絞り出すように出した絶叫と、


「グズマアアアァッ!!」


嵐の中、海蝕洞に辿り着いたハラが舟を飛び降り発した咆哮は、

ほぼ同時に洞内に響き渡った。



-------------------------------------------------------------



「ザオボー、グズマ君を放せ!」


「おや、ククイ博士。

本島行きの船は出ませんでしたか、残念だ。

まあ、これも想定の内です」


松明でその輪郭をゆらめかせながら、

ザオボーはバチン! と指を鳴らした。

その瞬間、海蝕洞の入り江から長い触手が飛び出し、

ククイの手足に巻きついた。


「なっ……!?」


「ドククラゲ、『からみつく』」


黒い波間に浮かんだ青い傘の下から、

主人の命令を受けた無数の触手が次々と伸び、

ククイの動きを封じる。

飼い主の危険を察知したイワンコが懸命にその一本に歯を立てるが、

その力の差は圧倒的だった。


「ククイ殿!」


「ハラさん、ぼくには構わずグズマ君を……!」


「しかし!」


「こんなのイワンコのたいあたりに比べたら、

全然たいしたことないぜ……!」


全身を触手で拘束されたククイは、

苦悶の表情を浮かべながら歯を食いしばった。


「ふん、貴方のそういうところが以前から気に食わなかったのですよ。

ドククラゲ、『しぼりとる』!」


「ぐあぁあぁっ!!」


ドククラゲの触手に四肢を締め上げられ、ククイの関節が悲鳴をあげる。

しかしククイは両足でしっかりと踏ん張り、その全身に力を込めた。

その挙動に、わずかに海上のドククラゲがたじろぐ。


「ハラさん、行ってください……早く!」


「わかった!」


「ロイヤルドームチャンピオンを……

舐めるなあーーーーーっ!!」


ぶうんっ!


「何ッ!?」


背負い投げをするように、ククイはドククラゲを海中から引きずり上げ、

海蝕洞の岩場に叩きつけた。

すぐさまよろめくドククラゲに覆いかぶさると、

肩で息をしながらククイはその動きを封じる。


「ハラさん!」


ハラは頷き、

グズマの尾にナイフを当てたまま唖然とするザオボーににじり寄る。


「その人魚を返せ」


「ひっ」


「グズマはわしのものだあーーーーっ!!」


「うわああああっ!」


鬼のような形相で襲いかかるハラに、

ザオボーは反射的に手にしたナイフを振り回した。

その瞬間、ザオボーの手に筋肉を切り裂くぶちぶちという感触が伝わる。

次いで柔らかいものを刺し貫く感触。

どろりとした熱い液体が腕を伝う感触。


「あっ」


「む、うっ……!!」


ナイフの刀身は、ハラの腹部に深々と突き刺さっていた。


「ハラさん!!」


「ッラァ!!!」


ククイとグズマが悲壮な叫びをあげる中、

ハラはよろめきながらグズマを抱きしめるようにして、

その場に崩れ落ちた。


「グ……ズマ……」


「ッラ! ッラ!! ッラ!!」


「ザオボー、貴様と言う奴は!!」


大量の鮮血を浴び、呆然と立ちすくむザオボー。

しかしその顔は徐々に狂気染みた形に歪むと、

ゲラゲラと笑い出した。


「見たか! 見ました!? ねえ!!

あなたを救う王子さまは死んでしまいましたよ!

私が、私が殺した!

ククイ博士もドククラゲの相手で手一杯でしょう?

だから」


やっぱりあなたは私に切り刻まれるんですよ。

そう言って血まみれのナイフをグズマに向けたザオボーの足を、

ハラの指が掴んだ。


「ひっ!」


「グズマを傷つけるな……

それは、わしのものだ、わしだけの……」


「こっ、この死にぞこないが!」


ザオボーのナイフがハラの手の甲に突き刺さる。

何度も何度も、狂ったようにハラを刺す。

荒い息を吐きながら、ザオボーはくそ、くそと繰り返した。


「ッラア!!」


「泣いているんですか?

おかしな人魚だ。

あなたたちにとっては人間など所詮は異種族、

そこらの虫と変わりないでしょう。

そう、私にとって貴方がそうであるように」


ザオボーはナイフをグズマの尾にあてがい、

それを足で踏みつけるようにして体重をかけた。


「本当はゆっくりと全身を切り刻んであげる予定でしたが、

もう結構。

ここだけいただいていきます」


「ギャアアアァアァアァアァァアァアァッ!!」


ザオボーは無表情でグズマの肉を断つ。

ククイの制止もグズマの絶叫も、もはやこの男に届いてはいなかった。

びちゃりと不快な音をたて、グズマの尾鰭が切り落とされる。

赤い血と青い血が作るマーブル模様の凄惨な抽象画の中心で、

ザオボーは尾鰭を手に立ち上がった。


「それでは、さようなら」


ザオボーはそれだけ言うと、

海蝕洞の入り江で波に揺れている小舟に血まみれのまま乗り込み、

黒くうねる嵐の海へと一人漕ぎだしていった。



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大海の中で、吹けば飛ぶような小舟が孤独に漂っている。

ザオボーの眼はもはやこの現実を見ていなかった。

計画していた理想的な形では無いにせよ、

こうして人魚の肉を手に入れたのだ。

グズマの尾鰭を狂信者のようにうやうやしく両手で頭上に掲げる。

風が、雨が、波が凪いでいくのを感じる。

空を覆っていた雲がゆっくりと散り、空本来のテクスチャを取り戻す。

インクで塗りつぶしたような黒い空。

そこに一点穿たれた穴のような満月。

巨大な海が呼吸を止める。


「おお……」


それは幻想的な光景だった。

月が下方から静かな闇に食まれていく。

欠けた部分は赤黒く変質し、月を月でないものに書き換えていく。

やがて月は完全に異貌と成った。

その時を待ちかねていたかのように、鏡面のように平らな海の一点が輝き始めた。

ザオボーの乗った小舟の前で、海水がヴェールをまとった人型にせりあがる。

宙に浮いたそのヴェールから、月の光を集めたように輝く『女王』が姿を現した。


「我が子の叫びは百里を駆ける」


真珠のような水滴が、女王の体を滴り落ちる。

彼女の口から発せられた声は、恐ろしいほどに透き通っていた。


「我が子の怒りは千里を駆ける」


ザオボーは血にまみれた小舟の中で跪き、随喜の涙を流し震えていた。

ようやく、ようやく会えた。


「我が子の嘆きは万里を駆ける」


あの時、私を嵐の中から救い出してくれた女神に、遂に会えた。


「あなたは我が子を傷つけましたね」


無表情で問いかける女王の瞳はエメラルドグリーンに煌めく。

眉をひそめることも無く、涙を流すことも無く、

ただ淡々と目の前の人間に罪を問う。


「ええ、そうです! 私がやりました!

これが証拠の尾鰭です!」


ザオボーは善行をして褒められるのを待つ幼子のように、

顔を紅潮させて自慢気に言った。


「どうしてですか。

偽りの永遠を授かりたかったの」


「そんなものに興味はありません、

私はただ、」


ただ、あなたに会いたかったのです。

そう言ってザオボーは歓喜の涙を流した。


「あなたは覚えていないかもしれませんが、

私は昔嵐の海で漂流していた時、

あなたに命を救われたのです。

その時から私はあなたの虜になってしまった。

どうしてもあなたにもう一度会いたくて、

人魚の研究家になりました。

世界中の海を捜し、人魚に関する伝承や伝説を読み漁った。

様々な手を使ってあなたに会おうと試みた。

しかしあなたは姿を見せてはくれなかった!

それでも私はあなたに一目会いたくて、

日夜研究を続けたのです。

すると興味深い文献が目に留まった。

そこには『人魚の女王は、支配する海域の人魚を傷つけた者を許さない』

と書いてあったのですよ!

そう、だから私は」


あの人魚を傷つけてやったのです。

あなたに会うために。


波音すらしない2人だけの舞台に、ザオボーの哄笑が虚しく響き渡る。

笑い続けるザオボーに音も無く近づくと、女王は白い指で彼の両頬を包み込んだ。


「哀れな人間。悲しい人間。

お前は私が昔愛した人間に少しだけ似ていた。

だからあの時情けをかけたのに」


「え」


女王の背中から巨大な黒い翼が姿を現す。

否。それは翼ではなく、

鋭い爪を携えた、グソクムシャの腕だった。


「お前は我が子を傷つけた。

だからもう……いらないわ」


「じょ……」


武者の黒い刃が一閃し、ザオボーの首から下が静かに小舟からずり落ちた。

ザオボーの頭部だけが女王の手に包まれている。

その様はまるで一幅の絵のようだった。


「さあ」


女王がザオボーの頬から手を放す。

砂浜で拾った貝殻を、その場で捨て去るようにそれは気軽な行いだった。

あぶくをたてて、人だったものが深淵へ墜ちていく。


「あの子を迎えに行きましょう」


女王が小舟に背を向ける。

その手は一滴の血にも穢れてはいなかった。



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松明だけが光源の薄暗い海蝕洞には、むせ返るほどの血の匂いが充満していた。

ハラを抱きしめ泣き叫ぶグズマと、顔面蒼白でハラの脈をとるククイ。

イワンコは飼い主の気持ちを察したように、洞窟の片隅で丸くなっている。

主人を失ったドククラゲは、とうの昔に海へと逃げ帰っていた。


「ッラ! ッラ!」


「グズマ君、揺さぶらないで!

くそっ、出血が多すぎる。

このままでは……」


ひゅう、ひゅうと掠れた息がハラの口元から漏れる。

グズマの名前を呼ぼうとしたが、口からは血の泡が溢れ出るばかりだった。


「ッラ!!」


「このままだと本当に助からない、

医者に診せてもこの傷では、もう……」


ククイの目に涙がにじむ。

激しい自責の念が彼を苛んだ。

こんなことになるのなら、彼らに干渉せずそっとしておいてやればよかったんだ。


「うっ、ううっ……」


擦り傷だらけの頬に涙が伝い、形のいい顎から滴り落ちる。

その雫が赤と青のマーブル模様になった血だまりに小さな波紋を描いた時、

ククイはようやく『それ』を思い出した。


「人魚の肉……不老不死……

グズマ君!」


「ウ……ク・クイ……?」


「君の肉をハラさんに食べさせるんだ!

そうすれば彼を助けられるかもしれない!」


ククイは切断面が痛々しいグズマの尾を指差し、

そこからハラの口に持ってくるようなジェスチャーで、

グズマにこれから行うことを説明した。

ハラがそれを望むかどうかはわからない。

ただ、ハラに死んでほしくないという気持ちはグズマも自分も同じだと思った。


「頼む、君にしかできないんだ」


「ク・クイ……」


死ぬ。ハラが死ぬ。

肉。自分の肉を食べれば、ハラは生きる。

肉を。

必死に訴えるククイを見て、グズマはしばらく放心したような表情で固まった後、

意を決してその柔らかい躰を曲げ、尾の切断面に齧りついた。


「グギイィィィィィィィッ!!」


ようやく血が止まりかけたそこは、

グズマの牙で再び青い鮮血を噴き出した。

痛い、痛い、痛い、痛い。

けれど助けは呼ばない、救いは求めない。

これは自分の意志でしていることだ。

おれが、ハラを助けるんだ。


「グブッ」


グズマは気を失いそうな激痛を耐え、頭を左右に振り、

歯で鋸を引くように自身の体を噛みちぎる。

口の中に溢れる自身の肉と血の味に意識が飛びそうになる。

ハラ。ハラ。

おれの愛しい……強いニンゲン。


口元を青い血で染めたグズマはキスをするように、血肉をハラに口移しで与える。

重なる二人の唇の間から、赤い血と青い血が混ざりあって垂れ落ちる。

それは壮絶な光景だった。


「ハラさん、飲んでください!」


ククイがハラの上体を起こし、肉の嚥下を手助けする。

ククイとグズマが祈るような気持ちで見守る中、

死体のように微動だにしなかったハラの喉が、

ゆっくりと、しかし確実に、ごくりとグズマの血肉を飲み下した。


「ッラ!」


「よくやった、グズマ君!

あとは『人魚の肉』にどれほどの効能があるか……」


人魚の肉の効能に関しては伝説であり事実でもある。

ククイはザオボーほどこの分野に関して研究していたわけではないが、

驚異的な治癒力があるというのは事実だ。

しかし、これほどの致命傷を負った人体にも有効かどうかはわからない。

今はただ奇跡を信じるしかない、とククイは胸の前で両手を組み合わせ、

ひたすらにハラの治癒を願った。


それはとても長い時間に感じられたが、

実際には数十分間だったのかもしれない。

苦痛に顔を歪めるグズマに気休め程度の治療を施し、

額の汗を拭って少し休憩を取ろうとククイが岩壁に背中を預けた時、

その瞬間は訪れた。


「ハラさん!」


腹部。腕。全身の数えきれないほど小さな傷まで。

燐光のように淡い光が、ハラの傷口を覆っていた。

閉じていく。癒えていく。塞がっていく。

傷が、魔法のように治っていく。

ククイは紛れもない奇跡を目撃していた。


「……ん……」


「ッラ!」


細い目をゆっくりと開けるハラに、

寄り添っていたグズマが抱きつく。

その傷だらけの白い背中をいたわるように腕を回すと、

ハラは弱々しい声で、夢でも見ているようだ、と呟いた。


「お前が助けてくれたのだな」


「ッラ……グズマ、ヌゥルオゥ、ジュズ、アーク、ク・クイ」


「ぼくがグズマに人魚の肉を食べさせるように言いました。

結果的にグズマ君を傷つけることになってしまったこと、

心よりお詫びします」


跪いて詫びるククイに、ハラはありがとう、と礼を言った。


「わしの命が助かったのは、ククイ殿とグズマのおかげです。

わしがあの時知恵を巡らせ上手く立ち回っていれば、

二人に辛い思いをさせることは無かった」


「そんなこと、

恋人の命が危うい状況で冷静にいられる方がおかしいです。

だから……あっ」


「どうかしましたかな」


「ハラさん、髪が……」


ククイの目の前で、

ハラの日に焼けた焦げ茶色の髪と髭が根元から徐々に白く変色していく。

潮だまりに自身の顔を映して、ククイの指摘せんとするそれを確認すると、

たいしたことではないといった風にハラは微笑んだ。


「お前とお揃いになったな」


そう言ってグズマの髪に触れる。

意味はわからなかったが、グズマも笑った。


「人魚の肉の副作用かもしれません。

表面的な傷は治癒しているようですが、

一刻も早く町に行って医者に診てもらったほうがいい」


戻りましょう、と言うククイに、ハラはしかし、と顔をしかめた。


「グズマをこのままにしておくわけにはいきません」


「それは、そうなんですが……」


人間の医者には人魚の治療はできないだろう、

と思っていたククイの心を読み取るかのように


「その子は私が引き受けましょう」


と海蝕洞に透き通った女の声が響いた。

三人の視線が洞窟の入り江に集中する。

そこには月の光をまとったかのような美しい人魚が、

一匹のグソクムシャを従えて、黒い海の上に立っていた。



-------------------------------------------------------------



「あなたは……」


「ルザミッネ!」


「ルザミ……ネ?

伝説におけるザンマヒナか!

では、あなたがこの海域を統べる人魚の女王」


口々に言葉を発する三人に答えることなく、

女王は地面から拳ひとつほどの高さに浮遊してグズマへと近づいた。

入り江で待機している従者のグソクムシャに、イワンコが吠えかかる。

ククイは慌ててイワンコの元へ駆け寄り、その小さな躰を胸に抱きかかえた。


「引き受けるとはどういう意味でしょうか」


グズマを守るように抱きしめ、ハラは神々しい光を放つ女王に尋ねた。


「この子を故郷の深海へ連れていきます。

尾を失っては泳げません。

お前たち人間の住む浅瀬は人魚には熱すぎる。

深海からは遠すぎる。

浅瀬と深海を行き来できない以上、

この子はこちら側では生きていけないでしょう。

さあ来なさいグズマ。人間たちに別れを告げるのです」


「ヤー!」


ハラの腕をつかみ、グズマは幼子のように首を横に振った。

どうしても離れたくない。

しかし、どうしても離れなければならないこともわかっている。

女王の命は絶対なのだ。

離れなければ、女王はハラとククイを殺してでも自分を海底に引き戻すだろう。


「ッラ、グズマ、ドゥノラァラァイオゥ、ザァ、イグン!」


「なりません。

人魚の肉を食べたからと言って、人間が海の中で呼吸できるようにはならないのです。

それに深海の冷たさに、人間の体は耐えられない。

元々棲む世界が違うのです。弁えなさい、グズマ」


女王は機械的な調子でそう言うと、ハラの腕の中からグズマを抱え上げた。

その時、

グズマの尾に白衣の袖を引き裂いて作られた包帯が巻かれていることに気づく。


「この子を守ろうとしてくれたことを感謝します、人間」


ククイはかける言葉も無く、ただ唇を噛んで下を向いていた。

胸の中でイワンコが心配そうに小さく鳴く。

これ以上引き留めるのは、無理なのだろう。

女王はハラに向き合い、問いかけた。


「人間よ、この子を愛したことを後悔していませんか」


「後悔など、一度もしたことはありません」


「感謝します。

この子のことは海の泡のように忘れてしまいなさい。

それができないのなら」


永遠に、愛し続けなさい。


「はい、永遠に愛し続けます。

グズマ」


女王の腕の中で泣きじゃくるグズマに、

ハラはズボンのポケットから取り出した釣り針のペンダントを見せ、

その首にかけてやった。

切られたところを結び直したため、結び目が二つに増えていた。


「ッラ……グゥ、ア、アァァ……」


「わしはいつまでも、お前のものだ」


「ッラ!」


別れのキスは、涙の味がした。


海蝕洞には、グズマの泣き声がいつまでも響いていた。

その夜、人魚は海へと還っていった。



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騒動の後、町の病院へ緊急搬送されたハラは、一週間ほどの検査を終え村へと戻った。

健康状態は極めて良好。

髪が白く変色した以外は、人魚の肉による毒性や疾患は見られないとのことだった。

ククイは町へ戻ってすぐ警察と研究機関に連絡を入れ、ザオボーの捜索を行った。

しかしその行方は杳として知れなかった。


そして、それから月日は流れた。


「こんにちは、ハラさん!」


「ククイ君、それにリーリエ君も。

久しぶりですな。北方は楽しかったですかな」


「とても寒かったです、でも、人魚さんを見られたんですよ!」


村の桟橋で海を眺めていたハラのもとにやって来たククイとリーリエは、

彼の隣で同じように腰を下ろし、お土産です、と言って包みを渡した。


「おお、これはどうも」


「北方の焼き菓子です。お口に合えばいいですが」


「いつも気を遣わせてしまいすいませんな。

ありがたくいただきますぞ。

それにしても」


リーリエ君は日増しに美しくなられますな、

と言ってハラはかつて少女だった女性を褒めた。

ロングのストレートだった髪は、今はポニーテールに結い上げられ、

活動的な白のマリンルックと相まって、初めて会った頃よりも健康的に見える。


「もう、ハラさんはいつもお上手なんですから。

ククイ博士とは大違い」


「ぼくだって褒める時は褒めるぜ、

リーリエ君が気づいてないだけじゃないのかな」


「ククイ博士はいつも人魚の話しかしないじゃないですか」


「それはリーリエ君も同じだろう」


まあまあ、と二人をとりなすようにハラは続けて、


「ククイ君も精悍な顔つきになって、男っぷりが上がりましたな」


と言った。

褒められることを想定していなかったククイは顔を赤くし、


「やめてくださいよ、ハラさんにそんなこと言われると、

恥ずかしいです……」


と無精ひげの生えた顎をぼりぼりと掻いた。

しかしハラの言葉に偽りはなく、

出会った頃はまだあどけなさが残っていた顔も、

今では筋張り引き締まった、成熟した男の顔になっていた。


「ハラさんは全く変わりませんね」


「なに、漁も相撲もまだまだ若いものには負けませんぞ」


「それ本当に負けませんよね……」


「はっはっはっ」


「……あれから、グズマ君は一度も姿も見せませんね」


「そうですな」


「あれ以来、この海域での人魚の目撃情報は0のままです。

グズマ君があれほどひどい傷を負わされたのですから、

無理もありませんが」


「それでも、この海のどこかでグズマは生きているのでしょう」


「ええ。傷は深かったが致命傷ではありませんでしたし、

人魚は人間と違って体の一部を欠損しても繁殖期になれば再生できます。

だから、きっと深海で幸せに暮らしていますよ」


「わしもそう思います」


「今でも毎日海を見ているんですね」


「ええ」


「……新しい恋を始める気は、ありませんか」


「恋なら毎日新たな気持ちでしています。

海のむこうへ」


「でも……

『あれからもう十年も経っている』んですよ」


「まだ十年です。

あの時わしは女王の御前で誓いを立てた。

グズマのことを永遠に愛すると。

わしはいつまでも、グズマのものです」


朗らかにそう言い切るハラの顔を、

ククイはどこか寂し気な面持ちで見つめていた。


「……今日も、いい天気ですね」


「そうですな。

グズマは晴れた日が好きだった。

人魚の身には熱いだろうに、青い空と青い海が好きだった。

だからこんな天気のいい日にきっと」


戻ってくると思うのです。


三人は海を見る。

エメラルドとサファイアが溶け合うような美しい南国の海を見る。

白波ひとつないその海に、大きな魚影が見えた。


「あれは」


魚影は見る間に桟橋へと近づいてくる。

それはまるで白いウェディングドレスのようだった。

ハラたちの目の前でそれは大きく跳ね上がる。

その姿は、


「ハラアァァァッ!!」


緑色の釣り針が胸元で輝く。

水飛沫が光を乱反射する。

太陽の下で、人魚は


「……おかえり、グズマ」


ハラに向かって両手を広げ、笑顔で、泣いていた。












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