なんでも習えばいいものではない。 (Pixiv Fanbox)
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明治時代。
日本は欧米列強に追いつくため急速な近代化を推し進めた。井上馨などが外国人に気に入られようとして鹿鳴館などを作り、西洋美術を多く取り入れた。
しかし、その極端すぎる欧化政策は逆に日本伝統の美術や文化、文学の徹底否定に繋がっていく。
これに警鐘を鳴らした人物がいる。
アーネスト・フェノロサである。
今日は日本伝統の文化や美術を救った1人のアメリカ人の話しを紹介します。
【日本美術が滅ぶ】
政権が江戸幕府から明治新政府に移行した直後の1868年。新政府はの神仏分離令を発令。神道と仏教を整備する目的の法令でしたが、結果的に仏像や神社、寺院や絵画に至るまで大量に破壊するという廃仏毀釈に繋がります。
西洋文化を重んじるあまり、日本古来の文化を軽視する風潮が世の中に出来上がってしまったのです。
これは一般市民だけではなく明治政府の中核の中にも、江戸幕府が結んだ不平等条約撤廃には外国人に気に入られなければならないという派閥が生まれたため、欧化政策を進める原因にもなります。
これにより日本古来の美術や絵画、文化は一時期死滅状態にありました。あまり語られることのない明治維新の暗部です。
この極端な欧化政策は、当の西洋人達からも冷ややかな視線を送られてしまってます。
ドイツ人医師:エルヴィン・フォン・ベルツの言葉です。
「自国の文化を捨てて西洋に媚びるとは嘆かわしいことだ」
こういう風潮に立ち上がったのが、日本人ではなくアメリカ人のフェノロサだったというのは皮肉なことです。
【フェノロサを魅了した日本の文化】
フェノロサが来日したのは1878年です。最初は東京大学で哲学、政治学などを講義するお雇い外国人の一人でした。この時の教え子には、後の東京藝大の設立などで活躍する岡倉天心がいました。
フェノロサはボストン美術学校で油絵やデッサンを学んだことがあり、美術への関心が高い人でした。そのため、世界中のどの派閥にも属さない日本古来の美術や文化に深い関心を寄せたと言います。
「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む(フェノロサの日記)」
フェノロサは日本画、とりわけ狩野派の絵に魅了され、弟子入りまでしています。
生まれた長男に"カノー"(狩野)と名づけるくらいです。
その後、「美術真説」という講演を行い、日本画と洋画の特色を比較して、日本画の優秀性を説きました。
「日本画の簡潔さは“美”そのもの。手先の技巧に走った西洋画の混沌に勝る(フェノロサの日記)」
この演説は印刷され、全国へ配布されました。
それにより西洋より劣っていたと思ってた人々の多くが自分達の文化に、勇気や誇りを貰ったと言われます。
フェノロサは日本の伝統絵画の保護を訴え、更なる新時代の日本画の創造も訴えました。
1882年、第一回内国絵画共進会で審査官を務めます。これが公式で日本美術に触れた初めてのことでした。
フェノロサを更に魅了したのは、仏像でした。
奈良や京都には何度も訪れ、特に飛鳥時代や奈良時代の仏像に深い感動を覚え、「一生の最快事なり」と語っています。
1888年には浄教寺(奈良市)で「奈良の諸君に告ぐ」と題する歴史的講演を行い、奈良の人々に文化財保護の重要性を訴えました。この講演には市民500人が参加し、熱心に聞き入ったと伝えられています。
【日本文化財、国宝の救世主】
1890年、フェノロサは帰国の途に着きます。
彼が訴えた文化財の保護や自分達の文化に誇りを持つ精神は、弟子である岡倉天心へ、そして彼らが設立した東京藝大に受け継がれて行っています。
フェノロサは外国に多くの国宝を流失させたと一部では非難されています。
だが、私から言わせりゃ
"極端な欧化政策を進めて、文化財破壊をやってた我々に、フェノロサを非難する権利はない"
ということです。
思考停止で何でも習えばいいというものではないのです。
当のフェノロサ本人が岡倉天心に言った言葉で今日は締めたいと思います。
「日本人が売るから買い求めるのですが、本当にもったいないことです…(フェノロサの日記)」