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レースアニメの古典『マッハGoGoGo』(1967)の48話「ポンコツカー・グランプリ」で、ヒロインのミッチーが荒い運転をする敵対選手を指して「カミカゼヤロー!!(アニメ声)」というトンデモナイ罵声を発するのだけど(←本編11分辺り)、このシーンを観た時に「あぁ、自分は“コレ”が観たくて古いアニメや映画ばかりを観ているのだなぁ」と改めて感じ入ってしまった。


このシーンに限らず本作は67年の作品だけあって「おいおい…」となってしまうシーンが少なくないし、現代においては実質忌語である「キチガイ」もがんがん運用される。

この手のシーンを論って「無軌道だ」「修正しろ」と言い立てるのは容易であるけど、自分的にはこういったシーンを観ないと正気を維持できない。

こういったシーンにこそ創作の生気があるし、またこういった作品を鑑賞してこそ生気を補充できると感じる。

その点において現在膨大に「製造」される数多の「よくできたコンテンツ」は自分の心の穴を埋めてはくれない。

現代的正しさにコーティングされたそれらはまるでSNSにおけるインフルエンサー的な臭気(つまりアテンションエコノミー的合理性)を醸すのだけど、それは自分が人生に求めているものではない。


the pillowsが『Blues Drive Monster』で「皆いったいどんなシステムで感情をコントロールしてんだ」「(皆は俺をキチガイ扱いするけれど)俺こそがマトモなんだ」と歌っていたけれど、自分も似たような事を感じてしまう。


『マッハGoGoGo』はキチガイだのカミカゼヤローだのとは言うけれど作品の本質はタツノコ創設者である吉田竜夫が掲げた「世界の子供たちに夢を」を徹底している。


(具体的には48話の「ケチな金持ちが心を入れ替えて、貧者のために私財を投じる」というプロットを筆頭に、最大幸福のための犠牲の悲痛を描いた46話「オート・アパッチの襲撃」、レース出場を捨ててでも一人の少女の幸福を優先させる49話「決死の風船脱出」であるとか。)


そうした作品の本質的な美しさの方が「キチガイなんて単語はけしからん」なんて議論よりも自分は重要だと思うし、こうした事は本作に限らず往年の名作全てに言える事だと思う。

往年の名作はドストレートな罵声であるとかガッバガバな展開が少なくないけど、その本質的な切っ先は鋭い(同時に、勝新太郎の座頭市のようにこの時点で既にポリコレ的に成熟した感を呈す作品もある)。





自分が思うに「古い作品」ほどこうした本質的な美しさを宿していて、時代を下った作品ほど表面的には優等生気取っているけど、その本質は現代資本主義やアテンションエコノミーに過適応した魔性を孕んでいるように思える。


以前WOWOWで北野武の『その男、凶暴につき』(1989)が放送された際に、クライマックスの「どいつもこいつもキチガイだ」という本作を象徴する台詞が音声処理で消されていて、それを観た自分は結構怒り狂ったのであるが、ここに「現代社会の虚しさ」があると思う。

表面的な優等生アピールばかりに勤しんで、本質がない。中身が無い。心が無い。

『マッハGoGoGo』や『その男、凶暴につき』に見られる本質的美しさを解せず、その些細な台詞回しに問題を見出しネチっこく修正する事でしか「クリエイティビティ」を見出せない現代人の虚しさ。「どいつもこいつもキチガイだ」という痛切な叫びに耳をふさぎ、圧殺する狭量さ。

過去の美しい物を破壊する事で「仕事した感」を辛うじて感じて、悦に浸る醜悪さは、テロリストが歴史的遺物を破壊する事で、或いは迷惑ユーチューバーが迷惑行為を働く事で、何かスゴイ事を成し遂げてるんだぜ俺は感に浸るのと似ている。というかイコールではあるまいか。


時代を遡ると「表面的には荒っぽいが、その本質には慈悲の心や崇高な理念を秘めた作品」に出会える。しかししだいに両者の関係は逆転していき、新しい作品となると「表面的には優等生だが、その本質はエゴと猜疑心が渦巻いている作品」といった様相を呈する。


その萌芽は個人的には70年代の時点で既に見られると睨んでいて、何も決して「最近のアニメはー」的な薄っぺらい事を論じたいのではない。

主観的には、アニメを古い順に鑑賞していくと、70年代を境に加速度的にアニメは「アニメアニメ」していくように見える。自由と可能性に満ちていたアニメが商品へと成り下がっていくように見える(例えば同タツノコアニメであるガッチャマン(1972)のヒロインである白鳥のジュンがやたらエロい。『どうぶつ宝島』(1971)のキャシーに見られる日本アニメ的美少女の確立。ルパン三世2作目(1977)の存在、等)。

70年代以降と言えば全共闘の挫折などを経て、新人類云々筆頭にとかくイージーな気風が蔓延し当時からして一部からは批判されていたような有様であったそうなので、自分の見立てはそこまで見当違いではないんじゃないかと思う。


70年代入りを一つの境に戦後日本を支えた「WW2を反省に美しい世界を作ろう」という青空教室的理想が挫折し、吉田竜夫的な理念が社会から徐々に死滅していき(吉田竜夫は77年に45歳で死去)、それと呼応するように三島由紀夫の自殺(70年)があり、全共闘の敗北があり、一層エコノミック・アニマルの巣へと日本が成り果て(←エコノミック・アニマルという用語の用法には議論もあるが)、バブル→バブル崩壊、失われたうん十年と呼ばれる長い日本国の彷徨が始まる、というのが、現代日本精神史の総括ではなかろうか。

そして無論そうした時代の流れにガッツリ相互作用を及ぼし今日まで駆け抜けてきたのが、アニメや漫画といったコンテンツ業界であり、そうした現代的虚無とガッツリ共犯関係にある現代コンテンツに自分は魂の同調を感じ得ない、というのが、本文の主旨である。





こうした割とシッカリした?思想的バックボーンがあって自分は二次エロの世界に飛び込んできたのだけれど、近年はアングラであるはずの二次エロですらマスプロ的になってきているし、ガッツリ現代的虚無に迎合を始めているし、個人的に二次エロの価値はオルタナである事だと思っているので、二次エロがオルタナでなくなるなら、自分は二次エロに価値を見出せないなーと、思うのである。

少なくとも界隈がオルタナでなくなったとしても、自分個人はオルタナでいたいと思う。同じことを思っている作家さんは一定数いるだろうし。


要は自分は、『マッハGoGoGo』でガッツリ「キチガイ」だの「カミカゼヤロー」などというトンデモナイ発言をキャラ達が平然としている事から感じるある種の開放感を、二次エロという現代社会における精神の最終防衛ラインにおいて再現したいのかもしれない。


そんな事を、『マッハGoGoGo』を観て「いやー、いい作品だなー」などと思いつつ思った。という、それだけの話である。

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