[♀/読切]卒業式の最終試験 (Pixiv Fanbox)
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――卒業式。
巣立ちを迎える誇らしい喜びと、仲間や想い人、師との別れの物淋しさが相交わる特別な日。
しかし、誰もがこの特別な日を、特別な時間を、心ゆくまで享受できるわけではなかった。
粛々と進む式典の最中、そういった形而上的な感慨とは縁遠いものに見舞われ、ある種の抜き打ち試験を受けることになってしまう少女達がいつの世にも存在する。
忍耐力が物を言うその試験は、この学校が今まで彼女に与えて来た課題の中で最後のものであり、いわば最終試験でもある。
確固たる教育を受けてこの場にいる多くの少女達は、この最終試験を難なく突破することができる。
しかし、彼女は違った。普段の試験では優秀な成績を残し続けてきた彼女は、今回の試験に限っては早い段階から不自然な深呼吸を繰り返していた。彼女はすぐにもじもじと小刻みな全身運動を始めた。
時間が経つにつれて、彼女の呼吸は浅く、不規則になった。貧乏ゆすりにも似た全身運動は、より大きく、目立つものになった。静かな卒業式の場に衣擦れの音と、パイプ椅子の脚が床に擦れる音が響いた。じっとりとした汗が肌に浮かび、玉となったものがこめかみを流れた。
同様の最終試験に臨む羽目になった多くの少女達は、自らの危地を自力で突破する忍耐力を持ち合わせていた。忍耐力を発揮させる代わりに、大人にとって必要となる判断力と勇気を以てして、卒業式を途中でそっと抜けさせてもらった少女達も中にはあった。
ただ一人、彼女だけは自らの危機を誰にも伝えることができなかった。そして、ただ一人、彼女は自らの危地を自力で突破する忍耐力も十分に持ち合わせていなかった。
周囲の女生徒の何人かは、彼女の異変に気付いていた。スカートの前を手で押さえることだけはしないものの、その落ち着かない仕草は明らかに身に覚えのある特定の状況を示唆していた。
ある少女は、心配しつつも所詮は他人事。見て見ぬふりをした。
ある少女は、卒業式特有の感慨深い想いに水を差されて鬱陶しがった。やはり見て見ぬふりをした。
ある少女は、退屈な卒業式に一石が投じられたことを喜んだ。彼女の危機を面白がりつつ、表立ってはやはり見て見ぬふりをした。
周囲複数人からの注目を集める彼女の最終試験が、芳しくない状況に傾いているのは明らかだった。彼女は身に余る厳しい試練に堪えかね、傍目にも限界に達しつつあった。
心配する少女は息を詰め、鬱陶しがる少女は嘆息し、面白がる少女は溢れんばかりの期待を込めて、彼女を見た。
卒業生の矜持か、乙女の恥じらいか、自らへの過信か。椅子の上で臀部を揺らし、足踏みするように足を頻繁に踏み替えてはいても、なお、彼女はスカートの前をはっきりと押さえることだけはしなかった。己の出口に備わった括約筋の筋力だけで危地を乗り越えようとした。
時が流れた。
卒業式は滞りなく進行してはいたものの、終了するのは今しばらく先のことだった。
卒業式がいまだ最終段階に至らないのとは裏腹に、彼女は同じ最終試験に向かい合っている者の中でただ一人、すでに最終段階にあった。前傾姿勢で激しく身悶えをしているかと思いきや、突如、強い刺激を受けたようにぴたりと動きを止める。下から押し上げられているかのごとく、身を反らすほどに背筋をぴん、と伸ばして、天井を仰ぎ、小刻みにぷるぷると震える。彼女はそのような異常とも思える行動を、何度となく繰り返していた。彼女の臀部は変わらず落ち着きなく揺れていたが、これまでは切羽詰まった衝動の表現のみに留まっていたのが、今ではその行為は明確な目的を持っていた。彼女は手で出口を押さえることができない分、パイプ椅子の座面に出口を強くこすりつけることで代わりとしていた。彼女は外部の力を借りなければ、もはや、内部からやってくるものを押しとどめることもできない所にまで追い詰められていた。
複数の人間が彼女の異常な行動に気付いていながらも、誰も助けに入ろうとはしなかった。助けに入るのを躊躇している者もいれば、彼女の異常な行動の『正常性』をはっきりと理解しながら意地悪な気持ちで愉しんでいる者もいた。
場内にかすかに響く、ぎし、ぎし、とパイプ椅子の軋む音。
その音が次第に高く早くなり、一瞬止まり、再びがたん、と一際高く響いた時。
背筋を反り返らせて、身を伸ばした彼女の口から、状況にあまりにもそぐわない甘い吐息が漏れた。彼女の虚ろな瞳はもはや、体育館も、周囲の人々も映してはいなかった。彼女の身に走る震えは、それまでのものと一見同じでありながらも、その内実は大きく異なっていた。
吐息混じりの切なげな低い声と共に、彼女の長く苦しかった戦いは終わりを告げた。
心配していた少女が驚きに声を失い、鬱陶しがる少女は眉根をひそめて距離を取り、面白がる少女は目を輝かせてわあ、と短い歓声を上げた。会場のそこかしこから、悲鳴に似た声が上がった。
彼女が早く便器に腰掛けて放つことができるよう神に強く願ったその液体は、しかし、便器とは大きく異なるパイプ椅子の座面に向けて噴き出した。椅子に腰かけて果てる彼女の姿は、彼女が理想として想い描いたトイレで済ませる自分の姿と、さほど変わらぬ姿勢を取ってはいた。しかし、理想との間には、夥しい隔たりがあった。下着を脱ぐことも許されなかった。公衆の面前から姿を隠すことも許されなかった。彼女が所属する人間社会で、唯一、それが許された場所で行うことも許されなかった。
便器としての機能を備えていないただのパイプ椅子は、彼女の放ったものをしっかりと受け止めてはくれなかった。表面に広がった液体は座面の端に達するや否や、すぐに零れ落ちて、体育館の床を叩いて彼女の失敗を周囲に報せた。
盛大に滴り落ちる雫の音と共に、彼女は最終試験に落第した。辺りは一瞬騒然となりかけたが、それでもなお、終わりに近づいていた卒業式は中断されることなく続いた。全てを終えた彼女は顔を伏せていた。彼女はもうどこにも視線を転じることはなかった。
落第した彼女にも救いはあった。彼女の卒業自体は取り消しになることは決してない。彼女にも通常と同一の卒業資格は与えられる。
ただし、生徒の保護者達や来賓も見守るハレの舞台で落第した彼女の達成した『卒業』は、あまりにも瑕疵の多いものだった。
折り目正しく並んだ多くの少女達とは異なり、たった一人だけ、彼女は不格好な濡れた衣服を纏っていた。卒業式という高尚な場に似つかわしくない、低俗で汚らわしい液体による水たまりを不作法にもこしらえて、いまだ腰掛けた椅子の座面からは新たな水滴をぽたぽたと断続的に垂らしていた。
打ちひしがれた彼女を助けるために立ち上がる者は、出て来なかった。かすかな笑い声やひそひそ話が、彼女の周囲ではひっきりなしに起こった。彼女自身のしゃくりあげる音も、卒業式が終わるまで続いた。
彼女を舞台に上げないための、担任教師の機転か。式典の中で、卒業生として、彼女の名前が呼ばれることはついになかった。彼女の達成した『卒業』は、誰の目にも通常より一等も二等も劣った正当性のないものと映っていたが、式中に彼女の名前が呼ばれなかったことは、式典の後も彼女の『卒業』がそのように扱われる運命であることを予感させた。
彼女は結局、卒業証書を自らの手で受け取ることさえできずに、卒業式を終えた。
巣立ちの瞬間、上手く飛ぶことができずに転げ落ちてしまった彼女の醜態を、無事に巣立っていく同窓の少女達は物珍しがった。多くの仲間達は彼女の存在を、卒業式の余興として愉しんだ。
「大丈夫? 大変だったね」一部の少女達は頬を紅潮させながらも、さも心配げにうわべだけの慰めの言葉を与えた。
「笑っちゃったあ。すっごい恥ずかしい格好だったよぉ。ていうか、あはっ、おもらしもまだ卒業できないのに、なにを卒業する気なわけぇ?」一部の少女達は嘲りを隠すことなく、皮肉を言って彼女を辱めた。
「ええー? 体操服、ないんだあ。どうやって帰るの? え、貸してって? ごめーん。私ももう家に持って帰っちゃってるし。まさか、使うことになるとは思わなかったからあ。だからあ、ふふ、誰もないよお。きっとお」一部の少女達は衣服を汚して替えもない彼女に、替えの衣服を貸し渋り、彼女の惨めな帰路を故意に演出しようとした。
無事に巣立っていく少女達が晴れ晴れとした想いで仰いだ、染み一つない抜けるような特別な日の青空を、彼女は一生知らずに生きていく。
この日の彼女が知ることができたのは、染みだけ。
着用した制服に自ら広げてしまった惨めな染みと、自分の人生に落とされた取り返しのつかない「卒業式の失敗」という大きな染み。
彼女は空を見上げない。
(見られたらどうしよう。体操服さえ持って帰ってなければ)拭いても水気の取れないスカートの染みが通行人に気取られないよう、おどおどと鞄で隠して。
(どうして、わたし、あの時。どうして、わたし、こんなことに)悔やんでも悔やみきれない、悔悟の念に囚われて。
(よりにもよって卒業式で、なんて。あぁ、昨日に帰れたら)本当は誇らしいはずの卒業証書を収めた丸筒の存在さえ、強烈な皮肉のように思えて。
たった一人、自分だけが失敗してしまった屈辱を噛み締めながら、家路を辿る。
特別な卒業生達は異性と愛を語り合い、一般的な卒業生達が夢と将来の希望を見つめたこの日。
最終試験に落第した彼女だけが、各種の染みと屈辱的な体験の記憶だけを焼き付けられ、帰宅した。
母親に慰められ、弟に馬鹿にされ、彼女の卒業式の日は終わった。彼女はその日、自分の失敗のことだけをただひたすらに想いながら、床についた。
(おもらししちゃった。卒業式だったのに。おもらししたわたしなんて、もう、やめたい。誰かと代わりたい。絶対、みんなに馬鹿にされちゃってる。おもらし、おもらし、おもらしって――)
何からも卒業できた気がしなかった卒業式の日を終えた彼女は、次の日、自分の布団を見て自分が卒業してしまったものの正体を悟った。
(……どうして、わたし、こんな。あぁ、一昨日に帰りたい)
彼女の眠っていた布団は湿っていた。水分を含んだ箇所からは、晴れの卒業式を台無しにした液体と同じにおいがした。
(ママに、なんて言おう)
平凡な日常。平均的で普通の女の子だった自分。つい二日前まであった平和で退屈な、しかし、かけがえのなかった日々を想い、彼女は少し泣いた。
(了)