[♂/連載]女の子の家で~年に一度だけの特別な日に~ [1-2] (Pixiv Fanbox)
Published:
2021-02-07 06:20:10
Edited:
2023-01-31 15:41:50
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誕生日の朝、家から一歩踏み出した康一を出迎えたのは、酷薄なまでに冷たい冬の風だった。
この北風が現実の厳しさを暗示しているように、康一には感じられた。ようやく悪い夢が終わりを告げて、より良い春の日がやってきたと信じた。だけれども、実際にはすぐにでも終わって欲しかった悪夢の日々こそが紛れもない現実で、永遠に続いて欲しいとすら思えた幸せな時間こそが儚い夢だった。
昨日、無理矢理迫られ頷いてしまった、笹川との誕生日の約束は生きている。約束を破れば、すぐにでも康一の秘密は暴露され、クラス中に広まってしまうだろう。それを避けるためには、約束を守るしかない。嫌な予感しかしなくても、放課後、笹川の家に遊びに行くしかない。
康一はため息をつく。そして、何よりも残酷な現実は、康一の家の庭にあった。康一の人生にはっきりと刻まれてしまった新しい恥ずべき記録――。
「ま、ママ、あんな所に干さなくても……」
見送りに出てきたママに、康一は控えめに抗議する。物干し場に干されている『あるもの』についての抗議だった。本来、それは秘されるべきものであるはずだった。にも関わらず、今、それは家の敷地外からもはっきりと確認できる目立つ場所にある。康一の家は申し訳程度の低い生垣があるだけであり、それさえも隙間が多いため、道行く人の目を遮るにはいかにも心許ない。
「誰のせいだと思ってるの?」ママは刺々しい声音で言った。「調子に乗って、昨日寝る前にジュースなんて飲む康一ちゃんが悪いのよ。私も恥ずかしいわ。でも、乾かさなきゃいけないし、康一ちゃんが二度とおねしょなんてしないようにするためには、かえってこうして恥ずかしい思いをした方がいいのよ」
いいわけない、となおも抗議したい思いをぐっとこらえる。寝る前にジュースを飲んだのは一昨日であって、昨日はお茶を飲んだだけだ、と反論したい思いも押し殺す。ママにはヒステリーの気がある。康一はそう理解していた。ここで言い返したりすれば、もっと事態がこじれる恐れもある。
「それじゃあ、康一ちゃん、気をつけて行って来てね。学校ではちゃんとトイレに行くのよ!」
配慮に欠けるママの声量に苛立ちを覚えながら、康一は家の敷地を出た。
瞬間、はっとした。そこには生垣の陰に隠れて目につかなかっただけで、人がいたのだ。いたのは、康一よりもずっと幼い数人の幼児達。少し離れた位置に、旗を持った大人も一名いる。ここを通りがかった集団登園中の幼稚園児達のようだった。
康一はぞっとした。まさか、さっきのママとの会話、聞こえてしまったんじゃ――。
予期せぬ遭遇と、降って湧いた不安に康一が固まっていると、果たして、集団の中にいる大人びた雰囲気を纏った女児の一人が声を上げた。
「あ! みーちゃん、見て見て。あれ、あそこの家の洗濯物!」
「どこー?」声をかけられた隣の園児が返事をする。
「ほらあ、あの、お布団が干してある所。あのお布団さあ、なんだか真ん中の辺り、すっごく濡れてない?」
「わ、ほんとだ。よーちゃん、あの変な形の染みって、もしかして……」
「ぷぷー、絶対そうだよ」
「あは、あーあ、立派な染み。ふふふ、この家の子、今日、やっちゃったんだあ」
「おねしょよ、おねしょ。はずかしいー」
「ねー」
集団の中でも、とりわけませた雰囲気を持つ女児二人が、「おねしょ」「おねしょ」と言い合って、きゃあきゃあ笑い合っている。
康一は頬を赤らめた。彼女達が指差しているのは康一の家の物干し場。そこに大々的に干されてしまっているのは、十二歳の誕生日の朝であるつい数十分前、康一が失敗跡をつけてしまったばかりのおねしょ布団だった。
あぁ、幼稚園の子にまで、馬鹿にされてしまっている――。康一は耳を塞ぎたいような心地がした。それでも、おしゃまな女児二人の会話はまだなお続く。
「どんな子なんだろー」
「染みもすっごいおっきいから、あたし達よりずっとおっきい子なんじゃない」
「ええー?」
「……ふふ。ね。だって、ほらあ、見たあ? あのお兄ちゃん、さっき、あの家から出て来なかったあ? それに、さっき、あたし聞こえちゃったんだ。あのお兄ちゃん、ママっぽい声の人と話してたよ。おねしょのお話」
ぎくり、とする。
耳打ちをするような仕草をしていることから、よーちゃんと呼ばれたその女の子はひそひそ話をしているつもりのようだった。しかし、そこが幼稚園児らしい詰めの甘さか。声の加減が不十分だった。おかげで、康一は園児二人の疑いの目が、自分に向いていることを明確に悟ることができた。
こうしていると、まずい。ぎこちない動きで背を向けて、康一は足早に歩き出そうとする。
「あは、よーちゃん、それはないよー。だって、あんなにおっきくなったら、おねしょなんてするわけないもーん」
するわけないもーん――。その口調は、至極、当然と言わんばかりだった。みーちゃんと呼ばれる女児が無意識に放った鋭い言葉の矢が、康一の心に深く突き刺さった。思わず足が止まった。今朝の失敗のきっかけとなった夢が、布団の中で嫌というほど味わった暖かくて情けない感触が、六年生にもなって幼稚園児並の失態を犯した我が子に対するママの呆れ返った声が――この年になって味わってはいけなかったはずのおねしょ体験が、脳裏に蘇る。
「ええー。でも、ゼッタイ聞いたもん。『調子に乗って、昨日寝る前にジュースなんて飲む康一ちゃんが悪いのよ』とか。『康一ちゃんが二度とおねしょなんてしないようにするためには』とか。そういう話、してたもん。あのお兄ちゃん、ゼッタイ康一ちゃんだよ。康一ちゃんって顔してるもん」
「でも、おねしょするにしては、おっきすぎるしぃ」
「じゃあ、あたし、名前だけ聞いてくる」
もう一人の呼び止める声も聞かず、幼稚園児の足音が背後から駆け寄ってくる。いたたまれない思いに囚われて立ち止まってしまっていた康一は、はっと我に返った。そして、わけのわからない恐怖に駆られて、慌てて地を蹴る。忘れ難い過去の恥全てから逃げ出すようにして、駆け出す。
「……あー、逃げる! 逃げるよあのお兄ちゃん!」
「ほんとだ。逃げた!」
「きゃはは、やっぱりぃ。おねしょだ! あのお兄ちゃんがおねしょの康一ちゃんだよ! おねしょの犯人だよゼッタイ!」
「うそー。あんなにおっきいお兄ちゃんなのにぃ」
容赦なく背に射かけられた追撃の矢には、男の子の誇りを傷つけ、長い時間たっぷり苦しめるための、残酷な毒が塗られていた。
幼稚園児におねしょを馬鹿にされて逃げ出す自分の姿を客観視して、康一はこのまま消えてしまいたい、と思う。そうだ。このまま、どこか誰も知らない場所へ逃げてしまえば――。現実逃避の空想は、年不相応にしでかしてしまった布団の中での失敗そのものからの逃避でもあった。学校までの道のりを、必死で空想の翼を広げ、はばたかせて、康一は逃げ続けた。
しかし、儚い夢想は一時の慰めにはなっても、現実を変えるほどの力はない。
学校に辿り着いて、まだなお、康一は今朝の失敗を引きずっていた。朗らかに朝の挨拶を交わし合う同世代の子達の中で、自分だけがひどく場違いな存在になってしまった気がしてならなかった。他の子達の声音には、まるで、屈託というものがなかった。それは要するに、今朝目覚めてからの自分自身のあり方に、一つとして恥じる点がないという証拠だと康一には感じられた。一方、康一の朝には、大いに恥じるべき点があった。落ち度があった。それも、ひどく大きな、人に知られれば誰にでも軽蔑されてしまうような落ち度が。
康一は自分の姿を確認する。今朝から何度となく繰り返したことだったが、それでも確認せずにはいられなかった。服装はおかしくないか、どこかに失敗の証となるものは残っていないか、それが心配でならなかった。
「こーいちくーん」
廊下でおねしょの証拠となる不備がないか確認している最中、後ろから声をかけられて、康一は心臓が口から飛び出しそうになった。振り返ると、そこにいたのは笹川だった。気を取り直して、挨拶を交わす。
「どうしたの? いつも以上におどおどしちゃって。なんだか、今日、変だよ」
笹川が覗き込むように、こちらを見てくる。笹川はいつも察しが良い。康一は慌てた。とっさに誤魔化しの言葉が口をついて出る。
「な、なんでもないよ。大丈夫だよ」
「ふーん」
特別なんということのない、気のない返事。その間に別の女子から声をかけられて、笹川はそちらに行ってしまった。康一は内心、安堵の息を吐いた。
人目を避けるようにして自席に着く。時間が来て、通常の授業が始まる。何事もなく、いつも通りの時間が流れていく。
おどおどして過ごすうちに、長い授業は終わり、放課後がやって来た。学校で今朝のことが誰かに発覚することはなかった。
それでも、康一は気を緩めることができない。放課後には予定があった。それも、特別不安を掻き立てる予定が。
「それじゃあ、康一君、家に荷物を置いたらすぐに来てね。うちの場所はわかるでしょ?」
そう言い残して、笹川達は去っていった。賑やかにおしゃべりしながら歩く笹川、泉、森本の背中を眺めて、康一はまた、自分のことを誰も知らぬ場所へ逃げ延びることを空想した。空想の中の自分は現地で仕事を見つけて、優しい女性と結婚して、二度とここには戻らない――。
自分を取り巻く現実から脱出する空想は、心躍った。何度考えても、その空想に現実味があるとは思えなかったが、それでも良かった。未知の地で立派な仕事をこなす自分、心根の優しい彼女、そして幸せな結婚――。全て全てが夢と希望と自由の気に満ちていた。
家に戻ると、物干場に現実が干してあった。今朝の布団だった。康一は今朝の自分が失敗した証拠から目を逸らしながら、家の中に荷物を置いて、もう一度家を出た。
そうして、笹川の――女の子の家へと向かった。かつては覚えたはずの高揚感は、もはやなかった。ただ、漠然たる不安だけを抱いて、康一は重い足取りで歩を進めた。