導入案・2 (Pixiv Fanbox)
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──よく晴れた、春の日。
大学の中の、混雑したカフェテリアの中で、僕はぼんやりと携帯を弄っていた。
この一室は、日がよく差し込むように作られており、なおかつパソコン作業もしやすいように適度に薄暗い。
エアコンにより、室温も常に適温に保たれており、居心地は抜群。
そのため、学生たちはこぞって、ここを絶好のたまり場として扱っている。
特に、一限か二限分だけ講義のコマに隙間ができて、一時間ちょっとという半端な空き時間を潰さなければいけない人間たちにとって、このカフェテリアはなくてはならないものだ。
僕もまた、その例に漏れず、一番安いアイスコーヒーを片手にスマホを弄って、意味もなく料理の動画なんかを眺めて、退屈しのぎに耽っていた。
「あの、すみません……!少しお伺いしたいことがあるんですけど……!」
──イヤホン越しに、聞き覚えのない女性の声が、僕の名前を呼んだのは、その時だった。
振り返って、声の出処を確認してみると、そこに立っていたのは──顔も名前も分からない、容姿の整った女性。
涼しげな水色の、洒落た半袖のワンピースに、ブランド物だろうか、控えめな大きさの肩掛けバッグを提げていた。
おそらく、初対面の女性だった。
ならば当然、彼女が僕の名前なんて、知っているわけがない。
けれど、その女性は、間違いなくフルネームで、僕を呼んだはずだ。
考えられる可能性は、二つ。
僕が、彼女と親交があったことを、すっかり忘れているか。
あるいは、僕の顔と名前が、見ず知らずの女性に伝わるほど、僕自身が有名になっているか。
正直、こんなに綺麗な女性を忘れるなど、それも考えにくいことではあるけれど。
しかし、まあ──どう考えたって、可能性としてあり得るのは、前者しかないだろう。
──などと、以前の僕ならば、そう考えていたに違いない。
だが、しかし、僕は。
彼女が、僕を呼んだとき──ああ、いつもの事か、と。
見知らぬ女性が、僕に質問を投げかけてきているこの状況に、慣れ切った対応を行うことができた。
──まあ、立ち話もなんですから、どうぞ座ってください。
こんな事を、自分で言いたくはないが──僕は、生まれてから一度も、彼女というものができたことはない。
それどころか、女友達の連絡先すら、片手で足りるほどしか存在しない。
要するに、僕という人間は──女性経験はごく薄く、女慣れという言葉とは、対極的な存在なのだ。
──思えば、見ず知らずの女性に声を掛けられたことなど、大学に入るまでは一度も無かったかもしれない。
よくよく思い返し、小学校や幼稚園あたりまで脳内を遡っても、女性から呼び止められるなどという出来事は、ティッシュ配りのノルマを減らすためか、落とし物を拾ってもらったことくらいしか、記憶にない。
それが、どうだろう。
今となっては、僕がよく利用しているカフェテリアまで、わざわざ暑い中足を運んでまで、こうして話しかけてくる女性も、全く珍しくはない。
顔も知らない人間に、それも異性である男に、意を決して突撃してくるなんて、相当な度胸がいる行為だろう。
だというのに、こういった手合は後を絶たないというのだから──その心理的負担を覆すほどの、よっぽどの理由が、僕にはあるということになる。
決して、それは自惚れではない。
こういった状況が生み出される原因は、僕も理解している。
そして、その原因が、彼女らにとって”よっぽどの理由”足りえることもまた、重々承知している。
更に、僕自身が、少なくともこの大学内という、かなり広いコミュニティの中で、かなりの有名人としての地位を確立していることも。
全て、嫌と言うほど、自覚していた。
──恣紫さんのことですか?
緊張した様子の彼女が、口を開くよりも先に、僕はストローから口を離して、そう問いかける。
そうすると、興奮したような様子で、女性はこくこくと、頭と一緒に、握りしめた手まで胸の前で上下に振りながら、肯定の意志を返した。
ごろん、と、手に持っているプラスチックの容器の中で、溶けて滑った氷同士がぶつかる音がする。
彼女は、ふんふんと鼻息を荒立てて、食い入るように僕を見つめていた。
早く続きを、情報を──という、非常に熱のこもった、熱い目線だった。
やっぱり、そうだ。
この人も──あの人間離れした美しさの男に、どうしようもなく心を奪われた、大量の被害者のうちの、その一人なのだ。
あの美貌。気だるげな態度。秘密と謎に溢れた素性。
そういった、不可思議な魅力に囚われ、ソレのことしか考えられなくなった、言わば──獲物。
あと少しで人生が狂ってしまうくらい、取り返しがつかなくなるほど、ソレに心を鷲掴みにされてしまった、操り人形のような存在が──ぱっと見渡せばごろごろと見つかるほど、この大学内に蔓延っている。
本当に、つくづく、背筋が冷える。
ただ、作りもののように顔が良くて、あり得ないくらい美しい容姿をしているという、ただそれだけの理由で──ありとあらゆる人間を、ここまで突き動かすほど、堕としてしまえるのか。
まるで、災害だ。
そんな規模の美男美女なんて、アイドルファンがSNSで宣うような、過剰に盛られた褒め言葉くらいでしか、聞いたこともない。
そんな人間離れした所業を、現実でやってのける存在なんて──まさに、悪魔としか言いようがない。
冷や汗が、つうと背筋を伝った。
「……あの、お顔が優れませんけど、大丈夫ですか?熱中症、という訳ではなさそうですが……」
もしかすると、顔が青ざめていただろうか。
それに気づいた女性は、そっと水の入った紙コップを、手元に差し出してくれる。
それを見て、僕は、その気遣いに痛み入ると共に──ますます、気が滅入るような心地を覚えた。
目の前の女性は、その魔性の存在のことを、更に深追いしようとして、僕に話を聞きに来ているのだ。
はっきり言って、それは底なしの蟻地獄に、自ら身投げするようなものなのだが──果たして、どうしたものか。
何となく気まずくなって、ごりごりと後頭部を掻きながら、ちらりと視線を横に流す。
その時に見えた、カフェテリア内の何人かは──僕達の様子を見て、ああ、またか、という顔をしていた。
僕も周囲も、こんな状況を、いつしか当たり前と認識し始めている。
無理もない。こうして、僕の下に人が訪れるのは、これで今週三度目だ。
確か、今日は金曜日だから──つまり、ざっくり言えば、二日に一回は、こんなイベントが発生している計算になる。
それが、数か月は続いているのだから、そりゃあ慣れもするだろう。
こんな状態になり始めたころ、女性から声を掛けられて、舞い上がっていたのが懐かしい。
──あの、申し訳ないんですけど、僕から言える事は、そんなに無いですよ?
一人熱くなる目の前の女性を、態度で制するように、努めて冷静に、そう返事をする。
けれど、まあ──その程度で、彼女の興奮は、治まりはしないだろう。
そんな予想を裏付けるように、女性は両手を合わせて、そこを何とかと僕を拝み倒す。
僕は、ため息を一つ、噛み殺した。
──僕は、この大学内の学生としては、それなりに勤勉な方だと自負している。
とは言え、単位の都合上、毎日ここに通っている訳ではないし、ごく稀にだが、サボることも多少ある。
それに、こうしてカフェテリアで暇つぶしをすることも、他人よりはかなり多いものの、それにしたって毎回ここで時間をつぶしている訳ではないし、そもそも利用するにしても、せいぜい一時間強がいいところだ。
だと言うのに、今週三度目。
よく考えなくても、二日に一回というのは、相当少なく見積もった数だろう。
異常な事だと思う。どれだけの人間に、奴はコナを掛けているのだろうか。
しかも、おそらくは無意識で、利用してやろうという悪気すらなく。
ただ、その気だるげな横顔を見せつけて──それだけで。
人間の心を、ここまで支配し尽くしてしまえるのだから、まさに奴は淫魔そのものだ。
それに──この女性の、血走ったような飢えた獣の目。
もう、なりふり構わずに、とにかく一つでも僕から情報を奪ってやるという、命がけとすら言える必死さ。
本当に、心の底から魅了されきっていることは、誰の目から見ても明白だろう。
哀れみすら、抱いてしまうほどに。
そう──こうして話しかけてくるような人は、大抵はもう既に、手の施しようがないくらい、”アレ”に夢中になってしまっている。
だから、僕がこれ以上深みに嵌まらないため、情報を出し渋っていても──あるいは、本当に話すことがなくても、必死になって食い下がる。
そんな人を、毎回毎回、こうしてあしらうのは──流石に少し、疲れてしまう。
そんなことを考えていたのが、少し顔に出ていたのだろうか。
目の前の女性は、はたと気まずそうな表情をして、椅子から身を乗り出すのをやめ、改めて深く座り直す。
「……もちろん、あのお方に許可もなく、連絡先を教えて欲しいなんて言いません。ただ、そう……趣味とか、好きなこととか、そういう話題になりそうな事だけでも、聞きたいんです……!」
少しは冷静になったのだろうが、頭が冷えてなお、彼女は引き下がらない。
きっと、それほどに本気なのだろう。
彼女の熱意と、悪意のない純粋な眼差しが、むしろ始末に悪かった。
──”アレ”は、確かに僕の知り合いだ。
恣紫さんの大まかな趣味嗜好についてなら、おそらくはこの大学の誰よりも、詳しく語ることができるだろう。
そういった意味では、僕に奴のことを聞くのは、正しい判断だと言える。
とは言え──恣紫さんの本性は、結局のところ、気まぐれで、移り気。その一言に尽きた。
一年と続いた趣味は一つもなく、そのくせ器用で物知りで、何事も短期間のうちにマスターしてしまう。
それ故に、ほぼ全てのジャンルについて、広く浅く──いや、広く深く知っているから、大抵の物事については、その道のプロと対等に語り合えるくらいだ。
だがしかし、紫雲さんはひどく飽き性で、面倒くさがりである。
特に、誰かから勧められた物や、強制されて行うような事には、とんと興味を示さない。
例えば──講義で言えば、必修の科目なんかは、僕が引きずらないと出席しないし。
合コンになんて、誰にどう誘われたって、絶対に着いていこうとしない。
そう──奴は、自分から興味を示した相手には、物怖じせずに話しかけに行くくせに。
誰かから遊びに誘われたり、深く時間をかけてコミュニケーションを取ろうとされると、それを非常に嫌がるのだ。
つまり、要するに。
アレに自分から、恋愛目的で近づこうとすると。
どうしようもないことに、そういう性分であるため──必ず、嫌われてしまうのだ。
だが──そんな輩のことを、一体どう説明すればいいのだろうか、未だに僕は分からない。
これこれこういう理由で、貴方は既に詰んでいますと、正直に全て打ち明けてしまうのは、あまりに残酷だ。
だからと言って、何も話さずにいたら、この女性は納得しそうにもなく。
けれど、でも、しかし。
ぐるぐると、思考を巡らせ、逡巡。
丁度いい落としどころか、もしくは上手い言い訳はないものかと、ストローに口をつけ、お猪口に収まる程度のコーヒーを口に含み。
そして、唇を離した途端──手元から、突然プラカップが奪われた。
「……ぷは。生き返る……」
──耳元一センチ。
至近距離で、ぽそりと呟かれたその声は、女性にしては低く、男性としては高く。
そして何より──隠しきれない色艶と、声そのものの甘さが、溢れるほどに詰まっていた。
ぞわりと、体中の産毛が総毛立つような、強い寒気。
それから、腕から背筋へと、鳥肌が広がる感覚が、鮮明に感じられる。
それは、例えるなら、耳元すぐそばで囁かれた時の、あの背筋がぞわぞわと甘痒く震えるような、快感とも不快感ともつかない、そんな感覚。
それを──正の方向にも、負の方向にも、何百倍にも増幅して、ぶつけられたかのような。
涎を垂らして、ただ次の言葉が紡がれるのを、ひたすら待ち続ける、麻薬中毒の腑抜けになりそうで──かつ、絶対に二度とその声を聴けないよう、自ら鼓膜を破り捨てて、聴覚もろともその声を拒みたくなる。
ひたすら不可思議で、ひたすら気味が悪く、そしてひたすら蠱惑的な、艶声だった。
ただ一言、そっと呟かれた、独り言。
それが鼓膜に届いただけで──これほどに、言いようのない恐ろしい感覚に陥ってしまう。
まるで──心の中を、無理やり塗り潰されるかのような。
自分と言う存在そのものが、全てその声の持つ異常なカリスマに侵されて、ただその声だけを求める、奴隷人形に成り下がってしまうような。
自分でも、噓くさいほど大仰な物言いだとは理解しているが、それを自覚してなお、全く過剰だと思えない、魔性そのものの声。
それを間近で聞かされて、思わず、息を一飲み。
それから、一秒二秒と時間をかけてその声を咀嚼して、そうして──身を大きく、またもぶるりと震わせながら。
ほぼ反射的に、首をほんの少しだけ、左側へと回した。
その瞬間、目に飛び込むのは──美という言葉では、到底語り尽くせないほどの、整い過ぎた相貌。
華憐で、華奢で、愛らしく、女性的で。
それでいて、堂々と、野生的で、凛々しく、男性的で。
眠たげに半ば閉じられつつも、射抜くような鋭い光と、どこまでも吸い込まれそうな深淵の暗闇を、合わせて溶き交ぜたような色を、くっきりと濃く魅せる桔梗色の瞳。
本人の利発さや気品を現したように、高くすらりとスマートに、中央に通った鼻梁。
ダイアモンドの欠片でも塗り込んだかのように、グロスの色めいた艶めきと、天の川の星々のような輝きが同居して──しかし、それほどの色気を持ちながら、気怠そうに真一文字に結ばれた、色素も肉も薄めの、慎ましやかな口元。
人は、その顔立ちについて──絶世の美男子。人類史上最高の顔立ち。天界から降りてきた美の神。人を殺せるレベルのイケメン。
などと、持てる語彙の全てを尽くして、まるで洗脳されたかのように持て囃す。
そして、その噂を聞きつけた人間が、彼の顔を見て──その言葉が、まるっきり嘘っぱちだったと気付くのだ。
そんな程度の言葉では、到底言い表せられない。
まだ、人間の言葉に、”アレ”を表せられる単語がない。
そう、雷に打たれたかのように気が付いて──また、彼を信奉する、忠実な奴隷に成り下がるのだ。
「ねー、外、あっつい……。親友、なんとかして……」
──と、それほどの傾国っぷりを見せる、その女狐顔負けの美の化身は。
何の因果か──いつからか僕のことを、”親友”と呼んでいた。