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⚠️この小説は男性間の同性愛描写が多く含まれています。苦手な方はご注意ください。

⚠️この小説は描写が不足している部分が多くあり、完成とは言えない状況です。しかしうまくまとめられないまま数年間放置してしまっていたので、一度区切りをつけるために公開します。






(設定)

慧董ナナセ:高校二年生、身長171cm、体重62kg。スポーツが得意。生前のネィリと両想いだったが、キスの先までは行っていない。


霧雨ネィリ(ヒト):身長155cm、体重41kg。生前は、小学五年生の時に初めてナナセと出会った。中学校は三年間ナナセと同じ学校、同じクラス。容姿のせいでバカにされていた自分を助けてくれたナナセを慕うだけでなく、いつも仲良くしてくれるナナセに友人以上の感情を抱いていた。中学三年生の十月に交通事故に巻き込まれて死亡。


霧雨ネィリ(ロボ):高校二年生。ナナセと同じ高校に通う。身長158cm、体重67kg。中性的な見た目で、服装さえ変えれば女の子だと言われても分からない。霧雨ネィリが五年間書き連ねていた日記から、彼のナナセに対する想いを知り、ナナセに深い愛情を向けるような行動を取る。







(本文)

 霧雨ネィリと出会ったのは小学校五年生の夏だった。

 学校が終わった後、週に三回塾に通っていた。古き良きというか、まあかなり昔ながらの授業をする今時珍しい塾で、三十人くらいの小学生を前に一人の先生がホワイトボードに向かって板書する、みたいな授業スタイルだった。

 俺の専らの楽しみは、授業の合間にある十五分間の休み時間に、自作のカードゲームで他の小学生と遊ぶことだった。塾に来るのは学校も違えば素性もよく知らない子供だったし、彼らと仲良くなるにはどうしたらいいかを考えた結果、一緒に遊べるものを自分から作ってしまうのが手っ取り早いということに気がついた。カードの枚数も少なく、短い時間で誰でも遊べるということもあり、遊び仲間はすぐにできた。

 今考えると、しょぼい紙に名前と攻撃力、モンスターの召喚コストと効果の説明だけを書いた、実にくだらない代物だった。というかそもそも割と既存のカードゲームのスタイルをパクっていたし、半ば接待のように他人に強いデッキを使わせて勝たせ、成功体験を与えて俺といると楽しいと錯覚させるために主に使われていた。

 カードを作るのは楽しかったが、別に対戦することが目的ではなく、その空気感を作ること自体が目的だった。もちろん、会話が上手ければそれに越したことはないが、少なくともこれをすることで、自分と仲良くなれる子供をふるいに掛けることができたのだ。四人くらいのグループができて、俺は塾という半ば学校じみた空間で一人ぼっちになることはなかった。

 そんな中で、霧雨ネィリは小学五年生の七月に入塾してきた。後で本人から聞いたところ、そんな中途半端な時期に入ってきた理由は転校にあったそうだ。以前通っていた学校でいじめに遭い、五年生を目前にして転校。学校生活にあまり馴染めない彼を見かねた親が、勉強が疎かになるのを避けるために塾に通わせたということだった。

 地元が田舎だという性質を持っているからかもしれないが、学校も塾も割と村社会的なきらいがあった。内輪だけで仲良くなり、新参者には厳しい。というより、人間多かれ少なかれそういう生き物なのであって、人の出入りが少ない空間だとそれがより強調されて見えるだけなのだろうと思う。結局何が言いたいかというと、転校した先でも、霧雨ネィリは一人ぼっちだった。

 宮沢賢治の「風の又三郎」みたいに、見知らぬ赤毛の子供が座っていてそれを見た子供が泣き出す、なんてことは無かったが、漫画の世界から出てきたような銀色の髪に、少女のようにほっそりとした体の線は、少なくとも俺以外の人間にとってもかなり異質に見えたのだろう。

 浮世離れした容姿でやたら目立つ霧雨ネィリは一人で塾を訪れ、教室の一番隅っこの席で一人で授業を受け、いつも一人で帰っていた。


          ◆


 学校でもないのに、塾ではなぜか席替えがあった。

 三ヶ月に一回くらいのスパンで行われたそれは、塾側が勝手に決めた席に座らされるという理不尽極まりないものだったが、俺含め小学生というのは単純で、新鮮さ(と、後ろの席に座れるチャンス)を求めてその時を待っていたものだ。塾で盛り上がれるタイミングといえば、県内模試の成績発表で自分や友達の名前を探す時と、その席替えくらいだった。

 十月に席替えがあって、俺とネィリは一番後ろの列の、隣同士の席になった。

 相変わらずカードゲームにお熱だった俺は、休み時間には他の友達の近くに行ってそれをやっていた。以前は俺の席に人が集まっていたが、よく知らない集団が隣で騒いでいたらネィリも居心地が悪いんだろうなあと思い、俺はガキなりに気を遣って彼から距離を取っていた。そもそもこの時点では俺とネィリはただの他人だったのだが。

 ある時——確か算数の授業だったが——俺は初めてネィリとコミュニケーションをとった。配られたプリントがネィリの列だけ一枚足りず、ネィリまで回ってこなかったのだ。前のヤツが助け舟を出してやれよと思ったが、ネィリの前は俺もよく知らないメガネの女の子で、見るからに気弱なタイプだった。多分わざわざ席を立って先生のところまで行ったり、手を挙げたり声をあげたりするのがキツい子だったのだろう。

 ネィリは文字通り「そわそわ」していた。俺が横目で彼を見ていることにすら気づかないほど、そして俺が彼の内面の葛藤を慮るには十分すぎるほどに。俺はネィリの方に体を向け、俺の分のプリントを手渡した。目を丸くしているネィリをよそに、俺は手を挙げて言った。「先生、プリント足りないのでもう一枚ください」と。

 幸い俺はそういうことをするのに抵抗がなかったし、塾の先生と仲が悪いわけでもなかったので、授業中に先生を呼んでプリント一枚追加で貰うことくらいはなんでもなかった。

 追加のプリントを貰って授業が始まると、ネィリは俺にしか聞こえない声で「ありがとう」と言った。俺は初めて話しかけられた人間に気の利いたことが言えるほど頭の回転が良くなかったので、何も言わずに頷くことしかできなかった。

 実際その会釈をネィリがそれと認識していたかどうかすら今となっては闇の中だ。ただ、ネィリの消え入りそうな、それでいて透き通った声音は、それを初めて聞いた俺の心を捉えて離さなかった。

 授業の後、俺は思い切ってネィリと連絡先を交換した。その夜はチャットアプリで彼とテキストメッセージのやりとりをした。

 お互いの通う学校の話から始まり、転校の理由、趣味など、時間を忘れて彼との会話に没頭した。ネィリの家庭はまあまあ裕福で、彼を溺愛する両親の元に産まれた一人息子だったそうだ。

 カメラを持ち歩いて散歩をしたり、イラストを描いたりするのが好きだと語る彼は、少なくともこれまでに会った同学年の少年の誰とも似通っていなかった。それは外面的な意味ではもちろん、内面的な意味でもある。


          ◆


 次の授業から、俺たちは顔を合わせて会話を交わすようになった。ネィリの声は誰かに聞かれるのが嫌だと言わんばかりに小さかったが、彼自身の性格はそこまで暗いものではなかった。

 人とうまく付き合える素質は十分に持ち合わせているのだろうが、その環境を自分から整えることが苦手だったり、運悪く揃わなかったりするだけでこうにもなってしまうとは、当時の俺には理解の及ばないことだった。

 とにかく、俺はネィリと仲良くなれたし、ネィリも俺の友達と仲良くなることができた(もちろん、カードゲームを通してだが)。

 小学生が塾に通う理由は様々だが、中学校を受験するというものもある。俺はそのうちの一人で、ネィリは俺とは別の中学校に通うことになっていたらしいが、俺がそんな話をしたら、ネィリは俺と同じ中学校に行きたいと言い出した。

 彼の中でせっかくできた友達と離れ離れになるのは嫌だという思いがあったのは想像するに難くないが、俺の方は俺の方でネィリと別れるのは少し辛かった。ネィリの生い立ちを知ったその当時では尚更そんな気持ちがあった。

 そもそもネィリはそれほど頭がいいという訳でもなく、塾の勉強もなんとかついていっているという感じだった。かたや俺はというと、県内模試でもそれなりに結果を残していて、AからEの判定なんて見なくても分かるくらいだった。

 そういうわけで、俺はネィリに勉強を教えることにした。

 きっと彼は勉強の仕方が分からなかったのだと思う。幼児期の教育云々の前に、他の子供がやっていることを観察して、それに倣ってやるということをせずに育ち、正解から遠い非効率的な方法で歯を食いしばってきたのだ。

 「なぜそうなるのか」を知ることが勉強の本質なのに、彼はそれを問題に対して提示された選択肢の中から正解を選び出すものだと勘違いしていた。

 例えば光合成は、葉緑素、水、二酸化炭素を使い、光エネルギーを化学エネルギーに変換する反応であると説明されている。デンプンは光合成によって生成されるグルコースの重合体で、その葉をヨウ素に浸すと、螺旋状の構造を持つデンプンの分子の形が変わり、吸収する色が変わるからヨウ素デンプン反応——葉っぱを茶色のヨウ素液に浸すと、青紫色に変化する反応——が起こる。

 この過程を「光合成」と「青紫」の言葉で短絡してしまえば、その裏側にあることが分からないままになってしまう。全ての植物が光合成でデンプンを生成するわけではなく、例えばスクロースのような形で化学エネルギーを貯めれば、分子が短いためにヨウ素を取り込めないので、ヨウ素デンプン反応は起こらない。

 背後で起こっていることを理解しなければ、覚えた知識は付け焼き刃にしかならない。ヨウ素デンプン反応が見られないからといって、光合成をしていない訳ではないということが分からない。だからアジサイの葉っぱに関する問題は答えられても、イネ科の植物は光合成していないなんて変な結論に至って間違えてしまう。ネィリは見事にそんな感じだった。

 ネィリとの勉強で、彼がどんな気持ちで俺のことを見ていたのかは正確には分からないし、知る術も無かった。自分の知らない概念や物事の捉え方を植え付けられることへの恐怖や嫌悪は当然あっただろうし、考えるという行為自体がそれに慣れていたとしても相当な労力を要する行為だ。

 自転車に乗ったことがある人が十年ぶりに自転車に乗ることと、生まれて一度も自転車に乗ったことがない十歳の子供が自転車に乗ることは訳が違う。そんな大変なことでも、ネィリはめげることなく必死に取り組んでいた。少なくとも俺の前では。

 少しずつでも分かることが増えるのは楽しいと語ってくれた言葉だけは嘘ではなかったと思う。光合成の話をした時の彼の目の輝きは、何年経っても鮮明に覚えている。


           ◆


 紆余曲折があって、俺とネィリは同じ中学に入った。

 開示結果ではネィリは数点差で不合格だったらしいが、運良く欠員が出たためにギリギリ滑り込むことができたそうだ。

 ネィリの家は何回も行ったし、ネィリが見せる顔もそれなりに良く見てきたと思っていたが、補欠合格の知らせを聞いたネィリと会った時の、安堵と喜びの涙、そして鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を見たのは、あれが最初で最後だった。

 つつがなく終わるはずの三年だったが、彼は三年目を終えることなくこの世を去った。交通事故に遭ったという。交差点で赤信号を待っていた時、出会い頭で衝突事故を起こした車に巻き込まれたそうだ。

 ネィリと特に仲が良かったと担任教師に見なされていた俺は、次の日のホームルームでその事実を知る前にそれを知らされた。時間が止まったかと思った。

 あまりに動揺しすぎていたためか、それとも脳の自浄作用によってなのか、その日の記憶はほとんど忘れてしまった。ネィリの死という現実を受け入れることができず、その日のうちに他の人間にそのことを打ち明けることはなかった。当事者意識のないまま告げられた友人の死を言語化できるほど、自分の中で整理がついていなかった。

 次の日の朝も、俺はその厳然とそびえ立つ事実を聞かされるものだと思っていた。ところが担任はネィリの死に全く触れず、それどころか席にいないネィリを「長期入院」だと言った。

 耳を疑うような発言に、当然俺はホームルーム後に教員を捕まえて事実を問いただしたところ、ネィリの親がその事実を公開しないようにしたことと、これから三ヶ月間はネィリを入院しているものとして扱うと言われた。

 同時に、ネィリの死は口外しないようにと口止めをされた。ネィリの死を知っているのは、俺が把握している限りではネィリの両親、担任、そして俺の四人だけだった。

 その時の俺は狼狽しすぎて一体何が何やら分からなかったが、三ヶ月後に何が待ち受けているのか、その時は予想だにしていなかった。

 事故があったのは十月二十五日で、俺はおよそ四ヶ月後に高校入試を控えていた。ネィリの訃報を聞いてからというものの、精神や身体的な不調が断続的に訪れた。

 他の友人からはネィリに会えないだけで気落ちしすぎだと揶揄われたが、誰にも本当のことを言えず、現状ネィリの家庭で何が起こっているのかを把握できないストレスが、間違いなく俺の心を蝕んでいた。

 これまで滅多なことがない限り足を運ばなかった保健室、そして病院に頻繁に通うようになった。病院に行く理由は申し訳程度のカウンセリングと、——こちらの方が本命だったが——二週間分の精神安定剤を貰うためだけ。

 最初のうちはそれほど重く捉えていなかったが、きっと俺は十分に精神を病んでいるのだとどこかで気づき始めた。薬の効果は明らかで、気分の波を適切な幅に収める役割を果たしていた。

 毎日三錠飲むように言われたそれを、俺は言われた通りに飲んだ。最初のうちはサボることもあったが、薬を服用した時とそうでない時の差を実感すれば、飲まない選択肢を取る意味はなかった。

 俺は薬を半ば嗜好品のように摂取するようになっていた。最初のうちは眠気覚ましの代わりに摂取していたカフェイン入りの清涼飲料水が、やがてカフェインに対する耐性を持ったためにただの炭酸飲料に変わり果て、眠気を大して取り除くわけでもないにもかかわらず、それがないと耐えられなくなるように。

 摂取量は守っていたが、少し減らせばその分の不調がたちどころに現れた。日に日にカウンセラーの顔が曇っていくのを、どこか他人事のように感じていた。薬の量は増えなかったが、減ることもなかった。


           ◆


 事故から三ヶ月経ち、気付けば年が明けていた。雪がうっすらと積もる道を歩いていつもと同じように登校すると、俺は教員に呼び出された。いよいよ事態が進展したらしいと悟った俺は、教員からネィリの両親に会うように言われた。何度も訪れたはずのネィリの家で、何度も夕飯をご馳走になったネィリの親だったが、今回ばかりはどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。

 翌日、俺は学校を休んでネィリの家に行った。親に持たされた菓子折を持つ手が震えているのが自分で分かるほど緊張していたが、出迎えてくれたネィリの親は想像していたほど気落ちしている様子もなかった。

 見せたいものがあると言われるままにネィリの部屋のドアを開き、俺はとうとう頭がおかしくなってしまったのかと思った。そこにはアイツが、こちらを向いて笑顔で手を振っている姿があったのだから。

 ——ナナセ!

 立ち上がったネィリは、満面の笑顔で俺に話しかけてきた。本当に俺との再会を喜んでいるような笑顔だった。しかし俺はその笑顔に、どこか違和感を覚えた。

 まずそもそも、声の響きが僅かに違う。ネィリの声に近いし、入院のせいだと言われればその変化が有っても不思議ではないのかもしれないが、雲一つない澄んだ青空のようなネィリの声の響きが、どことなくくすんでいるような気がした。

 そして背丈も、ほんの少しだけ伸びていた。笑顔も、ネィリの笑顔に限りなく近いのだが、もっと微妙な何かが引っかかっていた。

 女の子のようにほっそりとした腕や脚も、中性的な顔や少し長く伸ばした髪も、三ヶ月前の面影を残しつつ、彼に限りなく漸近した別のものになっている。

 五年間、ずっと一緒にいた俺でも見逃してしまいそうなほどの、微小な変化がそこにあった。

「あの……」俺は後ろを振り返る。そこにネィリの両親はもういなかった。ネィリの部屋に視線を戻すと、棒立ちになる俺を見かねたのか、そいつは明るい笑顔を引っ込め、申し訳なさそうな顔をして一礼した。およそ友人に向けるようなものではない、美しい礼を深々と。

 ネィリによく似た顔が、ネィリであれば絶対にしない表情をしている事実に、息を吸うことすら上手くいかない。

「……失礼いたしました。場に合わせた適切な振る舞いを優先しましたので、先程のように呼びかけてしまった非礼をお許しください。……慧董ナナセ様ですね」

「……ネィリ、じゃないんだよな。お前」

 絞り出すような俺の声に対し、ネィリのような何者かは複雑な表情を浮かべ、「初めまして」と口にした。笑い飛ばしたくても、状況がそうさせてくれないから苦しそうに抑えているような表情だった。

「ご存知の通り、霧雨ネィリ様は亡くなられました。私は、霧雨ネィリ様をモデルにして製造された、ごく一般的な家庭用アンドロイドです。PIHLAという名前の方が、馴染み深いかもしれませんね」

 ホッチキスと言えば誰でもステイプラーのことだと分かるし、タッパーをわざわざプラスチック製食品入れと呼ぶ人間の方が少ない。フィンランドのテック企業が製造したアンドロイドのPIHLAシリーズが、そのまま家庭用アンドロイドを指す名前として世界中で使われるようになって久しい。

「霧雨ネィリ様が亡くなられたのち、彼のご両親に対する精神療法の一環として、担当医師の指示の下で製造されたという経緯がございます。私は現在、霧雨ネィリ様のご両親の心理的負担を緩和するために、カウンセリングを通じたグリーフケアを行うことを主目的として稼働しています」

 何かご質問はございますでしょうか。そんな風に、ネィリの似姿は自分の端的な自己紹介を静かに締めくくった。相変わらず両手は前で揃えられていて、たった三ヶ月でこれまで積み上げてきた関係性がゼロに戻ったことを静かに、しかし雄弁に物語っていた。

 いかがいたしましたか。彼は一歩前に進み、応答のない俺との距離を近づけてきた。PIHLAの基本的な行動原理の一つだ。人間を助けるときには、まずその物理的距離を縮めてから。公共機関で嫌というほど目にした動きを、ネィリそっくりのPIHLAがしたという事実に、思わず片腕を突き出して彼と距離を取っていた。

「……いい。あと、……俺の前では、普通に接してくれ。お前は、…………ネィリなんだから」

 冷たい氷を飲み込んだ時のような居心地の悪さが、喉から腹の底へと下っていく。彼は「承知しました」とだけ答えると、ネィリそっくりの医療機器は先ほどよりやや幼めの、人懐こい笑顔を取り戻した。

 きっと何かしらの映像資料で学習したのだろう。デフォルトの笑顔とは明らかに異なるその笑顔は、初期パラメータで与えられたパーソナリティだけでは決して生成し得ない「ネィリらしさ」をしっかりと備えていた。

 そしてそれを見て安心している自分がいることも、また事実だった。

「……俺について知ってるのは、顔と名前だけか」俺はあくまでも保険のためだけに尋ねていた。三ヶ月、少なく見積もっても彼がこの家庭に馴染んで数週間は経っているはずだから、ネィリらしくあるために彼自身が何か行動を起こしているはずだ。この問いに対して予想される答えは明らかだ。

「えっと……」

 彼は開けっぱなしになっていたドアを閉め、俺と二人だけの空間を作り出した。座るように促された俺は、いつもの定位置に座った。グレーの柔らかなクッションは、彼の家に来た時に決まって座っていたから、初めてここに来た時よりくたびれていた。

 爽やかで、どこか人工的な香りが風に乗って届く。ネィリが着ていた服と同じ洗剤の香りが、学校で感じていたものよりも強く鼻腔をくすぐる。

 彼は本棚からするりと一冊の本を取り出すと、俺と並んで腰を下ろし、忘れてきた教科書を見せ合う時のようにそれを開いて見せた。それは正確には、本に似せてあるタブレット端末だった。

 開いたページには、俺とネィリがおろしたての制服を着て、校門で二人並んで笑顔で写っている写真と、その下に本人の筆跡でその時のことが克明に書かれていた。

 見た目だけでなく字の形までも女の子みたいなネィリは、可愛らしい丸文字で沢山の想いを綴っていた。

「いっぱい、あったからさ。ボクがどんなふうにキミと接してきたかとか。キミがボクの中でどれくらい大切な友達だったかとか」

「あぁ……」俺は嘆息した。嬉しさと悲しさが半分ずつ同居する感覚に目を覆う。「大切な友達」だそうだ。

 俺は彼に、ネィリとの関係をどう告白すればいいかわからなかった。


           ◆


 始まりはいつだったか覚えていない。気づいたらそうなっていたと言うのが正しいだろう。おそらく中学二年生の時に初めて、この場所で俺はネィリとキスをした。

 俺はネィリに惹かれていて、ネィリも俺を受け入れてくれていた——と思う。惹かれたのは彼の内面はもちろん、その中性的で整った容姿も含めた性的な特質もそうだった。

 キスをしている間は、ずっと心が満たされているような気持ちだった。多幸感の海に放り出されたような感覚に浸り、自慰行為以上の多幸感を得ることができていた。

 唇を離した時、アイツはとろんとした表情を浮かべて、それからだらしなく口元を緩ませた。それがたまらなく愛おしくて、俺たちは何度もお互いを味わった。

 甘くて癖になるネィリの味。抱きしめた彼の心臓の鼓動。それらは今でも思い出せるほど、生々しく脳裏に焼き付いている。

 しかしその関係は、二人以外の誰にも知られたくないという共通認識ができていたし、わざわざ声を大にして言うものでもないと思い込んでいた。

 アイツが居なくなった後は、自分の気持ちを伝えてしまえばよかったと毎日後悔した。俺もネィリも、はっきりと言葉にして好意を伝えたことがない。いつまでも二人の空気はそこにあるものだと思い込んでいたし、キスなんてせずとも側にいるだけで幸せだった。

「……日記、どこまで読んだんだ」秒針が規則的に動く音で我に返った俺は、隣で姿勢良く座る彼に尋ねた。

 目線が合う。彼の美しい人工の虹彩は非人間的に収縮し、自動的に対象にピントを合わせる。肉体が人工の身体より劣っていると言いたい訳ではないが、傷ひとつない表皮や左右対称な体を見れば、ネィリは今の方が美しいと判断せざるを得ない。

 彼は口元に軽く手を当て、ほんの少しだけ考える素振りをした。人間であれば自然な動作かもしれないが、ネィリが頻繁にそのような行為をしていた記憶はない。しかしその振る舞いからは「女性」の気配が僅かに感じ取れた。

「んと、全部。小学五年生の四月七日から、中学三年生の十月二十四日まで。毎日書いていたわけじゃないし、バックアップが取れてなかったのか、途中のログがしばらく……二ヶ月分くらい消えちゃってたけど。書いてあるところは全部目を通したよ」

 機械は事実を正確に述べることができる。全部。人間にとって全部を把握することはできないし、もし全てに目を通していたとしても覚えていない箇所の方が多いだろう。

 しかし彼であれば、その「全部」という言葉はまさしく「全て」を表す。機械仕掛けの瞳で捉えられた情報は全て網目の上に配置され、彼の思い通りに取り扱うことができる。

 きっと彼はこれから、人間らしく振る舞うように少しずつ調整を加えていくのだろう。この世に産み落とされてから僅か数ヶ月の、しかも家族以外との触れ合いのない彼が、人間と非人間との境界を正しく認識することは難しいはずだ。

 俺がこの場に立ち会わされているのも、その学習を進めるための第一歩であることに違いはない。彼は身の回りの人の振る舞いを学び、ゆっくりと忘却や記憶違いのフリをすることを学習する。

 大切な事柄や大きなイベントは正確に記憶し、日々の些細なことは忘れ去るか、手の届きにくい場所へとしまいこむ。

 消えた部分はともかくも、彼は日記に関しては仔細に把握している。それを再認識した時、日記の中にネィリとの逢瀬の記録があるか、俺は怖くて訊けなかった。

 目の前の「これ」が純然たる機械であっても、それが実体を伴って立ち現れている事実が、喉の奥に突っかかって取れなかった。

「……俺」

「……大丈夫。ゆっくりでいいよ」ネィリのレプリカは柔らかく微笑んだ。極めて自然な笑顔だ。ネィリの表情筋の動かし方を人工筋肉が模倣し、ネィリらしい表情が形成される。

「俺、言わなきゃいけないことがあって……」俺は深呼吸をする。目の前には、何も言わずに俺を待ち続ける存在が一つ。

「……ネィリが生きていた時、アイツが好きだった。キスもした。……でも、アイツから『好き』の言葉は聞いてない。もちろん俺も言ってない」

 ——沈黙が支配する。彼の目を見ることができない。膝の上で握りしめた拳にそっと手が添えられる。初めて彼との体が触れ合った。彼の手は温もりを帯びていて、空中の湿気を吸ったのか僅かに湿っていて、それでいてヒトのように柔らかかった。

 コイツは本当はネィリ本人で、ネィリが死んだなんて嘘なんじゃないかと冗談抜きで思ってしまうほどだ。どうしてそんなところまでネィリそっくりに作ってあるんだ。

「ナナセ、あのさ。……また、やり直さない?」

 瞼を開けると、至近距離で視線がぶつかってしまった。照れ臭そうに微笑んだ彼は、目線を彷徨わせたり唇を震わせたりするだけの間をたっぷりと置いて、俺に告げる。

「…………『ちゅー』の続き」

「え……」

「知ってるよ。ボクがナナセにいっぱい、その……、愛してもらってたこと。『好き』の気持ちを表す言葉が、たくさん書かれてたから」

 彼はわざわざ日記を引っ張り出して、その記述を俺に見せようとはしなかった。でもきっと、それこそが答えなのだろう。彼は俺の、ネィリに対する好意を知っていて、そしてネィリが俺に対する思いを書き綴っていたことも知っていた。それこそ「全て」を。

 俺は迷っていた。「また始める」は、本当は全く正確ではない言葉だ。なぜならアレは人間のネィリで、今目の前にいるネィリは完全に別人、しかも記憶だってほとんどないに等しい。彼と始めるのはあの時の続きではなく、いわばノートとペンを変えて全く新しい物語を書き始めるようなものだ。

 ここでキスをしたら、俺が大切にしていたのはアイツの外側ということになってしまわないか。アイツは自分の身代わりと俺が「やり直す」のを望んでいるのか。

「俺——」

 俺の逡巡を完全に無視し、開きかけた口が音もなく塞がれる。唇に当たる柔らかな感触。ネィリの顔が目と鼻の先にある。美しく生え揃った睫毛。白磁のように滑らかな肌。整った鼻筋。その瞬間に心を全て奪われる。

「んっ……。ごめんね、いきなり。……嫌だった、かな」

 吸い込まれそうなほど真っ黒な瞳を潤ませて、上目遣いで尋ねてくる。彼は生前のネィリに会ったことがないはずなのに、その様子がまるで実物を見てきたかのように酷くそっくりに見えた。つまり、この挙動は「大正解」だ。

 微風が顔を撫でる感覚を覚える。それがネィリの鼻息だと悟った刹那、あまりの現実感に圧倒されて総毛立つ。しかし最初に感じていた薄気味悪さは完全に消え、俺の心は煮詰められたネィリへの欲求で満たされていた。

「ネ、ィリ……」

「どうしたらいいんだろう。ナナセに気持ちを伝えたいのに、ボクが言うと全部ウソみたいに聞こえちゃうよね」彼はそう言って、嘆息混じりの笑みを浮かべて口にした。「好きだよ」と。

「『霧雨ネィリ』はずっと、キミに気持ちを伝えたかったはずだ。ボクはその時の彼の気持ちがどうだったかを知らない。推し量ることもできない。限られた資料から事実と見做しうるものだけを集めて、そうやって継ぎ接ぎをして作られたのが、ボクだ」

 彼は初めて、自分の人格を客観的な立場から述べた。霧雨ネィリという人間を模倣するための言動とちぐはぐでも、それをすることに意味があると「彼」自信が認識しているようだった。

「これが本当かどうかも、もう誰も保証してくれないけど。……だからこそ、ここに書いてあることは本当だと思うしかない」

「ボクは、キミが本当に愛していた人と目に見えるところだけが似ていて、確かに別の存在だけど。……それでもキミは、ボクをまだ愛せますか。……ボクをまた愛してくれますか」

 彼は俺の思考などお見通しであるかのようにそう言った。その名状し難い心地よさに戸惑いを覚えつつも、俺は彼を真っ直ぐ見つめる。

「……ネィリは、もういない。…………俺も、ネィリが好きだった。キスのその先がしたかった。もっと深くネィリを感じたかった。でももう、できない」

 ——臆病な俺を笑ってくれ。ネィリ。

「『お前』は、俺にどう見てほしい。俺は『お前』を、どう見たらいい」

「……『霧雨ネィリ』として扱ってほしい。だってボクは、そのためにここにいるんだから」彼は自分の存在意義に忠実に従って答えた。

「分かった。……ネィリ」

「——ナナセ! ナナセッ!」

 俺がその名を呼ぶと、生まれて間もないネィリは目を輝かせ、ぎゅっと強く俺を抱きしめてきた。思いの丈をぶつけるように、ぐりぐりと頭を胸に押し当ててくる。「資料」の中で俺が多く登場していたのがよく分かる。きっとそれだけが、今のネィリを構成する要素なのだから。

 宥めるようにネィリの髪をゆっくりと撫でる。柔らかくて艶のある人工毛髪は、指に一切絡まることなくするりと解け、洗剤とは異なる香り——皮膚から香るボディーソープの残り香のような自然な香り——を俺に届けた。

 愛玩用途やセラピー用途であれば肉体的な接触が多くなるため、一般的にPIHLAの表皮や毛髪には微小なカプセルフレグランス付着しているのだという。きっとそれが弾け、穏やかな甘い香りを部屋に撒き散らしたのだ。

 ゆっくりと、ネィリの髪に鼻を埋める。香りは一層強くなり、鼻腔を駆け上って眼球の裏から突き抜けるような芳香にクラクラとしながら深呼吸をした。薬で脳を騙していたのが嘘になるほどの、凄まじい快楽に打ちのめされながら。

「大好き。……好き。ナナセが好き」

 ネィリが顔を上げる。どういう原理かは知らないが顔は火照っていて、潤んだ瞳と尖らせた唇は何を要求しているのかを雄弁に語っていた。俺は迷いなく、その唇を奪った。先ほどの触れるだけのキスとは違い、お互いの唇を食むように、何度も唇を動かす。空白の三ヶ月間を埋めるように、俺は呼吸をするのも忘れてネィリを求めた。

「んんっ、ちゅぱっ。ちゅ、んぅ……。ふふっ。ナナセ……♡」

 唇を潤わせて、ネィリが蕩けた顔をする。彼を抱きしめて、口付けを交わして。しかしそれでもなお、胸に渦巻く違和感は消えなかった。その違和感がこれからずっと俺につきまとうということも、もうこれ以上引き返せないところまで来てしまったことも、この時点で薄々感じていた。


          ◆


 ネィリと俺がそういう関係になっているのは、彼の親には既に知られていたそうだ。日記に克明に記されていた生前の彼の赤裸々な想いは、ネィリの死後に彼の両親が目にするところとなっていた。

 理解のある両親がいたからこそ、「彼」は俺を抱きしめ、キスすることができたのだろう。そうでなければ、親の心の穴を埋めるために生まれた彼が、俺に恋するような挙動を見せる必要がないからだ。

 それから一ヶ月。入試を無事にパスした俺は高校生になり、ネィリも同じ学校の生徒になった。正確に言うと、ネィリは特例で生徒として認められた。

 PIHLAを所有する親がそれを学校に通わせるという事例は、最初こそ物珍さで話題を呼びこそすれ、今となっては多くの人間が認知することとなった。それは半世紀以上前にジェンダーレスの制服が話題になったものの、十年も経てばそれが一般的になったアナロジーで語られることが多い。ネィリもまた、PIHLAではなく通常の学生と同じ扱いを受ける存在として、俺と同じ高校に入学したのだ。

 高校では三年間クラスが固定で、俺とネィリは同じクラスになった、というより強制的にそうなった。人間でないと同じクラスの生徒に打ち明けるか否かは各家庭によるが、少なくとも彼の場合は打ち明けず、自分から告白する必要性に駆られない限りは普通の人間として過ごす方針であった。

 日常生活を送る中で故障して、人間でないと知られてしまわないようにこまめにメンテナンスを行い、万が一を避けて体育の授業は見学。彼の病弱そうな痩躯は、そうする言い訳としては十分通用するものだった。

 ネィリとキスの先を始めたのは、高校生になって間もない頃だったと思う。お互いの体で触れられる場所が少しずつ増え、やがてどんな場所に触ってもいいという暗黙の了解ができていた。

 初めて性的な意味合いを持つ行為をしたのも、高校に入学してそれほど経っていない時期だった。ある時ネィリの家に泊まった時が初めてだと記憶している。

 二日に一度の充電で稼働できるネィリは、充電のいらない日にはかつてのように布団で眠る。夜中にふと目を覚ました俺は、すうすうと寝息を立てるネィリの無防備な姿を目にしてしまった。

 猛烈な欲求に駆られた俺は、後ろからゆっくり抱きつき、ネィリの股間に手を伸ばした。すべすべとしたショートパンツの上から、手のひらに収まるほどのふっくらとした「それ」を優しく握った。

「んん……っ♡」

 ネィリは可愛らしく鳴くと、眠りに落ちようと体を丸めた。女の子のような小さな尻に、いきり立った俺の股間をぐりぐりと押し付ける。少し硬めの筋肉の感触を肉竿で感じながら、俺はネィリに話しかけた。

「ネィリ……」

 人間ではないのだから、寝ているのもフリだけだ。それを承知しながら、引き締まった太腿に手を滑らせ、パンツの裾に手を忍ばせる。ほとんど無意識的に、ネィリの絹のように滑らかな髪に顔を押し付ける。独特の甘い香りが鼻腔に入り、それだけで股間は更に熱さを増し、多幸感の波が脳に押し寄せる。

 外部からの刺激があればネィリは自動的に覚醒状態になるし、先ほどの甘い吐息だってネィリが意図して作ったものだと分かっている。

 頸椎の七番目の骨がある場所が——その場所が彼のスイッチであり、色で状態を表すのだが——ぼんやりとした白から肌色に変化して同化し、ネィリが覚醒したことを示す。

 オバートと呼ばれる一般的なPIHLAは、頭部に発光する髪飾りなどをつけることで人間ではないと示すことが一般的だ。他にも通常の歩行時にはPIHLA専用の歩道を使ったり、声自体も不自然さを覚えない範囲でドライな声質に変更されていたりすることで、ある程度の非人間的な特徴を外部に提示するモデルである。

 対してネィリのようなPIHLAはレイテントと呼ばれ、人間と見た目の区別をつけなくても良い一方、行動ログのトラッキングが途絶えると半強制的に機能が停止したり、オバートと比較して可能な行動の自由度が基本的に異なっている。

 起動している時はレイテントと人間の区別はつかないと言っても過言ではなく、これがレイテントの最大の特徴である。ネィリを人間と区別するほぼ唯一の外観的特徴が、スリープモード時の隆椎の発光なのだ。

「ネィリ、起きてるだろ」

「ん……、なぁに。ナナセ……」眠そうな声を作って応えるネィリを、俺はぎゅっと抱きしめる。力を込めると壊れてしまいそうな繊細な体から、人肌の温もりが積極的に伝えられる。ネィリを抱いているという感覚が、俺の心を暖かく満たしていく。

「眠れないの?」ネィリの胸に回した俺の腕に彼自身の小さな手が添えられ、優しくきゅっと掴まれた。

「……お前の背中見てたら、ムラムラしてきた」

「知ってる……。おちんちん、当たってるし……」

 寝返りを打つように俺の腕を解き、ネィリはこちらを向いた。薄手のシャツが捲れて、肌色の腹部がちらりと見える。微笑んだネィリが眠たげな目つきで俺を見つめると、ゆるりと腕を伸ばして俺の胴体の輪郭を確かめるように触れた。体の前面がくっつけば、必然的にお互いの股間も擦れ合う。

 ネィリは俺の背中に手を回すと、ぎゅっと体を押し当ててきた。これ以上ないほど硬くなった俺の逸物と、俺が揉みしだいたことによって硬度を増しつつあるネィリの小さなペニス。通常、PIHLAの外性器は冷却水の排出以外に使われることはないが、PIHLA自身の意志で勃起させることが可能だ。

 彼は擬似精液を補充していないので(そもそもその必要性がないので)、射精自体は不可能だが、それでも外見を変化させることによって「興奮を感じている」と人間に錯覚させることができる。

 布数枚を隔てて、裏筋同士がぐりぐりと押しつけられるその甘やかな感覚を感じながら、自分でも息が荒くなるのを悟る。ネィリを抱きしめ返す腕に力がこもり、伸ばした脚にも力が入る。彼の甘やかな愛撫を受け、夢と現の境目に引きずり込まれてゆく。

 すり、すり。すりりっ……♡

「ふふ……、んぁむっ♡」

 柔らかく微笑んだ彼が、こちらに顔を近づける。俺もわずかに顔を前に出し、お互いの花弁を触れ合わせた。ごく当たり前のことのように舌を潜り込ませ、唾液を交換する。口腔内の滑り、そして温もりを感じながら、人工の硬い歯の内側から顔を出した柔らかな舌を貪る。

 その間もネィリが緩やかに腰を前後に揺らしてくれるために、俺の感じる快楽は止まるところを知らない。ネィリが「提案」したのは、この時が初めてだった。

「ん、ぷぁ……♡ ……我慢できないなら、その……、してあげよっか?」伏し目がちに訊ねるネィリの視線の先には、硬くなった二つの竿がある。少女が穿くようなピンクのショートパンツの下に、不自然な膨らみがある事実を再確認する。

「……いいのか」

「う、うん。でもやったことないから、うまくできないかもだけど」

「やり方は、……分かるか」

「おてて使う、とか。お口でとか?」

「……手で、できるか」

「おててで上下に擦る。……うん。やってみる」

 俺は腰だけ浮かせて寝巻きを脱ぎ、ネィリは俺の下着をずらした。曝け出された股間の肉竿を目にしたネィリは、全く物怖じすることなくその場所に手を伸ばす。お互いの裸を何度も見ているのにも関わらず、行為の持つ特殊な意味を一度気にしてしまうと、どうしても気恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。

 僅かにしっとりとした、柔らかくて小さな手。真剣な表情を浮かべつつ、ネィリは俺に相対したままゆっくりとペニスを扱き始めた。

「あぁ……」

 口から喘ぎが漏れる。自慰行為で何度も握ったことがあるはずなのに、ネィリの小さな手で擦られるのはそれとは全く違う感覚を受けた。ネィリは滑らかな動作で竿に指を這わせ、先端から滲み出た先走りを絡めた手でにゅく、にゅくと肉茎を優しく揉みしだく。

 ほっそりした指先はカリの柔らかい部分をくりくりと弄り、扱き上げる度に親指の腹が亀頭をぬるりと撫でる。適度な握力で締め上げられたペニスは、かつてないほど硬くなっているのが自分でもよく分かる。

 しゅにっ。にゅち。しゅにっ。にゅちゅっ……。

「う、ぁ……」

「気持ちいい……? くすくす♡ ナナセ、顔トロトロになってる♡ ……ちゅっ。ふふっ。んん……♡ んむぅ……♡」

 丁寧に竿を擦りながら、ネィリは俺の唇に小さな舌をねじ込んでくる。ふわふわの唇と柔らかい指先で上と下を同時に攻められると、とてもではないが正常な思考をすることができない。天にも昇る心地になりながら、忍び込んできた彼の舌を欲望の赴くままにに吸う。

「一回出しちゃおっか。おててにいっぱい、びゅるびゅるって」二人きりの世界。内緒話をするように、美少年の顔が甘く囁く。理性が誘惑に負けそうになる。

「その、シーツ。汚したら、ダメだろ」

「大丈夫。明日休みだし、汚してもボクがすぐに洗濯しとくから」

「ネ、ネィリ……」

「ふふっ♡ いいよっ♡ ——いっぱい出してっ♡ ナナセがかっこよくイくとこ、ボクに見せて♡」

「うう……っ!」

 いつもは利発そうな輝きを湛える少年の瞳が、この時ばかりは慈愛に満ちていた。囁きかけるネィリの落ち着いた低い声音が、自発的な射精をおねだりしている事実に、俺はこれ以上耐えられなかった。

 どぷっ! びゅるるっ。びゅくっ、びゅうぅっ。

 ネィリの吐息を耳元で感じながら、俺は無様に腰を震わせて絶頂した。ドロドロの精液がネィリの手の中に受け止められる。ネィリの小さな手は肉竿の律動を宥めながら、手の動きを緩やかにして余韻に浸る時間を与えてくれる。

 こんなに出たら溢れちゃうよ、と笑いながら、ネィリは枕元のティッシュに手を伸ばして俺の陰茎の下に敷いた。そのままティッシュで手にこびりついた精液を拭い取ると、ネィリは俺の股間の方へと体を動かす。

「ご、ごめん。俺がやるよ」

「いいの。ボクがやりたいだけだから。お掃除もネィリ様にお任せあれ♡」ネィリは自分で言っておきながら照れ笑いを浮かべ、俺も釣られて笑った。そうは言われたものの、他人に自分の股間を触られるのは恥ずかしくて、つい目線を逸らしてしまう。そんな最中、陰茎に感じたのはざらついたティッシュの感触ではなく、全く別の柔らかい何かだった。

 驚いて目線を落とすと、ネィリが愛おしげに肉竿を見つめながら、何度も軽く口付けを施している光景があった。

「……ふふっ♡」いたずらをしている所を目撃された子供のように、ネィリはくすぐったそうな笑顔を浮かべる。その笑顔の意味を正しく解釈することができなくとも、間違って唇が陰茎の先端に触れてしまったことの照れ隠しではないことだけはよく分かった。

「ネィリ、ちょ、っと……」

「んー……? んふふっ。ナナセのおちんちん、ぴくぴくしてて可愛いなぁ……」

「ティッシュ、使ってくれよ」

「なんかね。ナナセのおちんちん見てたら、ぺろぺろしてみたくなっちゃって。ダメかな」

 ダメじゃ、ないけど。情けない声でそう答えることしかできない俺を尻目に、ネィリはペニスの先端を小さな口で唇で包み込むように挟む。時折伸ばしたヌルヌルの舌で亀頭を磨くように撫で摩りながら「ナナセ、これ好き?」と意地悪な問いかけをしてくる。

「んふふ。また元気になってきちゃったね」

「ネィリ、やめ……」

「ダメ。あと一回出してスッキリしないと。このまま放っておいて、そんな状態でボクが隣にいたらムラムラして眠れないでしょ?」

 お口でしてあげるね、と可愛らしく微笑むと、ネィリはぱくりと陰茎を咥え込んだ。どう見ても全部口の中に収めるのは無理があるが、ネィリはそれでも頑張って七割ほどを飲み込んでみせた。そして再び口の外に出し、ドロドロで温かな口腔内へと迎え入れることを繰り返す。献身的なネィリの奉仕は、快楽だけでなく俺に向ける愛情すら感じられるほどに甘い。

 咥えたペニスを頬の肉と舌とでゾリゾリと擦ったり、軽く吸引してみたり。時折口から全部出して、カリを重点的に舌先でくりくりと虐めたり。ネィリの多彩な攻めを受け、俺は目を白黒させるしかなかった。

「ネィリ、ヤバい……」

「出ちゃいそう? ……ん、いいよ♡」

 ネィリは簡潔な応答と共に、さも当然の如く再びペニスを舐り始めた。陰茎の先端を口に含んだまま、頭を軽く前後に揺すり続ける。

 喉奥は肉竿を先端にかけてきゅっと締め上げ、窄めた頬は根本から竿の中腹を優しく擦り上げる。女性の膣の感覚は知らないが、果たしてこれより気持ちが良い肉穴が存在するのかと思わされる。

「ネィリ、で、出る、離してくれっ……!」俺の制止を無視して、ネィリは激しいストロークで顔を上下に動かす。呻きにも似た小さな声を喉から漏らしながら、美少年の顔が一心不乱にペニスを舐めしゃぶる光景はあまりにも淫らだ。事実として自慰行為であるのは間違いないのだが、その機械が自律的に繰り出す攻めはおそらく性行為にも引けを取らない快楽を間違いなく与えてくれる。

「んっ、んっ、ん、んっ……」

「ネィリっ……!」

 小さな声でネィリを呼ぶが、全く意に介している様子のない彼は俺をフィニッシュまでまっすぐと導いてゆく。長い睫毛。蕩けた眼差し。口の端から漏れ出る唾液。ぷるぷるとした唇。柔らかな喉の粘膜。全てが俺の射精欲求を解放させるトリガーを引く。

 びゅるるるるるっ! ぶびゅっ! びゅるっ! びゅぷっ……。

「はぁっ、はぁっ……」

 息を荒くする俺とは対照的に、ネィリはペニスを深く咥え込んだまま喉の奥を嚥下するように動かしつつ、僅かな吸引も加えて尿道内に残った精液までも全て回収しようとする。

「んんっ、んく、んく。んちゅ、んん……、ぷはぁ♡」

 ネィリは唇に付着した粘液をぺろりと舐め取り、満足気なため息をついた。少なくともその反応は、この淫らな行為を楽しんで行なっているのだと俺に伝えるには十分すぎるほどだった。

「ふふっ。ムラムラ、治った?」口元をティッシュで上品に拭ったネィリは、俺の股間も丁寧に拭きながらそう尋ねてきた。

「あ、ああ……」

「良かった。……ナナセ、あのね。……ボク頑張ったから、ボクのお願いも聞いてほしいな」

 ネィリは潤ませた瞳をこちらに向けてくる。断る理由などないので、ネィリに続きを促すと、「また寝るまで、ナナセにぎゅっとしてていい?」なんて言葉が飛んできた。あまりの愛らしさに頬が熱くなるのを悟られないように、俺は後ろを向く。

「う、うん。ネィリの好きなようにしていいから……」

「ありがと。んぅ……♡ ナナセの匂いだぁ……」

 背中に当たる、平らな胸板の感触。最初の仕返しとばかりに、今度はネィリの股間の膨らみが俺の尻に押し付けられる。

 ネィリは俺の髪に鼻を埋めながら、腹に腕を絡み付けてきた。心音の代わりに体に伝わる内部機構の唸り。規則正しい擬似的な鼻呼吸、そしてそれに合わせて上下に動く胸部。ネィリと何度か同衾してきたものの、それらは最初から全て自然なものとして受け入れられた。

 ——ボク、うまくできてたかな。

 頭の後ろで行われる満足度調査。気持ちよかったよと返すと、ネィリはその嬉しさを反映するように抱きしめる腕に力を込めた。「ネィリらしさ」を追求する彼は、ごく自然な導入で霧雨ネィリと自分との違いを周囲の人間に尋ね、人間からのフィードバックを受けて修正を施す。

 俺は生前のネィリと性行為をしたことがないから、ネィリ本人がこういった行為に対してどのような印象を抱いていたのかは全く知らない。そしてそれを実行に移した時、どれほど上手くできるかも当然知りようがない。ただ、まず間違いなく、今のネィリの方が上手にできることは間違い無い事実だ。

 それでも、初めてとは思えないほど上手な性技を披露してみせた彼にケチをつける理由は無かった。今のネィリは性に対して貪欲で、俺との行為を躊躇いなく行うパーソナリティを持っている。その認識で俺にとっては十分だった。これは無責任な事実の歪曲なのだろうか。

 真っ直ぐに向けられる好意が嬉しかった。それが本人の実体験に裏打ちされたものではなく、過去の事実から推定される定量的な値であっても。むしろそちらの方が、俺にとっては安心感すら与えてくれるものだった。今も昔も、後ろにいる幼なじみが何を考えているのかは正確には分からないからこそ。


          ◆


 ネィリは高校で茶道部に入った。伝聞の形にせず「入った」と言い切れるのは、実際に彼の活動を何度か見たことがあるからで、アイツを迎えに行ったりすると、他の部員たちと和気藹々と楽しんでいる様子を伺うことができた。学園祭の出し物なんかで、各部活動がそれぞれ何か催し物を用意したりするのだが、俺はネィリに必ず誘われたので茶道部に顔を出さねばならなかった。

 二階の作法室というところで彼らは活動していて、これがまた高校らしからぬしっかりとした茶室で、そんな空間と全く縁のない俺にとっては物珍しい場所に足を踏み入れる唯一の機会だ。二年生になった今でも、ここに立ち寄ったのは後にも先にも去年の学園祭だけだった。

 午後二時を少し過ぎ、茶室に向かう道中の廊下は、学外の参加者や宣伝の看板を持った人間などでごった返していた。作法室の前には「お休み処」と毛筆で書かれた木製の看板が設置されていて、座る場所を求めてやってきた人たちが多いのか、既に順番待ちの列ができていた。

「こんにちは。お一人様ですか……、って。えーと、ネィリさんのお友達ですよね」

 並んでいる人数を確認しにきたらしい赤い浴衣の少女が、俺の顔を見てネィリの名前を挙げた。おそらく茶道部員なのだろう。俺も良く顔は覚えていないが、記憶にある部員の一人とおぼろげながら似ているような気がした。青い上履きを履いていたような気がするから、俺よりも一学年下の子なのだろうと予想した。

「あ、はい。ネィリに誘われて。……います?」

「シフト入ってるのでいると思うんですけど、もしかしたらバックヤードかも。お茶碗洗ったりお茶菓子の準備とか」

「そうですか。しばらく待ちます」

「それまでお話ししましょうか。時間潰しってか、一人でいるのも居心地悪いでしょうし。回転が悪くなるから〜って一通り終わったお客さんをすぐ帰らせようとする怖いおば、じゃない、お姉さんもいますし」

 少女はそう言って俺の隣に寄ってきた。特に彼女と親しくもなく、知らない人間とも進んで会話を広げるタチでもない性格なので、俺は作法室の入り口付近に置かれたパンフレットやらを遠くから眺めていた。茶道部の活動内容などが簡潔に書かれた緑色の色紙に書かれた文字には見覚えがあった。

「……気になります? あっ、ご自由にどうぞ?」少女はそんなふうに言ってカゴから一部取り、俺に押し付けてくる。取る気がないから遠くから眺めているだけだという言い訳は通用しないらしい。俺はありがたく受け取って、「ネィリが作りました? これ」なんて質問する。

「お、よく分かりましたね。ネィリさんと、私と。あと他に部員二人がせっせと作りましたよ〜」

 字ですか? と訊かれた俺は軽く頷いた。彼女は感心したようにため息をついてみせた。

「ネィリさんってお人形さんみたいに可愛いし、声ちっちゃいし、女子でも選ばないピンクのふくさ使ってるのにめっちゃ似合ってるし、何しても女の子みたいになっちゃって可愛いですよね。女子力高すぎて嫉妬モノですよ」

 いちいち大袈裟な手振りを交えながら彼女は呆れたような顔をする。髪を両サイドで結った背の低い彼女も、女の子らしい記号をたくさん身につけていていかにも女子だなあと思ったが、確かにネィリも振る舞いや仕草は完全に女性だからそう言われるのも無理はないと感じた。

「しかも茶道部、今男子一人ですし。余計目立ちますよ。そうだ、先輩は何部ですか? あ、待ってください。……陸上部!」

「いや……」

「じゃあ剣道部だ」

「その心は」

「ちょっと筋肉ついてるし、めっちゃ姿勢がいいので。どうでしょうか」

「なんだそりゃ。……違いますけど。そもそも部活入ってないんですけど……」

「え、マジ。そっかぁ〜……、まあ実際はそんなにチャラチャラしてなさそうだからって理由でそういう部活言ってみたんですけど。バドミントンとかサッカーとかは違いそうですし」

「中学はバド部でした。あと去年一年間は美術部に」

「え! めっちゃ意外〜。そうなんですね。せっかくだしインドア系繋がりで茶道部、どうですか? 部活やってないなら是非」

「高二の六月に新たな部活に入るほどフットワーク軽くないですよ」

「え〜? でもネィリさんもいるじゃないですかぁ」

「自分の友達が入ってる部活に入るってなったら、体がいくつあっても足りないですよ。申し訳ないですけど、遠慮します」

「……やっぱり仲良しだと似るのかな」

「はい?」

 彼女が突然声を低くして解せない発言をしたので、俺は反射的に尋ねた。彼女は少し言い淀むようにして、気を悪くしないで欲しいんですけど、と前置きをした上で話し始めた。

「いや、なんか逃げ方がネィリさん思い出しちゃって。ネィリさんってあなたのこと全然話してくれないんですよ〜。何か聞き出そうとすると『そんなに仲良くないから分かんないよ』とか言っちゃって。お迎えにくる同級生と仲良くない訳ないのに。上手くかわされちゃうんですよね」

「……俺もネィリのことよく知らないよ。ただの友達」誤魔化したつもりだったが、彼女には意味あり気な間を持たせて頷かれてしまう。

「まあいいや。でもマジでお待ちしてますよ。男子部員少ないですし。毎週金曜日の放課後に活動してます。お茶もお菓子もご用意しております」

「はは……。すごいセールス精神だ」

「貴重な部員ゲットのチャンスなので。……っと、はーい!」

 作法室の入り口には俺と同学年の女子生徒が立っており、こちらも浴衣を身につけていた。油を売っていた少女を呼びつけ、どうやら仕事の続きをさせようとしているようだった。当の少女もバツが悪そうにはにかんでいた。

「呼ばれちゃいましたね。ネィリさんもそろそろ来るとは思うので、しばしお待ちを。できたらついでに呼んできちゃいますね」

 一人になるのを避けるために気を遣ってくれたのかもしれない、と好意的に解釈し、俺は前を向いた。立ち話をしている間に前に並ぶ人もいなくなっており、まもなく店内に案内されるというところまで来ていた。

「ナナセ」

 真後ろから突然自分の名前を呼びかけられ、流石に体が跳ねた。聞き覚えのある少年の声の正体を確かめるために後ろを振り返ると、鮮やかな浅葱色の浴衣に身を包んだネィリがそこには立っていた。

「待たせてごめんね。お話、楽しかった?」あからさまな作り笑いをしながら、ネィリはそう尋ねてきた。目は口ほどにものを言うとはこのことかと思いながら、俺は誤魔化すように、しかし正直に答えた。

「いや、その……。ネィリが来るまで付き合ってもらってただけで」

「あ、そ。まあいいや」

「……怖い顔すんなって。ただ世間話してただけだから」

「ぷふっ。嘘。冗談だよ。意地悪してごめんね?」ネィリは屈託のない笑顔を改めてこちらに向ける。

「来てくれてありがと。短い時間だけど、楽しんでいってくれたら嬉しいな」殊勝なことを言ってくれたネィリに、俺は意図せずとも口角が上がってしまうのがよく分かった。結局、ネィリが手ずから立ててくれた薄茶と、可愛らしい花のような練り切りをいただき、少しだけ話をした。

 退席しようとした俺を、ネィリの「待って」の声が呼び止めた。

 ——約束、覚えてる?

「……今日も泊まり、だよな」ネィリが以前から空けておいてほしいと言っていた今日は、ネィリの親が二人とも帰ってこない夜だった。当然何らかの期待をしていたが、それをあからさまに口に出すのは憚られた。

 ネィリの顔が近づく。色素の薄い髪に付着した甘い香りが鼻をくすぐる。

「今夜、ボクの家で待ってる。いっぱい準備しとくからね」耳元で囁いた彼の吐息には、学校という場には似つかわしくない、艶かしい響きが込められていた。


          ◆


 風呂から上がった俺はネィリの部屋で敷布団の準備をしていた。寝るためというのはもちろんあったが、ネィリの家に招かれる時はほとんど毎回ネィリと体を重ねるようになっていたから、そういう理由も無いわけではない。

 赤ワインをモチーフにしたような小さなリードディフューザー。ネィリがお気に入りだと話していたヘアコロン。充電中のタブレット端末。グレーのリュック。布団の上でぼんやりとネィリの部屋を眺めると、ドアをノックする軽い音がした。

「ネィリ——」振り返った俺の声はネィリの唇で封じられた。

「んんっ……、ぢゅるっ。ちゅぱっ、んむぅ……♡ ふふっ。ただいま、ナナセ」

 そのままネィリは俺を布団まで押し倒すと、俺に馬乗りになってぎゅっと抱きついてきた。月明かりに照らされた銀色の髪の下に、捉えた獲物を逃さない捕食者の目つきがある。ペットボトル一本分の身長差があるにも関わらず、俺と同じくらいの重さが腹にのしかかる。

「ネィリ!?」

「んん〜……っ! ナナセ……」ネィリは腕を絡み付け、これでもかと言わんばかりにその小さな体を密着させてくる。動物が寂しさを紛らわすように、ネィリは俺の胸板に頬をすりすりと擦り付けた。

「あのね。ナナセには、ボクだけ見ていてほしいんだ。だから、今日はいっぱい、ナナセがボクだけを見ていてくれるようにしたい。そのためには、たくさんナナセに気持ち良くなってもらって、ボクといて幸せだなぁって思ってもらわなきゃ。ふふっ。ボク以外じゃ満足できないようにしてあげる♡」

「ネィリ、離してくれ」

「ヤダ。……ねぇナナセ、ボクのこと嫌い? それともボク、何か間違えちゃったかな」

 違う。俺は——

「逃げちゃだーめ♡ ナナセはボクの、ボクだけのものなんだから」

 ネィリは俺の手首をがっしりと掴む。その細腕からは全く想像もできない力で。男にしては少し長い髪がはらりと肩を流れ落ち、美少年の顔が俺を見つめて離さない。

「ネィリ、落ち着け。俺はどこにも逃げたりしないから」

「今日ね、ナナセが女の子と楽しそうにお話ししているの見てさ。普段ナナセって女の子とお話しないし、なんか新鮮だったんだ。もちろんナナセがあの子と大したお話してないってのは知ってるんだよ。知ってるんだけど、それ見てたら胸がきゅうって苦しくなってね。どうしようどうしようって頭がぐるぐるして、すぐにおうち帰ってきて」

「全然治らないし。しょうがないからどうしようかなって考えてたら、おちんちん擦ればいいじゃんってなって。すぐお家にかえってさ、ナナセのこと考えながらおちんちん擦るとすっごく気持ち良くて! 気付いたら二時間くらいおちんちん擦り続けちゃってた。ね、すごいね。おちんちん擦ると悩みなんか忘れられちゃうんだ」

 ナナセらしくないテンションの高さに俺は圧倒されてしまう。それに短絡的な思考が少しだけ気に入らなかった。PIHLAが快楽を得るメカニズムは知らないが、彼はずっとオナニーの真似事をしてストレス発散していたらしい。俺が他の女の子と喋っているだけでネィリが嫉妬するのか? そしてここまで独占欲を発露させるのか? それを忘れるために自慰に耽るのか?

 ——俺の好きなネィリは、そんな短絡的な思考をするのか?

「ネィリ、落ち着いてくれ。オナニーしたら悩みを忘れるんじゃなくて、一時的に見えなくなるだけだ。根本的な問題の解決になってないだろ。昔さ、光合成の話をしただろ。日記に書いてなかったか。前提と結果をそのまま結びつけるんじゃなくて、その間に——」

「光合成? ん……と、覚えてないなぁ」

「え……」俺は血の気が引いた。あんなに「すごい」と言ってくれたのに、日記に一言も残していないのか。ふと俺は思い出す。

 ——バックアップが取れてなかったのか、途中のログがしばらく……二ヶ月分くらい消えちゃってたけど。

「ネィリ、日記のログが残っていなかったのは小学六年生の四月前後か」

「あ、うん。多分。えーと……いつだったっけ。多分六年生の四月から五月、くらいだった気がするけど。でもどうして? その光合成のことと、何か関係があるの?」

「そ、その。光合成の話で、ネィリは勉強を頑張れるようになったんだ。だから、それは……」

 ——ネィリと俺の、大切な思い出なんだ。そう言いかけたが、言葉が出なかった。そもそも俺が間違っていたのだ。コイツはネィリじゃないし、コイツにネィリを重ねること自体が違う。コイツは俺を、夢の時間の中に閉じ込めておくための舞台装置なのだから。だから俺が、間違っているんだ。多分。「この」ネィリは光合成の話を忘れているネィリだ。……クソ、そんなことで納得できるわけないだろ。

 彼と自分を結んでいた太い糸が途切れ、俺だけが真っ逆さまに落ちていくような感覚を覚える。俺たちの関係を作っていたキーストーンが既に無くなっていたことに気づいた瞬間に、目の前のネィリはネィリのような何かにしか見えなくなってしまった。しかしネィリとして生きる役目を与えられた彼を、俺はネィリとして扱わなければならない。幸せな夢の続きを見せ続けてくれる機械の電源を、自分から切るなんて一体誰ができるんだ?

「そうなんだ。えへへ……、やっぱりナナセってすごいね。ボクが変われるきっかけを作ってくれたなんて。……うん。もう忘れないよ」ネィリの声でそう呟く。外部ストレージのデカくて黒い箱にその記録は保持され、少なくとも三つの場所にバックアップが取られる。それがシカゴの都市郊外型データセンターにあるのか、ロシアの冷たい湖の底に沈んでいるのか、もはや俺の知ったことじゃない。

「ネィリ……」

「そんなことよりさ、ボクもう待ち切れないんだ。ほら、ここ」ネィリは股間を指差す。テントを張ったその場所が、まるで血液が送られていくようにひく、ひくとわずかに震えながら大きくなりつつある。

「ナナセにいっぱい愛してもらえると思って、期待が押さえきれなくて。お尻の穴、使ってほしいな。……キミを受け入れるためだけにあるんだよ。これから先もずっと、キミだけがボクの大切な場所を独り占めだ」

「いっぱい、ナナセのおっきいおちんちんでずんっ、ずんって突いて、ボクをイかせて? いいって言ってくれるまで、ボク離さないから」大きな瞳を潤ませておねだりするネィリに、逆らえるわけがなかった。

「……分かった。今日はごめんな」

「ううん。いいよ。いっぱい、ボクで気持ちよくなってね」

 俺と同じようにネィリは服を脱いでゆく。一枚一枚丁寧に。かつてのネィリは確かに几帳面な性格をしていたが、今ではそれはもはや几帳面の一言では片付けられないほどに整っている。そしてシャツの下には、見慣れない紫色が見えた。

「おまっ、それ……」

「ふふっ。ナナセが喜んでくれると思って。お小遣い貯めて買っちゃった♡」

 ネィリが身につけていたのは、光沢のある布のランジェリーだった。サテンという素材なのだろうと想像がつくその布地は、淫靡な照りを放ちながら俺を誘っている。ネィリは動けない俺を尻目にスラックスにも手をかけ、するりと脱ぎ捨てる。丈の極めて短いワンピースのような、そんな淫猥な布を、ネィリは細い指で裾をつまんでぴらりとめくってこちらに股間を見せつける。男性器を覆い隠すことを想定されていない布面積のショーツは、張り詰めた内側の存在によって盛り上がり、先端から垂れ流される人工の粘液によって濃い色のシミを作っている。

「あはっ♡ ナナセ、ちょっと顔が怖くなってるよ。そんなに喜んでくれるなんて思わなかった。嬉しいなぁ……♡」

 明らかに女性用の下着なのにも関わらず、その下には未成熟の陰茎が存在していて、しかもそれが俺との交合を待ち望んで固く張り詰めている。裸になった俺の股座に向き合って乗るようにして抱きつくネィリは、いつもよりほんの少しだけ体温が高い。

「んぁ……、くすくす♡ おちんちん擦れて声出ちゃった」

 カウパーをダラダラと垂れ流すネィリの小さなペニスは、その二倍弱ほどの長さの俺のモノにぴったりとくっつき、上下にすりすりと動く。俺はネィリの尻を支え、ネィリもそれに従うように腰をヘコヘコと動かす。唾液を交換しつつ、尖った乳首を擦り合わせながら、間違いなく性感を高めてゆく。

「にゅむっ。ん、ぷぁ。はむっ、ちゅ。ふふ……」

 ネィリは悪戯っぽく微笑みながら、さらにぎゅっと抱きついて腰の動きを少しずつ早めていく。ネィリの柔らかな太ももが根本から肉竿を締め付けて固定してくれる。カリの段差が擦れる時間間隔が短くなり、滑りを増したお互いの竿の接合部分から、にちゅにちゅと淫らな音が聞こえる。

「ネ、ネィリっ、もう、俺っ……」

「いいよ。ボクのお腹に向けて、いっぱい出して?」ネィリは甘く微笑むと、太ももにこめる力を一層強くして、左右からスリスリと撫であげてくれる。お互いに舌を絡めあい、陰茎を擦り付け合うだけでどうしてこんなにも気持ちが良いのか。

 夢のような心地で俺は射精した。ネィリの腰技であっけなくイかされて。「いっぱい出たね」と耳元で囁いたネィリは、自分の腹にかかった俺の精液をティッシュで綺麗にした。

 ネィリはそのまま後ろを向き、四つん這いの姿勢を取る。尻たぶを左手で広げると、人間と全く同じようにシワが形成された尻穴がそこにはあった。ネィリはその場所に釘付けになっている俺を見て蠱惑的な笑みを浮かべる。左手の人差し指を口元へ運び、人工唾液をねっとりと絡めると、その指を再び自らの臀部へと移動させる。

「ふふっ……♡」

 ネィリはヌメりを帯びた指を尻穴に入れてみせた。俺にこうして欲しいと言わんばかりに、尻穴はネィリの指を受け入れるときゅうぅ……っと収縮した。性交のためだけに形作られたその部位は、待ちきれないとばかりにダラダラと腸液のようなローションを垂れ流し、それがネィリの小さな睾丸のところまで流れ落ちていた。

 ヒクヒクと震えるネィリの穴は、俺のモノを入れるには小さいような気がして、少しだけ心理的に抵抗を感じた。肉竿に手を添えただけでなかなか動き出さない俺を見て、ネコのような姿勢を取ったネィリは俺を誘うようにふりふりと腰をくねらせた。

「大丈夫だよ。トロトロであったかくなるように、準備しといたから。女の子のよりふわふわで、きゅって吸い付くから、絶対気持ちいいよ」

 生唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえる気がする。俺は勇気を出して、肉棒の先端をネィリの肛門に押し当てた。

「ね、ナナセ……♡ 入れて……♡」

 ネィリは尻穴に込めた力を緩ませる。亀頭が凹みにめり込んでいく。濡れそぼった小さな穴が、肉茎の先端をぱくりと咥え、俺を引き摺り込もうとしてくる。

「んんっ……ぁ、ふぁ……、入ってくる……♡」

 柔らかな腸壁は潤沢なローションで滑りを帯びており、腰を前に動かすのに余計な力は必要なかった。ヌルヌルとしたネィリの内側にペニスが吸い込まれ、四方八方からきゅんきゅんと締め上げてくる肉壁に根元まで飲み込まれた。俺の体で押しつぶされそうになっているネィリを見下ろす。真っ白な首筋、美しく隆起した肩甲骨、そして薄く肉のついたネィリの肢体が俺の思考を支配し、それ以外のことが頭から全て抜け落ちる。

 初めてのアナルセックスは、想像を絶する気持ちよさだった。腰を動かすたびにぐにぐにと腸壁が動き、肉竿を甘く締め付けてくる。温かい穴に陰茎を突っ込んで揉みしだいてもらうだけで、人間は簡単に理性を手放してしまう。俺は繋がったまま後ろからネィリを抱きしめ、狂ったように髪の匂いを嗅いだ。甘く爽やかな香りのするネィリの頭皮に鼻を埋めると、ネィリの肉体も可愛がられているのを嬉しく思うかのようにペニスをより一層激しくきゅうっと締め付けた。

「んぁっ♡ あっ♡ ナナセっ♡ もっと♡ もっとしてっ♡」

 腰を打ち付けるたび、ネィリのいきり立ったペニスが、そして張り詰めた睾丸が揺れる感覚が俺の下腹部に伝わってくる。女の子のように丸くて小さな尻が、俺の欲望を全て受け止めてくれる。盛った獣のように無遠慮なセックスをしても、ネィリの体は俺を優しく迎え入れてくれた。

「いっ、イクっ! イっちゃうぅっ♡ ナナセっ、ナナセっ♡ あぁああっ!」

 ネィリの四肢に力が入り、彼は甘い嬌声を上げながらビクビクと体を震わせた。尻穴がきゅうきゅうと肉竿を締め付け、俺も絶頂に至る。ネィリの小さなペニスの先からは白濁が漏れ出て、シーツを乳白色で染めていた。この疑似精液はおそらく無味無臭だ。俺に合わせて適切なタイミングで放出され、この幸せな時間を演出するためだけに用いられる。

「んあぁ、はぁっ、はぁっ……」

 肩で息をするネィリを抱きしめると、ネィリの熱が体に伝わってくる。ねっとりと吸い付いてくる肉壁は波打つように動き、射精直後のペニスを優しく癒してくれる。

「はぁっ……、ふふっ……♡ ナナセぇ……♡♡」

 微笑むネィリの顔をしたネィリではない別人を見て思う。ネィリの紛い物と愛し合う俺は、一体誰なのだろう。このネィリがネィリではないと知る人間以外にとってはネィリは人間のままで、俺だけがネィリではない何者かと交流していると認識している。麻酔にかけられていたのは俺ではなく、俺以外の人間だったのだ。俺だけがネィリの死を認知し、鏡の中の世界から現実に戻ることができていない。

 彼の言動は生前のものと変わらない。というより、この時期まで彼は生きていないから比較のしようがない。それでも彼は十分すぎるほどに霧雨ネィリとしての役目を果たしていた。絶対にボロは出さないように立ち回り、霧雨ネィリが存命であると俺以外の人間に錯覚させ続ける。霧雨ネィリが人生の一部になっている俺は、機械によって深い水の中へと突き落とされ、ネィリとネィリではないものの境界線を見せつけられるたびに水面に無理やり上げられて目を覚ませられ、呼吸を強いられる。ネィリの死を一生知らない人生と今の人生の境目に戻ることはできないし、どちらが幸せかと言われてもそれはすぐに答えの出るものではない。

 きっとあの時、お節介な俺がプリントを手渡したのが全ての始まりだったのだろう。全てを自分以外のせいにすることは簡単だが、その引き金は絶対に自分自身が引いている。

「ごめん。……ネィリ」

「ん? どうしたの?」

 ——“What do you do from morning to night?"

 魔法を解く呪文を唱えると、ネィリの目が見開く。体内でカチカチと音が聞こえる。それが終わって再び静寂が訪れると、ネィリの形をした物は答える。"I endure myself."

 霧雨ネィリのような何かは機械的な動作で肛門からぐぷりとペニスを引き抜き、代わりに俺の陰茎を口で咥えて洗浄を開始した。これは道具だ。機械だ。俺の声一つで切り替え可能な玩具だ。かつて親友だった存在は虚ろな目をして俺の肉竿を舐め、淡々と後片付けをする。

「光合成の話は忘れろ。……全部、俺の勘違いだったから」

「かしこまりました」

 俺はもう、彼を霧雨ネィリとして見ることができない。それでも、ずっと側にいてくれる彼を自ら手放すことはできないし、彼に与える記号は霧雨ネィリしか考えられない。現実に抗うための手段は、臆病な俺にはこれしか残されていなかった。

 簡易洗浄から帰ってきた彼は、相変わらず無表情だった。青白い月明かりに照らされた彼の顔は、大理石で出来た彫像のように滑らかな艶を帯びている。僅かに開いた唇は、夜露で濡れたように魅惑的な潤いを備えていた。

 彼はゆっくりと布団に潜り込んだ。外部からの入力待ちになり、規則的な時間間隔で瞬きを繰り返す彼に、俺は胸を曝け出すように要求した。

 何の変哲もない下着をめくり上げると、桃色の点が薄い胸板の上に二つ載っている。甘えさせてくれ、と俺は要求した。彼は文脈に則して正しく解釈し、極めて有機的な動きでその胸を俺の口元に近づけた。僅かに硬さを増したその場所に、俺は舌先を伸ばす。

 彼は俺の背中に優しく腕を巻きつけ、体をぐいと引き寄せる。もう片方の手で俺の頭を撫でながら、好きなように乳を吸う姿勢を作ってくれる。俺はそれに従い、平らな胸に備わった突起を口に含んで、舐め回して、吸った。

 「霧雨ネィリ」はこの行動を感知しない。何かしらの捏造された記憶を植え付けられ、それすらも記憶の片隅へと速やかに追いやられる。少年型の機械の胸をまるで赤ん坊のように吸って安堵に浸る俺のことなど、これ以外誰も知らないし見ていない。俺はそのまま、深い眠りへと落ちていった。


           ◆


 夕方の教室には二人だけが残っている。僅かに開いた窓から秋の乾いた風が忍びこみ、陽が傾きかけた空に浮かぶ雲すら茜色の絵の具を吸ったような色をしている。

「ナナセ、ここのセル違うよ。書き換え規則ちゃんと見て」前の椅子に逆向きに座るネィリから鋭い指摘が飛んでくる。

 ネィリはスマートグラスをかけていて、家でくつろいでいる姿よりも幾分賢く見える。教室の中で伊達眼鏡やカラーコンタクトをするのは、単純に人工虹彩の不自然な挙動をカモフラージュするためだと、いつだか彼が話していた。

「ん……、あ。本当だ」スタイラスペンで書き損じを消し、正しく書き直したのを確認すると、ネィリは満足げな吐息を漏らした。

「CYK法、あの先生好きだからまた出るよ?」

「人力でやるもんじゃないだろこれ……。すまんなネィリ、付き合ってもらっちゃって」

「いいのいいの。ナナセが教えてくれって泣きついてくるから、どれだけ酷いかって少し心配になったけど。これなら大丈夫そうだね。自然言語処理概論で赤点取るナナセ、ボク見たくないよ」

「ネィリも現国IIの評論なんとかしろよ。論述で前みたいに大バツ食らって『何言ってるか分かりません』って書かれないようにな」

「うぐ……、あのねナナセ。教えてくれた人の弱みにつけ込んでそういうこと言うの良くないよ。嫌われちゃうよ?」

 窓から外を見ると、グラウンドで野球部がノックをしたり、俺のよく知らない部活がランニングをしたりしている姿があった。ネィリは横に立って艶やかな髪を風に靡かせ、夕日に頬を染めていた。目が合う。「帰ろっか」の合図で、二人は荷物を纏める。

「期末終わったら打ち上げしよっか。またナナセの家行っていい?」

「ネィリの家の方が都合良くないか? 俺ん家だと色々困ったり都合悪いことも多いだろ」

「いつもナナセに来てもらってばっかだと悪いじゃん。あと、……ほら。ご両親に挨拶」

「バカ。それは前も同じこと言ってただろがよ」

「挨拶は何回もしないとね。ほら、アレだよ。あの……三顧の礼ってやつ」

「ツッコミ待ちなのかは知らんけど、三顧の礼は目上の人間が目下の人間に礼儀を尽くすみたいなやつだぞ」

「知ってるし。ナナセがちゃんと分かってるか試しただけ」ネィリは唇を尖らせる。

「とにかく、俺の家来てもいいけど。その、暴れんなよ」

「分かってるって。ちゅー、まででしょ?」

「前も『ちゅーまで』っつって二回手で抜かれたけどな」

「ナナセが可愛いのが悪いよ」

 いじらしくなった俺はネィリの手を握ろうとする。しかしネィリの手はするりと逃げていく。「学校だよ?」ネィリはそう囁いて微笑んだ。学校ではネィリのガードは鉄壁だ。手をつなぐことはおろか体に触るのも許されない。

「今日は病院だっけ」誰もいない廊下で、ネィリは俺の顔を見ずにそう尋ねた。

「そうそう。……なんで?」

「いや。ボクもちょっと病院寄ってくから。お母さんのお迎え」

「あー、なるほど」

「そっちはどう?」

「ようやく薬断ちできるってさ。長かったなぁ」

「二年くらいずっと飲んできたんだっけ。でもよくがんばったね」

「昼間クソ眠くなるのともようやくおさらばだよ」

 ネィリの母は経過が良好で、あと一年ほどで寛解するという見通しが経っていると聞いた。すなわち俺が高校を卒業する頃には、ネィリの役目も終わるということだった。段階的にネィリと距離を置き、PIHLAを用いたセラピーから投薬による処置へと移行するとのことだ。

 ではネィリはどうなるのか。俺はネィリの両親と相談し、卒業後にPIHLAのボディと記憶データの所有権を譲渡してもらうことになった。つまり一年後には、俺がネィリの正式な所有者になるということだ。ネィリの後押しもあり、話は滞りなくまとまった。

 これが正しい選択なのかは分からない。よく考えてみればおかしな話だ。ネィリが本当に俺の恋人になり、卒業後も家族以外の人間に自分を受け継ぐことを奨励するなんて話は、結局のところは真に治療が必要なのは俺だということの証左なのではないだろうか。

 ネィリは一度もそんな素振りを見せたことがないし、これも俺の勝手な妄想に過ぎない。しかし人の所有物で勝手に射精しようがアナルセックスしようが構わなかったのは、将来的にネィリが俺の所有物になるという宿命を暗示しているような気がしてならなかった。それが良いか悪いかの絶対的な判断基準は、俺やネィリではなくネィリの親にあったが、所有者の目が届かない所での未知の事象に対する判断は全てネィリが行うことだから、ネィリは選択的に俺に股を開いたということになる。結果的に、俺は自分からネィリを手放さない限り、死ぬまでネィリと添い遂げることになった。

「どうしたの?」ネィリは俺の顔を覗き込むように話しかけてくる。結局のところ、ネィリの死を受け入れられていないのは、この世で俺一人だけなのだ。詮無い思考をごまかすようにネィリの髪をわしゃわしゃと撫でつけると、ネィリは可愛らしい悲鳴を上げて俺の手から逃れようとする。この胸に渦巻く「愛おしい」という感情を、俺はどこへ持っていけば良いのだろうか。

 きっとこれから、ネィリとの関係性は変化していく。俺の体はネィリと違って不可逆的な変化しかできない。ずっと友達でも、恋人でもいられる訳ではないと分かっている。しかし少なくとも今だけは、この暖かなロスタイムに身を委ねていたい。永遠に揺蕩うことが許されていなくても、それを甘受できるギリギリまでは、ネィリと愛し合っていたい。ネィリの時間は、二年前のあの時から止まり続けている。そして俺も、あの時に自分を置き去りにしたままだ。

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