車輪の再発明について (Pixiv Fanbox)
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これについて書いていきます。
これは難しいですね。
自分はよく「やる側」だと思っています。
便利なアセットが既にあるのに、自分で作りたくなってしまう。
フリーのモデルが既にあるのに、自分で作ったモデルじゃないと使う気にならない。
そういう心理がすごいあります。
この辺の行為も、 ある意味、車輪の再発明に近いかと思います。
でもどうしてもやってしまいます。 (あとでまだまだ語れる)
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そうじゃなくて普通に、「発明」という点で言うなら、
自分が自分で思いついたと思っている色々なアイディア、ノウハウなんかも、
結構、車輪の再発明だったりするんだろうなぁと思っています。
どうなのでしょうね。
「自分が発明したと思っているモノ」、いくつかありますが。
例えば、 こういうドット絵の歯車は、たった一枚の画像でも、上下左右に回転させるだけで
4フレームの回転アニメになる、というのは、結構な発明だと思っています。
これ、自分で発明したと思ってるんですよ。
これがまさに車輪の再発明だったら嫌だなぁ、みたいなことは考えたことがありますね。
自分が自分で思いついたと思っているアイディアの中で、 自分で一位の物は、
「センス距離レビューサイト」のコンセプトだったりはします。
どうなのでしょうね。
似たようなアルゴリズムが他所で普通に走ってるなんてことは調べたらありそうで怖いです。
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今やっていることで言えば、
「オールインワン・テクスチャ」の発想、 あれなんかは必然的だし、
「既にあって当然」だとさえ思ってるのですが、どうなのでしょうね。
一応それとなく探しても、同じようなことをやってるのは見なかった気がします。
みんな、武器のアセット作ったり配布するときは、UV展開して、
まいどまいどバカ正直に独自のテクスチャセットを作って配布している感じがあります。
そこんのところの発想を逆転させたい、というのがありました。
ある意味、 「活版印刷」の発明に近い発想かと思います。
もしもオールインワンテクスチャが車輪の再発明だとしたら、 まぁ悔しいのと嬉しいの、両方ありますね。
実際どうなってるのでしょうね。
ダークソウルみたいに、武器が山程出てくるゲームの中で、
テクスチャをどう作って使っているのか参考に出来たら、なにか見えてくるような予感があります。
全部個別に別れてるのでしょうかね?
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「車輪の再発明」の本質の一つには、 無知・愚かさ・無教養 というのがあるかと思います。
知らないから、 同じことをもっかい作り出してしまう。
歴史に学ばない、
無駄だなぁ、ということです。
自分的にはプログラムでやってそうだなぁと思ってしまいます。
もっと便利な関数があるのに、知らないから、自分で関数作っちゃう、
そんなのはメソッド一発なのに、知らないから、自分で作っちゃう、
なんかあるんだろうなぁと思います。
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この際だから、
自分の中の「自分で全部作りたい病」について、なんか考えてもみたいのですけどね。
なんでこう、いちいち、自分で作ったやつじゃないと使いたくないのか、と。
実際、自分もそうですが、自分以外でもそういう人はいます。 どこでも。
どんだけヘボくても、自分で作ったものを使いたくなっちゃうのですね。
もっといいものがタダで転がっていても、自分でゼロから作りたくなる。
こりゃなんなのか?
自分は、過去に 「自給自足」とか「自立」とかを全否定したことがあります。
ああいうのは、自己実現のように見せかけて、実は無駄なだけだという趣旨です。
その中で、家庭菜園の無駄さ、自給自足に憧れる事の無駄さ についても語りました。
・・・
そういうことが分かっている筈なのに、
結局自分でも、ある種「似たようなこと」をやってしまっているのですね。
まぁ一応、
野菜や料理はクリエイティブではないと、自分は考えていますが。
(料理がクリエイティブになるとすれば、「新レシピ」を生み出すときだけです、という調子)
食べたらなくなるモノ、再利用の使用がないモノ、
何度作っても大差無いモノ、
そういうモノの一回一回を、効率も考えずに作って、自分で作ることを有難がるのは、無駄であると。
自分で食べる分の食料を自分で作ることに憧れるの、やめろ!と。
大量生産の重要さと素晴らしさに逆に気づけ!ということではあります。
それでもやってしまう。
創作物を全て自分で作ったもので固めたい欲求というのは、何なのでしょうね 改めて。
これに囚われるから、完成は永遠に遅くなるし、クオリティも逆に低くなっちゃう場合というのがあります。
自分以外の人を見てても、こういう現象はよくあります。
技術力はすごいのに、造形のセンスが0だから、なんだかカッコ悪いモデルを使って、締まらない動画を作り続けている人とか、結構、youtubeにいたりします。
ああいうのを見て、勝手に「もったいないなぁ~」「映像技術はすごいのに」、とか思うこともあります。
全部自家製で固めるプライドは、捨てたほうがいいってことは、ああいうの見てても
「他人のふり見て我が振り直せ」、出来るはずなのですけどね。
・・・ここまで分かってるのに、やっぱりやっちゃうのでしょうね。
これの本質はもう、「愛着」ってことかと思います。
「愛」です。 差別です。
王にへつらい、奴隷に鞭打つこととたいして変わりません。
(ちょっと考えてみたけど解決する結論は出てこなかった)
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しかし思うのですが、 「車輪の再発明」の本質はまだまだそれだけでは無いようにも思うのですね。
自分で一個生み出せてしまうというのは、「それなりの力」のようにも思います。
それはなんというか、 底力・自力・無理やりねじこめてしまうパワー みたいなもんかと思います。
「エレガントなやり方はしらないけど、自力で実装出来てしまう」という力は、
結構重要だと聞いたりもします。
数学のテストとかでも、なんでもかんでも公式、「このやり方知ってる!」ではなく
知らないけど、自分でその場で解法を思いつけてしまうくらいの地頭があるということ、
そういうのが「車輪の再発明」の根底にあるんじゃないかと思ったりもします。
というか、車輪の再発明が出来ることの「条件」ですよね。
つまりなんか、 そんなに馬鹿な現象でもないように思ってしまうのですよね。
(本当に完全に馬鹿なら、再発明自体が出来ない)
過去の自分が作ってたflashとか見てても、自分でビビることあります。
「なんでこれをparaflaで作れてたんだ?もはや自分でも同じことやれる気がしない」ってのばっかですもん。
paraflaで3D表示をするなんて、どう考えても頭おかしいです。
でもあんな3D表示方法というのも、車輪の再発明をやりまくっているに違いないのですよ。
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他にも思うこと。
そもそも世間で広まっているモノの色んなものが案外、「車輪の再発明」なのではないかと思ったりします。
例えばアメリカ大陸を発見したのはコロンブスというのが有名ですが、
別にネイティブアメリカンがいたわけですし、 そうでなくてヨーロッパ人にしても ソルフィンやら、ヴィンランド・サガのレイフやらが、先に発見してんでないか? と思います。
それ以外でも、 大陸移動説をウェゲナー以前に気づいてる人はいただろう とか、
進化論を ダーウィン以前に気づいてる人はいただろう とか、
(まぁそれは文献を参考にするもクソもないから違うか)
とにかく、 先にやった人はいたはずなのに、
「実質この人が広めたことになってる」
「実質この人がやったことになってる」
「実質この人が第一人者になってる」
「実質この人の功績」
みたいなことになってる事柄って、あると思うのですよね。
こういう現象にも名前をつけたなら、 それは、「車輪の再発明」の逆の概念になるような気もします。
「既にあるような発想でも、 なんか適切に売ったやつの勝ち!」 みたいな考え方でしょうか。
「有名になったヤツの勝ち!」とか、
「もう既にあるし・・・」とかで物怖じしないほうがいい、みたいな考え方というか。
「ゴリ押しブランド力」みたいなことでもあるかと思います。
この力が強かったから生き延びられてる企業とか、普通にあるんじゃないかと思ったりします。
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他にも他にも思うこと。
車輪の再発明をやってるときの人間というのは、おそらくものすごく気持ちいいのだと思います。
「これは自分で発見したんだ!」って思えているときの感動はすごいでしょう。
だからやっちゃうんじゃないかと思います。
ある意味「知らぬが仏」なんじゃないかと思います。
むしろ、この気持ちよさがあるからこそ、人類は発明とか発見が出来てきたんじゃないかとも思います。
原動力ですよね。
(まぁそれが空回ってるってことなのですが)
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というわけで
車輪の再発明の本質は、
・無知・無教養・無勉学
・無駄
ってだけでもなく
・底力・地頭
・愛着
・プライド
・ブランド力
・気持ちいい
みたいな要素もあるかと思います。
あんまり100%悪い現象じゃないように思えてきたりします。
(自分がそこに踏み込んでる側だからそう思いたいだけかもってのはありますが)
まぁこれも、 基本、「自戒ワード」ではありますかね。
一応気をつけよう、ということです。