Home Artists Posts Import Register

Content



なんだか、アホな文章が最近多いなとも思うのですが、

(といってこの言い方も問題がある お題出してもらって)

(望んで出してもらっているのだから、もっとなんか堂々とするべきなんだろうけど)



それにしても、自分の「こういう文章」ですが、

読みなくない人はスルーでいいのですけどね。当たり前ですけど。

むちゃくそ長いし。



ところで最近はマジで、本当に忙しいので、

本当、絵も、文も、そんなにはどんどん出せないのです。



「美の数直線の話」も、あれは、やる時はもっともっと気合入れないと、

ちゃんとした話が出来ないと思っています。

あれはちょっと、待ってください。



(また、こうやって言い訳がましくなってしまうのですが)

(ここのファンボックスも、本当は、毎日更新しても五月蝿がられないみたいになれば、良いのですけどね)


──────────────────────────────────────────────

で、今回書くのはこのことについてです。



・幸不幸の「微分」について。




ブログでも書いた通り、これは本来、そんな大した話じゃないのです。

そもそも、当たり前のことしか書いていません。


でもなんか、語りたくなったのです。



わかる人には、次の一行を読んだだけでも、何が言いたいかはだいたい分かるはずです。ごく普通の事実です。


人間は微分した幸不幸しか感じられない。



ほんとにこれは、↑この一行だけで、言いたいことは全部伝わるかもしれません。

だってその通りのことしか書いていないわけです。 

この一行をどんだけ膨らますか、という話です。



(こっから、前提の話がめっちゃながいのです)


──────────────────────────────────────────────

幸不幸論について、色々思います。


「人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもないらしい」


まぁ荒牧みたいなことを言うわけですが、これはその通りなんだろうなと思うのです。




いやでも本当に思います。


普通に生きてて、フイに死にたくなる。 何もかもが馬鹿らしくなる時というのがあります。


でも、別の視点から見てみたら、今の自分はどうなのでしょうか?



無茶苦茶な話、 こんな「自分」を見てて どこか「羨ましい」と思う人はいるでしょうか?


・・・無茶苦茶なことを言っているようで、でも、本当はそんなに無茶でもないかもしれない。



自分の能力だったら、自分の立場だったら、 ああするのに、こうするのに、

「もっと楽しいだろうに もっと面白いだろうに もっといろいろやれるだろうに」


そう考えてくれる人が、いるかもしれない。



または、こんな自分も、スーパーでレジのバイトをしている人を見ると、

「ああ自分はこれでもありがたいことだよな」

とか思ったりもします。 自分はレジ打ちの仕事8時間なんて絶対出来ないと思うからです。 物凄い高給取りでいいはずです。 

清掃バイトしているときのことを思えば・・・

いやー本当に良かった、とかなんとか



──────────────────────────────────────────────

でもやっぱり、自分視点では、 なんかもう、 どっかつまらない。

いつもなんか、どよーんと死にたい、みたいなことが、これは実際にあるのです。


(もちろん別にこれを特にいいたいわけでもないのです)

(心配無用です)


──────────────────────────────────────────────

じゃあ逆に、世の中の成功者と言われている人たち、

彼らの人生はそんなに幸福に満ち満ちているだろうか?



ホリエモンとかみてたら、ひろゆきとか見てたら、 きっと彼らの脳みその中は

「大して幸福ではないだろうな」と、思ったりもするのです。

これは僻み や やっかみ すっぱいぶどうではなく、

本当に、ある種思うことです。


「いくら金持ってても大して幸福じゃない人間」、山ほどいるのだろうな、と思うのです。

これは高須クリニックの画像をみてても。




または、偉大なクリエイターだって、

自分が満足の行く仕事を出来たからって、彼らが幸福でいっぱいかというと、

充実感で生き生きと生きていられるかというと、

多分、そういう簡単な気分でもないんだろうな、というのも、想像が出来ます。




・・・

どんな立場にいる人だって、多分どこかみんな、生きてて、気が気じゃないところがあるんじゃないか。


(もちろんこんな当たり前なことを言うだけの文章にはしたくありません)



──────────────────────────────────────────────

つまりまぁ

人間は贅沢な生活だって「慣れる」し、 貧乏な生活だって「慣れる」

単純な生活だって「慣れる」し、クリエイティブな生活だって、「慣れる」


いずれにせよ、

その中でなんとも思わなくなる。




だから「金持ちなのになんでこの人はこんな余裕ないんだ」とか

「こんなことでブチ切れる金持ちとか、心の中は地獄なんじゃないか」とか、普通に思うわけです。


逆に、

貧乏だけど幸福な家族、というのだって実際あると思うわけです。



──────────────────────────────────────────────

とにかく、 なんども言いますが

人間は現状に「慣れる」。  どんな生活水準だろうが、 その水準にすぐ慣れて、

なんとも思わなくなる。



そして これは生活水準にかぎらず、



「能力」とか、容姿とか、

更に言うと「人間関係」とかのことでも

言えるかもしれない。



つまり、 「人間のもつありとあらゆる資産」 そういうことに関しても、 

『人間はすぐになんとも思わなくなる』

が、一つの真実だとは思うのです。




これは、例えば 「不倫をする人間」を見てても思います。


こんな美人な彼女がいて、 こんないい人がいて、

なんでこんな有名人が不倫をしちゃうの? なんて、 

持ってない側の人間は思うけど、 自分も思うけど、

多分、彼らは彼ら視点で、 もう、自分に彼女彼氏がいる、という現状に

「飽きてしまう」んだと思うのです。



彼氏がいる、 家族がいる、 親がいる、 子供がいる、 友だちがいる、

猫がいる、 犬がいる。


持ってない人間には分からない。

持ってない人間が考えるありがたさ。


でもいざ持ち続けてみると、それはなんとも思わなくなるに決まっている。

彼らも、ずっとその状態にいると、そんなことには「何も思わなくなる」のが

人の常だと思うのです。


(だから、人間は色々と破綻してしまうのだとも思うのです)



──────────────────────────────────────────────


つまり 自分のフォロワー3000人が 多く思う人もいるだろうし、

少なく思う人もいるだろう。


自分のファンボックスの支援者さん N人が 多く思う人もいるだろうし、

少なく思う人もいるだろう。



で、これがどんな立場の誰であろうと、

皆、「なんとも思ってない」 「なんとも思わなくなる」 というのが、

「常に真実」なのです。



これくらい、ふつーふつー と、言ってしまう。



──────────────────────────────────────────────


フォロワー数なんてあれな話じゃなくても、 他には、「能力」で考えてみても、 これは同じです。




「あなたはこんな能力があって、羨ましい」

これは誰に対しても思ったり、 誰かからも言われたりする言葉です。



でも、本人にとっては、もう当たり前で、「なんとも思わなくなる」わけです。

(自分は動画作れる人凄いと思いますが)



お金、資産、 ・・・つまり「持ち物」


能力、才能、努力 ・・・ つまり「もっているスキル」


フォロワー、友人、家族、恋人  ・・・つまり「関係性」


そして幸不幸、すら。



まぁ結局すべてを「持ち物」のように捉えることが出来るけど、


全ての人間が、 「自分が今もっている財産の量、頻度、水準」等について、

いずれなんとも思わなくなる。

という真実があります。



「そんなことない、 自分はたまに感謝する。 自分はたまにしみじみとありがたく思うことがあるぞ!」

そう思う人もいるかもしれません。



でも、それが可能になるのは、 つねに

「比較」が起きた時でしかない

のです。



それを「他人との比較」でやっても苦しいかもしれません。

キリがないかもしれません。



でもこれは、「自分自身での比較」でこそ発生するわけです。

これが重要です。


──────────────────────────────────────────────

だから、微分説



ある日、病気になる。

体の一部が動かなくなる。


「うわーえらいことになった」と思う。


それが直ったり、マシになったりする。


すると途端に

「ああ、健康って大切だなぁ」 と、強く感じるようになる。

「ああ、体が直って良かったなぁ」と、急に価値が「分かる」。

ありがたみが「分かる」。


ということです。



当たり前のことだけど、 これもやはりそういうことなのです。



「人間は微分された幸不幸しか感知することができない」



上がったり、下がったり

増えたり減ったりしたときだけ、ようやく

「あの時は良かった」

「今は良くなった」

「あの時から比べりゃあ」

「あ、まずい、友達は大切にしなきゃ」 とか、思うようになるのです。



変化が無い時は、絶対に、「何も感じられない」のです。



──────────────────────────────────────────────

もしも、生まれてから一度も、 健康度が変化しない人間がいたらどうでしょうか??



つまりずーっと健康で、何一つ病気をしたことがない人間です。



それは物凄い理想で、物凄いありがたいことだと思うかもしれません。




でも、そういう人間はそういう人間で、一切、

心の底から健康に感謝することができない」ワケです。


「んなばかな?」と思うかもですが、 多分、そうなってしまうはずです。




風邪が治ったときの、

「ああこれで鼻水地獄から開放された ああ~~~よかったあああ~~~~」

という物凄い強烈な感謝、みたいな感情を、 一度も味わったことはないはずです。


下痢が治った時、

頭痛が治まった時、

こむら返りが治りつつある時!

・・・



無理してエミュして感謝しようとしても、なかなかうまく行かないはずです。



「無理してエミュ」というのは、

「ひもじい農民ごっこ」みたいなことですね。



>一人でご飯食べてるときに「ひもじい農民ごっこ」をする。

>まずテーブルの上の料理を見て「ぁ・・ぁぁ・・・」と驚愕。

>おそるおそるご飯を一口食べる。一瞬の間があり、一気にガツガツ口の中にかきこむ。

>泣きそうな声で「ありがてぇ!ありがてぇ!」と叫ぶ。

>最後に水を一気に飲んで深々と頭を下げつつ合掌。


こんなことには、限界があるし、絶対うまくはいかないはずです。


本当に、農民が現代人の食事をしたときの気持ち、感動、脳汁ドバドバなんて、

体験できないわけです。



──────────────────────────────────────────────

だから、比較もできない。

病気の他人をみても、実感できない。


一度も健康度が変化したことがない人間は、

自分の健康に心から満足したり 自分の健康に心から感謝することは出来ないのです。


(自分は別に、宗教的な説教をしたいわけではないんです)




でもやっぱり、この辺のことは「常に真実」だと思うのです。



人間が、自分の「財産」 に感謝したり 満足したりするのは、

それらの量が「変化したときだけ」、ということです。

変化しないのなら何も感じなくなるわけです。 これは、絶対にそう。



──────────────────────────────────────────────

パソコンが壊れる。


死ぬほどあせる。 気が気じゃない。 絶望する。


直る。


「あああ~~~ よかったああああ~~~ 直ってくれてよかったあああああ」

と、神に感謝したくなるほど、 死ぬほどの幸福感を感じたりするのです。



それまで、

普段、 ちゃんと動いてたときには大して感謝なんかしないくせに、

マイナスが0に戻った時にだけ、 「物凄いプラス」を感じるワケです。


(または、新しくパソコンを買ってきた時だけ)



・・・まぁつまり、それだけのことですね。



「人間は、微分された幸不幸しか感知することができない」。



今の水準自体はあまり関係ない。



マイナスに下がってから直ると、 今更、物凄い感動したりする。

これも、微分するとプラスだからですね。



世の 病気が直りかけているときの幸福度、

パソコンの不調が直ったときの幸福度は、全部こういうことです。



もちろん、 普通に努力していって生活水準が上がっていくのも、幸福でしょう。

これも普通に微分したらプラスです。




なにかスキルを覚えて

前に出来なかったことができるようになる、 それも幸福でしょう。

これも普通に微分したらプラスのこと。




誰も、今の生活水準自体には、とくになんとも思わないはずです。

それが、ちょっと揺らいだときに、やっとはじめて感知できる。





そしてそれは、 「他人との比較」というより、

自分自身との「時間的比較」のほうが、 強烈な実感、ということです。



他人と自分の生活水準とか 能力とか お金とか 関係性とか、

・・・

まぁそれで「羨ましい」とかはあるかもしれない。

でも、誰もがそんなに真剣に考えない、ということは出来るはずです。



でも、自分自身の時間的ゆらぎを、無視することは不可能です。



というかやはり、 人間が実感している幸不幸の正体は「全てがこれ」だと説明できるはずです。



──────────────────────────────────────────────

ここまで前提でした

でもここまでグダグダ語ってる方が長いのでした。


ごく当たり前のことの再確認、再発見だったかもしれません。




こっからが後半ですが、

案外後半のほうが短いのです。



・・・

ということで、以上が前提でした。



人間が感じる

幸不幸の正体は 「他人との比較」なんてのは案外大したことではなくて、


自分自身との時間的比較、 

つまり「自分自身の満足度の微分」が、

体感できる幸不幸の殆どである。ということがなんか見えてきました。



心底わかりました。



ティラノサウルスが動いているモノしか見えないとか、そういうのと同じことです。


人間も、幸不幸は、変化したときしか見えない・実感できないのです。




──────────────────────────────────────────────


で、そういう一行で終わる普通のことだけを言いたいわけではないのです。

そっから先に行ってこそ自分だなぁと思うのですが、



「人間の脳みそがそういうふうに出来てるのはわかった」

「じゃあ、その上で、人間の幸福度というのはどうしたら最大化出来るのか?」みたいなことを考えたいわけです。




どうモデルを作ったらいいでしょうか?


「人間は、微分された幸不幸しか感知できない」



これをこういうふうに書いたらどうか?



「探偵ナイトスクープ」みたいに、人生を一本の棒で書いてみる







0 -1 0 1 2

みたいな生活水準の人生を、送った人がいる。



でこれを微分すると

-1 1 1 1

で、


合計の幸不幸としては、プラスマイナスで

2の幸福度を感じた人生だった、と言えるかもしれません。


トータルでプラスだから、まぁ、2だけど、ささやかにいい人生だったと。


・・・

まぁつまりそういう調子です。



もう一度、今度は ↑この「探偵ナイトスクープ」の例の人で

計算してみましょうか?



0 -15 16 18 -25 40 -30 -30 55 という人生ですね。 波乱万丈ですね。



これを微分すると、

-15 31 2 -43 65 -70 0 85 と、更に物凄い乱高下ですね。

凄いジェットコースターみたいな人生でしょうね。



この、でかい幸不幸を数字を合計すると、どうなるでしょうか?



で、この人が実際に感じた、微分された幸不幸を全部合計してみましょう。


はい。

「55」なのです。



この数字に見覚えはあるでしょうか?


──────────────────────────────────────────────

(今回、イマイチこっから話がふくらまなかったのに、この辺があります)



微分して合計するって、それ結局、最後の数字がそのまま出るだけなのです。

(人生0から始まると考えるなら)


微分して積分ですからね。


(積分つったら「面積」ですが、)

(微分して積分したら、単に最後の位置になるんです)


(つまり人生の幸不幸は、この人生曲線の面積ではない

最後の位置に等しいのです)


人生、プラスの面積が大きけりゃいいというわけではないのです!



「人生、終わりよければ全てよし」というのは、

ある意味、「こういうこと」だったのかもしれません!



・人間は微分した幸不幸の変化しか感知できない。


・0から始まって、人生の上下感覚を全て微分して、その感じた幸不幸をすべて

足していく。


・その合計結果の数字が「その人の感じた人生の総幸福度」だとする



でも実はそれって

人生が終わったときの位置が、実はその値と「全く同じ」なのです!



死ぬときの幸福度と、

人生の幸不幸を微分して合計した数字は、

数学的に同じなのです!!



(これを面白いと思ってくれるかどうか・・・)

(こっからどう話をふくらませるか)



((でも、本当にそれで良いのでしょうか?という話も出来るはずだけど))



──────────────────────────────────────────────

モデル



・ではここで世界に100人の人間がいたとして、


・世界に生産できる 富とか資源とか食料とか・・・ つまりリソースが100あったとして


・毎年、世界で生産できるリソース100あったとして、


・1のリソースを配分されると、一年に1の生活水準の生活が送れるとする。


・そして、人間は微分された 生活水準の変化によって、幸不幸を感じるとします。




この前提の中で、


人類全体が感じている幸福度の量を最大化しようとしたら、 

一体どのようにリソースを配分したらいいか?

みたいなことを、考えるのです。




全ての人間に1のリソースを配って、

毎年、全ての人間が生活水準1の生活を送る。


・・・

案外理想のようで、これでは誰も幸福度を感じないとも言えるのです。


全員、幸不幸0です。



──────────────────────────────────────────────

じゃあ、貧富の差を作るか?



といって、作ったところで、 富める側の人間だって、生活水準を毎年上げていかないかぎり、幸福は感じられないわけです。

どっちかというとマイナスの人間をプラスにしたっていいくらいなのです。




今の世界は、大勢の0の人間と 少数の2の人間に分かれてるくらい、

なんじゃないかとも思うわけです。



でも別に、貧乏人だって貧乏人でそこそこに満足しているのです。


現状には慣れているし、その上で現状が「維持されること」だけが大切です。



「貧乏人でも娯楽には飢えないような世の中」にはなっています。


ただ、その生活が「脅かされたとき」だけ、不幸を感じます。

脅かされたことが回復したときだけ、ちゃんと幸福を感じるのです。


「そういう世の中」になっています。



50人の生活水準2の人間と

50人の生活水準0の人間、

というのがいても、 やっぱり人類全体が感じ続ける 幸福度は0、ということです。



──────────────────────────────────────────────

・・・なんか手詰まりを感じます。



やっぱり、生活水準をどんどん上げ続けていける、本当のリッチ、セレブというのを、用意するか?と思ったりします。



毎年 生活水準があがる人間


01 2 3 4 5 6 7 8 9


そんな生き方ができてる人間、 まぁそんな上向き人生の人なんて

超少数でしょうね。

これは、ずっと成功してる芸能人とかyoutuberみたいなことではないかと思うのです。


流石に彼らは、人生おもろいでしょう。



さっきも言ったように、 この資産というのはあらゆるアイテムのことを指してもいいはずです。


人脈が増え続ける人間、 スキルを覚え続ける人間、

そういうことで言ってもいいはずです。


まぁそれは置いといて。



10年間で 45ものリソースを使った人間が、 

やっと感じられるのが、幸福度 なのですね。


そしてそれはさっきもいった通り

「最後の数字と同じ」ですから、

見えてくるのはこういうことです。



毎年、全ての人間に1のリソースを割り当てることはできました。

10年あれば「10」くらいは配れたかもしれません。



その感覚からすると、 常人の4.5倍くらいのリソースを食いつぶしてきた人間が、まぁ、合計9の、いい人生を送れたワケです。





・・・でもなんか、そんなもんかな、なんて思ったりします。


超イケイケのyoutuber 凄い人生楽しそうな成功者の人たち、

まぁ、そんな人たちが使ってる資源ってのも、結局常人の4倍くらいかな、


そんなこともあるかもしれません。


(なんか意味不明なことを言っているけど)





──────────────────────────────────────────────

が、こんなことが人間の幸福度を最大化する方法なんでしょうか?



ちなみに自分はこんな図式を考えておいて、 

別にこの中でどうやったら人類全体の幸福度を最大化できるか、というのは

全然見えていないのです。


実際、どうしたらいいのでしょうね?





「最後の数字が全て」ってのなら、

老人ホームにいって、お年寄りにウンと優しくしてやる、

なんてのが、案外普通にものすごくいいことなのかもしれません。


だがそんな結論になるのでしょうか?



人間、死ぬときに、今まで一度もやったことのない

ドラッグとかをやりまくって、そんで最高にハイな状態のなかで

依存症の苦しみとかも知らないままで死んでいったら、

もうそれで良いんじゃないか?とも思ったりもするのですが、

そんな理屈もこの微分説で裏付けられてしまうのですが、

それでいいのでしょうかね??



なんだか、我ながら不安になるのです。


──────────────────────────────────────────────

まぁとにかく、

自分として思うことは、 マイナスにいる人をせめて0にしてあげたら、それは凄い良いことなんじゃないかと 普通に思ったりするだけなのです。




だから変な話、

支援者さんで「お金に困っている」 なんていう人がいたら、自分はその人にお金をあげてもいいくらいだと思っているのです。


本当に変な話なのだけど。


むちゃくちゃおかしいのだけど。


でも割とそういう記事も、書きたかったのです。


バレンタインにクイズ記事書いてもよかった。



クイズ企画して、アマギフ千円とかあげるなんて変な話もしたくなるけど。

もちろん千円とかじゃなく、 本当に困ってるって人なら、数万円のアマギフをあげてもいいと思っているのです。


支援者さんで、お金に困ることがある人がいたら、

その時はここで自分がなんかほざいていたことを、覚えていてくれたらいいと思うのです。


自分は、「お金くれ」って言う支援者さんがいたら、事情を言ってくれたら

納得したら、あげます。



自分自身は、まぁ、お金もっててもしょうがないよな、と思うこともあるのです。



(もちろん将来のこと考えたらいくら貯金しててもヤバいわけですが)


でもやっぱり自分は、将来のことを考えられないし、

なんだか、 「将来」というものは 存在していない断崖絶壁、 「無」のようにしか感じられないのです。


だから、そんな自分のことより、なんか困ってるひとにお金配りたい、 

他人のマイナスをプラスにしたい、 みたいに思うことが、 なんか、

こんな自分自身「でも」、あるのです。



これは、なんか意味不明な偽善的なことを言ってるつもりではないのです。


いや、実際トチ狂ったことを言っているのかもしれません。



でも、割と、「こんなことを言いたくなることがある」 ということは、なんか、わかる人には分かってくれるようにも思うのです。


──────────────────────────────────────────────

むしろ、ここに居て、これを読んでいる人には、結構分かるのではないのか?

と思うのです。



「あ~他人の人生を、なんか上向きにしてみてぇな?」という、不思議な願望です。



人生操作欲求?


それは、自分の中にもあるし、 なんか、芽生えてきたようにも思うのです。




それは結局は、 究極的な話、

人間が、 自分自身の人生直線の上下に、「飽きた」からかもしれません。


というか もう、自分の人生は「たかがしれている」。



そんなことよりも、確実に成果のある人、 

確実にリソースをなにかのプラスに役立ててくれる人、

そういうところに投げたほうがいいんでないか、という感覚なのです。



──────────────────────────────────────────────

・・・もう、変な話、「この感覚」というのを利用して、ある種、子育て支援とかに役立てられる気がするのですよね。


自分がもし、 「異次元の子育て支援」なんて言葉を使うのなら、 こういう発想から考えるような気がするのです。


(ところで、もう別の話になっていますよ?)



だって世の中には、 もし自分に子供がいたら、 

もし自分に小学生の友人がいたら、 甥っ子がいたら、

その子にいくらでもゲーム買ってやる、 いくらでもご飯を奢ってやる、みたいに思う人が、 山ほどいる気がするのですよ。


それなのに・・・



──────────────────────────────────────────────

っていう話。



これが、 「人間は微分された幸不幸しか感じられない」という話でしたとさ。




自分的には 思ったときには当たり前の話になっているので、あんまりもう書く気にならなくなってたりもするのです。



後半、あんまりうまく膨らまなかったな、という感じもあるのです。


ブログの過去記事みたらこんなこと書いてますね。

モデルに関してはこの辺のときのほうが面白いことを言えていると思います。





まぁとにかく

やっぱりこの事自体、「幸不幸」ということについて自分で再確認

という話でしたかね。





Files

Comments

Anonymous

お疲れ様でした。大変、読み応えのある文章で、NEETさんは決して悪い人じゃないんだなというのが伝わってきました。 せっかくなので、感想を書いていきたいと思います。 >>ティラノサウルスが動いているモノしか見えないとか、そういうのと同じことです。  分かりますね。伊藤計劃のハーモニーでも同じような事書かれてましたよね。意識というのは脊椎動物の生存に有利だから実装されたに過ぎないとか、人間は目の前の事象を過大評価する傾向にあるとか。 ただ、ニワトリは3歩歩いたら忘れるなんて言いますが、人間の場合、意識と結びついているものとして、人格や言語や記憶がありますから、なかなか忘れられないこともありますよね……。 >>人間、死ぬときに、今まで一度もやったことのない ドラッグとかをやりまくって、そんで最高にハイな状態のなかで死んでいったら、それで良いんじゃないかとも思ったりもするのですが、  それも似たようなことを考えたことがありますね。 例を挙げるなら、毎年夏になる度に、河川敷でバーベキューをしていた若者達が、お酒が入っていたり、川が増水していたりする影響で、溺れたり流されたりして、亡くなる事故が報道されますよね。 そして俺は、正直その手のニュースを毎年のように見る度に、 (でも、そういう死に方なら悪くないかも。  だって、死ぬ直前までは、仲間に囲まれて楽しそうにしてたわけじゃん)と思ってしまいます。

Anonymous

>>自分は、「お金くれ」って言う支援者さんがいたら、事情を言ってくれたら納得したら、あげます。  素直に嬉しいです。いざという時のセーフティーネットとして、一応覚えておきますね。 >>その子にいくらでもゲーム買ってやる、いくらでもご飯を奢ってやる、みたいに思う人が、山ほどいる気がするのですよ。  あ~、その気持ち分かりますね。あしながおじさん的な。そこまで行かなくとも、もしも、同年代の親戚(たとえば従兄弟)とかに子供がいて、自分の所に遊びに来たとしたら、ちゃんともてなさないといけないなとか、自分ですら感じますし。 まずはファミリーでも楽しめるような近所の大きな映画館付きショッピングモールやら、一時有名になった、洋風の公園を案内して……みたいな妄想です。 まぁ、実際には、俺も、同年代の従兄弟(両方とも男)二人とも、未婚かつ独身という有様ですが。 また、子供に対して、個人的にゲームとか本を買い与えてやるとなると、両親がいる子供は、その両親なりの経済的事情や教育方針があるので、難しいかも知れませんね。 逆に、施設に入ってる子供達への差し入れとか寄付の方がしやすいのかも知れませんね。 それは、もしかすると伊達直人運動の焼き直しにしかならない気もしますが、でも別にそれでも良いのかも知れませんね。

byneet

そうなのですね。結局募金とかなのか、ということになる。 でも、そこのところで、もうちょっと「実感」とか、「つながり」みたいな感覚のするシステムを作ったら、子供の養育にかかる予算なんていうのは、どっからでも引っ張ってこれるように思うのです。 (それはある種、回り回って独身税みたいなものなのではないかとも思うのですがw)

byneet

フイに死んだ人のニュースとか、事件とか、 それはフィクションでもいいのですが、 なんでも「良かったじゃん」って思えてしまうのですよね。 それはピンピンコロリに近いじゃないかと。 でもまぁ、最後の最後で苦しんで溺死したんなら、それは結構マイナスなんじゃないかとも思うのですが。 急に死んじゃう系の中でも嫌なのは、どこかで出火して遺体がみつかりました、みたいなニュースですよね。 人生の最後の最後で、最も苦しいと言われる焼死で死んじゃうというのは、それはどうなんだろうと、あれに関しては考えてしまいます。