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「終わった……」


 最後のパソコンがシャットダウンしたのを見届けて、俺は安物のオフィスチェアに崩れ落ちるようにもたれかかった。社内パソコンの一括ソフトウェアアップデート、今どきこんなもの管理者の集中管理コンソールで一発なのだが、いかんせん古い体質の弊社ではそんなもの存在しない。セキュリティ系のアップデートのため後回しにすることもできず、一台一台手作業でアップデートをする羽目になってしまった。


「結構時間かかりましたね」


 向かいでパソコンを片付けているのはアップデートを手伝ってくれた朝霜だ。一昨年入った後輩だが、明るく誰とでもすぐ打ち解けられる性格で、物覚えも頭の回転も早くめちゃくちゃ仕事ができる。有能すぎてすぐ転職するだろうなと思っていたのだが、意外にも俺の部下として働き続けている。


(朝霜なら引く手あまただとおもうんだけどな……)


 立ってパソコンを片付けている朝霜だが、その腰の位置は机よりかなり上にある。186cmという高身長な上にモデル並みにスタイルがよく、安物だと言っているスーツですらブランドものに見えるぐらい見栄えするのだ。その上顔もどこぞのアイドルと見間違うかと思うぐらいのイケメンで、母譲りだという明るい茶色の短い髪を立ち上げた姿は一目見ただけで女子社員が色めき立ってしまうほど。見た目も完璧で性格もよく仕事もできる。俺が女だったらこんな男放っておかないと思うのだが、意外にも恋愛は続かないらしい。


「ごめんな、こんな遅くまで」

「いやいや、こんな量先輩一人でやるのは無理ですよ」


 そんな有能な後輩は、なぜか俺にものすごく懐いてくれている。朝霜が入社したとき教育担当になったのが俺だったのだが、担当になってしばらくしてから異様に懐かれ始めた。その頃からもう頭角を現し始めていた男に先輩、先輩、と笑顔で懐かれるのは悪い気はしないものの、ことあるごとに俺にかまってくる姿が飼い主が大好きな大型犬のようで社内で密かに朝霜はレトリバーとか呼ばれてるらしい。今日の仕事だって、朝霜から言い出して手伝ってくれたのだ。


「そういや朝霜、帰れるのか?」


 社内の戸締まりをして建物を出たとき、ふと気づいて後ろにいる朝霜を見上げた。聞かれた朝霜は要領を得ない顔をしている。


「え? 帰れる……?」

「お前電車通勤だったろ。この時間もう終電ないぞ」

「えっ……あ~……はい、大丈夫です」


 自分の腕時計を見てようやく気づいたようだが、朝霜は何も気にしていないかのように笑っている。どうやって帰るというのだろう。うちはタクシー代は出ないし、近くのネカフェにでも泊まるつもりだろうか。


「何だったら車で送ってやるけど」

「えっ! ……いやいやいいですって! 先輩にご迷惑おかけするには」

「今日迷惑かけたのは俺の方だろうが。じゃあ電車もなくてどうするつもりだったんだよ」


 大きな体を縮こめて遠慮する朝霜だったが、結局どうするかは考えてなかったらしく、しばらく問い詰めるとよくわからないうめき声をあげながら「じゃあ、お願いします……」と頭を下げた。そうして一緒に帰ることになった俺たちは会社の裏の駐車場へと回った。


「先輩の車あれですか? かっこいいですね!」


 朝霜はこうやってすぐ褒めてくるからいい気分になってしまう。朝霜が指さしたのは俺が半年前に購入したばかりのSUVだ。車通勤しないやつは裏の駐車場は見ないから知らなかったらしい。かっけー、と車の周りをぐるぐる回る朝霜に(マジで犬みたいだな…)と心をくすぐられながらも早く帰ろうと追い立てて車に乗る。


「シート下げていいっすか」


 助手席に乗った朝霜にOKをだすと、朝霜は大きくシートを下げる。隣に乗せる女もいないからシートは通常位置のはずだが、脚の長い朝霜には窮屈だったようだ。


「お前脚長いからな~」

「はは…すいません。でもこの車広いから全然快適ですよ」


 カーナビに目的地を入れるため朝霜に住所を聞くと、朝霜の住んでいる家は会社から二駅ほど離れた山中にあるようだった。駅からはともかく、自宅から駅までが相当に長そうだ。


「お前こんなとこから通ってんの!?」

「あ……はい……」


 運転しながら色々聞いてみると、実家だが両親が二人とも海外で仕事中のため、実質一人暮らしらしい。駅まではどうやって、ときくと自転車ですかね、となぜか煮え切らないように答える。


(あんま聞かれたくないのかな……)


 そういえば懐かれている割には俺は朝霜のことをよく知らない。家だって今初めて知ったし、どんな暮らしをしているかなんてまるで想像がつかない。三十分ほど車を走らせると景色は郊外から街灯の少ない山の方へと移っていく。道路の舗装はかろうじてされているものの、いつ砂利道になってもおかしくない雰囲気だ。


「すげえとこ住んでるんだなお前……」

「あはは、もう慣れました。あ、そこ右ですね」


 朝霜の案内に導かれながらさらに十分ほど車を走らせると、茂った木々のトンネルの先に開けた場所が見えた。カーナビの画面でもそこが目的地だ。


「あそこか!」

「はい。……あっ!!」


 朝霜の声と、俺が目の前を横切る何かを見たのは同時だった。反射的にブレーキを踏みながらハンドルを切るとブレーキの反動の後に一瞬浮遊感のある衝撃が車全体を揺らした。一瞬で血の気が失せる。車が斜めになっているのだ。


「もしかしてタイヤはまったか……?」

「……側溝があるのでもしかしたら……」


 二人で外に出て見てみると、もう見事としか言い様がないほどにすっぽりと左の前輪が側溝にはまっていた。暗くて側溝がよく見えず、ハンドルを切ったときにはまってしまったのだろう。俺は思わずしゃがみ込んだ。


「うあー……やっちまった……」


 まだ納車して半年しか経ってないのに。幸いボディ表面に目立った傷はないが、バンパーやら底部やらはどうなっていることか。後ろから落ち込んだ朝霜の声が降ってくる。


「すいません、俺を送ってもらったせいで……」

「あ、いや! 朝霜のせいじゃないから! 俺のせい! 全然気にしなくていい!!」


 朝霜は垂れたしっぽが見えるぐらいシュンとしていた。お前のせいじゃないと何度も言って、ようやく車の前を横切ったものについて思いいたった。が、周りにそれらしきものは見当たらない。朝霜が言うには多分野良猫らしい。俺はもう一度脱輪した愛車の前にしゃがみ込んだ。


「どうすっかなこれ……」


 ハンドルを目一杯切れば脱出できないこともなさそうだが、俺の運転技術でいけるかがまず問題だ。ロードサービスを呼ぶにも深夜だし、こう暗くては何をやるにもやりづらい。悩んでいると後ろで何か考えていた朝霜が口を開いた。


「あの、先輩」

「ん?」

「もう夜も遅いですし、今日、うちに泊まりませんか? もう目の前ですし」


 聞くと家の倉庫にはジャッキもあるようなので、明日明るくなってからそれで車を脱出させるのはどうか、とのことだった。車に集中しすぎて気づかなかったが、朝霜の家は振り返ればもう目と鼻の先にあった。俺は少し考えたが、他にいい方法も思いつかなかったので朝霜の提案に乗ることにした。


「ごめんな、送るつもりが逆に迷惑かけてしまって……」

「いえいえ、先輩にはいつもお世話になってるので! ……むしろ、家に呼べてちょっとうれしいぐらいです」


 その言葉にそぐわず心なしかウキウキしている朝霜についていく。朝霜の家は田舎によくあるような広くてでかいがちょっと年季の入った和風の一軒家だった。カラカラと鳴る引き戸を開けると、朝霜はその背丈にはちょっと低い戸をくぐって家の中に入った。


「散らかってますけど、くつろいでください」


 もともと家族で住む一軒家だからか物自体は多いが、それでも雑然とした雰囲気はなかった。ちょっと昭和風なリビングに通され、テレビの前のソファに座らされる。ぱたぱたとでかい体で動き回る朝霜に手伝おうかと何度も言うが、そのたびに座っていて下さい、と肩をつかまれソファに戻された。しばらくすると落ち着いたのか自分の飲み物を持って朝霜が俺の斜め横のソファに腰を下ろす。スーツのジャケットを脱いだ状態のままソファで長い脚を持て余している様子は、それだけで絵になりそうだった。


「もうすぐ風呂沸くんで、先輩先に入っちゃってください」

「は? いや、いいよ。お前先入れよ」

「いや先輩はお客様なので……」

「家主より先に入れないだろ。ただでさえ迷惑かけてんのに」

「迷惑なんかじゃ」


 何度か口論を繰り返すが、どうしても朝霜は譲らない。するととうとう朝霜は立ち上がった。


「わかりました! じゃあ勝負しましょう!」

「勝負?」

「腕相撲で勝負です! 俺が勝ったら先輩が風呂に入ってください!」


 そう言うと朝霜はワイシャツを腕までまくり上げ、ローテーブルを挟んで俺の向かいに座り込んだ。いつもシャツに隠れて見慣れない朝霜の前腕は結構鍛えられているようで、太い血管が何本も浮き出ていた。


「……お前、それ絶対自分が勝てる勝負だろ?」


 図星だったのか朝霜はばつの悪そうな顔をする。そもそも腕が長い奴は腕相撲が有利だ。


「……じゃあ、先輩は両手でいいですよ。体全部使ってもいいです」


 朝霜がテーブルに右肘をつくが、さすがにそこまで言うのは驚いた。体全部と腕一本であればどんなに朝霜が腕相撲が強かろうと勝つのは難しいだろう。普段こんな不利な提案をするようなやつじゃないから、口論で熱くなったか。そして俺もそこまでハンデをつけられちゃ断れない。


「わかった。やるか」


 ソファを降りて同じように腕をまくり、ローテーブルに肘をつく。改めて向かい合うと、体格の差がはっきりとわかる。俺だって平均身長はあるが、覆い被さるようにこちらを見つめる朝霜を見るとそれだけで気圧されてしまいそうになる。腕の太さだって、朝霜の方が断然太い。


(うわっ)


 手を組むと、朝霜の大きな手に握りしめられる。腕がテーブルに固定されているかのように全くぶれない。もうこの瞬間にやばいことがわかった。恥もプライドもなく左手を朝霜の拳に添えて全身で抱え込むような体勢を取る。


「本気ですね」

「うるせえ。ほら、やるぞ」

「はい、先輩の好きなタイミングでスタートでいいですよ」


 ここまで言われるとナメられてる気もしてきた。俺だって一応ジム通ってるんだぞ。とにかく最初から全力で行こうとフローリングの足を踏みしめる。


「レディ、ゴッ!」


 自分の合図とともに、思いっきり両腕を押し込んだ。両腕プラス身体全体の体重を全部かけ、足の力まで使った俺の渾身の全力。


「ふっ……くっ……」

「先輩、それで全力ですか?」


 マジで信じられなかった。俺の全力は朝霜の片腕を一ミリも動かすことができていなかった。しかも朝霜は力を入れて耐えている様子もなく、もう片方の腕をテーブルに置きながら、涼しい顔でこちらを見つめている。つまりこれは拮抗とかではなく、朝霜が片腕で、しかも余裕で俺を受けとめているのだ。


「ざ……けんな……」


 頭の血管がぶちぎれそうになるほど力を込め、さらに足を踏ん張ってみるが、まるで鉄柱を相手にしているかのように微動だにしない。しかしそれはまぎれもなくテーブルに肘を立てているだけの朝霜の右腕なのだ。ぶら下がったり押し込んだり数十秒格闘したが、朝霜の腕がスタート位置から動くことはなかった。


「そろそろ終わりにしましょう」


 朝霜がそういうと、ぐっと朝霜の腕に力が入ったのが握っている手のひらからわかった。そして俺がどんなに力を入れても微動だにしなかった朝霜の腕が、ゆっくり、ゆっくりと倒れていく。俺は必死でそれを押し返そうとしているのにそんな抵抗などないかのように同じ速度で俺の手がテーブルへと近づいていく。俺の手がテーブルに着く直前、一瞬朝霜の手が止まり、そのあとトン、とまるで俺を気遣ったかのように優しく俺の手がテーブルに着いた。ずっと体に込めていた力が一気に抜ける。


「はっ、はっ……くっ、そ……」

「はい、俺の勝ちですね」


 俺は息も絶え絶えで汗もだらだらなのに、朝霜は息一つ乱しておらず腕相撲をする前と全然変わらない。まるで腕相撲なんてしてなかったみたいだ。


「お前……強すぎ……」


 朝霜はさっきまで俺と組んでいた右腕を上げてぐっと曲げた。今までどこに隠れていたと言わんばかりの筋肉がタイトなワイシャツを破らんばかりに盛り上がる。


「へへっ、俺、腕相撲負けたことないんですよ。じゃあ約束通り先輩が風呂に入ってくださいね」


 そのあと俺はあれよあれよという間にタオルや着替えと共に脱衣所に押し込められてしまった。実際負けたしここでごねても仕方ないので、あきらめて服を脱いでいく。


「いや、でもあいつすげえな……」


 もう二年ほど一緒に仕事をしているが、朝霜があんなに腕相撲強いなんて知らなかった。学生時代スポーツをしていたみたいな話も聞かないし、ボディビルダーみたいに腕がめちゃくちゃ太いとかでもないのに凄まじく強い。


(なんか必勝テクみたいなのがあるとか……?)


 風呂はユニットバスではなく昔ながらのタイル張りだった。換気扇もなく、代わりに浴槽の方の壁に窓がついていて、半分ほど開いたそこから湯気が外に出ていっている。


(あ、こっち家の正面なんだ)


 浴槽の中で立って窓を覗くと、車で通ってきた道が目の前にある。家から漏れ出る明かりで結構明るく、ついでに側溝にはまったままの俺の車も一緒に見えて一気にテンションが下がっていく。


(あれほんとどうすっかな……ジャッキ使うにしても大変だろうし……ん?)


 傾いた車を見ながらあれこれ考えていたら、窓の外から玄関の戸が開く音がした。そのうち視界に現れてきたのは、さっきと同じワイシャツにスラックス姿の朝霜だ。


(なんだろ)


 俺が覗いているのには気づいていないようで、まっすぐ俺の車に向かっていく。キーは俺が持っているし、本当に何をするのかわからなくて、自然と息をひそめて朝霜の動きを見守ってしまう。朝霜は俺の車のフロント部分に立つと、腰を落とし、バンパーに手をかけた。朝霜が腰を上げると、俺の車の前半分がいとも簡単に持ち上がった。


「っ……!!」


 ここでとっさに声を出さなかった俺は偉かったと思う。それは絶対にありえない光景だった。あの車は1680㎏もあるのだ。カタログを毎日のように眺めていたから覚えている。エンジンのあるフロント部分は特に重いはずで、例え世界一の力持ちだろうとあんな簡単に持ち上げられるはずがない。

 朝霜は車を持ち上げたまま移動し、車の向きを変えて側溝から俺の車を救い出した。ゆっくりと地面に車を下ろしたが、それでも車がぐわんぐわんと大きく揺れている。見てはいけないものを見た俺の心臓はばくばくと早鐘のように鳴っていた。


(……まずい!)


 朝霜が振り向く気配を見せ、俺はとっさにしゃがみ込んだ。息も水音も立てないようにして、数十秒。朝霜が家に戻ったドアの音を聞いて、ようやく湯船に沈み込んだ。そこから俺はもうパニック状態だった。


(朝霜が、車を持ち上げた? いやでもどんなに力持ちでも一人で乗用車を持ち上げるなんてできっこない。でもやった。じゃああれは何だ……?)


 湯船の中で悩んでいても答えなんか出るわけがなく、のぼせそうになった俺は急いで身体を洗って風呂を出た。着替えとして渡された朝霜の服はでかすぎて、屈辱にも足元は三回折り返した。部屋に戻ると、着替えた朝霜がダイニングテーブルに料理を並べている。


「あ、先輩遅かったですね! でもちょうど飯できたとこです」

「あ、ああ……」


 朝霜が着ていたのは緩めのグレーのスウェットだ。部屋着なのだろう。ゆったりしているから身体の線は見えない。それでも背が高くスタイルがいいのでそれなりに見栄えするのは癪だ。でも、車を持ち上げられるような身体には見えない。視線に気づいたのが朝霜が「なんですか?」と聞いてきたので慌てて視線を外す。


「いや、お前もそんな緩い服着るんだな、って……」

「い、いつもこれってわけじゃないですよ!? 今日たまたま洗濯してて…も、もっとマシなのもあります!」


 朝霜がムキになって否定する。いつもなら笑い飛ばすような発言だが、こいつはさっき俺の車を一人で持ち上げて動かしたのだ。だがそんなそぶりは一切見せない。もう俺は朝霜が何を考えているのか、そもそも朝霜は何なのかわからなくてだんだんと怖くなってきてしまった。朝霜が用意してくれた大量の飯もあまり口に入らなくて、ほとんど朝霜が食べてしまった。


「先輩。俺の飯まずかったですか……?」

「あ、いや、ちがくて、ちょっと食欲が……」

「というか、風呂出てからなんか変ですよね。どうしました?」


 こいつはこういうのに鋭い。そんでもってしつこいのだ。のぼせたと言った程度じゃごまかせないだろう。もごもごと言い淀んでいると、朝霜がぽそっとつぶやいた。


「……そういえば、風呂の窓、開いてましたね」


 その言葉にビクッと俺の肩が揺れる。それだけで朝霜が察するのには十分だったらしい。はあー、と長い溜息をつく。


「そうですか……見ちゃいましたか……」

「あ、ああ……」


 朝霜の顔から表情が消える。急にシンとした部屋の中、俺の心臓はドクン、ドクン、と強く鳴り響いていた。もし朝霜が本当に車を持ち上げられるようなパワーがあるなら、この場で俺をひねり殺すのも簡単にできるはずだ。そして、側溝にはまったときではなく、俺が風呂に入ってるときに車を持ち上げたってことは、できれば知られたくはないはずで、口封じのために俺を殺すことも……


「ちょっと待っててください」


 朝霜が立ち上がってキッチンに向かう。俺は椅子から立ち上がることもできずに朝霜の行動を見つめていた。朝霜は洗ってあった大ぶりなフライパンを持ってくると、それを俺に手渡した。


「それ、どこでも売ってる普通のフライパンです。素材は多分アルミ」


 確かめて、と朝霜がいう。俺はわけもわからず、フライパンを掲げてみたり、コンコンと底面を叩いてみたりした。何の変哲もない、ただのフライパンだ。朝霜が手を差し出すので、フライパンを返す。朝霜はフライパンの取っ手を持って見つめながら話し出す。


「先輩、アトムって知ってますか? じゅうま~んばりき~だ、ってやつ」

「……知ってるけど」


 さっきから話が読めない。急にフライパンを持ってきたり、アニメの話をしだしたり。


「俺の親父がそれ大好きなんですよ。それで、息子の俺を改造しちゃったんですね。十万馬力に」

「…………は?」

「はら、こんな風に」


 フライパンの先端にも手を添えると、朝霜はめぎぎ、と取っ手の接合部分を起点にフライパンを折り曲げた。何が起きているのか理解できなかった。あれはアルミホイルでできているわけじゃなく、本当に普通のフライパンだった。人間の力で曲げる、というのは、できるかもしれないけれど、それでも鍛えた男が渾身の力でやってやっとのはずだ。今の朝霜みたいに丸めた新聞紙を折るみたいな手軽さでできるようなもんじゃない。


「高一ぐらいだったかな、突然親父に呼び出されて改造されて……」


 朝霜が身の上を世間話のように軽く語る間にも、フライパンは何度もぐにゃぐにゃと折り曲げられて取っ手が接合部から引きちぎられる。凄まじいパワーのはずなのに、朝霜が力を入れている様子は全くないのだ。つまり、俺が空き箱をつぶしたり紙を折ったりするのと同じぐらいの感覚で、今朝霜はフライパンを引きちぎったのだ。フライパンの皿の部分は引きちぎられたせいでいびつに歪んでいる。朝霜は片手で持ったその皿部分を、今度はぎゅっと握った。朝霜の手に捕まれている範囲の金属がぎちゃぎちゃという音を立てて潰れ、手の中に引き込まれていく。朝霜がそれを繰り返すと、だんだんとフライパン本体が、まるで朝霜の手に喰われていくかのように小さくなっていく。手と指の力だけで、金属のフライパンが潰されていく。とうとうフライパンは朝霜の手の中で丸められ、大きめのおにぎりのようになった。


「先輩、聞いてます?」


 朝霜の声にフライパンを注視していた視線を外す。朝霜はこちらを見ていた。今のフライパンつぶしが何でもないかのように、いつも会社で見るような、こちらをうかがう表情で。


「……あんまり、聞いてなかった」

「でしょうね。ま、つまり俺は親父に改造されたサイボーグってことです」


 最後に朝霜は両手でフライパンをぎゅっと握る。金属が潰れこすれ合う音がして、フライパンの玉が一回り小さくなった。テーブルに置かれたそれがさっきまでフライパンだったと、誰が思うだろうか。


「さ、サイボーグ……」

「はい」

「……で、でもお前、そんな感じ全然……」


 朝霜がふはっと笑った。そしておもむろにスウェットの裾に手をかけると、一気にそれを脱ぎ去る。俺はまたもや目を見張った。


「見た目はふつーに人間ですよ。皮膚とかも本物同然で……先輩?」


 朝霜は皮膚を見せるためにスウェットを脱いだのだろうが、俺が驚いたのはその身体だ。着やせするにもほどがある。鋼の肉体、とでもいうのだろうか。空手家やキックボクサーのような、無駄なく絞られたような筋肉はまるで彫刻刀で彫り上げたかのようにその身体に陰影を施していた。筋肉の形が見えるほどの彫りの深さ。決して痩身なわけではなく、鍛え上げたうえでの陰影。特に腹筋は本当に洗濯ができそうなほどボッコボコだった。


「先輩……おーい、先輩!」


 その凄まじい身体に目がいっていて、目の前で手を振る朝霜に気づかなかった。先ほど見せられた凄まじい怪力、それが自分に向けられているように思えて俺は思いっきりのけぞってしまう。勢いがつきすぎて椅子が後ろに傾く。


「うわっ!」


 がったんと大きな音を立てて俺は椅子ごと後ろに倒れ込んでしまった。チカチカする目に天井の照明が映る。打ち付けた背中がひどく痛い。


「うわ、先輩大丈夫ですか。ほら……」


 テーブルを回り込んできた朝霜が上半身裸のまま俺の上から顔をのぞかせる。朝霜が差し出した手を握ろうと腕を伸ばしかけたとき、先ほどのフライパンを握りつぶした光景を思い出して手が止まった。


――俺の手も握りつぶされたりしないだろうか


 一瞬、そんな考えが脳裏をよぎった。そして多分、朝霜もそれを察してしまった。天井の照明が逆光となって顔はあまり見えなかったが、少なくとも笑顔ではなかった。朝霜は差し出した手を引っ込める。


「……起き上がれますか?」


 朝霜に言われて、俺は身体を転がして四つん這いになり立ち上がった。すると朝霜と向かい合う状態になる。186cmの鋼の身体は向かい合うとちょうど鎖骨のあたりが目線になる。くっきりと形のいい大胸筋。僧帽筋と三角筋が標本図のように浮き上がる肩。腕はぎっちぎちに筋肉が詰まっているようで、さっきあれと腕相撲をしたのが信じられなかった。朝霜が腕を伸ばせば俺に届く。パンチ一発で俺の身体は消し飛ぶだろうか。首を握れば頭がちぎれるかな。声も出せず、下がることもできず、じっと朝霜に顔を向けていたら、その朝霜が静かに笑みを浮かべた。


「……俺、風呂入ってきますね。…………先輩も、ゆっくりしててください」


 朝霜はそれだけいうと、俺の横をすり抜けて風呂場へと歩いていった。浴室の扉が閉まる音を聞いて、俺は腰が抜けたようにへたり込んだ。


(朝霜が、サイボーグ……)


 信じられなかった。俺の常識も理性も全部がそれを否定したが、目の前で見たあの力は本物だった。会社での朝霜は、ちょっと顔とスタイルがよくて有能な、普通の男だった。朝霜はずっとそれを隠して生きてきたのだろうか。


(……でも、俺は知ってしまった)


 朝霜の秘密を、知ってしまった。朝霜は俺をどうするだろう。サイボーグなんて、世間では絵空事だ。もし世界が知ったら大騒ぎになること間違いなしだろう。朝霜もそれは避けたいはずだ。なら、俺を……俺を……


(……逃げよう)


 震える足を叱咤して立ち上がる。物音を立てないようにしてキーと着替えを取る。玄関の戸を開く時、一瞬、先ほどの、傷ついたような朝霜の顔が頭をよぎったが、ここまで来たらもう戻れなかった。自分が通れるだけの戸を開き、足音を立てないようにして車に向かう。側溝から抜け出した愛車はもう走れる状態だった。エンジンをかけて少し強引に切り返し、朝霜の家から遠ざかる。






「……せん、ぱい…………」


 この時の俺には、風呂場の窓から家の外がよく見えることを思い出す余裕などなかったのだ。


 逃げる俺を見た朝霜がどんな行動に出るかなんて、想像もしていなかった。





続く

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