リヒトの一日(前) (Pixiv Fanbox)
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「小人収穫バイト」「小人バイトの終業後」に出てきたイオリ君に連れてこられた小人、リヒト君のお話。多分これだけでも読めます。
小人収穫バイト
「おっ、イオリくん、今から?」 「はい、これからラスまでです!」 「がんばれよー」 それに返事を返して、俺は更衣室の扉を潜った。俺はバスケの部活がない土日に、ちょっとしたバイトをしている。大体半日ぐらいだが、時給に換算すれば三千円以上になりめちゃくちゃ実入りがいい。月に三回も出られれば二、三万は稼...
小人バイトの終業後(前)
「小人駆除バイト」「小人収穫バイト」に出てきたイオリ君の話です。 街で捕まえた小人を家に持って帰って……という話。続いていますが多分これだけでも読めます。 それではどうぞ! コンビニの袋をがさがさと揺らしながらアパートの階段を上り、一番手前のドアの前でポケットからカギを取り出す。裸電球の照明を頼りに...
それではどうぞ!
――リヒトさん、リヒトさん!
耳元で叫ぶ、小さな声がする。
「リヒトさん! 起きてください!」
「……ん……」
瞼を開けると、薄暗い世界がぼんやりと見えた。段々と焦点が合って視界が鮮明になってくると、自分を覗き込んでいる小さな顔が映った。
「あ、起きた!」
「…………誰だ……?」
「リヒトさん、まだ寝ぼけてます? 朝ですよ」
そこまで聞いてようやく頭が覚醒した。眠い目を開いて、ゆるりと体を横にして起き上がる。タオルケットがずれてぬくもりが消え、生暖かい空気が肌に触れる。右を見ると暗い部屋の中でちょうど立ち上がった茶髪の少年ーーレオと目が合った。レオが着ているのは寝るとき用のパジャマではなくいつも掃除用に使っている白のウィンドブレーカーだ。
「起きました?」
「……今何時?」
「六時五十分です」
――――計算に数秒使って、一気に頭が冴えた。あと十分しかない。やばい。焦って立ち上がると下から小さな悲鳴があがる。
「ひっ!」
「あっ……ごめん」
見下ろしたレオは棒立ちのまま、腕で顔をかばうようにして固まっていた。本気で怖がらせてしまったようでカタカタと震えている。一歩後ろに下がりレオと距離を取って、しゃがみこんで視線を合わせる。
「ごめん。急に立ちあがったら怖いよな。ほら、何もしないから」
「…………い、いえ。俺も、びっくりした、だけなので」
レオがゆっくりと腕を解いて笑う。まだ少しこわばっているものの、パニックにはなっていなさそうだ。それを見て今度はゆっくりと腰を上げる。レオが俺を見上げた状態で、もう一度俺の腰ほどの大きさしかないレオに謝った。そうしてちょっと気まずい雰囲気の中で今の状況を思い出す。
「……って、やばい、時間ないんだった!」
「あ、……じゃあ僕、先行ってますね」
駆けるレオを見送りながら、急いで布団を畳む。寝る前に布団の横に置いておいたTシャツと運動用のハーフパンツに着替える。そのままダッシュで自分の部屋としてあてがわれている、お菓子の空き箱で作られたスペースを出た。空間全体が薄暗い中、俺以外の全員はもう集まっていた。
「お、遅れてすいません!」
勢いよく頭を下げ、部活の顧問にもしたことがない角度で謝罪する。何せリーダーのサクさんの怖さは部活の顧問の比ではないのだ。床を見つめながら一ミリも動かずに待っていると、ずっと上の方からため息が聞こえてきた。
「……まだ三分前だから、遅れてはいない」
硬質だが滑らかな、聞き取りやすい声が上から降ってくる。サクさんは普通にしゃべっているのだろうけど、身体全体に響くほどの声量だ。
「……まあ、もう少し余裕があるにこしたことはないが」
「はっ、はい!」
「もういいから顔を上げろ」
ゆっくり頭を上げて前を見据えると、目に入るのがサクさんの脚だ。俺もサッカー部だからそれなりに脚は鍛えてるはずなのに、それでも比べ物にならないぐらいにみっしりと筋肉がついた太い脚。その膝が目の前にある。ゆっくり顔を上げると、グレーのハーフパンツに余裕がなくなるほど太い太腿があり、その上に紺のコンプレッションシャツから浮かび上がるぼこぼこの腹筋、太い腕と張り出した大胸筋の上、二階建ての屋根より高いところから俺を見下ろしているモデルのように整った顔。俺の五倍程でかいサクさんだ。目が合ってごくりとつばを飲み込む。
(サクさん、怖いんだよな……)
もうイオリ……様、にここに連れてこられてから、一週間ほどになる。さんざんイオリ様に遊ばれた後、この部屋で次に会ったのがサクさんだ。イオリ様よりずっと小さい、といっても俺より五倍もでかく、金髪で顔はものっすごいイケメンで、ジムのインストラクターよりも筋肉がすごい。そしてあまり感情が出ない。無表情な筋肉イケメンってだけで怖いのに俺よりはるかにでかいのだ。最初サクさんに人形のように持ち上げられて運ばれた時は、もう散々恐怖を味わったのにさらに泣きそうになってしまった。
「ま、最初は慣れねえよな。寝れるだけ大したもんだって」
今度は明るい声が降ってくる。それを放ったのは、サクさんの隣にいるハルキさんだ。隣といっても、ハルキさんはサクさんのほぼ半分ぐらいの大きさで、ちょうど腰の下あたりに黒髪の頭が来る。もちろん、俺よりはずっとでかい。サクさんがクールイケメンならハルキさんは爽やかなお兄さんって感じで、来たばかりで右も左もわからない俺にも色々優しく教えてくれる。頭にはタオルをバンダナのように巻いてくすんだ水色のつなぎをラフに着ているが、サクさんと同じく足元は裸足だ。そのハルキさんの足元にちょこんといるレオに俺を加えた四人が、今イオリ様の小人らしい。
(ちょっと前まではもう少しいたらしいけど……)
「そろそろだ。ほら、並べ」
サクさんの言葉にビクッと肩を揺らす。小走りに三人に近づいて、ハルキさんとレオの間に並ぶ。隣に並ぶと俺はハルキさんの股間にも届かない。横目で見えるのはツナギに包まれた脚だけだ。反対側のレオは俺の半分ぐらいなんだけどな……
(みんな大きさバラバラなんだよな……)
と、その時大きな電子音が部屋(といっても俺からすれば体育館どころかドーム球場より広い空間)に鳴り響いた。その音の出どころは俺たちがいる場所の反対側にある、学校の校舎よりでかいベッドの上。床にいる俺からは見えないが、今まさに枕元のスマホが七時にセットされたアラームを響かせているのだろう。薄暗い部屋の中で一列に並んだ俺たちはじっとそのベットの方を見上げている。
「んー……」
しばらくすると、アラーム音に混じってくぐもった声が地鳴りのように響いてくる。それと同時にベッドの上の山のような物体がもごもごと動き出す。その動きだけで布の擦れる音やベットのスプリングがきしむ音が部屋中に満ちていく。しばらくしてアラーム音が止まる。山の動きが止まって一瞬音が消えた。次の瞬間、山がぐおっと膨れ上がるようにして大きくなる。起き上がったのだ。
「……サク、電気つけて」
山から震えるような低い声が放たれる。ただ寝ぼけているだけとハルキさんは言っていたが、これがとても不機嫌な声に聞こえて今でも聞く度に足がすくんでしまう。サクさんが抱えるほど大きいリモコンのボタンを押して天井の照明をつける。ぱっと明るくなる部屋に一瞬目がくらむ。
「ふあ……ねむ……」
目が慣れてくるにしたがって、山の正体が見えてくる。ベッドの上にいるのは、ビルよりも大きい身体。ずれ落ちたサッカーコートのようなタオルケットをそのままに、寝ぼけ眼であくびをしている――巨人。突然俺の街にやってきて、俺をさらってきたイオリ……様、だ。
(マジで、でけえ……)
イオリ様はざっと俺の五十倍もでかい。俺の街ではどんなビルよりもでかく、人や車を足で難なく踏み潰し、電車を何両も腕に抱え込んだ。俺もその電車の中にいて、ちょっとしたことから摘み上げられてここに連れてこられた。向こうからすれば、イオリ様がでかいのではなく、俺たちが小さいんだそうだ。少なくともこの部屋の物は全てイオリ様のサイズに合わせてできているので、確かに俺は小人なんだろう。
(っ……!)
イオリ様がまた動き出す。ビルをひと蹴りで崩壊させられる長くて大きな脚がベッドから浮き上がり、フローリングの床に電車並みの大きさの足が下ろされる。それだけで地面が揺れて風が起き、身体がふらついてしまう。サクさんとハルキさんが平然としているのはなんとなくわかるのだけれど、俺より小さいレオまで普通にしているのはどうしてだろう。
(何かコツがあんのかな)
もう一方の足も凄まじい音とともに下ろされて、まるで樹齢数百年の二本の大木のような脚に体重をかけ、イオリ様がゆっくりと立ち上がる。ギシ、と床がきしんで傾いた気がした。世界が動いているかのような感覚。バスケをしているというイオリ様の体は、同じ運動部としてもうらやましいほど鍛えられている。
(……何度見ても、すげえ、な……)
ふくらはぎはぼっこりと盛り上がり、短パンから見え隠れする太腿は筋肉の筋が見えるほどに太い。上半身はTシャツに隠れて見えないが、腹筋は俺が手をかけて登れるぐらいボッコボコに盛り上がっているのを身をもって知っている。そして服の上からでもわかる胸板の盛り上がり。もちろん、半袖から見える腕も筋肉が流々だ。上へ上へと視界を上げて、首が痛くなるほど頭をのけぞらせる。そうしてようやく、俺からすれば100メートル近い高さにイオリ様の顔がある。それでも、天井からの光が影となって表情は見えない。ただそのはるか高いところにある眼は、今確実に俺たちを見下ろしている。身体が金縛りにあったかのように硬直する。
電車、というよりちょっとした船のようなサイズの足が宙に浮く。とてつもない質量が浮き上がって周りの空気がかき回される。それが、ものすごい勢いでこっちに向かってきて、フローリングに降りたときの地響きが先ほどより強く体中に響く。まるでビルの爆破解体のような壮大さ。でもイオリ様にとっては、たった一歩足を踏み出しただけなのだ。その一歩で俺からすればはるかに遠い足との距離が一瞬で半分程度になる。もう一歩先に踏み出すだけで俺の目の前、いや、俺の真上に電車のような船のような巨大な足がかざされるのだろう。だけどイオリ様はそうせず、もう片方の足を半歩動かして足をそろえ、しゃがみこんだ。それだけで空気が圧縮されて上から強烈な風が吹き付ける。風に混じってイオリ様の汗の匂いが鼻孔を突く。俺たちのいる場所がすっぽりと影に覆われ、真上にはジャンボジェットのような脚の間から、巨大なイオリ様のまだ眠そうな顔がこちらを見つめている。
「……はよ」
「おはようございます!」
小人四人で、ほぼ真上に向かって叫ぶ。それだってイオリ様からすれば小さな声だろう。イオリ様は「ん」と気の抜けた返事をした後、俺たちの横にあるマグカップの取っ手を持ち、ひょいと持ち上げた。もちろんそのマグカップも俺からすれば自分の倍以上の高さのある貯水槽のような大きさで、俺が力いっぱい体当たりしてもびくともしない。それが取っ手に引っ掛けられたイオリ様の指だけで簡単に持ち上げられていく。そのままイオリ様が立ち上がると、周りの空気が吹き上げられてほこりや何やらが宙に舞う。俺も吹き飛ばされないように踏ん張った。イオリ様はそのままキッチンの方に歩いていくとマグカップを置き、その先の洗面所へと向かっていった。
(ふう……)
緊張が解けて小さく息を吐いた。サクさんに聞かされたここで暮らすときのルールはいくつかあり、「朝、起きてきたイオリ様に挨拶をする」というのもその一つだ。たったそれだけの事なのに、毎朝とてつもないプレッシャーがかかっている。もしかしたらイオリ様の気分次第であっさり殺されてしまうんじゃないか。あの俺よりでかい指で一息に潰されるんじゃないか。そういう恐怖が常に心の隅にある。
「リヒト、早く洗面用具もってこい」
「あっ、はい」
ハルキさんに言われて、俺は部屋に吊るして乾かしていたタオルと、洗面器を持ってくる。サクさんもハルキさんもレオも、それぞれ自分のサイズのモノを持っていて、サクさんの持つ洗面器なんかは子ども用のビニールプールなんかより余裕ででかい。道具の準備を終えてしばらく待っていると、洗面所からイオリ様が戻ってきた。そしてキッチンで先ほどのマグカップを軽く洗い、水を注いでこちらを向いた。顔を洗って目が覚めたようで、先ほどよりはっきりした口調の声が降る。
「ほら、今日の分な」
イオリ様がその水の入ったマグカップを床にごどん、と置く。給水塔のような大きさ。俺が手を伸ばしてもてっぺんに届かず、ハルキさんでようやく背が届く高さ。抱きつくどころかその周りを走って回れる太さ。なみなみと水が入ったマグカップ、それは文字通り俺たちの給水塔だ。
「ありがとうございます」
全員でイオリ様に礼を言って、イオリ様は朝飯を作るためにキッチンに向かった。そのあと、サクさんがマグカップに近寄った。俺より五倍背の高いサクさんでようやく腰ぐらいの高さ。サクさんからすれば壺風呂みたいな感じだろうか。サクさんが自分の洗面器をマグカップに突っ込んで水を汲む。そしてそれを俺たちの前に置いてくれた。サクさんが片手で置いたサクさんサイズの洗面器だが、俺からすれば水浴びだって余裕でできそうな量の水が大きな水面で揺れている。俺とレオはそこから自分の洗面器に水を入れる。これでようやく俺たちは顔を洗えるのだ。ハルキさんの分はサクさんが代わりにマグカップから汲んでいた。
(コップ一杯で、俺たち一日分の水なんだもんな……)
そう、毎日イオリ様が入れてくれる一杯の水が、俺たちの一日の生活水だ。顔を洗うのも歯を磨くのも、飲み水も、洗濯も風呂がないときに身体を拭く水も。みんなで使っても半分以上余る時もある。タオルで顔を拭いていると、ハルキさんが俺とレオの近くに自分の洗面器を置いた。
「リヒト、レオ、ついでに捨ててやるよ」
「やった! ありがとうございます!」
「す、すいません。ありがとうございます」
ありがたく顔を洗った後の水をハルキさんの洗面器に入れる。使った後の水は使い古されたタッパーにためておく。こっちは何日に一回かまたイオリ様が捨ててくれるのだ。そうして身支度を整え終わるとキッチンの方からイオリ様がやってくる。ローテーブルに朝ご飯を乗せていき、最後にヨーグルトの器を置くとどっかと座り込んだ。その揺れで地面がおもちゃのように揺れる。そこでぬっとイオリ様の手のひらが俺たちのそばに降りてくる。
「ほら、メシにすっぞ」
俺からすれば部屋ほどもあるイオリ様の手のひら。その肉厚な手は高さも俺の腰以上なので一人で乗るのすら大変だ。レオとかは当然無理。なので俺たちはハルキさんに軽く抱えられてイオリ様の手のひらに乗る。最後にサクさんが俺たちを囲むように手に乗ると、イオリ様の手が上昇する。ジェットコースターみたいな浮遊感と重力が身体にかかる。でもそれはビルのような高さのローテーブルの上まで軽く運ばれただけだ。そしてローテーブルの上は圧巻だ。多分、俺が一生かけても喰いきれない量の飯。山のように盛られたご飯に俺の二倍はあるウインナー。いり卵は黄色い海のようだしちぎったレタスは下手な建物よりでかく積み重なっている。そしてその膨大な量の食事の向こうに、座ったまま俺たちを見下ろすイオリ様がいる。
「よし、じゃあ食うぞ」
そういうとイオリ様は小皿に俺たちの分の食事を分けてくれる。といっても俺たちは小さすぎるので、そこからサクさんがまた振り分けてくれる分を食べる。なにせご飯一粒で俺が抱えるほどあるのだ。四分の一粒でも十分すぎる。それと玉子やウィンナーやレタスの本当に小さな欠片を自分用の器にもらって座り込んで食べる。ハルキさんやサクさんは俺の何倍もの量を食べるが、もちろん一番すごいのはイオリ様だ
(……)
自分よりでかいウィンナーが鉄柱のような箸に空高く運ばれて、イオリ様の大穴のような口の中に一口で吸い込まれていく。俺が生活できそうなほど広いレタスも箸で畳まれて一口。ご飯は俺の何倍もある体積が一回で口に運ばれる。俺は皿の上にはいないけれど、食べ物が載ってるのと同じテーブルの上にいる。巨大な箸で自分よりでかい食べ物が掴まれて持ち上げられる。それが目の前で行われると、その箸がほんの少し先にある俺を掴んでしまわないかと、もう一週間以上同じように食事をしているのに、いまだに心臓がばくばくしてくる。
(てか、実際喰われかけたし……)
「リヒト、どうした?」
上から大きな声が降りかかって、あやうく皿を取り落としそうになった。慌てて顔を上げると、遥か高いところからイオリ様が俺を見下ろしていた。イオリ様は座っていて俺はテーブルの上なのに、それでも巨大な建築物のような迫力。今までは「小人たち」として見られていた。だが今イオリ様は「俺一人」を見ている。その視線だけで身体がカタカタと震えてしまう。
「あ、いえ……」
「調子悪いのか?」
口が渇いて声が出ない。見られるのも、話しかけられるのも、もう、なんでもない、はず、なのに。今一瞬思い浮かべた「喰われかけた」時の記憶が脳内に反響する。あの口の中の暗さと温かさと生臭さが恐怖となって体中を駆け巡る。俺を「喰いかけた」男が俺を見ている。
「え……あ……」
大丈夫です。そう、ひと言いえばいいのに言えない。このまま黙っていたら、それでイオリ様の機嫌を損ねたら、俺は、俺はもしかしてまた、こんどこそ
(喰わ……)
「ほーら何緊張してんだ?」
イオリ様から目が離せなかった俺の前に、ふっと濃い影が差した。俺を包み込むようなでかい何か、が俺を、見下ろして……
(ハルキ……さん?)
目の前に現れたのはハルキさんだった。さっきまでイオリ様で埋め尽くされていた俺の視界は、今はしゃがんでも俺より大きいハルキさんの体にさえぎられている。ふっと金縛りが溶けたような感じがした。片方で俺の頭の2倍ぐらいある厚い手のひらが、そっと両手で俺の顔を両側から包む。俺の頭はほとんどハルキさんの手の中だ。
「大丈夫か?」
「は……はい……大丈夫です」
ハルキさんの顔を見てつばを飲み込むとようやく声を出せるようになった。手のひらから顔にじんわり熱が伝わってくる。数秒して、ハルキさんがにっと笑った。
「大丈夫そうだな」
俺の頬から手を離すとハルキさんが立ち上がってイオリさんの方を見上げた。
「飯の量が多くて食べきれなかったらどうしようって思ってたみたいですー!」
それを聞いてイオリ様は一瞬何か考えたような顔をした。
「…………なんだ、そうか。リヒト、残してもいいぞ」
そのあと俺にかけてくれたのはなんてことない気遣いの言葉だった。再びイオリ様と視線が合ったが、今度は何とか大丈夫だった。こくこくと首を縦に振って頷く。
「お前が残してもサクやハルキが残った分食うし、な」
「らくしょーっすよ!」
最後にハルキさんがそういって会話は終わった。まだ少し心臓が鳴っているが、パニックになるのは避けられたみたいだ。
「リヒトも早く食っちゃえよ」
「は、はい」
いつの間にか隣に来てくれたハルキさんに声をかけられて、俺は食事を再開した。結局残すことはせず全部食べられた。もちろんイオリ様も。あれだけ山のようにあった食事がすっかりなくなっている。食事が終わると俺たちは床に下ろされて、自分たちの食器を洗う。
「もう大丈夫だな?」
「はい」
「じゃあ、頼むな」
食器を洗うのは俺の仕事だ。ハルキさんを見送ってから目の前に置かれた皿を見る。俺の分、俺より小さいレオの分。そしてハルキさんと、一番大きいサクさんの分だ。
(まず汚れを……)
水道が使えるわけじゃないので、食器の洗い方はちょっと独特だ。まず、ティッシュで汚れを拭いとる。ティッシュ一枚でもサッカーゴールを二つ並べられるほど大きいし、雑巾みたいに厚い。それを小さくちぎったもので皿の汚れをぬぐっていく。レオや俺の皿は簡単だ。ハルキさんのも、オードブル用の大皿と思えばそんなでもない。ただサクさんの皿は大変だ。こんなでかい皿見たことない。俺換算で直径が1mもあり、持ち上げることはもちろん、反対側に手が届かないほどだ。
(これ、大変なんだよな……)
仕方ないので皿の中心から引き寄せるようにして汚れを拭っていく。後は自分が移動して回っていくだけだ。この皿だけでも5分はかかってしまう。何とかぬぐい終わると、次は洗剤を含ませた布巾(これは俺サイズだ)で同じように皿を拭き、最後に水拭きして終わりだ。これだけでも20分近くかかってしまう。箸も同じようにだ。サクさんの箸なんて、槍と変わらない。大体30分ほどかかってようやく食器洗いを終えた。立ち上がって身体をそらせて伸びをする。
「ふう……」
「終わったか?」
背中にかけられた低い声に思わずびくっとする。振り返ると、サクさんがこちらを見下ろしていた。イオリ様が一番でかいとはいえ、俺の五倍でかいサクさんも十分怖い。すごいマッチョだし、あんまり笑ったりもしないから何を考えてるのかわからない。俺の背丈のところに膝がある。間違えてあの太い足でけられでもしたら俺は吹っ飛んでしまう。
「は、はい。終わりました」
「そうか。……ご苦労」
サクさんが屈んで、俺の横に手を伸ばす。俺の胴体を軽く超える太い腕が腰のあたりを通過する。サクさんは俺越しに、俺じゃ傾けることも難しい皿を片手で持ち上げる箸を掴むと立ち上がった。
「そろそろイオリ様がお出かけになるからな。遅れるなよ」
「は、い!」
サクさんが離れていって、俺も急いで自分の食器を部屋に持って帰った。自分の物は自分の部屋で管理するルールだ。戻るとハルキさんとレオが食器を持ち帰ってるところだった。
(着替えてる……)
俺が必死に皿を洗ってた三十分で、イオリ様は自分の食器を洗って歯を磨き、着替えて大学に行くもろもろの準備を終えるところだった。十メートルサイズの本を何冊もまとめて持ち上げ黒いリュックに入れていく。
「うっし、行くか」
イオリ様が立ち上がると風が起きる。朝バスケの練習があるからか、イオリ様はバスパンに緩めのTシャツとカジュアルな格好だ。靴下をはいて多少和らいだものの、迫ってくる地響きは健在だ。朝起きたときと同じようにしゃがみこんで、上から俺たちを覗き込む。
「じゃあ、行ってくるな」
俺はそれに精いっぱい返事をする。にっと笑ってイオリ様が立ち上がるとまた吹き上げる風が髪や服をはためかせる。イオリ様が部屋を出てしまうと、もう姿は見えない。歩く音、しゃがむ音、靴を履く音。そしてドアが開いて閉まり、鍵がかかる音。足音が遠ざかってようやくイオリ様が出かけられた。朝からずーっと張りつめていた糸が、ようやく緩む。
「ふう……」
この後はイオリ様が帰ってくるまで自由……というわけではない。少し休憩した後に、やることが待っているのだ。
続く